白は赤に

夢月七海

1.


 焦げ臭い。街のあちこちが燃えている。家も、木も、それ以外も――それが何かは、細かく考えたくない。

 悲鳴と泣き声も、あちこちから聞こえる。老若男女、関係なく、誰もが逃げまどい、そして、殺されていく。


 平和な王都に突如現れたのは、悪魔の群れだった。街の建物よりも巨大な体躯を操り、殺戮を繰り広げながら進む。

 俺は怒りで煮えたぎる心で、奴らと対峙していた。真っ黒い竜、星空を詰め込んだような巨大ナメクジ、三つの頭の獅子、毛の生えた胴の長い八本足の象……見るもおぞましい悪魔たちを目の前にしても、ちっとも恐怖を抱かないのは、その所為だろう。


 騎士として、奴らの暴虐を止めなければならない。勝ち目がないと分かっていても、街人を一人でも逃がせるのならば、どんなに無謀でも立ち向かおうと決意した。

 左腰の剣を抜く。大きく構えて、走り出した先には、白い蛇がいた。


 その蛇の腹に潜り込み、頭上へ剣を振るう。思った通り、柔らかい手応えがあり、蛇の腹が切り裂かれた。

 やったと喜んだ直後に、ボタボタと血が降り注ぐ。顔にかかり、一瞬だけ前が見えなくなった。


 籠手の付いた左手で血を拭うと、蛇が、こちらを見下ろしていた。真っ赤な、双眸が俺だけを眺めていて、冷水に落ちたかのようにぞっとした。


「成程、面白い」


 蛇が口を開いた。悪魔が人間の言葉を話せるなんて、聞いたことがない。体が動かせなくなっていた。


「私に傷をつけたのはお前が初めてだ」


 淡々と、蛇の悪魔は言葉を紡ぐ。その目線と同じく、体温の無い声だった。


「その蛮勇の報いとして、お前を悪魔にしてやろう」

「な――」


 信じられない一言に、二の次が告げなくなる。

 そんな俺に構わず、蛇は俺の顔を尻尾で指差したまま、目を細めた。


「折角ならば、人間に戻れる条件も付けよう。そうだな……お前のことを、心から愛する者が現れた瞬間。そうしよう」


 何を馬鹿な。そう言おうとしたが、口の中は渇いていた。

 直後、蛇の血が垂れ落ちた胸が、熱を帯びた。焼き印を押し付けられたもんではない。この部分が、燃えているかのようだった。思わず、剣を手放してしまう。


 呼吸のままならない肺で、胸を見ると、銀の鎧を飲み込むように焦げ茶の獣毛が生え始めていた。咄嗟に引き抜こうと伸ばした手にも、同じ毛が――。

 なんだこれは。何が起こっている。困惑と混乱で回る頭が、重たくなった。内側からきりで穴を開けるように、角が生え始めている。


 体の肥大に耐え切れず、膝と両掌を地面に着けた。乱れた息を出し続ける口は、だんだんと前方に伸びていく。

 全てが変わっている。人間の形から、所々に鎧をはめ込んだような姿の大鹿へと。最初に変化のあった胸には、樹木が枝を伸ばしたかのような模様が浮かび上がっていた。


 そんな俺をよそに、蛇の悪魔は真横を通り過ぎていく。待て、と言いかけて振り返ろうとしたが、その場に倒れ込んでしまった。

 蛇の背中に、頭から尻尾の先まで一本の木が生えているような模様が刻まれているのを見て、俺は意識を失い……。






   ■






 はっと、目が覚めた。自分にとっては小さいベッドの上、ぼんやりとした視界に、毛むくじゃらの腕が入り込む。

 溜息を吐く。あれから三百年も経ち、あの瞬間の情景や気持ちを冷静に分析できるほどになっていても、この目覚めの悪さは変わらない。そう考えて顰めた顔のまま、人と同じ形なのに茶色い毛が付いた手を、開いたり閉じたりする。


 悪魔になってしまった俺は、王都を見下ろす丘の上に立っていた城に住み着いていた。当時、王族や貴族や従者など、城内にいた者たちは逃げ出したのか、人の姿は一切なかった。

 平屋よりも大きくなってしまったこの体を隠せるのは、ここだけだったなと、広々とした寝室を眺めて思う。ぼろぼろになった天蓋をすかして、朗らかな日光が差し込んでいた。


 朝、起きてから一番最初にやるのは洗顔だ。ベッドから起き上がり、屈みながらドアをくぐって、浴室へ入る。

 前日用意した桶の水に手を浸す前に、改めて自分の姿をひびの入った鏡で確認する。顔の形は間違いなくヘラジカだ。その分、赤い瞳だけが異様だ――他の悪魔も、同じような目の色をしていた。


 かつての騎士の証だった白銀の鎧は、剛毛に埋もれるようにだが残っている。服は破けてしまったのにも拘わらず。指で叩くと金属の硬さが伝わってくる。

 常に二本の足で立っている状態なので、自分の胸がよく見える。蛇の悪魔の血を受けて、一番最初に変化した胸には、やはり、黒い模様が樹木の茂った形で浮かび上がったままだ。


