第6話 「魂」と「魄」と道教の歴史

1.お品書き:未読歓迎

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。桃娘の話をしようと思ったのだが、その前に道教の話をすることにした。そのほうがわかりよいと思って。

 本話は『鎮華春分 明治幻想奇譚』の関連エッセイです。明治幻想奇譚ではそのうち持ってくる『ヒトノカワ』、『長屋鳴鬼』、あとは怪談の外伝で『莉莉は墓の中』のという短編が関連するけど、怪談9章くらいの話だから大分先だなぁ。

 https://kakuyomu.jp/works/16817330650851134123

 明治幻想奇譚は明治時代のあやかし草子で莉莉は古代中国の志怪小説なんだけど、わりと道教的価値観はうちの話には多いかもしれない。つまり魂魄を別のものとして理解することをベースにしている。

 このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。にわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。


2.道教での「魂」と「魄」

 さて魂魄のお話です。

 世の中にはいろいろな魂魄感がありますが、僕の話はたいてい東アジアを前提としているので、今回は主に道教での魂魄感です。


 人は陰陽二気で構成される「魂」と「魄」でできている。

 陽気の「魂」は精神を司り、死んだら浮かんで神になる又は単に空気中を漂う。陰気の「魄」は肉体を司り、死んだら地に溶け、残ったりすると鬼となる。

 地に溶けるというのはまんま腐敗なイメージかも。儒教ではまた違うし、前に書いたエジプト神話の魂感とも大分違いますが、道教ではすべてを陰陽に分けるシステムなので凡そこんなイメージです。

 ところで、この魄がベースとなった道教系ホラー映画があります。ヒントは「八卦」や「札」が出てくるんですが、まあもったいぶっても仕方がないので、答えはキョンシーです。

 キョンシーの映画の中で道士がもってる八角形の模様を書いた鏡が八卦鏡で、お札はキョンシーの頭に張られているまんまお札。

 キョンシーこそ、「魄」が肉体に留まり鬼となった姿。精神である「魂」は抜けているから、基本的に意思はない。

 ところでキョンシー映画にも元ネタがあります。中国の湖西のあたりの趕屍シャンシーです。出稼ぎ先で死んだ人がいれば、趕屍匠は死体を起き上がらせて先導し、歩かせて故郷に帰します。その姿を夜に見てはならない。映画のキョンシーは趕屍の伝説にに忠実です。

 この趕屍の話は割と最近まで残ってて、嘘かまことか趕屍の写真もネットで見つかります。竹竿で括って移動しただけとも色々言われているけど。

 そういえばキョンシーの札の記載は映画では「勅令大将軍到此(にわか知識で訳せば「勅命:大将軍はここだよ!」)」なんだけど、グッズだと「勅令陏身保命(にわか知識で訳せば「勅命:生きているように付き従え!」)」なのだ。

 大将軍って誰やねん。恐らく大将軍は陰陽道でいうところの金星太白(全方位大凶)でもともと太白は宵の明星なんだが、不吉とか凶イメージなのかもしれない。誰が何を命じているのかよくわからん。大将軍に命じてるなら主語は天子だろか。


 閑話休題。

 さて、なぜだかキョンシーの話を展開してみましたが、そもそも道教とはどのようなものかを見ていきましょう。例えばドラゴンボールの亀仙人ですが、ドラゴンボールは案外道教臭にあふれている。気を練って破壊光線を出すとか、まんま道教を彷彿とさせます。


3.道教的な万物の根源

 「道教」はそれなりに長い年月を経て(ry)民間信仰がまとまったようなもので、「老荘思想」と親和性があります。というか一般的には老子が開祖と言われることが多いでしょう。「老荘思想」の「老」は「老子」、「荘」は「荘子」ですが、この二人の思想を合わせて「老荘思想」と呼ばれます。そしてこの辺は混乱のもとだったりしますが、詳しくは後にまわします。

 老荘思想では「魂」は陽に属し「魄」は陰に属し、この世のあらゆるものは陽の気と陰の気でできている。老子と荘子ではその考えの方向性が異なり、理屈は結構違う。哲学なので概念の違いは説明しづらくはありますが、頑張ります。

 荘子は、陰陽の相反する気が世界を成し、その移り変わりが万物の変化を起こすと考えました。流転する万物という結果にこそ道があ。そして、これらの気の上に万物の根源たる道(タオ)がある。老子は初めに全ての可能性を孕む道(タオ)があり、これが陰陽にわかれて全ての事象の元となると考えました。万物の根源たる不変の道から流転する万物が生まれる。

