85話 長い一日⑤
「はい。どうした?」
『うっ……ぐすっ……優さん、優さん、優さん、優さん……』
電話を取るとすすり泣きながら俺の名前を繰り返す遥さんが出た。
彼女が今まで日中に連絡することはなかったから緊急事態が発生したことを理解する。
俺はその場から既に歩き始めていた、会社とは逆方向の家に。
雨脚が強く一瞬で服やカバンが濡れるがそんなことは考えなかった。
「どうした? 遥さん、落ち着いて」
『優さん……どうしよう……結が熱いの……』
「えっ、結ちゃん熱出ちゃったの?」
『うん……どうしたらいいか分からないの……』
「遥さん、大丈夫だからね。結ちゃんの様子は?」
泣きながら、震えながら話す遥さんからは不安が伝わる。
自分の子供が体調悪くして心配しない親はいないだろう。
彼女の娘に対する思いがひしひしと感じる。
『結は今も寝てるよ』
「震えてたりはしてない?」
『それはないよ……どうしたらいいのかな……』
「遥さん。結ちゃんは大丈夫だからね」
『私が今まで外で過ごしてたから熱出ちゃったのかな?』
二人が外を転々としていたのは一か月も前のことだ。
そのようなことはないと思う。
「遥さん、遥さんは悪くないよ。生まれてから環境が変わって疲れちゃったんだよ」
スマートフォンからは遥さんの泣き声が鳴り響く。
歩き始めてから泣き止むことはなかった。
『うん。……優さん……たすけて……』
「ただいま。大丈夫?」
俺は家に帰ってきた。
遥さんは目が真っ赤になるほどになっている。
「優さん……お仕事は? まだ外明るいよ……」
「大丈夫。折角、家と会社が近いんだからさ。地の利というものだよ。帰ってこれるよ。もう大丈夫だよ」
「……ううう……」
彼女は安心したのか俺に飛びついて泣き続けた。
結ちゃんが体調悪くなって、一人で不安で不安でいっぱいだっただろう。
「ありがとう、優さん。私たちのために。雨なんだよ、こんなに濡れちゃって」
「抱き着いていたら。遥さんも濡れちゃうよ」
「不安だった。でもホッとした」
「そうだよね。安心してよ」
遥さんは頷き、俺から離れて涙を拭った。
緊張が少し和らいで落ち着き始めた。
「結ちゃんは? 大丈夫?」
「うん……わからない……」
手を洗ってタオルで軽く頭と体を拭きながら結ちゃんのところに行く。
結ちゃんの額に手を当てると、じーんとした熱が手のひらに伝わる。
俺の手が冷たいからか少し気持ちよさそうにしている。
もしかしたら朝から、いや昨日静かになっていたときから体調が悪かったのかもしれない。
気が付いてあげられなくて申し訳ないと思う。
でも、俺が結ちゃんにしてあげられることはまだある。
結ちゃんが元気になるのを遥さんと協力する。
「熱は測った?」
「測ってない」
赤ちゃん用の体温計を用意していなかったから、大人用で測ることにした。
遥さんが結ちゃんの脇に体温計を挟もうとするが少し嫌がっている。
「ギャー、ギャー………」
遥さんはこっちを向いて体温計を俺の方に渡した。
「パス。優さんやって」
幸いにも結ちゃんはすぐに泣き止み、俺は結ちゃんの脇に体温計を挟み、数値が確定するのを待つ。
「結ちゃん、ちょっとだけ、じっとしててね」
乳幼児はじっとするのが難しいため、素早く測定できたりする体温計を使うのだろうけど大人用でも原理は同じだと思う。
脇に体温計を挟んで少し待つがこの時間が長く感じる。
横にいる遥さんの手は震えている。
遥さんの手を握ると握り返してきた。
しばらくすると体温計の測定終了の音が鳴り結ちゃんの脇から体温計を抜く。
「三十八度か。熱あるね。病院行こうか」
赤ちゃんは体温が高めとはいえ、これは熱に入ると思う。
遥さんは首を横に振ってからこう言った。
「行けないよ……病院には」
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