 洗顔の後は、服を着る。この城にも、俺が装着出来るほど大きな服はなかったが、何枚か集めて縫い合わせた……。母親を早くに亡くして、家事を一通りやってきた経験が、思わぬ形で生きたという訳だ。

 継ぎだらけで、上等だった布も随分ボロボロになってきても服を着るのは、ちょっとでも人間らしくいたいという思いの為だった。今度は、食事にする。


 城の庭に野菜をいくつか植えていた。以前にそれを収穫し、収めた倉庫からいくつか取って、台所で泥を落とす。人参とほうれん草を、そのまま食べる。

 この体になってから、植物しか食べられなくなった。歯の形ではなく、消化器官の変化なのだろう。料理もしていたが、ずっと昔に調味料や油がないため、諦めている。


 その後は、特にやることが決まっていない。外に出て畑の世話をするのか、掃除や洗濯をしようか……ちょっと思い返し、二階の書庫へ行ってみることにした。

 俺は元々読み書きは出来なかったが、この城に籠ってから、自分で勉強して覚えた。書庫の本もすべて読んでしまったが、時々読み返すこともある。


 書庫には大きな窓があり、そこに接するように机を置いていた。読書をする前に、窓の外を見る。丘の下には、小さな町があった。

 あの日、悪魔が街を破壊して去ってから、長い年月を得て、少しずつ人が戻り、王都だった頃よりも規模は小さくなったが、町が生まれていた。もう混じることは出来ないが、人の営みをこうして見るのが、俺は結構好きだった。


 そう、あの町に混じることが出来ない。城に悪魔が住み着いているという噂はいつの間にか広がり、時折聖職者が悪魔退治に現れるので、そのことは嫌になるほど、身に沁みていた。

 最初の頃は、聖職者だったら俺を人間に戻してくれるのかもしれないと、招き入れていたが、元は人間だと訴えると、聖職者は半狂乱となり、俺のことを「浄化」と言って消し去ろうとしてきた。


 反射的に逃げてしまい、別の部屋に入ってドアを閉めると、なぜか聖職者はそれを開けることが出来ない。鍵が付いていない部屋だというのに。

 根負けした聖職者は、結局何もせずに帰ってしまう……。そんなことを数回繰り返して、もう人間とは解り合えないのだと理解した俺は、誰が来ようとも、城を開けないと決めた。


「ん?」


 そんな回想を裏切るように、丘を登ってくる人の姿を見つけた。背の高い、黒い短髪に杖をついた男だ。旅人とは思えないような、上等な礼服を着ている。

 彼の姿をはっきりと見える所までくると、俺は息を呑んだ。そいつの瞳は真っ赤だった。今の俺と同じように。


 城には大きな鉄門がある。男はそれを押したり引いたりしても開けられないことに首を捻っていたが、杖を問の内側に差し入れると、今度は門をよじ登り出した。

 なんて無茶を、と呆れる俺の前で、門の一番上まで登った男は、ひらりと内側へと飛び降りた。再び杖を手に、城へと歩き出す男を見て、俺は興味が湧いてきた。


 玄関に着いた俺の耳が、コンコンと目の前の門扉を叩く音を捉える。このまま開けてしまいたい気持ちが強かったが、念のために外の彼へと声を掛ける。


「お前は聖職者か?」

「いや、真逆の者だ」


 低い声が食い気味で否定するのを聞いて、俺はドアを開けた。すぐ目の前に立つ男は、色白で、びっくりするほど精悍な顔立ちをしていた。その分、瞳の赤さが異様に目立つ。

 一方、男の方は俺を見上げて、ほおと吐息のような声を漏らした。俺の姿に驚いていないどころか、妙に感心した様子で、この胸に目を向ける。


「ああ、確かに。あいつの言う通りだったな」


 何やら一人で納得しているが、俺には話が見えない。だが、この声をどこかで聞いたことある気がする。

 記憶が浮かび上がってくるよりも先に、男が勝手に城の中へ入ってきた。あまりに堂々としていたので、止めるどころか、後ろに下がってしまう。ばたんと、ドアが閉じる音で、やっと我に返った。


「あんた、何者だ?」

「私の名は、アシュタロト」


 地を這うような低い声。まるで、蛇のようだと思った瞬間、記憶の奥底が光った。


「この姿では、信じられないだろうが……」


 彼は、おもむろに上着を脱ぎ棄てる。そのまま、シャツのボタンまで外し出した。

 いや、信じられるとかそういう話じゃない。分かっている。気付いている。焦げ付いた匂いと共に、知っている。


 シャツまで脱ぎ捨てた彼は、こちらに背を向けた。色の白い背中に刻まれたのは、木に似た文様。見覚えのあるそれに、何と言えばいいのか分からない。


「お前をその姿にした、悪魔だ」


 首だけ振り返りながら、アシュタロトはそう言い切った。






 


























































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