16年前のあの人から届いた葉書

春風秋雄

1枚の葉書が俺のエンディングノートを書き変えた

葉書に書かれている短い文章が頭から離れなかった。3日前にこの葉書が届いてから、もう何十回も手にとり見ている。そこには『7月26日、主人が身罷りました』とだけ書かれていた。7月26日なら3ヶ月も前だ。これは単なる報告なのだろうか、それとも・・・。


私は吉川明人。いつのまにか、私も52歳になっていた。このまま生涯独身を通すつもりでいる。親が残してくれた家は、古いが住むには困らない。まだ10年や15年は働くつもりだが、体が動かなくなれば、この家と土地を売って老後施設に入るつもりでいる。人生のエンディングストーリーをそう決めていたのに、この葉書が届いたのだ。


葉書の差出人、白石陽子と、その夫、健造さんの二人に出会ったのは16年前だった。当時私は、14年間身を粉にして働いた会社を辞めて心身ともに疲れきっていた。温泉にでもつかって、全てを忘れようと、ひとりで長野県の温泉に来ていた。その温泉旅館で知り合ったのが白石夫妻だった。

私が露天風呂につかっていると、後から入ってきた男性に声をかけられた。

「ご夫婦で来られているのですか?」

男性の屈託のない問いかけに私はごく自然に応えた。

「いえ、私は独り身なものですから、気ままな一人旅です」

「そうですか。平日に優雅に温泉につかっていらっしゃるから、新婚旅行か、結婚記念日か何かで有給休暇をとって来られているのかと思ったものですから」

「そうですよね。私のような若輩者が平日に温泉旅館に来るのはおかしいですよね。実は、色々あって会社を辞めたばかりなものですから、時間だけはあるので、心身ともにリフレッシュしようときているのです」

「そうですか。仕事なんか、何度でもやり直しができます。自分に合わない仕事にしがみ付いている必要はないですからね」

男性は40代半ばと思われる風貌で、落ち着きがあり、それこそ平日に温泉につかっているくらいだから、物書きの仕事でもしている人かと思った。男性は奥さんと二人で来ているらしい。男性は静岡県の清水から来ているのだと言う。私は神奈川県の藤沢からだと言うと、お隣の県ですねと言って、親しみを込めた目で笑った。

しばらく雑談したあと、そろそろ出ますと言って立ち上がった私に男性が声をかけた。

「もしよろしければ、夕食を私の部屋で一緒に食べませんか?」

「でも、奥さんとご一緒なのですよね?」

「うちはかまいませんよ。妻も私と二人より賑やかい方が喜びます。無理にとは言いませんが、せっかくの料理、ひとりで食べるのは寂しいのではと思いましてね」

私は一瞬考えたが、確かにひとりで食べてもつまらない。せっかく知り合えたのだし、ご一緒させてもらおうと考えた。

「では、お言葉に甘えて、お一緒させて頂きます」

「そしたら、おたくの料理を私の部屋に運ばせます。料理は何か特別なものを頼んでいらっしゃいますか?」

「いいえ、通常プランの料理です」

「わかりました。私は白石と言います。412号室です」

「412号室ですね。私は吉川と言います。301号室です」

フロントには念のため両方から確認の連絡をすることにし、6時に白石さんの部屋へ行くことにして風呂から出た。


6時ちょうどに412号室の呼び鈴を鳴らすと、白石さんの奥さんがドアを開け出迎えてくれた。その顔を見て、用意していた挨拶の言葉が出てこなかった。まさか白石さんの奥さんが、これほど綺麗な人だとは思わなかった。そして、想像していたよりもはるかに若い。ちょうど最近見たドラマで女医役をやっていて、素敵な女性だなとファンになった夏川結衣に雰囲気が似ていた。

「吉川さんですね。お待ちしてましたよ」

奥さんは、そう言って私を中に案内した。私の301号の部屋は和室一間だが、412号の部屋は和室の座敷と洋室の寝室がある部屋だった。寝室はツインベッドだった。夫妻は浴衣に旅館羽織の姿だった。私は私服のままだったので、私も浴衣に着替えてくれば良かったと後悔した。座敷のテーブルを見ると、すでに料理は並んでおり、中央にお造りの船盛が置いてあった。私が「これは?」と聞くと、白石さんが

