3.
「お前を愛してくれる人間を探しに、町に出てみたが、なかなか見つからなった」
アシュタロトがこの城に戻ってきたのは、すでに日が暮れ始めた頃だった。大きなテーブルを挟み、自分で作った巨大な椅子に座って、彼と向き合った俺は「そうだろうな」と呆れつつ相槌を打った。
報告した彼自身は、あまり表情は変わらない。しかし、皺と汚れが多くなった礼服を見て、色々と苦労したんだろうなと察せられた。
「どうやって探したんだ?」
「道行く娘に対して手当たり次第に、声を掛けてみた」
「警戒されただろ」
「いや、足を止める人間の方が多かったな。普段の姿では目立つからと、魔王様が人間の姿を与えてくれたお陰だ」
「……お前が男前だからだろ」
「そう言えば、なぜか頬を染める娘が多かったが、それはその所為だったのか?」
無表情のまま、不思議そうにアシュタロトは首を捻る。人間の姿を借りている彼には、その顔立ちの美醜の感覚がよく分からないらしい。
「それから、あの城に悪魔が住んでいるのを知っているかと尋ねた。全ての娘が、知っていると答えたぞ。お前は有名なんだな」
「嬉しくねぇよ」
「話が速いと、その悪魔が人間に戻るために、自分を愛してくれる人を探している、一度会っては見ないかと誘ってみた」
「随分正直だな」
「すると、全員が逃げ出してしまった」
「そりゃそうだ」
こいつと話していると、だんだんと頭が痛くなってきた。人間のことを知らなさすぎるとか、そういう問題ではない気がする。本当に、俺をこんな姿にしたあの悪魔なのだろうか?
額を抑える俺を見ているのに、アシュタロトは尚も語り続けた。
「しばらくして、悪魔の城へ誘う怪しい男がいると、聖職者たちが私を追い始めた」
「当然だな」
「魔王様からは、人間を傷付けることを禁止されている。そうなると、逃げるしかない。そうやって迷い込んだ路地裏で、私のことを匿ってくれた娘がいた」
「ふうん。物好きもいるんだな」
「彼女にも、お前のことを話した。すると、会いたいと言ってくれたのだ」
「え」
話半分に聞いていたら、予想外の方向に転がって行って、思わず頬杖をついていた姿勢を治す。そのまま立ち上がった俺をよそに、アシュタロトは自分の背後の扉を振り返った。
「入りたまえ」
大声で招かれて、この食卓のドアがゆっくりと開いた。おずおずと入ってきたのは、赤いワンピースに白のスカーフを頭に着け、僅かな花が入った籠を両手で持った、十代半ばくらいの小柄な少女だった。
「初めまして、スピキオ様。私は、ジルッダと申します」
堂々と自己紹介をするその少女。俺のことを全く怖がらないのは……その両目が、固く閉ざされているからであった。
俺は、こちらとジルッダを見比べていたアシュタロトを、小声で「ちょっと」と呼び込んだ。
「どうした?」
「彼女、目が見えないのか?」
「ああ。生まれつき盲目だと話していた」
「すみません。やはり、私はお邪魔でしたね」
アシュタロトにだけ聞こえるように話していたのだが、ジルッダから返答が返ってきて、飛び上がりそうなほど驚いた。耳が良いのかもしれないし、この体がデカい分俺の声もデカくなっていたのかもしれない。
「い、いや、そういう不満があるわけじゃあ……。流石に、予想外だったから、戸惑っただけで……」
「では、しばらくここに置いてもらえませんか?」
「ここに?」
「私の目は、明るいと暗いくらいしか分かりませんが、道具の形と物の位置を覚えたら、家事を普通の人と同じようにこなすことが出来ます。どうかお願いします」
「えっと……」
真剣に訴えるジルッダに、俺は先程までとは違う困惑を浮かべる。まるで、家政婦に立候補しているかのようだ。
俺を愛してくれる相手を探してきたのではないのか? そう言う意味合いを込めて、アシュタロトに視線を送ったが、彼自身はなぜか深く頷いている。
「会ったばかりで愛し合うのは困難だ。それは、人間も悪魔も同じだろう。しばらく共に暮らして、愛情を深めていけばいい」
「待て、お前はその間、どうするつもりだ?」
「私もここに滞在する。呪いが解けるようになるまで、協力は惜しまないから、安心するがいい」
「アシュタロト様、ありがとうございます」
