10,退魔少女との邂逅






 まるで十八歳未満の閲覧が禁止されているグロ画像だ。頭蓋骨が木っ端微塵に砕け、脳漿や脳髄が四散し辺りをデコレーションしている光景は、尋常の神経の持ち主なら正視できないだろう。

 手足をビクン、ビクンと痙攣させる息絶えた混合獣キメラから離れながら、悪魔にも死後硬直はあるんだなと無駄な所感を得る。意外としっかり生き物なんだなぁ、と。てっきり倒したら消えるものだと思っていたが、死体はきちんと残るものらしい。処理が面倒だ――頭頂部から足の爪先まで、たっぷりと返り血を浴びた俺は、うんざりとした溜め息を溢して言霊を吐く。


「『綺麗になぁれ』と」


 自身の体と衣服が清潔な状態に戻る。肉体的な疲労はあまりなく、少し良い運動をしたなという心地よい疲れが残っていた。ボランティア活動をした後の『良いことをした』気分の良さだ。

 願いを叶える奇跡の力は、概要だけを聞くとフワッとしていて使い辛い。だから俺は言葉にすることで、能力に指向性を持たせて使いやすくしていた。第三者が見たら言霊みたいなものに見えるのだろうが、本質は全然違う。素人の見解で恐縮だが、これは『俺の叶えて欲しいお願いを、生物・非生物問わず指定した対象に、無理矢理叶えさせてしまう』ものだと言えた。


「ねぇ、あなた。マモは回収しないの?」

「ん? するわけないだろ、俺は人殺しなんかゴメンだ」


 肩にしがみついたままのヌイグルミが戯言をほざくのに、俺は呆れたふうに言い捨てる。

 だがフィフキエルはそういうことが言いたいんじゃないと否定した。


「何も罪のない人間を殺せなんて言ってないわよ。ほら、そこに転がってる雑魚を見て。コレが取り込んでいたマモが溢れてきているわ。食べたばかりだから消化が終わってないのね」

「この、薄い光みたいな奴? この野郎……もうとっくに人を殺してやがったのか……」

「そうよ。マモのことも忘れてるなんて重症じゃない……」


 言われて振り返ると、確かに悪魔の死骸から薄っすらとした何かが漏出している。これが、マモ。一度視認したら、どうしてか目が離せなくなった。

 しかし理性的な忌避感で、視線をマモに釘付けにされながらもフィフキエルに問いかける。


「なあ……マモを回収したら、それはどうなるんだ?」

「あなたのモノになるわ。放置していたら死霊レイス化するかもだから、放っておくのはわたくし的に推奨できないわね。それと……いちいちそんなことを訊いてくるぐらいだから忘れてるんでしょうけど、わたくし達【下界保護官】には人間の魂を蓄える義務があるわ。いずれ天上へ還った時、蓄えた人間の魂の良し悪しを見極めて、天の国に住まう資格があるか裁定するの」

「そうなのか? 俺はてっきり、天使もマモを食うんだと思ってたんだが」

「食べはするわよ。だって美味しいもの。けど訳もなく食べたりはしないし、善の魂も基本避けるわ。地獄に落ちて当然の人間を、たまーにつまみ食いするのがわたくしの趣味ね」

「……へえ、そうなんだ」


 だったらなんで俺を喰ったんだ。俺は喰ってもいい悪人判定したのか?

 一瞬、フィフキエルを握り潰してやろうかと思ったが、コイツはフィフキエルじゃない。その知識でしかなく、本人はとっくに死んでいる。何をしても八つ当たりにしかならないだろう。

 苛立ったが、嘆息して怒りを忘れ、悪魔から漏出したマモに手を翳す。すると薄い光が俺の手を伝い吸収されていった。その感覚に、俺は硬直する。


(う、美味っ……!? な、なんだこれ……!?)