「せっかくだから船盛を追加で注文しました。支払いはうちが持ちますので心配なさらないでください」

そう言って私を座らせた。

料理はどれも美味しく、お酒も進んだ。白石さんは46歳で、小さな会社を経営していたが、この度引退して大学を卒業したばかりの息子さんに跡を継がせたのだという。

「そんな大きな息子さんがいるのですか?」

不思議に思い、私は奥さんを見ながら言うと

「ああ、息子は先妻の子です。先妻とは離婚して、その後陽子と結婚したのです」

と白石さんが応えた。

奥さんは陽子さんと言うらしい。年は34歳ということで、俺より2つ年下だった。

46歳で引退はいくらなんでも早過ぎないかと言うと、

「病気をしましてね。毎日会社へ行くのは難しくなったものですから、それで息子に無理を言って継いでもらったのです」

白石さんは腎臓を患っているらしく、この旅行から帰ったら透析が始まるらしい。透析は1回4時間かかり、それを週に3回行なうので、今までのように仕事をするのは無理だということだ。

「もう旅行もできなくなるかもしれないので、最後に陽子との思い出のこの温泉にきたのです」

「思い出の場所なんですか?」

「会社のメンバーでスキーに来ましてね。当時入社間もない陽子に惚れてしまったのです。いわゆる不倫というやつですね」

白石さんはそう言って笑った。

「私も学生時代にスキーで友人とここに来ました。とても楽しかった思い出があるので、今回心身のリフレッシュでここを選んだんです。ここは雪のない季節も良いですね。」

「吉川さんは何か趣味はあるのですか?」

陽子さんが聞いてきた。

「絵を描くのが好きで、下手ですけど暇を見つけては描いています」

「ほう、良い趣味ですね」白石さんが関心したように言った。

「ここに来てからもスケッチしていました」

「是非見せてもらいたいですわ」

陽子さんが興味深々という目でそう言った。

「とんでもない。人に見せられるようなものではないですから」

白石さんは、それほどお酒は飲まない。病気でとめられているのかと聞くと、少量であれば問題ないと言われているが、もともとお酒は強くなく、少量で酔って寝てしまうらしい。逆に陽子さんはお酒が好きらしく、私に付き合って日本酒をグイグイ飲んでいる。陽子さんは明るく、楽しい女性だった。浴衣からのぞく白いうなじに妖艶な色気を感じる。私はこの短い時間の中で、陽子さんにどんどん惹かれている自分に気づいた。こんな素敵な奥さんを持っている白石さんがとても羨ましく思えた。不倫の果て、前妻と別れて一緒になった気持ちがよくわかる。

8時くらいになり、そろそろお開きにすることにした。私も白石夫妻も明日まで宿泊予定なので、明日の夜も一緒に食べようということになった。


一旦部屋に戻ったが、暇をもてあましたので浴衣に着替え、1階のお土産物売り場をうろついていると、エレベーターから陽子さんが降りてきた。タオルを持っているので、大浴場へ向かうのだろう。

「先ほどは船盛ご馳走さまでした」

「とんでもないです。とても楽しかったです」

「これからお風呂ですか?」

「主人は寝てしまったので、もう一度入ろうかなと思って」

「よかったら、これから私の絵を見にきませんか?」

私は陽子さんと少しでも一緒にいられたらと、思わず言ってしまった。

陽子さんは一瞬ためらったが、

「じゃあ、少しだけお邪魔しようかしら」

と言って着いてきた。

部屋のドアを開け館内スリッパを脱ぎ、戸襖を開けると布団が敷いてあった。それを見て陽子さんは一瞬立ち止まった。

私は中に入り「こちらへどうぞ」と、隅に寄せられた座卓に促すと、ようやく中に入り、素直に座った。

スケッチブックを持ってきて、この温泉に来てから描いたページを開いて見せた。陽子さんは「すごい。お上手なんですね」と言いながら、スケッチブックをめくり他の絵も見ている。私はお茶を入れ陽子さんの前に置いた。座卓は隅に寄せられているので、座椅子が並べられており、私は陽子さんの横に座っている。