気合の籠った視線を向けたアシュタロトに対して、ジルッダは満面の笑みを見せる。本人が口を挟む暇もなく、話がどんどん進んでいく。
この姿に変えられた瞬間にも感じなかったほど、頭が痛くなってきてしまった。だが、二人はまだ会話を続けて、この生活に必要なものを決めている。
「うむ。必要なものはそれくらいか。スピキオは、何か欲しいものは無いか?」
「もう、何でもいい」
「それ等はどこから持ってくるのですか? 町にまた降りるのですか?」
「いや。一度地の国に戻る。魔王様に言えば、用意してもらえる手筈になっているからな」
「なんでもありだな、魔王様は」
「別の部屋で、地の国への門を開いてくる。巻き込まれる可能性があるため、二人はここで待っているように」
「はい。お願いします」
それだけ言い残して、アシュタロトは食堂を出て行った。当然、ジルッダと二人きりになってしまう。
途端に、気まずさを覚えてきた。だが、ジルッダの態度は自然体のままだった。
「えっと、ジルッダ」
「何でしょうか?」
「本当に、俺のことが怖くないのか?」
「ええ。全く」
ジルッダは、俺の声がした方へ顔を向けて、小首を傾げた。俺の身長を把握しているようだが、それでも怖がる様子が全くない。
「アシュタロト様から、現在のスピキオ様は、ヘラジカの姿をしていると聞きましたが、私はヘラジカの姿を知りません。だから、怖いとかありません」
「けど、人間とはかけ離れた姿をしているんだぞ?」
「私は、人間の姿も見たことないんですよ。私にとって、世界の全ては見たことないもので出来ているので、全て怖がるわけにはいきませんよ」
「まあ、確かにそうなんだが……」
理解は出来るが、腑に落ちない気持ちで、毛むくじゃらの首の後ろを掻く俺に対して、ジルッダはくすりと笑った。
「スピキオ様の心まで、悪魔になったわけではないことは、お話をして分かりましたから、大丈夫ですよ」
「……その理屈だと、今は人間の姿をしているアシュタロトの方が恐ろしいってならないか?」
「ああ、そうですね」
突かれた矛盾に対して、ジルッダは斜め上を向いて、考えつつ口を開いた。
「アシュタロト様は、今変わろうとしているのだと思います?」
「変わる?」
「はい。……アシュタロト様が、路地裏に入ってきた時、私とぶつかってしまったんです。その時、『大丈夫か?』って、起こしてくれた上に、落ちた花も拾い集めてくれたので、信用しようと思いました」
「はあ、アイツがね」
俺の脳裏に浮かぶのは、町を、人々を蹂躙する巨大な白蛇の姿だけだった。嫌々ここに呪いを解きに来ているのだと思っていたが、それだけではないのだろうか。
「うまく言えませんが……アシュタロト様は、償おうとしているのかもしれません。その第一歩が、人間を知ろうとすることなのかも」
「……」
あんなことをしでかしたのに。その言葉は、彼女の前で吐けなかった。彼が償おうとも、奪われた命は戻らないことを、知っているのだろうか。
俺は段々と嫌な気持ちになってきたので、話題を変えることにした。
「なんか、着の身着のままでこっちに来た様子だが、出発の準備とかしなかったのか?」
「ええ。別れを告げるような、家族もいませんでしたから」
「あ、悪い」
明らかな墓穴を掘ってしまった。渋面を作る俺に、ジルッダはにこやかに首を横に振る。
「たった一人の家族だった母も、亡くなって八年以上経ちますから、もう悲しんではいられませんよ」
「その家事とかは、母親から教わったのか?」
「はい。私が一人でも生きて行けるようにと、手取り足取り、教えてくれました」
俺は、ジルッダの手を見た。古い切り傷や、小さなやけどの跡が、指に見受けられる。
「……大変だったんじゃないか?」
「そうですね。母はとても厳しかったので、怪我もたくさんしました。あの頃は、そんな母の厳しさを理解できず、反発心を覚えていましたが、今はとても役に立っていて、感謝しています」
慈しむように、ジルッダは自身の指を撫でながら答えた。
「スピキオ様はいかがですか? ご家族は?」
「俺も、母親は小さい頃に亡くしたな。父親は、騎士になった直後に亡くなって……ただ、騎士姿を見せられたのが、唯一の親孝行だった」
「父上様も、きっと喜んでくれたでしょうね」