 すごく単純化すると最後を重視するか、最初を重視するか、と考えるとわかりやすいかもしれません。

 その差からくるのか、荘子は最終的な現象面である自然回帰を強く求めて自然の中で道を探し、老子は全ての根源が同じということで自らが位置する人の中で道を探しました。そんなわけで老子と荘子は一緒くたにされることが多いけど、実は結構違います。

 この老子と荘子が生きていた時代は、孔子や孟子も含めて色々な思想が溢れた時代で、この時代に生じた様々な思想を「諸子百家」と呼びます。僕は墨子が一番好きです。愛があふれて狂気的にストイック。


 なおこの「世界の根元は何か」論争は昔から哲学者が好むところで、ギリシャ哲学でも万物の根源を「アルケー」と呼び議論していました。その中でもヘラクレイトスは「万物は流転する」と説きます。流転の中で動かないものを「ロゴス」と呼び、その象徴を火としました。

 タレスも根元は火だと言っていたのですが、そのまんま「火」の意味で、ヘラクレイトスとは意味合いが全然違います。わざわざ火といわなくてよかったんじゃないか?


 さて、いつも通り話はずれまくってますが、ようやく亀仙人。

 「道教の目標」、それは仙人になること。

 仙人とは真理を悟って道を会得し、体内の陰陽の気を自在に操ることで万物を操り不老不死となる。万物を操れるから雲にも乗れるしカメハメ波も自由自在。キョンシーも多分道士が陰気(魄)を操って動かしている。なお道士とは仙人になろうと修行中の人です。ということは仙人な亀仙人は偉いのです。

 とはいえ亀仙人ってそんなえらいのかというと疑問がわく。

 仙人には何種類かあります。天に上って不老不死となり超能力を持つ仙人を「天仙」と言い、仙道は得たけど天に登れず修行中の仙人を「地仙」と言います。天に上るには功徳を積まないといけないけれど、一回でも誘惑にまけると最初から始めなければならない。亀仙人はナンパに成功したら駄目なのかもしれません。


4.いわゆる道教集団のなりたちと宗教としての仙人

 次は集団としての「道教」のお話です。

 「老子」「荘子」から随分時代は下り、道教の集団として初めて現れたのは2世紀の大平道です。張角が教祖で、黄巾の乱(184年)で有名で、道士于吉(三国志演義に出てくる于吉と同じとする説あり)が川で拾った『太平清領道』を経典としています。


 太平道の教えは基本的には下記の通り。

 ①不幸は自らの行いのせいであり、行いを天と鬼神に懺悔し善行を行うこと

 ②神霊の水的病気が治るおまじないという現世効果


 ちなみに張角ちょうかくのスローガンはすごくかっこいい。

「蒼天すでに死す」

 わぁ滾る。三国志好きな人はよくご存知なんだけど、後漢を倒す一角となり、後に三国時代の鼎立の一助となった人です。張角は世を覆そうとこの張り紙をいろんなところに貼りまくった、までは良かったんですが買収した宦官がそれを見てビビって密告し、蜂起が事前にばれて全部計画が狂った可哀そうな人です。南無。


 同時期に現れた五斗米道も道教の教団で、細かい作法はいろいろ違うけど、考え方は大平道と似通っています。黄巾の乱にも加わりました。

 で、この「病気が治るおまじない」というところが神仙思想です。これらの集団は、仙人になることを目的としていました。仙術を使って病を治すわけですね。


 けれどこの道教の教えというのは、先の老荘思想とは結構ずれてる。「老子」「荘子」の思想と道教の考えとはほとんど繋がってません。

 さっきも書きましたが、「道教」は様々な民間信仰がまとまったようなもので、その中に老荘思想が混じってること自体はおかしくはない。けれど道教は仙人になろうとする神仙思想を中心に、老荘思想だけじゃなくて、易、陰陽、五行、卜筮、讖緯、天文とかの様々な技術を含む知識や思想が混ぜ合わされたものです。

 この中で老荘思想からは「無為自然」、あるがままを重視する部分が取り入れられています。神仙思想の修行には拳法やいろいろあるんですが「道の極意を体得する方法の一つ」の中に、自然の状態を重視する(少し意訳)という修業があります。この辺が「無為自然」なわけです。めっちゃ極小化。


 ところが、老子の考えの根幹にある「無為自然」とは、先に述べた通りにあるがままってことで、生死自体も一つの事象として内在しています。一方の神仙思想は、結局のところ「仙人になって不老不死」を目指すもの。不老不死は生死を超越した作為的な話で、どう考えても矛盾する。

