éclosion

朧(oboro)

羽化

 兄がようよう羽化の時を迎えた。


 二つ上の兄は今年で十九になった。羽化には遅い年齢だ。俺が十五で羽化をした時には、兄は幼生成熟も覚悟すべきかもしれないと両親が真夜中の居間で話していたことを覚えている。俺もそれを聞いてなんとなくそういう心づもりでいたものだから、兄に羽化の兆しが見えた時には喜びや驚きと言うよりどこか肩透かしを食ったような気分だった。


 兄は一昨日から大学を休み、羽化に備えている。大学生が羽化で休みを取れるとは知らなかったが、休めるということは前例が無いではないのだろう。成熟に足る年齢を超えてから羽化する、兄のような例が。


 ――だからどうした、と呟いては嘆息する。


「おかえり」

「……ただいま」


 階段を上がる足音を聞きつけてか、兄が自室から顔を出して笑う。その左頬から首筋にかけてははだが白く濁ったようになっており、いよいよ羽化が間近であることを思わせた。


「だいぶ進んだな」

「うん、もう今夜あたりだと思う」

「そうか」

「手伝ってくれないか、今夜」

「……どうして」

「金曜だから、お前も明日休みだろう」

「そうじゃない」

「羽化はお前の方が先輩だからさ、心強いと思って」


 なあ、頼むよ。兄の身長は俺より少し低い。困ったような微笑で覗き込まれ、俺は再び嘆息した。


「上手くできるかどうかは分からないからな」

「うん、それでもいい」

「文句は言うなよ」

「ありがとう」


 自室の扉を閉め、三度嘆息する。俺はどうにも兄に甘い。自覚はある。覗き込むような困り顔。ひとつかぶりを振り、本棚に羽化の教本が残っていないか探し始めた。




 兄は夕食にも来なかった。盆を携えてドアを叩くと曖昧な声が応える。


「入るぞ」


 兄は気怠い様子でベッドに横たわっていた。皮膚の濁り、すなわちからの浮き上がりはほとんど顔全体に及んでいる。もう間もなくであろう。


「これ、夜食。先に食べるか」

「うーん、後にする」

「起きられるか」

「うん」

「手を貸すから床に座れ」


 動きのぎこちない兄を支え、床のクッションに座らせる。ベッドでもいいのだろうが、俺が手伝うのであれば周りに何も無い方がやり易かった。


「脱げるか」

「大丈夫」


 兄が部屋着のシャツを脱ぐ。羽化を迎えない兄の背中は、まだ少年のかたちをしている。


「なんか、懐かしいなあ。昔はお前と二人で風呂も入ったよな」

「何年前の話だよ」

「十年ちょっとか」


 裸の肩がくすくすと揺れる。


「あの頃は俺の方がお前を脱がせてやってたのにな。お前の方が先に羽化するなんて、思ってもなかった」

「俺も兄さんの羽化を手伝うとは思ってなかったよ」

「お互い様か」

「その言い方はどうかな」


 一糸まとわぬ兄の背、背骨に沿って淡い亀裂が入り始めていた。肩甲骨の辺りには羽翅はねの収まっているのであろうなだらかな膨らみも見てとれた。長くからの下にあった兄の羽翅はねは果たして正しく広がるのだろうか。ふと不安になる。


「膝を抱えて、背中を丸めて」

「こう?」

「そう――」


 上手、という言葉をどうしてだか呑み込んだ。


「もう少し」


 ぱきぱきと微かな音を立てて兄の背が割れる。身をよじり、亀裂を広げ、兄の新しいはだあらわになっていく。まだ白く、柔らかいはだだ。


「手伝う、動くなよ」


 背の割れ目、はだからの隙間に指を入れ、はだには触れぬよう慎重にからを持ち上げていく。羽化したばかりの身体は柔らかい。指が触れただけで裂けることも崩れることもある。肩甲骨の間からうなじへ上がり、腰の辺りまで下りて、それからもう一度、肩甲骨の間を大きく広げる。からの浮いた隙間に手のひらごと挿し込み、背中の幅まで開く。畳まれた羽翅はねが花のほころぶように震え、少し安心した。