 あたかも全身が舌になり、五感の全てが味覚に置き換わったかのような、広く深淵な味。これまで食べてきた何にも似ていないのに、どれもに似ているような矛盾的感動。マモを取り込んだ刹那に体の芯を美食の槍が貫いたかのようだ。多幸感に脳が痺れさえする。

 言葉にならない。だが同時に、もう二度と味わってはならない感覚だとも思わされた。この先何度もこれを味わえば、人としての道を致命的に踏み外してしまうという確信がある。

 歓喜に震える本能を、理性を掻き集めて総動員し、強引に抑え込むことで心が満たされる感覚から意識を逸らした。そして理性が保っている内に、言霊という形で自身に言い聞かせる。


「『マモに味を感じるな。マモの味を忘れろ』」


 奇跡の力が効力を発揮し、自分自身を縛り付ける。口の中に溢れそうなほどの涎を飲み込んだ。

 フィフキエルはそんな俺を、変人でも見るような顔をして眺めている。無性に腹が立って肩から引き剥がし、両手で力強く挟み込んでやった。


ひょっひょちょっと!? いひゃい痛い! にゃにしゅるのよ何するのよ!?」

「うるせぇ。黙って遊ばれてろヌイグルミ」


 ご主人様に廃人コースの味を教えやがった罰だ。今は無理にでも忘れたが、あんなのまた食べたくなってしまうに決まってるという感想は残っていた。同時にそれを戒める理性も。

 もし忘却しなければ、いずれこの欲に耐えきれなくなり、人を殺してしまう自分の姿がリアルに想像できてしまうのだ。それほどまでに衝撃的で、罪深い誘惑の味だったのである。

 そうして傍目に見ると、往来でヌイグルミと戯れる美人な子という図になっているのを俯瞰して、少しばかり気恥ずかしくなったが、誰も見てないんだから気にしなくてもいいよなと思う。

 だが不意に、人の気配が俺に近づいてくるのを知覚した。


「あ、あのぉ……」

「っ――!?」


 声を掛けられると、過敏に反応して勢いよく振り返る。

 これまでどれほど派手に大騒ぎしていても、全ての人が見ざる言わざる聞かざるの三猿になって、単なる通行人と化していた。天使が具える基本機能【聖領域】の効力によるものだ。

 俺はそれを使っているという自覚がなかったが、無意識に【聖領域】を展開していることへの理解は密かに持っていたのだろう。だから俺は話しかけられたことに仰天してしまったのである。


 振り返った先にいたのは、今日日きょうび見かけない、古めかしい装いのセーラー服の少女だった。


 衣替えをした後なのか、真新しい冬服のコーデ。丈の長いスカートは清楚さと奥ゆかしさを、くるぶしまでを覆う短いソックスは軽快さを、そして鮮やかな紺の色は和を想起させる。

 肩に提げているのは革の学生カバンと、いやに長い竹刀袋だ。セミロングの艷やかな黒髪を背中に垂らし、愛嬌のある大きな瞳を緊張で揺らしている少女の顔は僅かに幼い印象を受ける。クラスで三番目ぐらいに可愛くて、親しみやすそうな雰囲気を湛えるセーラー服の剣道少女といった風体だ。一回りも二回りも年下の少女に話しかけられた俺は、少女以上の緊張に襲われる。


 地元で暮らしてる時にはなかった、社会人になったが故の都会男子の習性のようなものだ。特に駅で年頃の女の子には絶対に近寄ってはいけない。依然としてなくならない、凶悪な痴漢冤罪の餌食になるという常識的な危機感に見舞われてしまうのだ。


「なっ……な、なにかな?」


 何もかもを取り繕う勢いで返事をすると、少女は手に持っていた赤いカバーの手帳を見せてくる。

 開かれた手帳には、よく分からない紋様と、少女の顔写真が貼られていた。

 色は違うが、似ているのは警察手帳だろうか。


「えっと、はじめまして。アタシは家具屋坂刀娘カグヤサカ・トウコっていいます、どうぞお見知りおきをー」

「あっ、あっ、ご丁寧にどうも……俺は……あー……フィフキエルっていいます」

「なにどもってるのよ……共感性羞恥で死ぬからやめて……」


 フィフキエルが両手で顔を覆い、恥ずかしそうに声を震わせる。あっあっ、これは腹話術です気にしないでください俺は二重人格の異常者なんです。

 誰にともなく弁解じみたことを言いそうになると、少女――家具屋阪刀娘は緊張も露わに言った。


「救世教団の天使サマですよね? アタシは国営退魔組織【輝夜】の下請けっていうか、下位組織っていうか、そんな感じの【曼荼羅】ってとこに所属してる新米退魔師なんですけど。ちょこっとお話聞かせてもらっていーですか?」


