第1章
第1話 目覚め
……えぇと、俺は何をしていたんだっけか。
そうだ、確か昨日は、愛しきエタフロのサービス終了日だったっけ。
それで、変なメッセージを送りつけられて、それに色々返事して……それから、どうしたんだったっけか?
寝起きのせいか、ぼんやりと靄のかかったような思考のまま、のそりと身を起こす。
どうにも軋む身体をほぐして、うんと伸びをしようとして――遅れて開かれた視界を、眩い日光が焼いた。
「ぅ……?」
妙に眩しいな、と思って視界を上に上げれば、そこにあったのは――空。
抜けるような蒼と、まばらに流れる純白の雲。輝く太陽の光はとても暖かく、起き抜けで体温の落ちた身体をゆっくり温めてくれるような感覚が、なんとも心地よかった。
「は?」
――そこで、違和感に気付く。
記憶に齟齬がなければ、俺は確かに家の中にいたはずだ。だというのに、何故に視界は空を捉えているのか。
ぎょっとして、周囲を見渡す。
視界を左右に滑らせれば、そこにあったのはたくさんの木々。耳をすませば、風に揺れる木の葉がざわめく音や小鳥の鳴き声が聞こえて来るそこは、誰がどう見ても「大自然の真っただ中」だった。
「……どこだ、ここ?」
口を吐いて出た疑問に答えてくれるものはなく、呟いた言葉は、木々のざわめきに虚しく溶けていくだけ。
一体どうなってるんだ、と首をひねったところで、今度は別の違和感、というか相違点が目に付いた。
「……なんだこの服」
記憶の限りだと、意識を失う前に着込んでいたのは、簡素なTシャツにスウェットという部屋着兼寝間着だったはずだ。
にもかかわらず、今の俺の身を包む装束は、まるでどこぞのファンタジーな創作物の登場人物が纏うような衣装に変貌していた。
膝丈まである裾がなびくロングコートに、動きやすさを重視したボトムス。グリップ力に優れたフィンガレスグローブと、悪路もしっかり捉えられるように特殊な加工が施されたブーツ。
艶やかな漆黒を主軸に、控えめな黄金の差し色と、アクセントの白で彩られた、やや現代の服装にも通ずる意匠を持つカジュアルな装い。――それは、俺にとって酷く見覚えのあるものだった。
「これ……アステルの服、だよな?」
それもそのはず。この旅装束は、エタフロ内の俺とでもいうべきアバター「アステル」が身に纏っていたものなのだ。
見間違うはずもない。なにせこの衣装は、昔開催されたゲーム内イベントで上位に入賞した報酬として運営から授与された、「一点もののオシャレ装備」なのだ。
手に入れて以来、サービス終了までの長きに渡って愛用してきたこの一着には、深い愛着と共に、使い続けた年月分の思い出が詰まっている。それを見間違うことなど、到底不可能な所業だった。
不可解な現象を目の当たりにして、反射的に頭を掻こうとしたところで、今度はまた別の違和感に襲われる。――いつもより髪が長いのだ。
邪魔にならない程度に切りそろえていたはずの髪の毛が、今は頑張れば目元を覆い隠せそうなくらいの長さになっている。手櫛を通して後頭部まで梳いてみれば、首元を覆いそうなほどに長い髪が、後頭部でひとまとめに縛ってあるのが分かった。
「アステルの、髪型」
黒いざんばらの長髪を、後頭部で無造作に括った髪型。その特徴は間違いなく、俺の記憶にあるアステルの髪型だ。
「――まさか」
アステルの鎧に、アステルの髪型と来て、そこで一つの可能性に思い当たった俺は、ぺたぺたとグローブ越しに自分の顔をまさぐれば、手のひらごしに伝わる顔の輪郭が、自分の知るそれとは随分異なったものに変わっていることがわかる。
鏡になるようなものはないため、目で確認することはできない。が、ここまで来れば、自分の顔立ちが本来の俺のもの――直視すれば正気度を喪失しそうな
「夢……?」
