15 偽りの決意

 休日の誠の家ではいつものように過ごし、当たり前のように隣で眠り、月曜日の朝は共に家を出る。

 あれから、誠の家に泊まった晃大は、眠ってから彼に触れることを繰り返し練習していた。

 その触れる練習のことを「お触りタイム」と言っていたのだが、今朝になって誠が、その呼び名を変えるように言ってきた。

 「『接触訓練』っていうのはどう? これなら晃大がうっかり口を滑らせても、セーフだと思う」

 訓練だなんて、お触りのプロを目指してるみたいで少し抵抗があったが、誠がやたらと勧めるので仕方なく受け入れた。

 「ま、いいか。さて、仕事、仕事……」

 デスクに向かい、先に必要な入力作業を終えた後、比較的仲の良い同期の松原一樹が声をかけてきた。

 「もしかしてこれから休憩行く?」

 「うん。少しだけ」

 席を立った晃大と同じくらいの身長の松原は、似たような小柄な彼に親近感を持っていて、休憩の時は時折このように誘うことがあった。

 3階の休憩室の手前にある自販機の前に立ち、松原が仕事の話しをしながらカフェオレのボタンを押す。

 休憩室は誰も使用しておらず、二人は窓の近くの席に並んで座り、松原がおもむろにスマホを取り出して、メールのチェックを始める。その間、晃大もなんとなく、同じようにスマホを見た。

 メールといっても、来るのは誠からくらいで、しかも昼間に届くことは滅多にない。

 だからメールはゼロ。

 分かっているくせに、見栄を張って覗いた自分にがっかりする。

 気を取り直して、誠と撮った写真を見ながら、ミルクティーを飲んでいると、松原が晃大のスマホを覗き込んできた。

 「その人誰?」

 「友達だよ」

 「モデルさん? すごくかっこいいね」

 「違うよ。普通の会社員」

 「全然普通には見えないけど……。最近晃大君、変わったなーと思ってたけど、もしかして、この人の影響? 雰囲気が柔らかくなったっていうか。ほら、体のこともあるし、いつも緊張している感じだったから」

 カフェオレの缶を数回振り、一口飲んで松原は続けた。

 「その人と仲いいんだ?」

 「うん、親友なんだ……っていっても、まだ数ヶ月なんだけど」

 「そうなんだ。俺はもう5年くらい君と一緒に仕事しているけど、あんまり仲良くしてもらえないから、なんだかその人が羨ましい」

 「ごめん、そんな風に思ってくれてたなんて、知らなくて……。誠は高校の同級生だから特別なだけで、松原君も好きだよ」

 松原は晃大の慌てように、くすっと笑った。

 「俺ら、これからもっと仲良しよ」

 「そうだね」

 「あ、そうだ。このゲーム知ってる?」

 「どれ? あ……、大和がやってたの見たことある」

 「これが面白くて、ハマってんだよね……ほら、これ」

 松原は晃大と一緒にスマホを覗きながら、あれこれ話し出した。

 ゲームの内容はよく分からないが、こうして声をかけてくれる松原の優しさが嬉しかった。

 しばらくゲームの話題で盛り上がり、そろそろ休憩時間も終わる頃、晃大は残りのミルクティーを飲み干すと、

 「じゃあ、僕先行くね」

 松原に声をかけ、席を立とうとした。

 と、その時、下の階から階段を駆け上がる音が聞こえて、休憩室のドアが激しく開いた。

 「藤野君、ちょっと来て! 社長が……!」

 息を切らして駆け込んできたのは、八木沢だった。

 「大和君から電話があって、社長がここへ戻る途中で具合が悪くなって病院に行ったって。意識はあるんだけど、話せないとか……。とりあえず、手続きに必要なものを病院に持ってくるように伝えてくれって」