「白石さんの透析は大変ですね」

陽子さんはスケッチブックから目を離し、私を見た。

「もうかなり前から覚悟していましたから」

腎臓病だとわかったのは3年くらい前だとのことだ。目の調子が悪いと眼科へ行ったら、内科へ行けと言われ、内科で検査したら腎臓が悪いと言われたらしい。その時から近い将来、透析は覚悟しておくように言われたそうだ。今年の春過ぎになってから数値が思わしくなく、透析の可能性が高まってきた。そこで、離婚後、前妻について行った息子さんに連絡をとり、跡を継いでほしいと口説き、息子さんは入社した会社を辞め、6月から家に入って昼も夜も親子で仕事の引継ぎをしたとのことだ。そのとき、陽子さんは息子さんから「なんで、もっと早く気づいてやれなかったんだ!」と怒られたらしい。

陽子さんはその時のことを思い出したのか、涙をこぼし泣き出した。陽子さんは泣きながら

「気づけなかった私も悪いかもしれないけど、あの人、それまでの数年、ほとんど家に帰ってなかったんです」

先ほど、仲むつましい二人を見ていた私は、その言葉が意外だった。

「外に女を作っていたみたいで、全然家に帰ってこなかったくせに、病気になった途端に女にすてられたのか、私を頼るようになって。何て身勝手なんだろうと思ったけど、前の奥さんの手前、私も見捨てることはできなくって」

背中を震わせながら泣く陽子さんに、私は何も言えず、そっと背中をさすってあげることしか出来なかった。

陽子さんは、それ以上の言葉は発せず、ただむせび泣いた。しだいにその体は私にしなだれかかってきた。私は両手で陽子さんを包み込むように抱きしめた。

しばらくすると、陽子さんは少しおちついたのか、私の腕の中で顔をあげた。涙に濡れたその瞳が、私の目と絡む。薄く開いた唇がわずかに動いたのに反応するように、私は何も意識することなく自然な動きでそれを自分の唇で覆った。長い、長い、キスだった。

唇を離し、私が「陽子さん」と呼びかけると、

「ごめんなさい。私取り乱しちゃって」

「陽子さん」

私は再度呼びかける

「もうお風呂へ行って帰るわ。主人が起きているかもしれないし」

陽子さんは、そう言って立ち上がり出口へ向かう。

その背中に私はもう一度呼びかける。

「陽子さん、今日会ったばかりですけど、私は恋に落ちてしまいました。陽子さん、あなたに」

陽子さんは一瞬立ち止まった。そしてゆっくり振り返り

「明日の夕食、楽しみにしてますね」

そう言って部屋を出て行った。


翌日の昼間、私は陽子さんに会えないかと、館内をうろついたり、旅館の周りを散歩したりした。しかし、白石夫妻は部屋に閉じこもっているのか、どこかへ出かけたのか、陽子さんの姿を見ることは出来なかった。私は外に出る事はやめて、部屋の中で絵を描き続けた。すべて陽子さんの絵だった。


6時に浴衣に旅館羽織の格好で412号の部屋を訪ねた。陽子さんは昨日のことは何もなかったかのように接してきた。今日は船盛ではなく信州牛のステーキが追加料理で並んでいた。信州牛の話の流れで、静岡県の食べ物の話になった。

「静岡はお茶やみかんだけでなく、美味しいものがたくさんありますよね?」

「色々ありますよ。生しらす、桜えび、黒はんぺんなどは、他ではなかなか食べられないですからね」

「桜えびは、どこでも売っているのではないですか?」

「それは乾燥させたやつでしょ?生の桜えびが美味しいのですよ」

「桜えびを生で食べるのですか?」

「そうですよ。桜えびは生が一番ですよ」

「へえ、食べてみたいなあ」

「ちょうど秋漁が始まっていますので、送りましょうか?」

「いやいや、申し訳ないですから。今度静岡に行ったときに食べてみますよ」

「桜えびは春と秋しか漁をしないので、時季を逃すと食べられませんよ」

そう言ってくれたが、私は遠慮しておいた。


8時になると、昨日と同じようにお開きとなった。私は、一旦部屋に戻ると、昨日と同じように1階のフロアーでウロウロしていた。時折エレベーターの方を見て、陽子さんが降りて来ないか待った。15分くらいしてから陽子さんが昨日と同じようにタオルを持って降りて来た。すぐに私に気がついたようで、立ち止まった。それを見て私は近寄った。

