第5話 アルチンボルドと認識の誤作動

1.お品書き:未読歓迎

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 本話は『君と歩いた、ぼくらの怪談 ~新谷坂町の怪異譚~一章』関連エッセイです。順番が少し前後しているのは、僕がうっかりしたからです。

https://kakuyomu.jp/works/16817330649666532797

 このエッセイは本編を書くのにあたって、色々調べたところをブッパするお気楽エッセイです。にわかなので間違いがあればお気軽にご指摘くださいませ。

 なお、アルチンボルドっていうのは画家の名前です。


2.騙し絵の騙すもの―脳編

 だまし絵というと何が思い浮かぶでしょう?

 色々有りはするのですが、自分がまず思い浮かぶのはエッシャーです。だまし絵界でトップクラスに有名な画家ですね。

 エッシャーが用いるのは幾何学図形。

 不可能図形を言葉で説明するのはすごく難しいのだけど、頑張ります。

 不可能図形はその名の通り、現実世界では成立が不可能な図形です。

 登ってるのにいつの間にか元に戻ってる階段(ペンローズの階段)や、三角形の影が交差してメビウスの輪みたいになったやつ(ペンローズの三角形)という、シンプルながらもありえない存在といえば、思い浮かぶでしょうか。

 エッシャーはこのように、どちらかといえば工学や幾何学的な視点の面白さがあります。


 この幾何学的な錯視をリアルで再現しようという試みは、結構昔からあります。これらの不可能図形は、単視点で見るだけなら、現実世界で再現は可能です。

 固定の視点で見る必要があるけど、様々なパーツを複層的に組み合わせることによって、特定の場所から見ると、あたかも不可能図形が現実空間に再現できているように見せることはできる。錯視関係の美術展ではよく企画されているけど、リアルで見るとものすごく不思議な感じがして楽しい。

 「不可能図形 再現」で検索すれば結構でてきます。

 錯視・錯聴コンテストっていうのが毎年行われていて、作品がHPで公開されているけど、これを3Dで見ると混乱します。

 手近なところでは杉原厚吉という先生が錯視の立体工作の本を出しています。結構簡単に作れるので、興味があるなら面白いです。昔、東京の淡路町で錯覚美術館てのを明治大学がやってて、結構面白かったからまた復活しないかな。

 閑話休題。


 エッシャーの絵がどのように人を騙しているのか。

 人の脳には情報を補完する能力があります。エッシャーの絵は不可能にもかかわらず、過去に見た景色や記憶から脳が誤作動をおこし、不可能な立体を脳内で画像処理し、つまり脳の高度な計算処理によって、自動であたかもありえない風景がありえるかのように見えるものです。

 ここには心の動きはほとんど介在しません。だから、後に述べるようにエッシャーの絵(立体ではない)からはある種の『気持ち悪さ』というものはあまり感じないのかもしれません。


3.騙し絵の騙すもの―心編

 錯視といえばもう一つ有名なのは、一つの絵で二つの見方ができるもの。

 例えば女の人にもおばあさんの横顔にも見える絵、とか、ドクロにも月にも見える絵、とかの類型があるけど一番有名なのは「ルビンの壺」かな。

 これは、「壺」と「二人の人物が向かい合っている様子」に見えるやつです。

 ああ、あれか、と思い浮かべて頂けたましたら幸いです。

 エッシャーは前述の通り、工学とか幾何学的な視点の面白い錯視ですが、ルビンの壺は認知心理学の観点から心理学者が作ったものです。


 ルビンの壺は心理的要素が働いています。図地反転図形といいますが、壺と顔のどちらかを図(内容)と認識すると、自動的に他方が地(背景)と認識されて浮かび上がり、意図的に認識を切り替えないと反転しないという性質がある。つまり選択的に見るものを選んでるのです。ですから壺と人の顔を同時に見ることはできません。

 初見でどちらを見るかは、見たいものを見るっという確証バイアスも働いてる気もします。

 少し話は飛びますが、確証バイアスについて。

 確証バイアスとは、簡単に言うと、人は見たいものを見る、というものです。

 たとえば、「これはこうだ」と思い込んで物を見ると、その見方が優先されて、反対の考えに基づくものは見えづらくなる。

 幽霊見たり枯れ尾花まなんかがその例でしょうか。

 肝試しにいくと幽霊がいると思ってる人は何でも幽霊に見えて、幽霊を信じてない人には枯れ木にしかみえない。本当はどちらかはおいといて。


4.騙し絵の騙すもの―文化編

 ところで今回のテーマの「アルチンボルド」は作中で怪異の比喩で出したものです。アルチンボルドはかなり写実的な野菜や動物の絵を組み合わせて、人の形に見えるように書いた画家です。横顔が多いかな。

