09,悪魔退治のすぐそこで(下)
カツン、と硬質な靴音が鳴る。スマートな靴音の正体は、革靴の踵が生んだものだ。
恋した天使が自ら近づいてきてくれたことで、
カツン、カツン、カツン。まるで歌劇の舞台上。靴音だけで道行く通行人をエキストラ以下の背景にまで叩き落とす、天蓋の如き存在感。黒髪を纏めていたゴムが切れ、ふわりと流れた毛先から黄金へと色を変えた。頭上に描かれる目映い天使の輪が、舞台上の天使を異様なまでに輝かせる。光を纏ったその姿は、まさしく【傲り高ぶる愚考】フィフキエルそのもの。
スーツ姿の天使は背中の羽根を畳む。傲慢な視線は子供の容姿であるのに堂に入り、自身に比して遥かに巨大な悪魔を塵芥のように見下していた。人には有り得ぬ天上の威光だ――悪魔は恋い焦がれる天使へと吸い寄せられるように歩み寄り。
「『
動くことを赦さぬという強烈な意思を秘めた言霊に、その五体を地面へと叩きつけられていた。
『アッ?』
命じられただけだ。それだけでヌーアは自らの体を地面に投げ出したのである。自傷をも厭わぬ全力での平伏、意のままにならぬ体に悪魔は混乱し。その頭を、天使の小さな足が踏みつけた。
「ママに習わなかったのか? 人様に迷惑をかけちゃいけませんって」
『イギャァアアア!』
ぐりぐりと、悪魔の頭を踏みにじって告げる天使の視線は冷徹な白銀色。天使の体に人の魂を持つ聖偉人には、比重を限界まで天使に寄せてしまった自身の変容に気づいた様子はない。
絶妙なバランスで奇跡的に成り立っている無性の天使。天使に寄れば寄るほど傲慢に、それ以上に強力な天力を発揮するが、そうであるが故に今の聖偉人には悪魔という『地上の汚れ』が許容できない。増幅し続ける殺意は瞬く間に臨界にまで達し、踏みつける悪魔の頭をそのまま踏み潰そうとした。だがそうすることで生じた地面の亀裂に目を細める。
「チッ……」
特大の舌打ち一つ。
聖偉人は自身の足から力を抜き、どうすれば周りに被害を出さないで片付けられるかを思案する。
思案して。
「あら、やっとわたくしらしくなった」
危険な思考に歯止めをかけたのは、本人にその気はないのだろうフィフキエルだった。
愛らしいヌイグルミの彼女は上機嫌に言う。
「悪魔というだけで薄汚いっていうのに、人間なんかに造られた雑魚は足蹴にするのが相応よ。そのまま踏み潰しちゃいなさいよ」
「………」
「どうしたの、あなた?」
人間なんか。何気ない言葉が引っ掛かる。フゥ、と息を吐いた。
聖偉人が目頭を揉む。凄まじい全能感に酔い、怒りに呑まれている自分を俯瞰する。
怒るな、怒りは仕事に差し障る。新社会人の頃、飲み会の席で絡んでくる上司にプッツンして、グーパンを食らわせてしまったことを思い出せ。後日、上司は覚えてないと言ってくれたが、露骨に干されてしまって部署を変えられた苦い思い出だ。
短気は損気だろう、自身にそう言い聞かせると怒りが引いた。
すると聖偉人の髪が黒に戻り、頭上の天使の輪も消え去る。ついでに『なんでもできる』という全能感も。呆気にとられたのはフィフキエルだ、折角本来の自分に戻ったと喜んでいたのに。
「みすぼらしい姿に戻らないで。見苦しいわよ」
「うっせ」
明らかに力が弱まったのは感覚で理解している。悪魔の頭を踏みつけたまま聖偉人は感覚を辿った。
先程のアレ。アレはいいものだ。どんな感じだったかなと思いを馳せて――
『ウッ、グゥゥアアア! オレヲォ、足蹴ニスルナァ!』
「うわっ」
地面に這いつくばらされていた悪魔が、癇癪そのものとも言える怒りを爆発させて、全力で跳ね起きた勢いで聖偉人を後退させる。蝙蝠の羽根を羽ばたかせ飛翔した悪魔の目には涙があった。
なんでだ。なんで自分の想いに気づいてくれない。どうしてこんな酷いことをする。どうして自分に優しくしてくれない。好きになってくれない。嫌だ、こんなの嫌だ、認めない!
