第14話 フーコーの狂気
1.お品書き:未読歓迎
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
本話は『叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼』関連エッセイです。シリーズを横断してうろちょろしている幽霊が見える
https://kakuyomu.jp/works/16817330657885458821
そんなわけで、3章大量不審死事件にあわせて『フーコーの狂気』の話をしてみます。そもそも近代狂気ってなんだろうっていう話。
3章の呪われた人は大分狂気ってる感じですが、正直家全体のテーマとしては認知の歪みとかなので、狂気に陥ってる人というのは最初から最後までいないような気がする。それを含めて狂気といえば狂気ではあるのかも。
このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。哲学は極めてにわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。
2.フーコーはどんな人
簡単にフーコーの説明から。
ミシェル・フーコーという人は20世紀の比較的最近の人です。1960年代に哲学で『構造主義』というのが流行りました。これまで神主体・人間主体で真理を探求しようとしていたのを、社会の構造から理解しようぜって考えるようになった。フーコーはこのちょっと前の『ポスト構造主義』っていうカテゴリです。つまり社会のシステムから人間とは何かを探求しようとし始めた人。
社会は人間がつくるものだけれど、フーコーはそもそもその人間を形作るのこそ社会であると考えた。特に近代においては。
フーコーは尖った人だ。
若い頃は自殺未遂をくり返す医務室の常連で、薬飲んで騒いで政治的活動をしたりと社会的にはメインストリームから外れた人だった。だからそのうち、自分という存在と社会の関係を鬱々と考え始めたのではないかと思う。この界隈では親和的な話。そして社会の規範性とかそういう社会構造に目を向けた。そういえば政治活動って社会がないと存在しないよな。
その思索のなかでフーコーは結局『絶対的な真理』というのはなく、人はただ、その時に成立した社会構造に支配され或いは影響を受け続けていると考えた。
3.自由と権力について
少し狂気から外れるけれど、前提の話をしよう。
フーコーの主張では近代以前、社会は王様が牛耳っていた。牛耳るというのはつまり、逆らうと死が訪れることを意味する。つまり自分の外に王という絶対的な『死の権力』というものが存在し、人に死を与えた。彼の言葉では【(王が作為的に)死なせるか、(なにもせず)生きるままにしておく】と言う社会だ。
けれども時代は進み、いわゆる自由主義革命によって王権という権利形態は打倒され、人は自由を獲得した(仮)。なお、自由、特に権利という概念は比較的新しい概念です。けれどもこの革命による『自由』は完全な自由ではない。王ではなく人間同士が監視しあっているだけであり、人間は無意識に社会規範や規律に従順になり、社会は結局王がいるのと同じ構造をとっている。
フーコーはこの権力を『死の権力』に対応して自分の中で自らを縛る『生の権力』と呼んだ。別の言い方をすると【(社会が作為的に)生きさせるか、(なにもせず)死の中に打ち返す(訳によっては『死の中に廃棄する』とか過激なのがある)】状態。
それで更にそもそも論として、自由とは何なのか。
本来のエッセイ的にはこの章より前に怪談5章のパターナリズムの話がはいるはずなのだけど、怪談の更新をSTOPしているのでそのうち。
さて、現在も表面的な社会の方向性は未だ「最大多数個人の最大幸福」にあって、フーコー的にはこの強烈な概念によって社会に沿うよう人間は矯正されている。
たとえば学校いって時間割にそって先生の話を聞く。子どもは本当は学校いかずに遊んでいたいはず。けれど『そういうもの』だという社会監視によって学校に行く。その『そういうもの』の内容は社会規範を覚えるためとか自由の対価とかパターナリズムとかだったりするけれど、行動の自由を排除し当然受容すべき制約であると刷り込まれているわけだ。
まあ教育は義務として憲法に明文化されているけれど、遅刻は駄目、成績が悪いのは駄目、いい子にしなさい、挨拶はちゃんとすること、これら様々の生活規範が子どもを矯正し、逸脱する子どもは怒られ排除される。
駄目という価値観を刷り込み達成すべきノルマを設定する。王様が命令を出す代わりに人々が自発的に『よりよい人間』を矯正するシステムを組み上げていく。
フーコーは社会がこのような矯正システムを作り、これによって、規律に従うことを身体に覚えさせて精神に影響させて、いつしか社会に適合する『従順な人間』が出来上っていく。ブートキャンプみたいだな?
