11,伸びる魔の手と刀娘さん







 世の中には『表』と『裏』の世界を線引きする境界線があった。

 人が暴き定義した法則が支配し、様々な取り決めで回っているのが『表』の世界。政治も戦争も盗みも殺しも、清濁含めた人の営み全般を含める、到って健全で常識的な人の世界だ。

 こちらを『表』と定義するのに重要な要素となるのは、おおよその人が理解し易いかどうかだ。要するに無力で無知な人々の暮らす牧場のようなものである。箱庭とも言えるだろう。

 そうした箱庭、牧場の外と定義されるのが『裏』の世界。政治もある、戦争もある、盗みも殺しもなんでもありな無法地帯。かと思えば力あるモノが取り決めという名の法律を整備し、施行している実力主義の修羅の世情。無知ではなく無力でもないが、結局のところは弱者が食い物にされる強者のための箱庭だ。箱庭の外には更に大きな箱庭が広がっている、そういう話である。


「ちょぉ〜っと、マズいんじゃぁ〜ないかなぁ〜? えぇ? 多津浪岩戸タツナミ・イワトくぅ〜ん?」


 ねちっこく、ジトジトと、嫌味ったらしく間延びした言葉遣いで、ニヤニヤ笑いながら詰問してくる陰険な白衣の男。片目は笑ってるのにもう一方の目は全く笑ってない、器用な表情だ。

 海藻類のような癖のある茶髪を膝下まで伸ばした、無精髭を生やした痩せぎすの男の詰問に、筋骨逞しい日本人は無言という答えを返す。すると白衣の男は露骨に特大の溜め息を吐いてみせた。

 多津波岩戸と呼ばれたのは、全く似合っていない白衣を纏った大男だ。彼は今、裁判所の証言台のような席に押し込まれていたが、岩戸の左右には検察官と弁護人の席はない。証言台を見下ろせるほど高い位置にある、横に長い裁判官席が正面にあるだけだ。


 それ以外は黒い絵の具で雑に塗り潰されたかの如く、全く見えなくなっている。地面も、周囲の空間も全てだ。証言台と裁判官席、そしてそこに就いている者以外は漆黒に呑まれている。


「黙ってちゃぁ〜なぁ〜んにも分かんないんだけどぉ〜? なぁ、多津浪。オレのこと、無視しないでもらえると嬉しいんだが?」


 唐突に間延びした声に覇気が籠もる。茶髪の陰険な男は、小さな丸眼鏡越しに岩戸を睨んだ。

 しかし、なおも無視を決め込んで沈黙しようとする岩戸の様子を窘めるように、裁判官席の中央に座すモノが口を開く。


「イワト君、ワタシも聞かせて欲しいな。キミを信じて任せていた研究には、我々にとっても少なくない額を投じていたんだ。ワタシ達には今回の仕儀を知る権利があると思うのだけどね」


 耽美な声だった。艶を帯びた、極めて優しげで聞く者を蕩けさせるような美声。

 声にすら籠もる莫大な魔力の波動は、彼にとっては無意識に呼吸をしているのと同義の余波。あまりに強大過ぎる故に、本人にすらコントロールが利かない力の末端だ。

 岩戸はその男を見上げる。身長が2メートルと半ばほどもありながら、細くスマートな印象を受ける人外の美貌の持ち主を。鞭のような尾を波打たせ、頭部に羊のものに似た捻れた角を有し、蝙蝠に似た巨大な翼を畳んだ青い肌の大悪魔の顔を。

 慇懃に、恭しく、信仰する御方へ岩戸は応じた。


「御意。しからばご報告致します、罪深き魔界の罪人、【追放者】メギニトス様」


 岩戸が口を開くと、丸眼鏡の男は露骨に舌打ちした。不快げで敵愾心の滲む視線を完全に無視した岩戸は、メギニトスと呼ばれた大悪魔のみを見詰めて語り出す。


「人の手による悪魔の製造は無事成功しました。製造方法も、必要な設備も、私なら一ヶ月以内に全て揃えることが可能です」

「へぇ? なら、量産は?」

「容易でありましょう。メギニトス様の望むがまま、軍を組織することも能うと確約します。規模にもよりますが1000を揃えるのに、2年ほど頂けたなら質にもご満足頂けるかと」