意中の相手にフラれた初心な子供のように、悪魔は泣きながら逃げ去っていく。しかし、やはりというべきか、聖偉人は全く悪魔の内心になど関心を示すことはなかった。
思いのほか強い抵抗を受けて驚いたが、それだけ。聖偉人は数秒の沈黙を挟んで頷いた。
「うっし、こんな感じだったか? 朝、仕事に行く時の気合の入れ方だな」
途端、聖偉人の頭上に再び天使の輪が出現し、髪がフィフキエルのものと同色へ変じる。無性の聖偉人は自らの成した変化をいとも容易く再現したのだ。
我に返ったせいで弱体化したのは分かった。それはマズイ気がした。そしてできそうだったからやった――それだけの話である。制御を全く苦としないその様に、誰かが息を呑む。
「なによ、できるなら最初からやりなさいな」
「できるってことを今知ったんだから仕方ないだろ。それよりフィフキエル、アイツなんだけどさ、このまま逃がしてやってもいいと思うか?」
怒りが萎み冷静さを取り戻したお蔭か、聖偉人は悪魔の様子がおかしいと察していた。
まるで体ばっかり大きい子供を相手にしている気分になったのである。
実はそこまで悪い奴じゃないんじゃないか、そう思ってしまったからこその問い。
それにフィフキエルは呆れたように答えた。彼女は聖偉人の疑問には全て答える存在である。
「いいんじゃない? どうせアレのこと、【曙光】が回収する為に動いているでしょうし。あの雑魚を泳がせるだけで【曙光】の拠点が割れるなら安い買い物よ」
「あー、そうなる?」
「当然。でも【曙光】の回収が遅かったら、またわたくしの所に戻ってきそうね。力の差は思い知ったはずだから、手当たり次第にマモを集めるんじゃないかしら。そう考えると逃がすのは全然有りだと思うわよ? わざわざマモを集めて来てくれて、わたくし――じゃなくてあなたの力を回復させられるかもしれないんだから」
「……なんだって?」
遠ざかっていく悪魔の姿は、既に彼方にある。豆粒みたいに小さく見えるほどに遠いのだ。
聖偉人はフィフキエルの言葉に眉を顰める。物騒な予感を懐かせる台詞だったからだ。
「マモを……集める?」
「……? ええ。あなたもマモは必要でしょう? 呪いに侵されたせいで記憶が失くなってるなら、マモを糧にして回復するのが一番効率がいいもの。充分なマモがあれば呪いも洗い流せるわ」
「……アイツが、人を殺すってのか?」
「そう言ったつもりだけど? 別に良いじゃない。アレが集めたものも、あなたが取り上げればいいのだから」
あっけらかんと言い放つフィフキエルに、人の心が絶句する。
マモとは魂だと聞いた。それを集めるというのは、すなわち殺人行為を意味する。
聖偉人はまたしても舌打ちした。悪魔は所詮、悪魔でしかないのだ。
あんなものを野放しにしていては、とてもじゃないが枕を高くして眠れないだろう。あの悪魔を逃がしたせいで人が死ぬと知ってしまったら、余計な罪悪感を覚えて安眠できなくなってしまう。
「クッソ、それなら逃がす訳にはいかねぇじゃねぇか!」
「どうして?」
フィフキエルの疑問は無視し、スゥー……と深く息を吸って念を溜める。
何度も使った能力だからか、もはや意識するまでもなく行使は能う。人間の感覚ではない、天使の具える機能でもない、規格外の才を宿した肉体が遣り方を教えてくれた。
「『戻ってこい! ここに、今すぐに!』」
『――ナッ――ンダ!?』
願いとは意思のベクトル。何に願うかではない、どうしてほしいかを考える思念の形だ。ゴスペルに聖偉人と称された金髪銀眼の天使の目の前に、願いの形が具現化する。
遥か遠方にまで逃れていたはずの悪魔が、唐突に出現したのだ。距離を手繰り寄せる異常な現象、それに逃げ切ったはずの悪魔が瞠目する。見たことのある景色がそこにはあって、混乱した。
だがすぐ後ろにある天使の気配に、悪魔はすぐ我に返り慄然とする。そんなまさかと背後を振り返ろうとした巨体のキメラは――しかし、振り返ることを赦されなかった。
「『平伏せ!』」
『アガッ』
先刻と全く同じだ。肉体が随意とならず、地面に叩きつけるようにして這いつくばってしまった。
藻掻く悪魔の背中を、苦々しい顔で見詰めながら、天使はフィフキエルへと問う。
「……殺すなら、どうやって殺せばいいんだ」
「え? 殺すの?」
「……不本意だけど、俺がやらなくちゃ人が死ぬだろ。放り出して俺は知りません、なんて無責任な態度は恥ずかしくて取れねぇよ」
「殺してもメリットなんかないと思うけど……いえ、あったわね。このブサイクな雑魚悪魔が死ぬ、これに勝るメリットも考えてみたらなかったわ」
「………」
「そうねぇ、殺すならわたくしの『浄化』を使えば? 悪魔には効果覿面よ。ああ、さっきからあなたが連発してる、おかしな力でもいいわよ? わたくしにそんな力はなかったと思うけど、使えるなら使うべきね。『死ね』とでも命じたら死ぬんじゃない?」
悪魔は頭上で交わされる会話に恐怖した。愛しの天使が自分を殺す算段を立てている、なんで、どうして。自分はこんなにも――こんなにも? こんなにも、どうしたんだ?