あまりにも現実離れした事態を、そう判断する。
そうだ、思い返せば、人生の半分だったゲームを永遠に喪ってしまったのだ。未練がましくこんな夢を見るのも、なんらおかしくはないだろう。
……しかし、降り注ぐ日光の暖かさも、吹き抜ける風が運んでくる豊かな緑の香りも、夢にしては妙にリアルだ。
試しに頬をつねってみても、つままれた部分からはじりじりと鈍い痛みが返ってくる。結論を出すのは早計かもしれないが、五感を通して伝わってくる情報は、どうにも夢のそれとは思えなかった。
「どうなってるんだ……?」
いつもより長くなってしまった髪をわしわしと掻きつつ、改めて周囲へと視線を向けてみる。
見渡した限り、今俺が立つ場所はやや開けた広場になっているようだ。ちらりと視線を下に落とせば、足元には経年劣化と雑草の目立つ石畳が広がっており、長らく人の手が入っていないであろうことが推察できた。
「……ん?」
――そこで、妙な既視感を覚える。
「森の一角に存在する、中央に石畳を敷き詰めて作られた人工物が存在する、開けた空間」。そんな光景を、俺は知っているような気がするのだ。
とっさに、もう一度石畳を注視する。
風化した石畳には、隙間から雑草が伸び、そこかしこに経年劣化の痕が見受けられる。しかしそれでも、足元の石畳には、はっきりと何かが――幾何学模様で構成された「魔法陣」と思しき紋様が刻まれているのが見て取れた。
改めて周囲を見てみれば、俺が立っているこの場所は、周囲に比べて一段高くなっていることが分かる。
まるで、ここだけ「祭壇」のような作りになっているのを確認しながら、俺は直感にしたがい、石畳の空間から飛び降りる。数歩距離を取り、くるりと身を翻して――
「……召喚の地だ」
ようやく合点のいった俺の口から、無意識にこの場所の名が――エタフロ終焉の時を共にしたマップにして、エタフロ始まりの地とも言える〈召喚の地〉の名前が、ぽつりとこぼれ落ちた。
ゲームの中で見た光景が、現実の物になっている。
本来ならば「夢オチ乙」と一笑に伏してやりたいところなのだが、あいにく俺の五感は、依然として鮮明な情報を取得し続けていた。
さりとて、こんな状況夢でもなければありえない。
可能性だけを考えるなら、よくいう「異世界転生」にでも巻き込まれたのではなかろうか――なんて妄想めいた考えが脳裏をよぎったところで、ふと記憶の片隅に引っかかるものがあった。
「貴方様にはルクシアへ渡り、最後のエトランジェとして、世界を護って頂きたいのです」
「世界同士の繋がりが完全に絶たれてしまえば、再び世界を渡ることは極めて困難となります。平たく言えば、ルクシアへと渡ったならば、今の貴方様が生きる世界に戻る事は、未来永劫叶わなくなることになるのです」
それは、意識を失う前、サービス終了を目前に控えたエタフロの中で見た、不可解なメッセージ。
今思い返しても、その内容は荒唐無稽かつ、要領を得ないものだった。だが、見方を変えれば解釈も変わってくる。
ルクシアへ渡る。
それはつまり、現実世界からこの世界――エタフロの舞台であるルクシアと思しき世界へ、俺という存在を転移させること。
かつて俺が生きた世界に戻れなくなる。
それはつまり、こちらの世界に渡り「アステル」となった俺は、今後アステルとしてこの世界で生きていかねばならなくなるということ。
「……いや、いやいやいや」
あの時のメッセージよりもよっぽど荒唐無稽な妄想に、口元を引きつらせてかぶりを振る。
だが、この現状――アステルの姿をして、画面の中の存在でしかなかったはずの土地に立っているというこの状況が夢ではないのだとしたら。
「あの時のメッセージの文言通り、エトランジェとしてこのルクシアに飛ばされてしまった」という結論意外に、この現状を説明する手段が存在しないのだ。