4.社会の中の狂人
そもそもフーコーが知りたかったのは、この社会からドロップアウトした人間(つまり自分)はどのような存在かということだと思う。
規範から外れた人間について、フーコーが構造的に辿り着いたのが『狂気』だ。『狂人』ってどんな人だろう。
狂気が『悪いもの』とみなされるのは実はごく最近のことである。近代以前の狂気は神性に繋がっていた。神様とか精霊とかさ。フーコーもルネッサンス期には狂人は『神に近づく者』として扱われていたと述べている。
古代社会では神降ろしとか神憑りとかそういった形で神意を伝達する役割を担ってる人々がいる。ただしそのような人々が『人間』として扱われていたかというとそこは若干疑義がある。どちらかといえば『呪物』として大切にされていたのだと思う。
近代の「精神病」というカテゴライズによって初めて狂人は「動物」ではなく「人」として認識されたという人もいる。
そもそもルネッサンス以前は『正常』と『異常』の境目が今までより曖昧だった。医療技術は発達していなかったから、現在よりずっと多くの、身体的精神的に今で言う異常な人々が存在した。
身体的には戦争等による四肢欠損、くる病や脊椎カリエス等による身体が変形した人はたくさんいて、識字率も低く論理的思考ができない人も山ほどいた。恐らく当時の一般民衆は、現在医療によって分類されれば何らかの異常として診断書が出る人が多いはずだ。これは前述の現代のような認知の矯正を受けていないことにも繋がっている。
しかしこの人達はありふれていたので地位がことさら低いわけでもない。
『変な人』の振れはばも今では考えられないほど大きかった。昔の神話とか昔話みると『こいつイカレてんじゃね?』みたいなやつ結構いるのと同様だ。
社会に容認されうるレベルのそういう人らは、振れ幅が大きければ神の力を現世に顕現する存在として、小さければ一芸的に有用な人間として社会の中で内在されていた。狂気的な戦士(バーサーカー)や異形の宮廷道化師はかえって高い地位を得ることもあった。容認されないレベルの人らは犯罪者として放逐されたり誰も興味を示さず市街をさまよい野犬に食い殺されたり、処刑されたりした。
ようは社会に有用かそうでないかで人と動物が区別されたのだと思う。
さて、ここからは市民革命が始まる17世紀以降の狂気の話だ。有用でも有害でも一纏めに監獄に突っ込んだのが17世紀だった。
フーコーはこの時代を『大監禁時代』と呼ぶ。何故なら当時の社会から外れた『正常じゃない』人間は一律に監獄(病院)に押し込められたからだ。
狂人の判定が神や王といった絶対的な規範から遠ざかった当時、なんか『おかしなもの』はひとくくりにされた。病的な狂人だけじゃなく浮浪者や失業者、受刑者や浪費家に加えて同性愛者や無神論者、そういった市民階級が共有していた社会の規範から外れる者を『狂人』として、まとめて監獄に放り込んだ。例えば働かない人間は怠惰であり道徳観念がないというレッテルを貼り、正常な人間と区別された。
『働かない人は狂人』。ニートに辛い時代ですね。
最盛期ではパリの1%の人間が収監されたそうだが、お金がものすごくかかるし労働力も減る。だからフランス革命直前くらいには監獄は解体された。狂人から働ける可能性のある者が除かれた。
解放運動した一人にピネルという人がいて、狂気とは精神の不調であり、治療できるものだと主張した。この時点で病的な狂人は『病人』になった。
監獄は解体されたけど、結局社会に還元されない狂人は保護施設で監視下におかれ、規則を守る方法で行動を矯正されるようになった。
この考えは前述の通り近代でも学校や工場、軍隊等において同様のシステムで道徳を押し付けることで精神を規制し身体を支配する。毎日決まった時間に起きないといけない等の押し付けられた定型的な行動様式によって形作られた従順な身体は、それが当然であると精神を刷り込み、その行動をFIXする。
