118話 棘
「私が一番嫌だったのはさ、夫が女の人とそういうことをする店に行っていたこと。本当に嫌だった」
イチゴケーキを食べていた時に彼女から聞かれていたがこれが本当の答えのようだ。
女の人がいる店と言っていたからキャバクラのようなものだと思っていたがそうではなかったようだ。
男女が肉体的な接触を伴う種類のものである。
彼女は血の気の引いた顔をしていて、嗚咽交じりに声を出す。
「私がつわりで吐いて吐いて吐いて、それでも吐いていたときにあの人は行ってた。お金使って、私以外の女とそういうことしたんだよ。あの人は誰でも良かったってことなんだよ。自分が楽しければ、気持ちよければ、ただ自分の欲を吐き出せればよかったんだよ。本当につらいときに、痛いときに手を差し伸べて欲しかったのに。ただ一言大丈夫? って言って欲しかっただけなんだよ」
「もういいよ、遥さん……話してくれてありがとう。分かったよ。だから落ち着いて……。そんなに声出したらのど痛くしちゃう。深呼吸して」
横に座っている遥さんは俺の肩を掴んで、そのまま顔を体に預けた。
顔が見えなくなったが呼吸が少しだけ落ち着いてきた。
「言わせて。最後まで」
彼女は自分の心の棘を取って楽になりたいとばかりに苦しそうに、辛そうにしている。
経験したことは事実として永遠に残り、その記憶は簡単に消えるものでは無い。
それでも遥さんが次の一歩を進むためにその棘を自分で抜き取らなければならない。
「そして、言われた俺の子かって。許せないよ、うっ……」
顔を上げた彼女は今にも吐いてしまいそうな顔をしていて彼女の額にはありえないほどの汗がしたたり落ちてきている。
それをハンカチで軽く押さえてあげると、彼女はやわらかい笑顔を見せてくれた。
「でも優さんはこうやって手を添えてくれる。優さんのそういうところ、大好きだよ」
「……」
「大好きって言われてドキッとした?」
言葉で好意を伝えられることに慣れていないから彼女の言うように心が動いた。
その様子を見たすっと顔色も戻り、遥さんはクスクスと喜んでいる。
やはり遥さんはこっちの方がいい。
大きく息を吸った彼女は背筋を伸ばして話を再開させた。
「最後はちょっと突き飛ばされたりしたから、外に出た。その後は知っての通り」
「離れて正解だったんじゃないかな。どうだった?」
「そう思うよ。でも、一人結を産み育てるっていうのは本当に大変だった。生きているだけで精一杯」
ここに来るまでの話はこれでおしまいのようだ。
きっとこの話以上の苦しいことがあっただろう。
ここまで生きていてくれた二人にはこれからもっと楽しい時間を過ごしてほしいし、幸せな未来が待っていて欲しいと思う。
「結にはこの間本当につらい思いをさせてしまった。一生かけて償う。でも、結のことを誰よりも愛しているし、疎かにしたことはない。それは堂々と言える」
「知ってる。伝わっていると思うよ、結ちゃんに」
お腹を触りながら彼女は胸を張って言葉を発する。
「そりゃあ、自分のお腹で受精卵からじっくり育てて自分の体から出したんだからさ。愛さないわけがない。これからもだよ」
手元にいる結ちゃんは何の話をしているかはもちろん理解していないだろうが、飽きずに耳を傾けているように見えた。
結ちゃんがお腹にいたときのことだからきっと思いは一緒なのかもしれない。
そしてベンチから立ち上がってこちらを向いて、自らの左手の手袋を外し、彼女はすっきりとした満面の笑みで口を開いた。
「短い期間だったけどありがとうございました。旅館長、これ持って来たから。受け取って」
その手袋を受け取ると彼女はゆっくりと公園の出口へと歩いて行った。
「えっ……遥さん?」
その背中を俺と結ちゃんが見守るのであった。
渡された白い手袋は彼女の温もりがほんのりと残っていた。
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