互いの家族について、しみじみと語りあっている所に、ガチャリとドアが開いて、アシュタロトが入ってきた。杖とは別に、燭台を持っている。
「二人とも、暗くなっていたぞ。灯りは必要ないのか?」
「ああ、もう日が沈んでいたな。夜目が効く方だから、気にしなかった」
「そろそろ、お夕飯の準備をいたしましょうか? スピキオ様、お手を煩わせてしまいますが、台所まで案内してくれませんか?」
「いいぞ。こっちだな」
俺は、食堂のすぐ隣の台所まで、ジルッダとアシュタロトを率いて入った。短い距離だったとはいえ、ジルッダは躓くことなくついてくる。
「ここが台所だ」と言った先で、ジルッダは手探りをしながら、台所の形を把握していく。「こんな広い台所は初めてです」と驚く彼女に、今度は倉庫の野菜を手渡す。
「大きくて、立派な形の人参ですね」
「ここまで育て上げるまで、大分苦労したんだ」
「ほうれん草も、豆も言うことなしです。おいしく調理出来そうですね」
初めて農業を褒められて、すごく嬉しい。自分の姿を忘れて、この笑顔をジルッダに見せてあげたいとすら思ったくらいだ。
対して、アシュタロトは地の国から、パンや鶏肉、調味料など以外にも、この城の中では古くなって使えなくなっていた、調理器具や皿なども持ってきていた。ジルッダはそれを、アシュタロトに手伝ってもらって触れながら、その形を覚えていく。
「では、これからお夕飯を作りますので、お二人は別の部屋でくつろいでいてください」
「手伝わなくてもいいのか?」
「ええ。ご心配はいりません」
俺の気遣いも、はっきりと断られてしまったので、アシュタロトと台所を後にするしかない。ただ、言われた通りにのんびりしているわけにはいかなかった。
アシュタロトとジルッダの部屋をそれぞれ準備をしに、俺たちは向かった。どちらも二階の、俺が寝起きする部屋の両隣に決めた。
「ジルッダに声を掛けなくても良かったのか?」
「初めてここに来たんだから、ゆっくり休んでほしいだろ」
二人でベッドメイキングをしながら、そんな会話を交わす。一方、こいつには個人的に訊きたいこともあった。
「なあ、ジルッダは、路地裏の、人通りのない所で花を売っていたのか?」
「言われてみると、そうだったな。声掛けもせずに、一人でうろついている様子だった」
「じゃあ、あれは……」
言いかけて、はたと気付く。恐らくこいつは、「花売り」のもう一つの意味を知らないだろう。それに、ジルッダが話していないのなら、俺の方から言うべきではない。
「何でもない」と首を振って、別の尋ねたいことをぶつけてみることにした。
「朝に、俺には閉めた物を開かせない能力があると話していたな? それは何だ?」
「悪魔全員には、その一体一体に異なる能力が宿っている。例えば、私には自分の血が掛かった人物に、任意の呪いを掛ける能力がある。他にも、口から火を吐く能力、体の丸い模様から水を噴き出す能力、奪いたいと思った何かに触れられる能力……多種多様だが、一つとして同じものはない」
「じゃあ、お前は、自分の血がかかっていない奴には、呪いを掛けられないのか」
「その通り。能力には、必ず条件が付いている。お前の場合だと、」
そう言いつつ、アシュタロトは持ち込んだトランクを一度開けた。中に、服が詰まっているのを見せてから閉じ、俺に投げてよこす。
「それを一度、開けてからまた閉めるほしい」
言われた通りにして、返す。すると、アシュタロトが押しても引いても、トランクは開かない。俺が、朝に言われたように、トランクが開く瞬間を想像すると、今度は開くことが出来た。
「お前自身の手で閉めること。それが、お前の能力が発動する条件だ」
「なるほどな。ところで、今のお前は人間の姿だが、能力は使えるのか?」
「ああ。今の姿でも瞳が赤いだろ? これは、能力の源である魔力が、ここに宿っている証拠だ」
すると、俺がやけを起こして、お前をこの角で刺し殺しても、血がかかってしまった時点で、新たに呪われてしまうということか。……確認はしないが、心の内で呟く。
ジルッダに頼らずとも、呪いを解く方法はないかと考えていたが、アシュタロトに手を掛けることは、事態を悪化させる可能性がある。心から愛してくれる誰かだけが、俺を人間に戻せないのか。