 「は、はい……!」

 晃大が急に立ち上がったために、椅子が後ろに倒れ、松原も突然の出来事に動揺して、持っていた缶を落としそうになった。

 「仕事はもういいから、このまま行って」

 八木沢がドアを押さえて、手招きをする。

 晃大は不安でいっぱいだったが、必要な物のメモを受け取り、デスクへ戻った。

 社員達は、騒然としながらも仕事を続け、晃大を心配そうに見つめる。

 「すみません。今日はこれで帰ります」

 そう上司へ一言伝えると、すぐに上階の家へ帰った。

 渡された、二つ折りのメモを開こうとするが、手が少し震えていてなかなか上手くいかない。

 落ち着くために、先に自分のカバンにスマホや財布、免許証などを確認して突っ込む。

 それからメモを開き、書いてある順番通りに、必要な物をそれぞれ揃えて車に乗った。

 駐車場で待っていた八木沢が教えてくれた病院名は、以前晃大が暴漢に襲われた時に運ばれた病院だった。

 急いで車で走り病院に入り、受付で運ばれた場所を聞き、広い病院内を早足に進む。

 先に見える待合室の前で、大和は立って待っていた。

 「大和……!」

 その声に気づいた大和がこちらに手を振り、晃大の持ってきた荷物を受け取った。

 「おお、ありがとうな。まあ、座れ。今処置中だけど、症状からするとたぶん脳梗塞だ。ただ、病院に連れてきたのが早かったから、命は大丈夫だと思う」

 「ほんと? 助かってよかった……」

 「左半身に全然力が入らなかったのに、親父の奴、俺に言わなかったんだよ。大丈夫かって聞いたら、今度は話がうまく出来なくて、それで急遽病院に来たんだ」

 「入院って、長くなりそう?」

 「それは親父の病状次第だな。俺の知り合いでも退院まで一月かかったり、二週間で家に戻れたり様々だ。とにかく、これから詳しい検査をすると思うから、病院で俺達に出来ることは、今は手続きだけだ」