 今回は元々は歌川国芳で例える予定でした。でも歌川国芳っていっても絵がパッと浮かばないですよね……。歌川国芳も沢山の人を集めて人の顔を描いた人。有名なのは、怒った顔の人の絵を上下ひっくり返すと泣いてる顔に見えるやつかな。アルチンボルトの方が有名な気がしたのでそちらを出しました。


 では、野菜の塊がなぜ人の顔に見えるのか、という話にうつります。

 ここからは昔読んだ本の記憶でうろ覚えのところがあるので、間違いがあれば指摘してもらえると嬉しいです。

 人が人を見る時、まず第一段階目として、顔を構成するパーツの存在、目と口の有無で人の顔がどうかを自動的に認識します。その後、第二段階目として、パーツの配置を記憶と照らして誰の顔かを判別するといわれています。


 その第一段階目について。

 シュミラクラ現象です。これは点が三つあれば人の顔に見えるってやつ。


 (∵)? 


 天井のシミがおばけにみえるというので有名です。これは相対するものの脅威を判別するため、脳に本能的に仕込まれたものと言われいます。

 なお、この段階は「相貌失認」という人の顔の判別ができない疾病の人でも効果が働くそうで、やはり本能的なものだと思います。

 二段階目、これは顔のパーツの配置で個人を見分ける。

 学習の結果で後天的に身に着けるもので、ここの精度は人によって結構違う。「よく似てる人」の範囲が人によって微妙に違うのは、どのパーツを中心に見てるかとかどの精度で見分けてるかにもよるのかなと思います。

 ところで、無作為なパターンに意味を見出すっという現象は、視覚に限らず人間の認知としてもおかしなことではないわけです。例えば三回連続でルーレットで赤が出たら次は赤か黒か迷うでしょう? でもディーラーがいかさまをしてない限り、考えるまでもなく確率は半々。

 こういう物事に意味を与えようとする現象はアポフェニアと呼ばれます。

 で、それが視覚等に影響を及ぼすものに、パレイドリア現象というのがあります。シュミラクラ現象が一段階目に働くとすれば、これは二段階目に働く効果。


 具体的には、木とか雲とか石とかが人や動物の顔に見える現象です。

 これはさきほどのルビンの壺の図地反転図形とは違って、木とか雲であるとそれを認識した上で人や動物に見えます。

 人というのは案外ざっくりものを見ている。全部のものをいつも注視して脳内に形作るとすごく疲れるから、記憶の中の似たパターンに置き換えて自動で再現しているそうです。けれども現実とは異なるパターン持ってきた場合、これ違うだろ、みたいに脳の認知機能に混乱が発生して、気になる。

 その「これ違うだろ」っていうのがあるから、全体としては木や雲であるというのも同時に認識する。人の顔に見えても木や雲だというのは理解できるから、面白いなと思っても特に気持ち悪くはならない。

 それに木や雲ははっきり物としても認識できるから、心理的にも、「ああなんかエラー出てんな」ってことで納得しやすいんじゃいかなと思います。あと、「これは見間違いだ」って知識とかでも補完できる気がする。


 では、例えば人の顔に見える木が苦しそうに見えたりしたらどうでしょうか。

 惑わされてはいけません。それはパレイドリア効果にバイアスが加わっただけで、ただの木です。

 でもその木の顔が苦悶に満ちている、ように見えるなら、そこに意味を見つけ出そうとする心理の動きによって、気持ち悪さが生じるのではないかと思います。

 先の認知バイアスや選択理論よろしく、その辺で人が死んだという情報や、祟られるかもしれないという感情、幽霊を見たいと思えばそういう知識フィルタやバイアスが影響し、より意味を見つけやすいかもしれない。


 心理学に選択理論というものがあります。

 人が物を見るときは、いくつものフィルターを通して物を見ていると考える。知識と価値観とか、脳内でそういった複数のフィルターを通した結果を認識ため、同じものを見ていても人によって見え方が違うっていうもの。だから、同時に複数人が何かを見ても、見え方が違ってもおかしくない。作中でこういう相対主義的な考え方をするのが藤友君だな。

 そういう脳の画像処理機能と心的な心理機能のせめぎあいがアルチンボルドの絵の気持ち悪さを生んでいるのではないかと思う。

 本当に呪いがかかっている可能性? 