フーコーは社会が求める『正常』を規範として、これを逸脱し異常として社会が排除した者を『狂人』と考える社会野到来だ。
最近は少し変わってきたけれど、未だそういう時代です。
4.狂人か否か
近代狂気がどのように住み分けをしているか。それはやはり科学の光の作用だと思う。科学の光は常に闇を祓う諸悪の根源だ。
科学とは本質的に分類することである。
事物をバラバラにして中身を明らかにする。これまで『ちょっと普通と違うよね』としてよくわからないものの容認されていた人間をうつ病や発達障害、統合性失調症等とラベリングして、明確に違う存在に組み替えていく。
本来は人智を超えた神と繋がっていたはずの『狂気』を理性という名の規範化された『正常』と比較分離してラベリングする。それが科学の作用である。
けれども注意すべきことは、そもそもその『正常』が確定的かというとだ。ぶっちゃけそうでもないわけですよ。
『正常が何か』的な話を始めると終わらないので飛ばしますが、結局フーコーのいう構造主義的な話を前提とするとその『正常』を定めるのはその所属する社会であり、それに対置する『狂気』も社会によって揺れ動く。
例えば開国前は日本ではゲイは普通で、妾は明治までは民法に記載され戸籍にも組み込まれていた。つまり社会に組み込まれた『正常』だった。けれども開国以降西洋の価値観が入って来ることにより『気持ち悪い狂気の沙汰』になり、最近また多様性云々で社会に受け入れられる『正常』に変化中だ。
比較最近の話でも、例えば『裸の大将』は、最初にテレビドラマができたときと現在で大分認識が異なる。多分公開当時は牧歌的な特殊なちょっと変わった人的な扱いで描かれたけれど、同様の人間がラベリングされた今の社会では受け入れられ方が異なる。今リメイクするなら様々な配慮によって原作と大分違うものになるだろう。
天才バカボンをはじめ、昔の漫画や映画ではちょっとおかしな大人は普通に映画とか漫画に溢れている。昭和では昼間っから博打売ったり酔っ払う大人は『ちょっと駄目な人』として社会に容認されていた。普通に子ども殴ってたけれど、今は『普通にいる』と表現はできなくなっている。
昔のアニメによくいた注意力が不足して理由もなくすぐ殴るけど実は子どもキャラは、今では多動性障害等の名前で分類されてしまうから今まで必要なかった配慮が必要となる。最近のジャイアンはのび太殴る前後に『むしゃくしゃしたから』とか『母ちゃんが怒るから』と理由を呟いている。
子どもが自由に異常でいられない時代。『生の権力』を今風に言えば、同調圧力。
今はちょっと過渡期にある。
様々なかつての狂気を個性と名付けて社会の中で受け止めようという流れがある。これは果たして、自由だろうか。
知恵の実を食べてしまうと裸に戻れないように、指針を放棄することはおそらく不可能だろう。
個性というのは個別性ということだ。つまり集団としてラベリングしてきたものを、個人の1単位まで分割するのに異ならない。それは『○○障害がある』けれどもそれを悪い意味で捉えないという宣言と同義で、つまりその個性としての狂気が前提となっているからだ。
けれどもこのまま極限まで進められたラベリングが記号でしかなくなるレベルまで薄められた先の世界で、新たな価値観が生まれるんじゃないかとか予感はする。
5.おわり
まとまりがないのは仕様ー。
そんなわけで、公理さんと藤友くんの家の3章はそんな感じです。ゆっくり更新中『公理さんと藤友君の』と書いたのは他にパターンがあるわけで、『桜川大岳と西野木拓海の家』と『郡上貞光と朝日屋頼の家』というのがあったりする。大岳の家は富札島でケルトの呪いみたいな話で、貞光の家のほうは大体公理さんと藤友くんのと似たストーリーラインだから差別化しないとなと思っている。
リクエストがあると受け付けますが、納期はよくわかりません。
ではまた。
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