「今日も新しい絵を描きました。見にきませんか?」

陽子さんは、じっと私の目を見つめていたが、わずかに頷いた。

昨日と同じように並んで座椅子にすわり、スケッチブックを開いて渡した。

「これ、わたし?」

「陽子さんを描いてみました」

陽子さんは、今日私が描いた4枚の絵を何回もめくりながら見ている。

「わたし、こんなに優しい目をしているかしら?」

「私は、陽子さんの優しい目が好きです」

「うれしい」

陽子さんは絵を見ながらつぶやいた。

私は、そっと陽子さんの肩に腕をまわした。陽子さんは抗うことなく身を任せている。腕に力を入れ引き寄せると、陽子さんが私の顔を見た。その唇に顔を近づけると、陽子さんは目をつぶった。昨日より激しいキスをしながら、私は旅館羽織の紐を解く。羽織を脱がせ、浴衣の帯を解くと、陽子さんは私の背中に手を回してきた。陽子さんの浴衣を脱がせながら、私たちはもつれるように布団に移動した。


「こんなことをしたのは、久しぶりだったわ」

「ご主人とは?」

「病気になってからは機能しなくなったの。色々薬も試したみたいだけど、効果なかったみたい。女に捨てられたのはそれも原因でしょうね。まあ、どっちにしろ、それ以前からほとんど私には手を触れなかったけどね」

「陽子さん、離婚して、私と一緒になってくれませんか?」

陽子さんは不思議なものでも見るように私の顔を見た。

「私たち、昨日会ったばかりなのよ?」

「私は本気です。本当に好きになってしまったんです」

陽子さんは、私の腕の中で天井を見ながら黙ってしまった。私は陽子さんが何か言うまで豊かな胸を優しく撫でながら待った。

「ありがとう。でも、このことは旅の楽しい思い出にしましょう」

「陽子さん、これから先は苦労することが見えているじゃないですか」

「たぶん、そうでしょうね。でも、私は前の奥さんからあの人を奪った形になっているの。前の奥さんも、息子さんも、私を怨んでいると思うわ。そんな私が、あの人が病気になったからと見捨てるわけにはいかないの」

「陽子さん・・・」

「色々ありがとう。良い思い出になったわ」

陽子さんはそう言って、私に優しくキスをして起き上がった。

「陽子さん、携帯の連絡先を教えてください」

「それはダメ。明日チェックアウトしたら、それでお別れにしましょう」

陽子さんが身繕いをして、部屋を出て行くのを、私は何も言えず見送るしかなかった。


翌日チェックアウトをして、白石夫妻が出て来るのをロビーのソファーで待った。ほどなく夫妻がチェックアウトに出てきた。

「白石さん、この度は色々お世話になりました」

「いいえ、こちらこそ楽しい旅になりました」

白石さんの横で陽子さんは黙って私を見ていた。

「それで、昨日言っていた桜えび、やっぱり食べてみたいので送ってもらってもいいですか?お金は出しますので」

「お金なんかいいですよ。だったら、送付先を教えてくれますかね」

「じゃあ、ここにお願いします」

私はそう言って用意していたメモを渡した。

「陽子、これを預かって、帰ったらすぐにでも手配してあげなさい」

白石さんはメモを陽子さんに渡した。陽子さんはそのメモを見て私を睨むように見た。メモには住所と携帯電話の番号を記していた。


白石夫妻は車で来ていた。私は電車で来ていたので、旅館の送迎バスで駅まで向かう。駅まで車に乗せてくれないかと期待したが、陽子さんが「もう行きましょう」と急かし、夫妻を乗せた車は去っていった。

結局、陽子さんは、一言も私に言葉を発しなかった。


1週間もしないうちに桜えびが送られてきた。桜えびは確かに美味しかった。それよりも、私が欲しかったのは、荷物に貼ってある送り状だった。そこには差出人である白石さん宅の住所が記載されていた。

私は、長野から帰って以来、夢のような二日間を思い出していた。これほど好きになった女性は生まれて初めてだった。

1ヶ月近く経ったが、陽子さんから電話がかかって来る事はなかった。私は車のナビに送り状に書かれていた住所を入力し発車させた。失業保険がもらえる間は再就職をする気がなかったので、時間はいくらでもある。2時間足らずで清水インターを下りた。ナビの指示に従って車を進めると、15分くらいで白石という表札をみつけた。まだ新しい立派な家だった。私は近くのコインパーキングに車をとめ、徒歩で玄関が見える位置まで戻り待った。家の駐車場には車が2台とまっている。1台は旅館で見た車だ。もう1台の赤い車は息子さんか陽子さんが利用している車だろう。

