2.


 人間の騎士だった俺を、ヘラジカの姿をした悪魔に変えた、巨大な白蛇の悪魔が、今、人間の姿となって、目の前に立っている。

 三百年の時を超えて起きた倒錯に、眩暈を感じる。聞きたいことは山ほどあるが、その中でも、最も重要な質問を、上着を着直したアシュタロトにぶつけた。


「……何をしに来たんだ」

「その呪いを解きに来た」


 俺の胸を指差して、アシュタロトは簡潔に言い切る。元の姿に戻れるという、何度も夢想してきた瞬間が訪れたのだ。

 だが、俺をこんな目に合わせた当の本人の言葉を信じられずに、俺は眉間に皺を寄せた。こちらの表情が険しくなっても、アシュタロトの無表情は変わらない。


「どういう風の吹き回しだ? 何かの罠か?」

「ふむ。疑うのも無理はない。我々も、あの街を襲った後に、色々あったからな」


 腕を組んで、納得した様子で頷くアシュタロトは、丁寧に、悪魔たちに何が起きたのかを教えてくれた。


 悪魔は地面に出入り口のある別の世界――人間からは、地の国と呼ばれているらしい――から現れて、地上へ進軍していた。その時、彼らの前に一人の青年が立ち塞がった。

 青年は、悪魔を率いる魔王に決闘を申し込んだ。それは、力でも知恵でもなく、精神の戦いだった。魔王は、それに乗じた。


 自ら傷つけた青年の両目から、魔王がその体に入り、互いの心をぶつけ合う。周囲の悪魔たちは、手出しが出来ず、固唾を飲んで決闘の行方を見守っていた。

 精神の戦いは三日三晩続いた。これによって、青年の体は塵と化してしまったが、魂はこの世に留まり、魔王の精神に打ち勝ち、相手の精神を自分の魂の奥深くに封印した。


 体を再構築した青年は、魔王の力を引き継ぐ、二代目の魔王となった。その二代目の魔王に、今の悪魔たちは従っているのだという。

 それを聞いて、俺は愕然とした。そんな方法で悪魔を止めることが出来るなんて。思い付いたとしても、実行し、達成出来る瞬間を想像すらしないだろう。


「つまり、今のお前たちは、先代の仇の言うことを聞いているのか」

「我々は、力の強いものに従うからな。それに、人間の王も似たようなものだろう」


 確かに、人間の庶民からしたら、どんな王であろうと奉るしかないのかもしれない。

 ともかく、元人間だった二代目の魔王は、悪魔たちを地の国から決して出ないようにと命令した。それは、二百年の間堅く守られていたのだが……。


「ある日、魔王様が地上を千里眼で覗いてみると、自分が人間だった頃にはいなかった生き物が存在しているのに気が付いた」

「ああ、たまに空を飛んでる、人と鳥を合わせたような生物のことか」

「そう、その生き物たちは、動物に人間の特徴をどこかしら持っていた。そして、彼らが生まれたのが、悪魔の魔力の影響によるものだというのも分かったため、数体の悪魔が調査のために地上へ送られた」


 城に籠り切りの俺でも、気付く様な異変の原因が、思いがけない所で分かった。数百年が経とうとも、悪魔の侵攻の脅威は残っていたらしい。


「その調査によって、私が呪ってしまった相手が、ここにいることが分かったので、出向くことになった」

「……その言い方だと、俺を呪ったことを覚えていないみたいだな?」

「全くもってその通りだ。申し訳ない」


 無表情のまま謝られてしまい、俺はこの場で座り込みそうになった。だが、やっとこいつが本気で俺を人間に戻そうとしている理由が分かったので、何とか持ちこたえる。


「少し屈んでくれないか? その胸に私の手が届くように」

「ああ、何でも言う通りにするよ」

「お前のことを元に戻すまで、魔王様からは帰ってくるなと言われているからな」

「面倒臭そうに言うな」


 何ともあっけないが、これでこの悪魔の体ともおさらばだ。もしも自分を呪った悪魔と再会したら、叩き潰してやりたいとか考えたこともあったが、もはやどうでもいい。さっさと終わらせたかった。

 ……しかし、アシュタロトが俺の胸の模様に手を翳しても、何も起きない。彼は心底不思議そうに、首を捻った。


「可笑しい。呪いは解除しているはずなのに」

「……なあ、念のために聞くが、俺を呪った時に言ったお前の『心から愛する者が現れた瞬間、人間に戻れる』という言葉は、関係あるのか?」

「あ」

「あ、じゃねぇ!」


 あまりに呆けた顔で口を開けたアシュタロトに、俺はとうとう膝から崩れ落ちた。釣りをしていたら、大物を逃してしまったかのような虚脱感に包まれる。

 「いや、しかし」と、アシュタロトは何を思ったのか、努めて明るい声で言った。


「呪いの解け方が分かれば、後は簡単だ」

「は?」

「お前のその姿では、聖職者に狙われるだろうからな。私が町に出て、お前を愛してくれる誰かを探してこよう」

「いや、待て、」


 話がまとまったとばかりに、杖を持ち直し、ドアに向かうアシュタロトを慌てて呼び止める。

 悪魔を愛してくれる人間なんて、いるはずがない。そう言いかけたが、振り返った彼は、「そうだ」と全く別のことを切り出した。


「お前は無意識に、自分が閉めたものを他者が開けられなくなる能力を発動させているらしい」

「えっ、そうなのか」

「門扉が開かなかったのはそのためだな。頭の中で、その扉が開く瞬間を想像すれば、能力は解除される」

「ははあ、そういうのがあったんだな」


 聖職者たちがこの城に入れなかった理由も分かって頷く俺に、「もう一つ」とアシュタロトは続けて訊く。


「お前の名は何と言う?」

「……スピキオ」

「では、スピキオ、よい結果を楽しみにしていてくれ」


 表情のないまま俺を指差し、一方的にそれだけを言って、アシュタロトは、外へ出て行ってしまった。

 一方俺は、怒涛の展開に未だついてくることが出来ず、しばらくは城の中でぼんやりとしていた。























































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