 「そうなんだ……」

 それから二人は少しだけ話し、大和が晃大へ先に帰るように促した。

 晃大も留まっても何も出来ないは分かっていて、大和の負担になるのを避けるためにも、素直に従うことにした。

 家に帰ってからも晃大は、義行が心配で仕方がなく、食事もあまり喉を通らなかった。

 一緒に作った大和の分を冷蔵庫に保存し、風呂に入り、ベッドに寝転ぶ。それからしばらく後、大和から電話があった。

 大和がこれから帰ると言うので、夕食を温めて待っていた。

 「ただいまー」

 帰ってきた大和は疲れているようだったが、明るく振る舞っていた。その様子に、義行の具合は、まだ良い方なのだと感じた。

 大和は食べながら、これまでの経過を晃大に伝えた。

 「とにかく、命は大丈夫。話もまあまあ出来るらしい。このまま入院だけど、期間はまだわからないな。一週間もすれば目安がつくと思うけど」

 「話が出来るなら、よかった」

 二人は、命に別状がないことに感謝をした。

 食事をしながら大和は、これからの仕事のやり方などを話し、とにかく他の社員が動揺しないように、気をつけるようにと軽く注意をした。

 さっさと食事を終えた大和は、

 「今日はもう寝ろよ。俺も疲れたし、寝るから」

 そして、力なく頷く晃大を励ますように、声を張って続けた。

 「心配するな。病院は一番安全な場所だぞ。俺らなんかよりもずっと頼りになるし、入院中のほうが安心できる」

 「確かにそうだよね。僕らは何も出来ないもんね……。大和もゆっくり眠って」

 「おう。じゃあな、おやすみ」

 「おやすみ……」

 ベッドの中で晃大は、早く良くなるようにと、祈りながら目を閉じた。

 義行を思うと、子供の頃を思い出す。

 父の怒鳴り声が怖くて、壁に背を向けて震えていた時、いつも抱きしめて救ってくれた。大人になった今も、こうして一緒に暮らしてくれて、守ってくれている。

 なのに、これほど世話になっていて、まだ恩返しも出来ていないではないか。

 義行との思い出を振り返りながら、出来ることは何でもやろうと心に決めた。



 翌日から、社長の息子である大和は多忙を極めた。

 役員や社員への病状の説明や、一部業務の変更、自身の仕事の引継ぎなど、晃大もそばで見ていてハラハラするほど、ずっと動き通しで休む暇もない。

 役員達はというと、命に別状はないというものの、完全復帰はなかなか難しいだろうというのが実際の声で、次期社長として早くも大和を推す者も出た。

 ただ今後の経過次第では、義行の復帰の可能性は大いにある。だから、しばらくは専務が代行し、大和はそれを補佐することで一旦は落ち着いた。

 木曜までは、大和は仕事や病院に顔を出したりと忙しそうだった。帰りも夜11時を回ることもあった。

 だが、金曜になると少し落ち着いたのか、昼のうちに晃大と共に、義行を見舞うことが出来た。

 経過がよく、一般病棟に移っていた義行は、晃大が顔を出すと喜んでいたが、話すスピードが遅く、半身はまだまだ動かしにくそうだった。

 晃大は、仕事を抜け出して来たため、あまり長居もできず、挨拶だけでこの日は終わり、次に来る約束をして帰ることにした。

 誠にはすでに、落ち着くまで泊まりは控えることを伝えてある。

 それから晃大は家に帰り、大和と久しぶりに夕食を一緒にとることにし、彼を労うために大好物ばかりを食卓へ並べた。

 「おっ! うまそうだな」

 食べる前につまみ食いをして、おどけて見せる大和に、晃大もほっとして一緒につまんで微笑む。

 食事が終わると、大和は少し話があると言い、ダイニングテーブルに座ったまま、話を始めた。

 「これからのことなんだけどな……」

 「うん」

 「まず、親父のことだけど、先生が言うには、来週末くらいには、リハビリ施設へ行けるらしいから、一応退院となるみたいだな」

 「そうなの? よかった!」

 「で、その後なんだが、将来的に親父がこの家に戻ってくるとなると、介助が必要になる。その介助を美晴に手伝ってもらおうかと思ってる」

 「え……?」

 いきなりの提案に晃大は動揺した。

 「アキにはあの症状があるから、介助は出来ないだろ。それに、美晴は今年入籍する予定だから、もう家族も同然だ。俺と美晴は家を別に持つつもりだったが、親父がこうなったら、一緒に住むのが現実的だろう。美晴にも話は通してある」

 「うん、分かるよ……。だったら、僕が出ていく……」

 「おい、何でそうなる? アキは介助が出来なくても、今まで通り、家にいて、親父や俺を助けて欲しい。美晴だって、お前のことは何も気にしてない」

 「それは……無理だよ。ごめん、やっぱり僕が出ていくよ」

 「だめだ。アキを出すわけにはいかない」

 大和は一歩も譲らず、ここに留まるように言った。

 「……だったら、誠のところで暮らす。前に、一緒に暮らしたいって言われたことがあるんだ、だから……」

 これに大和は、困ったように頭を垂れた。

 「またあいつか……。あのな、アキ。この際だから言うが、あいつのところに行くのは金輪際やめろ」

 「大和には言う権利ないよ……」

 「お前、あいつの周りを、この先もずっとうろちょろするつもりか? あいつもお前もいい歳なんだぞ。これからのことをもっと考えろ」

 「考えてるよ。誠は色々協力してくれてる」

 「何に協力してるのかは知らないけどな、あいつだってこの先の人生ってもんがあるだろ。出会いがあって、結婚して家庭を持って、いつまでもアキと一緒ってわけにはいかないんだぞ?」

 「……その時は、ちゃんと祝うよ」

 「できるわけねーだろ。なんだよ、あのカラオケの時。お前、嫉妬でめちゃくちゃだっただろ。言いたくないが、あの時のお前、俺と美晴が付き合った頃と同じ顔だったぞ」

 「聞きたくない……!!」

 晃大は頭を抱えた。

 「付き合いが長くなれば、より別れが辛くなる。今のうちにきっぱり忘れて、あいつもお前も、それぞれが幸せになる方法を考えろ。俺はお前がおかしくなるのを見るのはもう嫌なんだよ……」

 大和は最後は諭すように言った。

 「……あいつのためにも、お前が先に引いてやれ」

 晃大はその間ずっと、視線を落としたままだった。

 黙ったまま、テーブルの上の一点を見つめて、微動だにしない。

 それからふと顔を上げて、大和を真っ直ぐ見てこう言った。

 「やっぱり僕はこの家を出るよ。でも誠のところには行かない。もう会うのはやめる。直接、大和と伯父さんの役には立てなかったけど、これから一人で暮らすことで恩返しする」

 「だめだ。ここは絶対に出て行かせない」

 「どうして? これから僕だって出会いがあるかもしれないし、その過程であの症状が良くなるかもしれない。この先を考えろって言ったの、大和じゃないか。自立すれば、伯父さんも喜んでくれるよ、きっと」