 木は苦しく見えても苦しくなく見えても、呪いがかかっているときはかかっているだろうし、木の見え方に関係ないのじゃないかな。むしろ、普通にしか見えないのに呪いがかかっている木の方が恐ろしい気がします。

 でも呪いにかかる時は視覚から刺さるという話も聞くので、やっぱり見間違いと思った方が健康的かもしれませんね。


5.アルチンボルトの絵

 ここからは特に根拠があるものではない私の感想です(エッセイっぽい)。

 絵という媒体は「見る側の受け取り方の自由さ」があるものだと思います。

 さすがに「山の絵」を見て「きれいな海ですね」っていうのはどうかと思うんですが、女の人の絵を見て「楽しそうですね」というのと「悲しそうですね」っていうのは両立する。そういう自由が元来与えられてる。大ドイツ芸術展の公認芸術とかは別として。

 アルチンボルドの野菜でできた人の顔の絵を、リアルで机の上に並べて人の顔にみえるようにしたとしても、それおど気持ち悪さはない気がします。結局これ野菜だねっていうことで納得できるから。


 けれどもアルチンボルドの絵は絵で、絵は紙だから、「野菜自体が存在する」方向で脳は納得できない。けれどもそこに描かれた野菜は極めて写実的で、個別パーツは野菜以外に見えようがない。けれども脳は自動で全体を「人の顔」に変換する。ここに書かれているのは野菜なのか顔なのかというせめぎ合いが気持ち悪さを生んでいるのではないかと思う。私の脳内でも絵の見方は自由だという前提の上で、そのどちらかに確定できるわけじゃないというバイアスが働いている、気がする。

 だから強く人の顔だと思えば違和感が減って感じる。

 アルチンボルドの絵のなかでも野菜を描いた絵だと、目のパーツを認識しやすくて、だまし絵だなって思えて知識的にも視覚的にも誘導されやすいからいいんだけど、個別に「目」を持つ動物を組み合わせた『大地』とかはなんていうか、自分的にすごく気持ち悪いです。


 アルチンボルド に「庭師/野菜」という絵があります。一つの見方では野菜でできた人の顔に見え、逆さにするとポッドに入った野菜にしか見えない。野菜verは野菜にしか見えないからすごく安心できる。野菜verだと違和感は全然ないから、パレイドリア現象のいい例だと言われています。人verは脳がかなり無理してるんだろうな、と思う。

 アルチンボルドの絵は詳細すぎて、デフォルメとかで何かの比喩と思おうとか誤魔化すのもきついから。そもそもアルチンボルド 、わざと遠近感潰してますよね。その辺も気持ち悪いのかもしれない。部屋に飾ってたら心理的にマイナスの影響が出そうな気がする。


 そんなアルチンボルドですが、結構シリーズがでています。

 アルチンボルドは1500年代のイタリアの画家ですが、その絵は王様にも進呈されるほど、かなり人気がありました。絵の奇抜さもあるけれど、博物学的な価値も高かったのです。

 アルチンボルドの生きた時代は大航海時代。世界は広がり、様々な文物が持ち込まれた。けれども植物とか生き物は保存ができないから、アルチンボルドが詳細に描いたものは学術的にも価値が高かったようです。

 当時は「驚異の部屋」、いわゆるヴンダーカンマーという珍品奇品を集めることが流行していた。これが近年の博物館の前身にもなったといわれている。


6.おわり

 怪談第二章では、東矢一人は今回の怪異に好意を持つにつれてバイアスがかかり、認識が歪んでいき、その容姿は正しく認識できなくなっていく、という裏設定にしてあるので、後半になるにつれ怪異の描写が不自然に非グロになるのはわざとです。

 藤友君は召喚者として最初から強い繋がりがあり、もともと花子さんによって認識が歪められて花子さんの望む姿を見ている。本当はよりグロVerもあるけれど、それはまたの機会に。

 次回はどうしようかな。ユフの果樹園ネタで『桃娘と道教』あたりにしましょうか。リクエストがあれば受け付けるかもしれません。

 ではまた。

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