 荘子の逍遥遊編でも肩吾が仙人が飯を食わず霞で生きて飛竜に乗って世界の外で遊ぶとかいう話(意訳)を持ってきたのにそんな狂った話は信じられん(意訳)と言ってるしな。

 なのに老子も荘子も道教の開祖とされているし、老子は「太上老君」という道教の神様(五斗米道では最高神)、荘子も南華真人の称号を得ている。後には5世紀ごろには老子が現れて経典を渡したとかいう逸話までPOPUPする。これほど本人の意図と真逆に神格化された存在というのも珍しい。

 多分一番ネームバリューがあったんだろうと思うわけなの、老荘。


5.古代中国の鬼神感

 ところでさっき太平道の教えの中で「鬼神」がでました。次は「鬼神」の話です。太平道とかが流行る辺りに並行して鬼神信仰がありました。庶民の中ではわりと一般的だったようです。その前の老子荘子の時代(春秋時代)でも鬼神信仰がある。

 諸子百家というのは宗教よりはもう少し学術論理的な傾向が強く、だからいろいろなものに理屈をつけようとします。基本的にはこの世をよくしようとする教えがベースとなっていますから、それぞれの宗派が理屈に合わないことに理屈をつけていく。

 この鬼神信仰にしても同様で、孔子や墨子をはじめとした思想家が、鬼神を自分の思想にどのように落とし込めばいいのかいいのか苦心しています。


 『周礼』によると「鬼神は天神・地祇・人鬼がある」と書いてあります。

 『周礼』は『紀元前1046年に「殷王朝」を倒して「周王朝」の摂政になった周公旦が周の政治制度について書いた』という設定で、実際は戦国~漢(紀元前500~0年)頃に作成されたものと言われます。老荘(紀元前400~300年)と同時期から大平道より前くらいかな。

 で、『周礼』の面白いところは、周の時代に書かれたという設定。

 つまり、周のころの話を春秋戦国期にしてもおかしくない内容、つまり文化に連続性が見られたってことです。

 周の時代はハードな占い重視な時代でした。

 だいぶん話がとびます。


 司馬遷が記した『史記』という有名な歴史書があります。

 『三皇五帝』という神話時代から始まります。この辺は日本書紀が天地開闢から始まるのと同じです。なお司馬遷は史記を歴史書として書いたので、当時でも真偽不確かな三皇時代は唐代の司馬貞の加筆です。三皇五帝に誰が該当するかは本によって多少の違いはありますが、五帝について史記では次のようになっています。


 五帝最後の「舜」が『禹』に国を譲る。

 『禹』は紀元前1900年頃、世襲制の『夏王朝』を始める。

 その後、殷王湯が夏王朝を倒し、紀元前1700年頃『殷王朝』を始める。

 その後紀元前1043年に武王が殷王朝を倒して『周王朝』を始める。

 この三王朝を合わせて『三代』とも呼ばれますが、いずれも占いを重視した国家でした。

 ところで、最近まで夏王朝は幻と言われていましたが、最近、とはいっても1959年ですが、殷初期と考えられる二里岡遺跡に先行する二里頭にりとう遺跡 が発見されました。このように歴史の痕跡は夏まで遡りますが(とはいえ二里頭が夏都かというと大きな疑義があった記憶)。恐るべきことに各遺跡から出土される記録は史記とかなりの勢いで合致または矛盾しません。司馬遷すごい。なお、司馬遷は不屈の人で、そのうち書きたいが地味だ。


 また話が逸れますが、亀甲文字とか卜占の話をします。

 卜占とは亀の甲羅をあぶって割れ具合で占いをするのですが、殷王朝で始まりました。だから殷の遺跡では亀甲文字が多く出土しています。

 そこから色々わかるのが、古代中国がゴリゴリの占い社会だったってこと。

 当時の占いは神に問いかけ神託を聞く形式です。

 そこで考えられていた神は「帝」「自然神」「祖先神」の3つ。

「帝」:天帝で、宇宙、天候、自然現象を司り、災禍も司る。でもあまり質問された記録がありません。絶対神すぎて人間が問い合わせられるものではないのかもしれません。

「自然神」:もっと身近で、農業とか恵みとかもっと身近なものを司る地域神的な存在のようです。祀られて吉凶を占われていました。

「祖先神」:先祖の霊(もともとは死霊)ですが、印象は祟り神に近いかもしれません。「こうすると祟りますか?」「病気になったのでお祀りしたほうがいいですか?」という占いが出土されています。荒魂的な感じに近いのかも。