「なるほど」


 岩戸の報告に、メギニトスは眉を動かし表情を緩めた。しかし微かな疑惑も込められており、その視線は岩戸と丸眼鏡の男を見比べていた。

 わなわなと肩を震えさせた丸眼鏡の男を尻目に、メギニトスは探るように岩戸へ言う。


「ワタシが聞いていた話とは違っているね。ワタシが位座久良イザクラアラスター君から聞いた話だと、キミの施設に【教団】のスパイが入り込み、先日襲撃され研究資料、試験体、成功体、それら全てを軒並み奪われるか破壊されたらしいんだけど」


 丸眼鏡の男――位座久良アラスターは、メギニトスの疑問を聞いて台を叩くと勢いよく立ち上がる。


「そうだ! オレは貴様がしくじらないかどうか監視してたんだ、メギニトス様を前にして、くだらない虚偽を口にするじゃぁ〜ない!」


 やはり、無視。岩戸はアラスターの存在を完全に黙殺していた。ビギリとこめかみに青筋を浮かべたアラスターを横に、今度は同じく白衣の美女が口を開く。


「――岩戸さん、わたしは貴方ほどの人がしくじるとは思っていないわ。けれどこの場の趣旨を理解して頂戴。わざわざメギニトス様にまでご足労して頂いているのだから、無駄な時間を掛けるのは赦されることじゃないわよ。岩戸さん、答えて。位座久良の言ってることは本当なのかしら?」


 手入れのされていないボサボサの銀髪と、切れ長の双眸に宿る膿んだ湖の如き瞳。白皙の美貌には気疲れが滲み、目元に隈を拵えているダウナーな女だ。

 女の名はアガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコ。ちらりとペトレンコを見遣った岩戸は、肯定するように小さく頷いた。間違いなく、答えは是だ。


「メギニトス様の仰ったことは全て事実だ、ペトレンコ」

「そら見ろ! オレの言った通りじゃぁ〜ないかぁ! えぇ、多津浪? この失態の咎をどう――」

「だがなんの問題がある? それらの被害も、総じて私の目論見通りだ」

「――なに?」


 徹底してアラスターを無視して岩戸が言うと、悪魔は興味を持ったのか麗しい紫の魔眼を細めた。


「へぇ、へぇ! どういうことなんだい、イワト君。説明してくれ」

「人工的な下級悪魔の量産に向けた研究のさなか、私はあらかじめスパイを特定していたのですよ。故に利用した、それだけのことです、メギニトス様」

「そうなんだ。何を目的に?」

「無論、【教団】を釣るために」


 一拍の間を置く。彼の目はあくまでメギニトスを、そしてペトレンコのみを視界に入れている。

 アラスターだけが眼中にない。


「あの施設は元々破棄する予定でした。あそこにあった資料は悉く失敗例を元にした物のみで、失われたところでなんら痛手とはなりえません。試験体や成功体、部下の人手という点だけが被害と言えるでしょうが――必要経費と割り切ったなら無視できる範囲です」

「そうなのか。なら相応の利益にはなったわけだね? 教えて欲しいな、わざわざ【教団】を招くような真似をして、どんな利益を生めたんだい?」

「私の目的は下級天使。それを被験体として、成功体の内の一体、ヌーアかバスクをつがい・・・にあてがうことでした。人工の悪魔と天使の交配、結果として何が生まれるか見ようとしたのです」

「――へへぇ。なるほど、それは愉快な試みだね」


 メギニトスの機嫌が上向きになる。

 それを見たアラスターは歯軋りするも、対照的に岩戸は誇らしげで恭しく一礼した。


「しかし、お喜びください。誤算でしたが予期せぬ大物が釣れました」

「大物? 誰が来たんだい?」

「【傲り高ぶる愚考】フィフキエルです」

「ハッ――? ……ハハハ! フィフキエル? フィフキエルだってぇ!?」


 メギニトスが呆気にとられ、次いで大口を開けて爆笑する。台を愉快げに何度も叩くのは、岩戸の成した功績を明白に予感したからである。

 岩戸はその鉄面皮を微かに緩め、同様の喜悦を滲ませて続けた。


「完全に想定外でした。成す術もなく壊滅させられるかとも思いましたが、なんの偶然かヌーアがやってくれたのです。ヌーアは油断し切っていたフィフキエルに見事手傷を負わせ、偶然にもあの上級天使と人間を交配させることに成功しました。そして、吉報をお一つ。フィフキエルが自らの命を糧に生み出してしまったのは――神書に記されるメシアと同じ属性の持ち主だったのです」