にわかには信じがたい結論に至ってしまったせいか、ぐらりと足元が揺らぐような錯覚に陥る。
なんとか踏みとどまるものの、それで何が解決するわけもない。頭の中は、相変わらず大混乱のままだった。
第一、異世界転生なんて単語そのものが「フィクションの産物」でしかないはずなのだ。
そんな状況を疑うような事態に見舞われた時点でも信じられないというのに、その転生先? が俺のこよなく愛したエタフロの世界で、しかも自分が分身であるアステルになっているというのだ。自分の正気を疑うなという方が無理があるだろう。
「どうなってんだよ……」
さっきも言ったような言葉をこぼしながら、その場で呆然とあたりを見まわす。
無論、見渡したところで何が変わるわけでもない。視界に収まるのは、静かな森と、開けた土地に鎮座する、エトランジェ降臨のための古めかしい遺跡と――
「ぁ……?」
そこで、また違和感が俺の意識を引き止める。
先ほどまで俺が倒れていた、召喚の地の祭壇の上。――そこに、「何か」が横たわっているのが目に入ったのだ。
遠目から見るに、影の総数は二つ。それぞれ祭壇の端っこに寄せるような形で転がっており、俺が起き上がった場所からはそれなりに離れた位置にあったらしいことが伺えた。
だが、俺が目を覚ましてから、何かが倒れ込むような音は一度も聞こえてなかったはず。となると、そこに倒れているなにかは、俺が気付かなかっただけで、元からそこに転がされていたのだろう。
何か、現状に対する手掛かりになるかもしれない。そう考え、祭壇へと近づいた俺は――
「ッ――!」
その瞬間、胸中に渦巻く疑念も、つい数瞬前まで抱いていた困惑もかなぐり捨てて、俺は祭壇に倒れ伏す影たちの元へ、一目散に駆け出した。
理由は単純明快。
倒れた二つの影が「うつぶせに倒れた人」だったから。
そしてその背格好が、画面の向こう側にしか存在しなかったはずの「彼女たち」と、全く同じだったから。
「セレネ! サテラ!!」
半ば反射的に、そこに倒れる二人の名を――夢想の中で呼び続けた名前を叫ぶ。
すると、俺の声が意識を呼び起こしたのか、二つの人影が小さく身じろぎする。
ゆすり起こそうと伸ばしかけた手を引っ込めれば、やや緩慢な動作で、二人がその場で起き上がった。
「んぇ……アステルさん? ふぁ……おはようございます」
かたや、甘やかでおっとりとした、優しげな声音でこちらの名を呼ぶ少女。
太陽の光を金糸にしてまとめ上げたような美しい金髪をそよ風に揺らす彼女は、鮮やかに芽吹いた若草のような深緑色の瞳を眠たそうにこすり、小さくあくびを噛み殺す。ややとろんとした眼差しのまま、ゆるりとこちらに微笑みかけてくるその少女の名は、
「ぅ、んん~……はぁ、よく寝た。おはよ、アステル」
そしてかたや、凛と透き通った、涼やかな声音でこちらの名を呼ぶ少女。
降り積もった新雪のように真っ白い髪を腰まで伸ばした彼女は、宝石のように透き通った青の瞳をぱちくりと瞬かせ、その場でぐっと伸びをする。セレネとは対照的に、ぱっちりと見開いた瞳でじっと俺を見据えるその少女の名は、
――俺の耳朶を叩いたその声は、初めて耳にするはずなのに、何年も前からずっと聞いてきたものであったかのような、そんな感覚に襲われる。
幾度となくふけってきた妄想の中で聞いた声と寸分たがわないそれは、まるで俺の妄想がそのまま具現化したのではないかと錯覚してしまうほどに、俺の想像したそのままの声。
そこに居たのは、画面の中の存在でしかなかった、最愛の少女たち。
エタフロの終焉と共に消えてしまうはずだった、セレネとサテラその人たちだった。
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