 それで時代が下ると、「帝」への問いかけも「祖先神」を通して行われるようになり、そのうち「自然神」についても「祖先神」を通じて行われるようになったようです。ようするに、祈る対象は「祖先神」に一元化されていきます。


 殷王朝では殷王は天の命令を受け、占いで政を行っていました。

 「祖先神」は祟り神の性質を持つので、周祭といって頻繁に供養を行ってい、殷後期では大量の生贄が捧げられていました。1回の周祭で何十人とか何百人のレベルです。

 時代が下って殷代の中期以降では、殷ではいい結果が出るまで占いをやり直し続けたり、甲羅の裏に割れやすいように予め堀を刻んだりしたり、卜占の改ざんがあったりしたようです。

 時代が下って周になると占い属性が和らいでいきます。

 ところで、殷の最後の王はちゅう王です。酒池肉林で有名な人ですが、紂王はそのイメージに反して生贄を廃止した人です。生贄の代わりに酒池肉林を鬼神に捧げたんだと思うのですが、書き途中なので資料募集中です。古典籍の記載でもめっちゃスパダリ。

 

 で、以上は出土された甲骨文字に書いてあった事実から推測されたものです。

「帝」「自然神」「祖先神」という枠組みは「周礼」の「鬼神は「天神」「地祇」「人鬼」である」という記載と共通します。ようやく戻ってきた。

 とすれば、この鬼神、祖先神への信仰は太古から「周礼」の時代まで1000年以上も続いた強固な価値観、つまり文化ななわけです。


 当然ながら、大平道の時代も根強く鬼神信仰が続いていました。色々な場所で様々な鬼神が大量に祀られています。淫祠邪教の類も蔓延り、祀る度に肉とか××が捧げられる世紀末な感じです。捧げるには当然お金もかかりますし北斗の拳的に言えば 時はまさに世紀末澱んだ街角で僕らは出会った。

 この点孔子などは論語で親が存命なら鬼に仕える理屈はないと述べ、否定はしない(みんな信じてるからね)ものの敬遠する、つまり人以外の者は人にとって重要ではないという立場をとります。諸子百家はそれぞれ良き世界を求めるため、それぞれに否定する方向に動きました。


 ところが道教は違います。鬼神といっても色々あるわけで、道教はよりマシな鬼神に祈りを捧げることを選択したのです、後付で。

 『三天内解経』という5世紀ごろに書かれた本があります。これは天地開闢から五斗米道ができるまでの道教の歴史書です。

 それには、宇宙はもともと静謐な『道』でとてもクリーンなものだったけど、今の世は死者世界があふれて乱れていると書かれています。他の類似書物でも「六天の鬼神」をはじめとした悪鬼羅刹が災厄を引き起こしていると書いてある。

 そもそも当初、五斗米道は天・地・水の神に誓約書を捧げ帰依していました。祈らないというのは教義の最初からありえない。

 このころの道教のメインストリームは「契約しない鬼神をみだりに祀らない」というスタンスで、どの神を祀るかを選別して、選別した神を六天より優れた神に認定することで道教の優位性を主張することになりました。キリスト教のやり口と同じです。と記憶しているんですが、ちょっと自信がないので間違っていたらご指摘ください。


 そして大平道も五斗米道も『後漢』末期という当時の不穏な情勢において民衆の支持を得ています。ようはこんなに世情不安な世界は鬼神が跋扈しているからで、本来なら馬鹿みたいに米や人を捧げないとおさまらないはずの「鬼神の祟りを避ける」という現世的な利益を求めたのです。だから最初は深くは考えてなくて、後には差別化のためにいわゆる鬼神に変わる道教の神様を追加していったと思われる。

 そんな道教の神様はたくさんいてバリエーションも多く、面白いのも多いです。孫悟空も道教の神ですが、西遊記の孫悟空とだいぶ異なり聖人になってる。

 今回は道教の神様とか内容にはちっとも踏み込んでないんだけど、色々摩訶不思議なのがたくさんいます。『道』自身を擬人化した太上道君も人気です。


 というところで中途半端ですが、今日はここまで。

 宋以降の道教も全然風情が違って面白いし、老荘思想以外の要素の陰陽とか易とかは今度タイミングが合えばそのうち。


6.おわり

 魂と魄がわかれる話はとても使い勝手がよいのだ。なんとなくそのうち、自分を傀儡にして使う傀儡師とかを出してみたいのだけど、今のところ必要性がないのでない。


 ではまた。

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