「腕を上げて」

「ん」

「痛んだり引きれるところはあるか」

「右の、肩のあたりが少し」

「わかった」


 盆に載せて持ち込んでいた深皿に微温ぬるい湯を注ぎ、タオルを絞る。右肩の、濁りが浅い辺りに乗せる。


「他にもあったら言え」


 羽翅はねが広がり始めたら後ろには居ない方がいいだろうと兄の左側に回る。


「こっちは大丈夫そうだな」


 左手から肩まで、からは充分に浮いているように見えた。指の又をひとつずつ揉む。


「ゆっくり抜いて」


 指先と肩口を軽く押さえて促す。ず、と手のひらが抜けて、そのままずるずると兄の左腕はからから抜けた。生白い腕を兄は物珍しそうに蛍光灯にかざす。


「顔、剥がすぞ。目をつぶれ」


 うなじに手を回して亀裂に指を掛け、首から顔へ剥がしていく。顔はよく動かすからからも浮きやすいが、造形が細かい分だけ残りやすくもある。右の瞼に引っ掛かってしまったからを恐る恐る指先で剥がした。耳と頭に残ったからは後で風呂に入って自分で取れと言いつける。


「やってくれないのかよ」

「下手したら一生丸坊主だぞ、いいのか」

「それはちょっと嫌だな」


 冷めてしまった右肩のタオルを外し、引き攣りが無いか確かめさせて同じようにからを脱がせる。両腕と顔が脱げれば上半身は終わったようなものだ。左腕は生白なまじろさも落ち着き、新しい皮膚が定着しつつあった。


「腰周りは自分でやれよ」


 絞り直したタオルで足の指を揉んでやりながら声をかける。上半身が終わって加減が掴めたのか不安が無くなったのか、兄はすんなりと腰周りのからを自分で脱いだ。足も充分にからは浮いているし、もう手伝いもいらないだろう。


「……なあ」

「どうした」

「なんか……背中? が、ちょっと変、かも」


 背中のからなら最初に全て剥がしたはずだ。兄の肩越しに背中を覗き、俺は言葉を失う。


 右の下羽翅したはねが広がりきっていなかった。


 羽化を超えて透き通り始めているにも関わらず、羽翅はねの先はくしゃりと畳まれたまま白く濁っている。羽化不全、の言葉が頭をぎった。


羽翅はねが――」

「ああ、これ羽翅はねなのか」


 きし、と羽翅はねが揺れる。


「……なんとかなる?」

「でも、羽翅はねは」


 羽化したばかりの身体は柔らかい。そして羽翅はねは輪をかけて柔らかく、脆く、取り返しがつかなかった。


「駄目で元々だから」

「そうかもしれないけど」

「お前ならいいよ」


 兄の目が真っ直ぐに俺を見た。


「俺は、いいよ。お前なら」


 誰にも言わないから。


 囁くように、噛んで含めるように。言われて俺は唇を噛み、兄の背中に回る。気休めと分かりながら指先を湯に浸し、せめて傷をつける可能性が低くなるようにと祈る。


「動くなよ、絶対、絶対に動くんじゃないぞ」


 震える手で兄の羽翅はねに触れた。八重咲きの薔薇のように折り重なったひだを少しずつ解きほぐす。


 指が震えるのは傷つけるのが怖いばかりではなかった。

 全く逆の、を必死で抑えているせいでもあった。


 兄の、白く柔いはだを。

 折り畳まれたままの羽翅はねを。


 鷲掴みにすれば、ほんの僅か爪を立てれば、たったそれだけで取り返しのつかないほど兄を傷つけることができる。今ならそれができる。自分ならそれができる。そんな感情が心のうちに渦を巻いていた。それが怖くて仕方がなかった。


 自分が、この指にほんの少し力を入れさえすれば。

 そんな妄想を押し留めてゆっくり、ゆっくりと丸まった羽翅はねの先を開いていく。乾ききっていなかったことが幸いしたようで素人の手でもどうにかなりそうだった。あともう少ししわを開けば、


「あ、開いた?」

「あ――」


 ぱり、と。

 微かな音を立てて。


「馬鹿……っ!」


 急に振り向いた兄の動きについて行けず。

 俺の指は兄の羽翅はねを僅かに裂いてしまった。

 指の間に乳蛋白石オパールめいた遊色をはらむ破片が残される。


「だから、だから動くなって、あれほど……」


 もう取り返しはつかない。

 羽化の際に傷ついた羽翅はねは、一生治ることはない。


「え? ごめん、ああ――」


 首をひねり、感覚が分かってきたらしい羽翅はねを動かして兄は事態を把握する。右の下羽翅したはねの先は欠け、その周りは小さく波打つように歪んでいた。


「いいよ。元から開かなかった羽翅はねだと思えば」

「でも」

「いいって言っただろ、お前なら」


 言って、兄はまだ透き通りきらない羽翅はねを大きく広げた。


「これで一生ものだな、お前の指の痕」


 含み笑いを浮かべる兄の横顔は、羽化を終え、もう少年のかおではなかった。

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