 「お前、自棄やけになってるだろ……」

 「なってないよ、大丈夫。だから、大和は美晴さんと伯父さんと暮らして。家族なんだから」

 「お前も家族なんだよ。出ていくな」

 「話は終わりだよね。ごめんね大和……」

 「おい、だめだ。絶対に出ていくな!」

 晃大は大和が止めるのを聞かずに、自室へ戻って行った。

 真っ暗な部屋の中、ベッドに横になり、考えようとする。

 だが、頭が起き抜けの時のように空白で、何も考えられない。

 誠と会わないと言った時、涙が出るのかと思ったが、涙など一粒も出なかった。

 どうしてしまったのか、今も全く悲しいと思わない。

 晃大は誠にメールを送信した。

 『明日、話がしたいです。時間ありますか?』

 淡々と、再会した頃のような、他人行儀な言葉遣い。誠がどう思うかなど、気にもならなかった。

 返信はすぐに届いた。

 『朝からずっといるから、好きな時間に来ていいよ』

 誠らしい、優しさ溢れる言葉だった。

 明日で全部終わる。それなのに、全く実感がわかない。

 晃大はベッドにうずくまり、自分を抱きしめるように眠った。

 深く、深く、ずっと深く、夢は見たくなかった。



 翌日、晃大は気がつくと、誠の家の玄関前に立っていた。

 何から話すかなど、全く考えていない。いや、考えられなかった。

 このインターフォンを押せば、誠が出てくる。

 きっと笑顔で、部屋に入るようにと、にこやかに手招きするだろう。

 それから、ソファに座って待っていれば、コーヒーを煎れてくれる。

 誕生日に贈ったあの器具で、世界一のコーヒーを一緒に飲むのだ……。

 指はいつの間にか、インターフォンボタンに触れていた。

 軽いメロディーが鳴り、ドアが開き、

 「いらっしゃい。入って」

 想像と全く同じ笑顔で、誠は迎えてくれた。

 晃大は玄関に入ると靴を脱がずに、先にリビングへ行ってしまった誠を呼び戻した。

 「あの……長居出来ないんだ。だから、ここで話したいんだけど、いい?」

 「そうなのか?」

 パタパタとスリッパの音を立てて戻った誠が、晃大の前に立つ。

 「あのさ、伯父さんのことなんだけど、心配してくれてありがとう。来週退院出来るかもって。それで、そのあとリハビリがあるんだけど、もっと良くなったら自宅で介助出来るようになるんだ」