「――クハッ、クヒヒ……ギャァッハハハハ――ッ! なっ、なんだってぇ? イワト君、いったいそれはなんのジョークなんだい? あんまり笑わせないでくれよ!」

「ジョークではありません。どのようなメカニズムを経てそうなったのかは、まだ分かりません。しかし必要な素体に関しては明らか。人間のマモ、上級天使、そしてヌーアの待つ属性。これらを再び揃えられたなら、同様の個体を生み出すことは不可能ではありますまい」


 なるほど、なるほど、とメギニトスは眦に涙を浮かべながら繰り返した。笑い過ぎだった。

 岩戸を見る魔眼には、もはや隠されていた苛立ちはない。

 裏返った悪感情は岩戸を信じ、試すものとなっていた。


「イワト君、キミはそのメシア様に似た奴を確保したいんだね?」

「はい」

「いいよ、と言いたいんだけどね。キミは多忙じゃないか、あんまり仕事を増やしては可哀想だよ。メシア様だかなんだか知らないけど、残念ながらそっちは主目的じゃない」

「心得ております。しかし……」

「まあ待ちなさい。悪魔は強欲なものだけどね、あれもこれもと手を伸ばし、本来の目的から横道に逸れるのは賢い遣り方とは言えない。ここは一つ……そうだねぇ……うん、ペトレンコちゃんとアダムス君に任せたいんだけど、どうかな?」

「よきお考えかと。ペトレンコとアダムスなら、しくじるにしても成果は確保するでしょう」

「決まりだ」


 アダムス――ロイ・アダムス。メギニトスの左隣に黙ったまま座していた、金髪碧眼の優男。

 神父の格好をしているその男は、嘆息してアラスターを横目に見た。

 ぎりぎりと歯軋りし、悔しそうに岩戸を睨む男の様子に、ロイはやれやれとばかりに肩を竦めて。


「これでお開きにしよう。次の報告を楽しみにしているよ?」


 メギニトスがそう言って、パチンと指を鳴らすと、全てが漆黒の闇に呑まれて消えた。

 まるで電源を切られたテレビの映像のように。









  †  †  †  †  †  †  †  †









 ピンポーン。鳴らされたインターホンに返事をする。


「はーい」


 すると、玄関扉の向こう側から少女の声がした。


「あのー、アタシは【曼荼羅】の家具屋坂刀娘っていう者なんですけどー。ここにフィフキエルさんっていう天使がいる気がするんですよー。入れてもらえますー?」

「フィフキエルー? 誰っすかそれー。いませんので他ぁ当たってください」


 おいおい。おいおいおい。


「(フィフ、なんでバレた!? なんであの子は俺のいるところが分かったんだ!)」

「(さあ? たぶんだけど、さっきいた所に残っていた、あなたの天力の残滓を逆算したんじゃないの? 大した情報処理能力じゃない、褒めてあげなさいよ)」

「(わあ凄い! 逆算とかできるものなんだねぇ、ってアホか! そういうことができるなら最初から言えよこの馬鹿!)」

「(訊かれませんでしたしー? わたくしは悪くないわよ? ホントに)」


 小声でヌイグルミを詰るも、とうのフィフキエルはどこ吹く風。

 ドンドンドン、と扉を強く叩かれた俺は、びくりと肩を揺らした。


「あのー! 開けてくださーい! 開けてくれないと、この部屋に空き巣が入ってるって警察に通報しますよ!」

「やめろ! やめて!」


 色んな意味でそれはマズイ。本当にマズイ。

 天力さえ回復したらどうとでも誤魔化せるとはいえ、できれば人相手に力は使いたくないのだ。

 常識的に考えてもみろ、筋力が強いからって平気で人を殴れる奴はいるか? 世の中には他人を殴っても全く心を痛めない屑もいるが、少なくとも俺はそうじゃないのだ。平和的にいきたい。

 俺はやむなく玄関扉を開けた。

 するとニッコリと満面の作り笑顔を浮かべた家具屋坂さんが、するりと我が家に入ってくる。


「話、聞かせてもらえます?」








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