「そうだ。お前の新しい服も、魔王様からもらってきたばかりだった。着てみるか?」
「俺の体が入るのか?」
「当然だ。加えて、人間に戻った時は、その体型に合わせてくれるという機能も付いている」
やけに自慢するように、アシュタロトは説明しながら、もう一つのトランクを押し付けてきた。この中に、俺の服が入っているようだ。
押しつけがましいが、服が手に入るのは素直に嬉しい。俺は、自分の部屋で、シャツとベストを身につけた。最初は少し小さい気がしていたそれらも、俺の体型に合わせて変化するのか、するすると着れた。
「スピキオ様、アシュタロト様、ご夕飯ができました」
二つ分の部屋の掃除が終わった頃、下の階からジルッダの声が響いた。降りてみると、彼女はすでに食堂にいて、テーブルの上に料理を並べていた。……流石に暗くなっていたので、室内の蝋燭を灯して、料理を見る。
テーブルの上に並ぶのは、人参と鶏肉を煮込んだスープ、豆とほうれん草のサラダ、白いパンだった。ただ、料理と食器が二人分なのが気になる。
「どうぞ、お掛けになってください」
「有り難いが……ジルッダの分は?」
「私は、台所でいただきますので」
「そんなこと言うなよ。気兼ねなく、三人で食べよう」
「そうだ。これから番になるのだから、気を遣う必要はない」
俺の気遣いを上塗りするように、アシュタロトはとんでもないことを口にする。俺が呆れ顔を向けても、ジルッダが赤い顔をして俯いても、言った側は涼しい顔をしていた。
ぼそぼそと、「じゃあ、取ってきますね」とだけ言って、ジルッダは食事を運ぶようのワゴンを押して去って行った。
「お前、もうちょっと情緒を感じ取ってくれよ」
「何だ。事実を言ってはいけないのか?」
やはり不可解そうに、彼は首を傾げる。ジルッダと俺との間に、こいつがいることが、よい方向に働くのかどうかが、分からなくなってきた。
自分の食事を持ってきたジルッダも共に、いただきますと挨拶をして、食事を開始した。数百年ぶりの、温かいスープ。胸がいっぱいになりながら、それを口にしようとした瞬間だった。
「……旨い」
先に感想を言ったのは、アシュタロトだった。表情は乏しくとも、目だけが感激のあまり、輝いて見える。
「野菜が入った水がこんなに旨いのか。いや、私の舌が、人間と同じになったために、こう思うのか?」
「ありがとうございます。アシュタロト様、正直なんですね」
くすりと笑うジルッダの前で、アシュタロトはスプーンを使うのももどかしくなったのか、皿を持ち上げて、直接喉に流し込み始めた。
そこまでかと呆れつつ、俺もスプーンで飲む。素朴な味が、温かさと共に五臓六腑に染み渡るようだった。
「旨いなぁ。三百年ぶりとか関係なく、旨い」
「ありがとうございます。お二人とも、褒めるのが上手ですね」
「本心だぞ」
「その通りだ」
俺とアシュタロトの真剣な眼差しを受け取ったのか、ジルッダも微笑んで頷いた。
「厳しかった母ですが、私の料理だけは掛け値なしに褒めてくれたんですよ。最近はずっと一人で作って食べていたので、それを思い出しました」
「そこまで得意のなら、料理人になればよかったのにな」
「そうですね」
アシュタロトの正直すぎて迂闊な一言に、ジルッダは寂しそうに笑うだけだった。俺は、キリキリと胃を痛めながら、ジルッダに描けるべき言葉を必死に探す。
「これからは、なんも気にせず、好きなように料理を作ればいいからな」
「はい。ありがとうございます」
「スピキオ。お前、鶏肉は食えないのか」
「お、お前は……」
俺のスープ皿を見ながら呟いたアシュタロトを、鋭く睨む。だが、彼は全く気にせず、俺の皿から鶏肉を掬い取った。
「体は草食の動物なのだから、仕方ない。何を恥じているんだ」
「別に恥じているんじゃなくてな……」
「いいんですよ。次からは、お肉が入らないようにします」
可笑しそうに笑いながら、ジルッダはそう返してくれた。俺は、彼女が怒っていないことにほっとする。
そうして、俺たちが初めて三人で過ごす夜は、意外と穏やかに過ぎて行った。
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