 考えるより先に、自然に言葉が出てきた。

 「あ、そうなんだ。よかった!」

 誠は嬉しい報告を聞き、手放して喜んでいる。

 「それで、その介助は大和の婚約者の美晴さんが手伝うことになって、伯父さん達と一緒に住むことになった」

 「大和さん、結婚するんだね。おめでとう」

 「僕はこの体だし、伯父さんの介助が出来ない。それに僕は美晴さんには過去に迷惑をかけたから、一緒には暮らせない。だから家を出ることにした」

 そこまで聞くと、誠はすぐに理解したようで、嬉しそうに微笑んだ。

 「分かった、ここで俺と一緒に暮らすってことか。もちろんOKだよ。いつでも来て。あーでも、荒木の荷物があるから、ちょっと場所を空けないといけないな……」

 誠は腕を組み、段取りを考え始める。

 しかし晃大はそれをすぐに否定した。

 「そうじゃないんだ。僕は一人で暮らすんだよ」

 「一人? どこで?」

 「場所は決めてない、でも、決まっても教えられない」

 「……どういうこと?」

 ここで初めて誠は気がついた。

 そういえば、晃大の様子がいつもと違い、妙に冷静で、表情が全くない。まるでインプットされたセリフをそのまま流す、ロボットのようなのだ。

 「……何かあったのか?」

 誠が心配そうに尋ねても、晃大は眉一つ動かさず続けた。

 「今までありがとう。親友が出来て、ほんとうに嬉しかった。だけど、今日でお別れする。ごめんね。でも、絶対に忘れないからね。じゃあ……」

 いい終わると同時に、晃大はドアへ振り返り、ノブに手をかけた。

 誠はとっさに、手を伸ばして鍵を掛け、その鍵を手のひらで覆った。

 「手を退かしてくれないかな……帰れないから……」

 「お別れって、何? 理由を言ってくれないと」

 誠は、そのままドアに体を密着させて、退路を塞いだ。

 誠と向き合う形になった晃大は、視線を足元に落とし、ぶっきらぼうに話しを続けた。

 「お互いのためだよ。僕がいたら、誠のこれからの可能性が潰れちゃう。恋人だって、僕がいなければきっとすぐに出来る。誠の邪魔になりたくないんだよ」

 「……それ、誰かに言われた? この間まで、そんなこと全然言ってなかったじゃないか」

 「そうだよ、大和に言われた……でも、それから自分で考えて結論を出したんだ。ごめん……」

 「そんな、急に言われて納得できるわけないだろ? なあ……」

 誠のもう片方の手が、無意識のうちにゆっくりと伸びる。

 それに気づいた晃大が、びくりと体を震わせた。

 そして、その手からすり抜けるようにして、リビングへ走って逃げていった。

 慌てて追ってくる誠から逃れ、窓際まで行くと、振り返り、

 「来るな……!」

 先ほどの無感情な態度から一変し、大声で怒鳴った。

 驚いた誠は、足を止めた。

 晃大の怒鳴り声など初めて聞く。

 「……悪かった。何もしないから、落ち着いて」

 誠はそのまま動かず、優しい声で答えを求めた。

 「誰かに言われたとか、常識なんか関係ない。本当の気持ちを教えて欲しい。俺のことが嫌いになった?」

 「好きだよ……」

 「だったら、別に今まで通りでいいんじゃないか?」

 「出来ないよ。一緒に居ても僕は変われない。それって、誠の時間を潰すことと同じだよね」

 「でも、触れることが出来るようになっただろう?」

 「眠っている時に触れて、何か意味があった?」

 「このまま練習を続ければ、きっと何とかなるよ。そのうち起きている時に触れられるように……」

 「……簡単に言うよね。今まで22年間ずっとだよ? 分からないよ、誠には」

 誠はそれ以上言葉が続かなかった。

 確かにここ数ヶ月の付き合いで、何もかも分かったように晃大を説得するなど、傲慢だと思う。

 しかし、だからといってこのまま離れるわけにはいかない。

 「俺には甘えていいって言っただろ? 俺の未来は俺が決めるって。大和さんが何を言おうが、一緒にいるって決めてるんだから」

 晃大が深く息を吐いた。

 「……昔、大和の婚約者の美晴さんに酷いこと言ったんだ。「大和を盗らないで」って。僕にとって大和は特別で、それは今も変わらない。僕は、誠を大和の代わりにしようとしてたんじゃないかって……。誠が思うほど僕はいい奴じゃない、自分勝手なんだ。だから、分かって……」

 「いいよ、それでも。大和さんの代わりでも、一緒にいられれば、俺は問題ない」

 「その大和にも、ずっと触れられないんだよ。こんなに大好きなのに、絶対に無理だった。それがこれから誠と一緒にいて、どうにかなるなんて、思えないよ」

 「大和さん以上になろうとは思ってない。その次でも……ただの友人だっていい。とにかく、関わりが一切無くなるのは嫌なんだ」

 晃大の目から涙が一つ、ポタリと落ちた。

 「もうやめようよ……怖いんだ、周りのみんなが……まるで狼の群れの中にいるようなんだ。いつ傷つけられるか分からない。襲いかかられたらどうしようって……」

 晃大がそんな風に感じていたとは、誠は想像もつかなかった。

 涙声で、晃大がぽつりと呟く。

 「みんな狼なんだよ……」

 その言葉に、聞いても仕方がないことを誠は聞きたくなった。

 いや、聞かなければ、いけないと思った。

 「……晃大にとって、俺は?」

 「……狼」

 そうであって欲しくなかった気持ちと、やっぱりかと納得する本心が入り混じる。

 「そうか……それでも、俺が眠った時に、隣にいて欲しい」

 晃大は黙って首を振った。

 「もう誠には連絡はしない。誠も僕に電話しないで。会社にも、家にも来ないで。大和が下で待ってるんだ。だから僕が帰っても、この部屋を出ないで。……ほんとうにさよならだよ」