刑事でも探偵でもない私に長時間の張り込みは無理だった。時々その辺を散歩したり、近所のカフェで休憩しながら見張っていたが、3時間が限界だった。その日は陽子さんの姿を見る事はできず、そのまま帰った。翌日もう一度清水へ行った。昼前に行けば買い物などで陽子さんが出かけるのではないかと考え、昨日よりはるかに早い時間に出た。その日は駐車場の車は2台ともいなかった。ひょっとしたらもう買い物に出かけたのかもしれない。小一時間ほど待つと赤い車が戻ってきた。私は胸がドキドキした。運転席から買い物袋を提げた陽子さんが降りてきた。他に人は乗ってないようだ。私は急いで近づいて声をかけた。

「陽子さん」

私の声に振り向いた陽子さんは驚いた顔をして固まった。その顔は少し疲れた顔をしていた。

「どうして?」

「ちょっと話したいんだ」

陽子さんは周りを見渡した。誰かに見られたくないのだろう。

陽子さんは手を大きく伸ばし左側を指差しながら言った。

「この先を真っ直ぐ行った左手にファミリーレストランがあるから、そこで待っていて」

そう言うと家の中に入っていった。近所の人に見られたとしても道を聞かれたとしか見えないだろう。

ファミリーレストランの一番奥の席で待っていると、20分くらいして陽子さんが現れた。

「どういうつもりなの?これじゃあストーカーじゃないの」

「ごめん。でもどうしても会いたかったんだ」

「私には私の生活があるの。それをわかってよ」

「でも陽子さん、すごく疲れた顔をしている」

陽子さんは、あれから化粧を直し髪も整えて来たのだろう。それでも顔には何とも言えない疲れが見て取れる。

「吉川さんの気持ちはうれしい。本当は私もすべてを放り出して、あなたに着いていきたい。でも、それはできないの。わかって」

「私は、あの日以来、陽子さんを思い出さない日はなかった」

陽子さんは黙って私の目をみていたが、小さくつぶやいた。

「私だって、そうよ」

「この先、もし、陽子さんが離婚することがあったら、それが10年先でも20年先になってもいいから、教えてほしい。そのときは、すぐに迎えにくるから。それまで私は結婚しないから。それを伝えたくて来た」

陽子さんは、涙ぐみながら聞いていた。

「私がずっと離婚しなかったら?」

「その時は生涯独身でいます」


会計を済ませ、駐車場へ向かおうと歩きだすと陽子さんが小さな声で

「1時間だけ・・・」

と言った。聞き取れなかったので聞き返すと

「最後に1時間だけでいいから、誰もいないところへ私を連れて行って」

私は車を走らせ、清水インターの近くで見たラブホテルへ向かった。


陽子さんに会ったのは、それが最後だった。年賀状だけは毎年やりとりした。私の年賀状には健造さんが見ても何も思わない程度に簡単な近況を手書きで添えた。白石さんから送られてくる年賀状は裏も表も印刷されたもので、手書きのものは何も添えられてなかった。


あれから16年になる。昔を思い出していた私はナビの指示に従って清水インターを下りた。白石の表札のある家の前に車を止め、インターフォンを押す。

「はーい」

陽子さんの声だとわかった。

「吉川といいます」

インターフォンの向こう側からは何も応答がなかった。数秒間沈黙が続いたあとインターフォンは切れた。そしてドアが開いた。

「来てくれたんだ・・・」

「約束したじゃないですか」

「だって、もう10年以上も前のことよ」

「16年です」

「絶対忘れているか、もうそんな気持ちはなくなっていると思ってた」

「外見は老けましたけど、気持ちはあの時のままです」

「私も年をとったわ」

「今も綺麗です。1時間だけ、誰もいないところへ行きますか?」

陽子さんは笑いながら

「2時間でも3時間でもお付き合いしますよ」

と言った。

「だったら、30年ほどお願いできますか」

涙をこぼしながら微笑んだ陽子さんの髪の毛に、少し白いものが混じっているのをみつけた。

私は、それすらも愛おしかった。

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