78話 一か月①

「遅いね~。どこに行ったんだろう?」

「あ? う……」


 優さんは普段なら既に帰宅している時間であるが、未だ帰ってきていない。

 暗くなってきて少し心細い。

 ご飯もほとんど作り終えてあとは彼の帰宅を待つだけだ。


「何してるんだろ? 早くお話したいな~」


 連絡もないことからそろそろ帰って来ると思う。

 彼は遅くなるときは家の固定電話に連絡をしてくれる。

 現在、私がスマートフォンを持たない通信弱者で、この固定電話しか通信手段がない。

 彼が遅くなっている理由が少し気になってきた。

 もしかして会社の人と食事かな。

 もしくは……優さんはそんなことしないか。

 嫌なこと瞬間的に思い出してしまった。

 前の夫と結婚していたときもこうやって待ってた。

 いつまでも、いつまでも、小さい子供が親の帰りを待つかのように、ペットが主の帰宅を待つかのように。

 こんな一軒家ではなく木造の狭くて暗い一室であった。

 夫が帰ってくるのは大抵深夜になっていた。

 こんなことを思い出すと、心の奥に詰まっている、もっと深い、嫌悪の感情が流れてしまった。

 あのときにあんなことしていたなんて。

 胃からその嫌悪とともに何かが上がってくる。


「うっ……嫌だ……吐きたくない」


 深呼吸して落ち着くが、汗がびっしょりと滝のように流れていることに気が付いた。

 これでも進歩している、前は……近藤優に会う前は完全に吐いていた。

 ここに来てからは夫を思い出しても吐くこともなかった。

 それだけ優さんに、優さんの優しさにどっぷりと浸かっているから。

 早く頭まで浸かりたい、溺れるまで、息ができなくなるまで浸かって、忘れたい。


「優さん……早く帰ってきて……」


 両手で抱えるように丸まって、自分でも声が震えていることが分かるぐらい怯えている。

 近藤優には近藤優の人生があるし、プライベートがある。

 私たちのことを四六時中考えていては息が詰まる。

 彼が外で食事をしようが、誰に会おうが彼の自由だ。

 彼がどんなことをしようが、どんなところに行こうが、彼の自由だ。

 でも、嫌だ、嫌だ。

 私のことを、結のことを考えていて欲しい。

 私だけを、結だけを見ていて欲しい。

 もうあんな思いはしたくない、裏切られたくない。

 その時玄関の扉が開く音が聞こえた。


「ただいま……どうしたの? 体調悪いの?」


 心配そうに声を掛けてくれた彼を見るために丸まった体を起こすと荷物をたくさん持っていた。

 目線を合わせるために彼は膝を折り曲げてくれた。


「遅かったね。どこ……行ってたの?」


 震える声でそう言った。

 この言葉を放ったのは二回目だったか。

 あのときの答えは何だったか、思い出す前に優さんは言葉を発した。


「遅くなってごめん。今日は結ちゃんの二か月の日だから記念にケーキでも食べようかと思ったんだけど」


 彼は手に持っていた箱をテーブルに置いて笑顔でそれを開いた。

 小さめではあるがイチゴが飾られているケーキ。

 上には結の名前がひらがなで書かれたプレート。


「その肩の袋は?」

「ああ、ちょっと飾り付けでもあったほうが盛り上がるかなって。百円だよ」


 近藤優は自分のことよりも私たちのことを、ずっと、ずっと考えている。

 結のことを私以上に思ってくれている。

 二か月の記念なんて、誕生日でもないのにお祝いしてくれる人は彼しかいない。

 彼は絶対にあの人とは違う。

 自分の欲に溺れたりしない。

 美味しそうで綺麗なケーキを前に吐き気が一気に引いた。

 優さんのことが好きで好きでたまらなくなってきている。

 自然と彼に抱きついていた。


「あれ? どうした、どうした?」

「寂しかった。会いたかった。嬉しいよ。結のためにたくさんしてくれて。ケーキ買って、飾り付けしてお祝いしてくれるなんて。結も喜んでるよ」

「喜んでくれて良かった……遥さん? どうした?」


 もっと強く自分の顔が彼の胸の中に入り込んでしまいそうになるまで力を入れてしまう。

 彼はきっと困惑しているだろうけど、この気持ちを抑えられない。

 きっと自分の思っている言葉を言ってしまえば楽になれる。

 でもこの家主と居候親子という関係が終わるだろう。

 その代わりに、もっと私と結と優さんとの関係が深まると思う。

 そうなったら、彼の自由が今まで以上に制限されるかもしれない。

 優さんは望んでいるのかな?

 彼の気持ち以上に私の思いは強い。

 そっと力を緩めて優さんから離れて緩んだ顔を見せて立ち上がる。


「着替えてきてよ。ご飯にしよ。デザートにケーキもあるから」


 ケーキの箱を持って冷蔵庫にそれを入れる。

 冷たい空気が私の熱くなった顔を冷やすのであった。



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