ネコさん

ネコさん①

 グツグツ……。僕はいま絶望している。お湯の中で踊る卵を見ながら。


「塩ないじゃんッ!」


〔 九分が経ちました 〕


 Menuメニューさんの声を聞いて、絶望中ながらも僕はコンロから鍋を外すと、水道の蛇口をひねって、鍋の中に水を注ぎこむ。


 お湯が水に入れ替わったくらいで、『冷凍』のスキルを使用して氷水にして卵を十分に冷やした。


 卵の殻が冷えたのを確認すると、鍋から水を捨てて、鍋を揺する。すると、殻どうしがぶつかり合って、殻に割れ目が入った。


 また、鍋に冷水を入れて、割れた箇所から殻とゆで卵の間に水が入るようにする。


 ゆで卵を水から引き上げると、タオルで軽く拭いてから優しく調理台の上で横にゴロゴロ転がして殻を割っていく。ある程度割れたのを確認して、殻をむいた。


 つるん。白くてツルツル。これぞ本当の卵肌。


 はぁ、こんなに美味しそうなのに、塩が……塩が……。


〔 シークレットミッション『ゆで卵を作る』を達成。ボーナス素材スキル『食塩』が付与されました 〕


 なんだって!? Menuメニューさん! 最高!!


〔 恐縮です 〕



「はぁ? まぢないわ……」


 僕がゆで卵を両手に持って、歓喜の踊りをしていると、突然、背後からキツめの女性の声が響いた。変なダンスを一人で踊っているのを見られてしまった。


 やばい。恥ずかしくて死にたい。恐る恐る振り返ると、ホウキを持ったネコさんが立っていた。


「……あの……何か御用でしょうか?」


「この部屋、清掃していい?」


 ホテルみたいに清掃の時間があるのか? 僕が困惑していると、僕の返事を待たずにネコさんはズカズカと部屋に入ってくる。そして、寝室の扉をバンッと開いた。


 ええええええええええええ!? ちょっと待って! 朝、起きた時のままの状態だよ。外見が猫とはいえ、女性にぐちゃぐちゃのベッドを見られるのは恥ずかしい。


 でも、ネコさんは僕の制止も聞かずにベッドに近づくと、ホウキをぐるりと円を描くように回す。するとパッとベッドは綺麗にメイキングされて、昨日の寝る前の状態に戻った。


 魔法すごい……。感心していると、またもやズカズカと今度はシャワールームの扉を開けた。ネコさんは、浴室を一瞥して、ため息をつくとまたホウキを回す。


 なんのため息なの!? 気になるんですけど……そんな汚く使った覚えないし……。

 とにかく、浴室も水滴一つ残さずきれいになった。タオル類も新しくなったようだ。続いて、僕の方を振り返ったネコさんは、大きな目でジッと僕を見つめる。今度は何!?


「カミソリ、いる?」


 んんん? カミソリ……?


「ヨージは、ヒゲそりたいっていうから用意してた」


 ヨージ……、前の菓子職人さんだっけ。僕はヒゲ薄いから二、三日くらいそらなくても平気だけど、さすがに何日もそらないと汚いよな。


「用意してもらえるなら助かります」

「わかった」


 ネコさんが、洗面台に指でクルクルと小さく円を描くと、T字のカミソリが出現した。


 そりゃ、電動カミソリじゃないよね……肌荒れそうだ……。


「ねぇ? もしかしてだけど」


 まだ何かあるの!? ネコさん、クラスの派手めの女子たちと同じ圧を感じる。怖い。


「その服、洗濯してなくない? ありえないんだけど。まぢないわ」


「え!? いや、だってこの服しか持ってきてないし……」


 家にいるところを強制的にこっちの世界に連れてこられたのだ。この黒のロングTシャツ、グレーのスウェットパンツに、ベランダのサンダルが一張羅だよ!


「はぁ? なら先に言えし」


 クローゼットをバンッと、ネコさんが開く。そして、ホウキでハンガーパイプ部分を撫でた。すると、撫でたそばから、シャツやズボン、ジャケットなどが次々とハンガーに吊るされて出現する。スニーカーなどの靴類も下の棚に整然と並んだ。


 そりゃ、ウサギさんも防寒着を出してくれたもんな。魔法すごいな。


「下の引き出しに肌着類も用意したから。次からは脱いだら、ランドリーボックスに入れておいて」


 何から何まで、すごい。洋服のお礼を僕が言おうとした瞬間、ネコさんが独り言をボソリ。


「ほんと二日同じ下着つけるとか、ないわー。キモ……」


 僕の自尊心は、この小声の一言によって、完膚なきまでにバッキバキに砕け散った。



 その後、清掃は終わったのにネコさんは帰らず、調理台のそばの丸椅子に座って先ほどから僕をじっと見ている。いったいなんなのだろう。


〔 レシピスキル:『九分・半熟卵(葵)』を新規登録しました 〕


 出来上がった半熟卵を登録すると、僕はようやく念願の塩かけ半熟卵を頬張った。しかしながら、なぜこんなに緊張して食べないといけないのか……。


「ねぇ、それ美味しいの?」


 あなたが凝視しているから、味がしません! 


「……あの……お腹減ってるなら食べます?」


 半熟卵が数個入った器を彼女の方へ差し出す。


「オナカガ、ヘッテル? 何それ?」


「え? いや、だから空腹なのかな? って」


 彼女は大きな金色の目をキョトンとさせた。話通じないな。女子こわ。クラスでノート集める係になった時の緊張感を思い出して、ちょっと胃が痛くなった。


「そういえば、ここって食堂とかないんですか? そろそろ夕ご飯の時間ですよね」


 僕は無理やり話を変える。


「さっきから何言ってるわけ? ショクドウなんてないし、ユウゴハンの時間なんてないけど」


「お菓子以外、食べないんですか?」


「うん。ってか、お菓子もヨージに会ってから初めて知ったし」


 あれ? そう言われてみれば、僕も昨日からずっとちゃんとご飯食べてないけど、別にお腹減ってないな。ゆで卵だって、甘いものばっかりで口直ししたかっただけだし。もしかして、この世界って空腹とかないのかな。


「えっと、じゃあ、なんでいつまでも、この部屋にいるんですか……」


 僕が意を決してそう言うと、ネコさんはムッとした顔をした。ヒィッと、声がでそうになるのを堪える。


「はぁ? ヨージはいつも掃除のお礼にお菓子作ってくれたのに! 最悪!」


 …………。あ~、そういうこと。


「それは、気がつかなくて、ごめんなさい」


 怒っている女性には、まず謝る。絶対に逆らうな。言い訳なんぞ言語道断。自分の考えうる最善の代替案を下手に提示すべし。これは父からの一子相伝の教えである。


「ヨージさんと違って、僕は見習いだから少し時間かかるけど、待っててもらえますか?」


 僕がすぐに謝ったので、怒りのやり場を失った彼女は、不服そうにそっぽを向くと「わかった」とだけ言った。ありがとう。お父さん! 僕は危機を乗り越えました!

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