混乱する。迫る死の予感と、足蹴にされた痛みと、胸のあたりから発される謎の痛み。これはなんなのだと懐疑して、足掻くように悪魔の【魔力】を全開にして立ち上がろうとする。
だができない。立ち上がれない。天使の天力に抗えるだけの力が自分にはないのだ。まさか、このまま死ぬのか? 成す術もなく、殺されてしまう?
『イ、嫌ダ……嫌ダァァァ!』
「………」
駄々をこねる子供のように手足をばたつかせるも、やはり這いつくばる体に力が入らなかった。自身の意思に逆らい、天使の命令を遵守してしまった。
それを憐れむように見下ろす天使に悪魔は抵抗する。体が動かないなら別の力を使うしかない。今はとにかく生き残るのが先決だ。昨夜、天使を一度は行動不能にまで追いやったように、獅子の鬣を変化させて多数の武器にした。
刀、剣、槍、銃。その全てに渾身の魔力を宿して、通常兵器の数十倍にまで威力を跳ね上げたそれを愛しの天使へと向けてしまった。
だが、それが通用したのは奇襲だったからだ。天使が油断していた上に、完全に視線を切っていたからである。目の前で相対した状況で、なおかつフィフキエルほどの傲慢さを具えていない聖偉人は、驚きながらも簡単に対応してのけた。
四方八方から迫る刀剣類の悉くを、手を払うような所作の一撃で全て破壊してのけたのである。あまつさえ分厚い鉄塊をも貫く、魔力で強化された無数の銃弾をも蝿のように叩き落された。
「おっ、と……おいおい、俺の反射神経ぶっ壊れすぎだろ」
乾坤一擲の反撃に対する天使の感想はそれだけだった。這いつくばりながらも悪魔は愕然とする。
ここまでなのか。ここまで力の差があったのか。だったらどうして、昨夜はあんなにも簡単に不意打ちなんかを食らったんだ。意味が分からない――そう思って。
『ア……オマエ、誰……?』
ようやく、悪魔は目の前の天使がフィフキエルではないと気づいた。
フィフキエルによく似ている。天力も、姿も。だが全く違う存在ではないか。
だってフィフキエルは、こんな、こんな――
「『死ね』」
『ィイッ』
天力が自身の体を侵す。己を死に至らしめようとする。ヌーアはそれに死に物狂いで抗った。
何度も天力を無駄遣いしていたせいだろう、消耗している奇跡の力に拮抗してみせた、悪魔の底力を見てフィフキエルが呆れたように呟く。
「あらら。天力の使い過ぎみたいね。ガス欠だわ」
「マジでか。よりにもよってこのタイミングかよ」
「どうするの?
「……いや、それをしちゃダメな気がする。勘だけどな、なんでかこの勘を無視できねぇ」
「なら方法は一つね。天力が尽きかけてるなら、拳で殴り殺しちゃいなさい。わたくしなら汚くて触りたくもないけど、どうしても今ここで殺しておきたいなら他に方法はないわよ?」
「うぇぇ……クソッ、こんなことなら焼き肉天国するんじゃなかった」
嫌がりながらも、さほど心理的な抵抗を覚えていない様子なのは、きっと人間の心が天使に傾いている状態だからなのだろう。腕まくりをしながら悪魔の背中の上に立った聖偉人が嘆く。
「
† † † † † † † †
「うるさいなぁ! 静かに死ねよ!」
「面白いこと言うのやめて?」
「混ぜっ返すのもやめろ、フィフ! 素面でこんなのやってられるか!」
断末魔を上げる悪魔の後頭部を、天使が小さな拳で殴り続けている光景に、その天使の回収に来ていた少女は顔を引き攣らせてドン引きしていた。
セーラー服姿の彼女は、一部始終を目撃していたのだ。
これ、ホントに人間? 黒髪の少女は乾いた笑みを零し、呟く。
「――バケモンじゃん、コイツ」
アタシの手には負えない気がするんだけど。
少女の呟きは、小さくなっていく悪魔の断末魔に紛れて消えた。
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