 晃大は誠を避け走り、玄関の鍵を解除した。ドアを開け振り返ると、

 「バイバイ、誠」

 涙に濡れた目で、誠に笑顔をむけた。

 最後にドアが閉じられると、誠は茫然と立ち尽くすしかなかった。

 あまりにも突然、勝手に繋がりを切られて、受け入れられるわけがない。

 しかし、晃大はもういない。

 信じられないほどあっさりと、目の前から消えてしまったのだった。



 誠の家から出た晃大は、会社の車に乗り込んだ。

 運転席にも助手席にも大和はいない。

 そう、嘘をついたのだ。

 ハンドルを握ると、そのまま職場近くまで行き、駅前の不動産屋の駐車場に停め、全身が脱力した状態で自動ドアの前に立った。

 「こんにちは……」

 「いらっしゃいませ」

 女性スタッフの明るい声が迎え入れ、その声に気付いた40代くらいの細身の男性スタッフが、早速声をかけてきた。

 「どのあたりをお探しですか?」

 「この辺で、一人で……」

 「あーはいはい、ありますよ〜」

 斎藤というネームプレートをつけているこのスタッフは、やたらと愛想が良く、にこにことボールペンと記入用紙を晃大の前に置いた。

 「まずはここに、お名前、ご住所、ご希望のお部屋の……えっと、ここチェック入れてもらうだけで結構ですのでね〜」

 「はい」

 全て書き終えた晃大が、斎藤に用紙を手渡した。

 斎藤はすぐにPCをパタパタと叩き、情報を入力していく。

 と、その時、奥から60代くらいの大柄な男が、晃大を見て目を細めながら眼鏡を二、三度ずらした後、声をかけてきた。

 「あれ? あなた、もしかして、北園さんのところの社員さん? 乗って来られた車に会社名が書いてるから、そうだよね?」

 「……そうです」

 突然声をかけられ、戸惑いながらも晃大は答えた。

 やっぱりという顔で、男は続けた。

 「うちの店ね、北園さんのビルの賃貸マンションのお世話をさせて頂いているんですよ」

 「あ、北園は、伯父なんです」

 「そうなんですか? なんだ、お身内の方でしたか。でも、お部屋、探してるんですか?」

 「はい。できればすぐ入居できて、保証人がなくてもいい物件があれば……」

 「だったら、マンスリーマンションはどうですか? 斉藤さん、ちょっと調べてくれる?」

 斎藤は、すぐにいくつかピックアップし、モニター画面を向けた。

 「ここなんかどうですか? 単身赴任や出張でよく使われていて、トラブルもないですし、おすすめです。設備はテレビと冷蔵庫、レンジ、洗濯機、掃除機、あとベッドは備え付けです。ほとんど揃ってるので、すごく便利ですよ」