 少女の台詞を受け、俺は手の中で弄んでいたヌイグルミを見下ろすと、小声で囁きかける。

 すると律儀にフィフキエルも合わせてくれた。


「(え、何この子、電波系なの? どうなのフィフちゃん)」

「(自分を愛称で呼んでる痛々しい奴みたいだから、フィフちゃんはやめてくれない……?)」

「(いいだろフィフ、可愛い響きじゃん)」

「(ハァ……性格変わり過ぎよ、あなた。本当、わたくしに何があったらこうなるのかしら……この子に関しては好きにしたらいいんじゃないの? 【曼荼羅】なんて聞いたこともないから、零細組織なのには変わりないでしょうけど【輝夜】なら知ってるわ。本物かどうかはまだ見分けはつかないけど、暇潰しにはなるんじゃないかしら)」


 退魔組織とか国営してるんだ、日本……そんなのあるならどうして外国の天使様がいたんですかね。きちんと仕事してるんですか、その【輝夜】ってところは。してないんだろーなー。していたら俺はこんなことになってないんじゃないですかねー? そう思うも、とりあえず疚しい動機で話しかけられた訳ではないと判断できたので、俺は自然と落ち着くことができた。

 というか非日常的な接触よりも、痴漢冤罪の方に緊張する自分が可笑しくて少し笑えてしまう。


「退魔師さんですか。ゲーム脳と心の中の十代男子が疼いちゃう響きですね。俺はちょっと忙しいんでまた今度にしてもらえます?」


 具体的には悪魔の死骸をどうするか考えないといけない。普通に消えろと念じたらいいのだろうが、天力が枯渇する寸前なので安易に使いたくないというのが正直なところだ。

 あとぶっちゃけこんなに若い女の子と話したくない。社会通念的に未成年の女の子と話していたら、周りから探るように見られてしまうのが確定的に明らかなのだ。今の俺ならそんな事はないのかもしれないが、染み付いた社会人的護身の心構えが邪魔をする。

 というわけでお断りだ。マンダラだかガンダーラだか知らんが、もっと歳のいってる素敵なお姉さんを送ってきなさい。むしろ爺婆の方が安心するまである。もっと言うなら未成年者が本当に退魔師とかいうお仕事をしてるようならますます信用ならない。そういうのは漫画とかアニメの世界とかだけで充分だろう。リアルで子供が駆り出されるような組織とは関わりたくない。


 そんな感じで遠回しに断ると、刀娘なる女の子はあてが外れたのか若干焦っていた。


「えっ、えぇ……? そんな取り付く島もない……後生ですから話聞かせてもらえませんか?」

「ええ、ですから要件が済みましたら考えておきますよ。(考えるだけな。なあフィフ、この悪魔の死骸はどうしたらいいと思う? ついでにこの子への対応とかアドバイスしてくれよ)」

「(知らないわよそんなの。好きにすればって言ったでしょう。どうしても関わりたくないなら、コレの処理を押し付けるのも有りなんじゃない?)」

「(それだ! ナイスだフィフ!)」


 意外と名案を出してくれたフィフキエルに感謝して、俺は笑顔で家具屋坂さんに言った。


「あ、急用を思い出したので、この悪魔の処理をお任せします。本当に退魔師ならできますよね?」

「……えっ?」

「それじゃ、縁があったらまた会いましょう」

「ちょっ、ちょっと待っ――」


 『マンションに帰る』と念じると、なけなしの天力が俺の座標を住処へと瞬間移動させる。ホントに便利だなこれ。ソッとベランダから顔を覗かせて、家具屋坂さんがどうするかを覗き見た。

 すると俺を見失った家具屋坂さんは右往左往して大慌てした後、頭を抱えて悶えていた。それから少しして、嘆息して立ち上がるや竹刀袋から大太刀を取り出したではないか。

 おお、と感嘆の声を上げる。家具屋坂さんは一息に、腰の回転と共に大太刀を抜き放ったのだ。その所作の美しさたるや、熟練の演武を見ているかのようである。そして大太刀の刀身にビッシリ刻まれた紋様が光っているのもあり、神秘性すら付加されて綺麗だった。


 家具屋坂さんの大太刀で、華麗に両断された死骸が霧散していく。


「おー。すっげぇ。ホントに退魔師なんだな、あの子」

「どうでもいいけど、いつ帰るの? あなた」


 フィフキエルの問いに、心の中でもう帰ってるよと思う。

 あちらこちらを見渡しながら、明らかに俺を探している家具屋坂さんを見下ろして、俺は密かに頭を悩ませはじめた。なんだか妙な流れを感じるな、と。

 転職してぇなぁ、俺もなぁ。独り言めいて呟くと、フィフキエルは馬鹿を見る目で俺を見た。









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