 晃大は住所を確認すると、即決した。

 「ここにします。いつ引っ越せますか?」

 「通常なら、数日で入れます。ここで契約もできますし、メールでも大丈夫なので、後ほどお電話しますね。今から行ってみます? すぐそこですけど」

 「いえ、大丈夫です。よろしくお願いします」

 景観や内装などはどうでもいい。早く家を出られるなら、どこでもよかった。

 それからすぐに家に帰り、大和がいないのを確認すると、会社の3階にある倉庫の中から、不要な段ボールをいくつか持ち帰った。

 掴んだ物から次々に箱に突っ込み、元々荷物が少ないため衣類を合わせても、7箱ほどにしかならなかった。

 荷造りが終わると掃除を済ませて、食事を作り始めた。

 あと数日で出ていくとなれば、もう大和と食事をすることもなくなる。  

 そう思うと悲しくなり、作りながら涙が出た。

 夜になっても、大和は帰って来なかった。美晴のところで、今後のことを色々と相談しているに違いなかった。

 部屋に戻りベッドへ座ると、スマホをポケットから出す。

 ロック画面の写真は、誠の誕生日に撮った時のものだ。

 ありのままの笑顔。

 こんな風に笑い合う日は、もう二度とない。

 晃大はスマホの画面を、誠と再会する前に使っていた風景写真に戻した。

 横になり、重なった段ボール箱を眺めながら、なぜこんなにうまくいかないのだろうと自問する。

 大和のために家を出ると言い、大和を苦しませて、誠のために会うのを止めて、誠を悲しませている。

 みんなのためを思うのに、自分までもが辛くなっていく。

 考えても考えても、泥に足を取られるように抜け出せないのは何故だろう。

 自分がもっと図々しくなり、美晴とも暮らして、誠の未来なんて関係ないと一緒にいれば、全て解決したのだろうか。

 「そんなこと、出来ないよ……」

 スマホを握り締め、ベッドに潜り込む。

 この後に及んで、誠からの電話を期待してしまう自分が嫌になる。

 誠は今、どんな思いでいるのだろうか。

 同じ気持ちだったら……。

 心の中で何度も謝り疲れ果て、晃大は、いつの間にか眠ってしまっていた。



 「アキ、おい、アキ起きろ……」

 大和の声がして、ハッとして飛び起きた。

 慌てて起き上がったために、その勢いでスマホをベッドの下に落としてしまった。拾いながら見上げると、重ねた段ボール箱の横で、大和が腕組みをして仁王立ちしていた。

 「朝飯、できてるぞ」

 「あ、ありがとう……」

 テーブルには、きちんと二人分の食事が並べられていて、大和が焼いていた食パンを皿にのせる。

 「ジャムがいいか? あ、ツナマヨあったな、そういえば」

 冷蔵庫からパックを取り出し、晃大の前に置いた。

 「いただきます……」

 特に会話もなく食べ進め、食後に大和が食器をキッチンに置くと、

 「オレンジジュースでも飲むか?」

 カップに注いで出してくれた。

 自分の分も用意した大和は、椅子に座り飲み干すと、晃大にこう言った。

 「で、引越し先の住所、どこ?」

 「ま、まだ決まってない……」

 「嘘つけ。昨日の晩、不動産屋から電話あったぞ。お前がマンスリーに引っ越すって。なんで先に言わないんだよ。賃貸なら保証人になったのに」

 「言ったら止められると思ったから」

 「絶対止めたけど、でも、もう決めたんならしょうがない。荷物運ぶとき手伝うから言えよ」

 「いいよ。ひとりでやる。でも、家具は置いていく。あと住民票はここのままだから、会社には言わなくてもいい?」

 「職場には言わないとダメだぞ、決まりだから。俺に言えば、総務に伝える。だから教えろ。結局バレるんだからいいだろ」

 「うん、分かった……」

 晃大はスマホのメモを大和に送信した。

 住所を確認した大和は、

 「なんだ、会社の近くじゃないか、よかった」

 険しかった表情が、少し緩んだように見えた。

 「……美晴さんはいつこっちに来るの?」

 「まだ先だ。あと二週間後くらいになると思う」

 「僕はあと4、5日で出るから、安心して」

 「アキ、お前ほんとに一人で大丈夫なのか? 部屋はそのままにしておくから、何かあったら戻って来い」

 その優しい言葉に対して首を横に振った晃大は、苦しそうな声を漏らした。

 「もう戻れないんだよ、僕は……」



 引越し当日は、仕事が終わってからの作業になった。

 大和の手伝いは拒否し、エレベーター前に荷物をまとめて、次々に運ぶ。

 外はもうすでに薄暗く、会社の車に詰め込みが終わる頃には真っ暗になっていた。

 引越し先と言っても車で3分くらいで、駐車場に止めた車から荷物を出すのも、思ったよりも早く出来た。

 部屋に運び終わると、車を返しにまた会社へ戻り、その足でまた北園の家に帰って、最後のお別れをする。

 子供の頃からここで伯父や大和に面倒を見てもらい、20歳で家族として迎え入れてくれた家だった。

 けじめとして玄関で一礼すると、階段を使い下まで降りて行った。

 街頭や家々の明かりを頼りに、マンションへの道を進む。

 これからはこの道が通勤路になる。

 電車通勤は誠がいたから出来たことで、一人ではかなりの苦痛になる。

 だから結局は、近所を選ぶしかなかった。

 部屋に帰り、服などをクローゼットに仕舞い、他の物は段ボールに入れたまま壁際に重ねて置いた。

 ようやく作業が終わり、疲れた晃大は備え付けのベッドに横になった。

 何の音もしない、静かな空間。微かに冷蔵庫のモーター音だけが響いている。

 家を出ると決めてから今日で6日目だ。

 この数日は仕事を含めてやることが沢山あり、誠のことをあまり思い出さずになんとか過ごせた。

 だが、こうして一人になると、誠のことしか頭に浮かばなくなる。

 あれから電話もメールも、会いにも来ない。そうしてくれと言ったくせに、ほんとうに何もないと落ち込んでしまう。

 瞼が熱くなり、いつの間にか涙が睫毛を濡らしていく。

 明日は金曜日だ。

 もし駅で待っていたら、驚くだろうか。

 もし声をかけたら、笑ってくれるだろうか。

 もし「ごめん」と謝ったら、もう一度親友に戻れるだろうか。

 「会いたいよ……」

 それぞれにとって最善の未来を選んだはずなのに、毎日毎晩後悔に包まれて眠る。

 忘れたい。

 全て忘れなければ、明日を生きていけない。

 そう思えば想うほど、はっきりと記憶に残ってしまう。

 あとどれくらい、こんな夜を過ごさなければならないのだろうか。

 涙は今夜も枯れそうになかった。

 

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