4章
夜気に川の匂いが溶けている。
岸から離れた位置を歩いているのに、まるで水の中にいるようであった。
警察の警戒は厳しい。五分置きにパトカーのランプが、近辺を走っているのが分かる。
二人が犠牲になった河原に、パトロールがないのは、天城家へ引き継がれたからかもしれない。
カラス天狗たちが夜陰に紛れて、活動しているはずだ。
とはいえ、野次馬が多すぎて、充分には動けなさそうであった。
ため息が出るほど、人出がある。
犯人にオカルト性を求めた結果、夜にやってきているせいだろう。
隼の前を十字架と杭を持った人影が歩いている。
古めかしい太いバンダナと、長髪が夜目に映る。
変な人が近付いたら逃げるだろう。当たり前だ。川寄りに立っていた人影が、その接近に気付き、堤防へ歩み去るのが見えた。
隼はそのシルエットに見覚えがあった。
恐らく待ち合わせの相手――媛香だ。
後を追いかけた。
バンダナのバンパイアハンターが、隼の足音に振り向いたが、視線のみで歩みは止めない。どんどん下流へ進んでいく。
隼はその様子を確認すると、まだ逃げている影へ声をかけた。
「千濡さん」
堤防の斜面直前で、影が止まった。
「袖篠くん――?」
隼は返事をしてから距離を詰めた。
堤防上の街灯から、ほんのりと橙のベールが届く位置であった。
仄かに顔が照らされている。
浮かぶ表情には脅えがあった。隼の肩越しへ、視線を投げている。
バンダナのハンターは、かなり遠くへ歩み去っていた。
「変な人が追いかけてきたのかと思いましたの」
「今度待ち合わせる時は、日中の安全な場所にしようね」
「それってデートのお誘いですか?」
いや――と隼は返事に窮した。
そんなつもりは全くなかったが、確かにそう聞こえなくもない。
「事件の話をする時だよ」
隼はそう付け加えた。
ちぇ――と、媛香は堤防へ上り始めた。
何をしたいんだろうと思いつつ、隼は仕方なく彼女に続いた。
お尻辺りで後ろ手に組みながら、媛香は楽しげに上っていく。
隼の頭に波美との約束が思い浮かぶ。
早く帰って研究しないと――。
「千濡さん、事件のことだけど――」
「そうだ、隼くんは血液型って何ですの?」
呼び方が変わった。意表をつかれ、思わず答えてしまった。
「O型だけど……」
「私と相性は抜群ですわ」
「あの――千濡さん?」
「じゃあ、誕生日は?」
それから質問が続いた。
犯人のことを訊く暇もない。
無視して帰れるほど冷徹にもなれず、堤防を下流へ向かう媛香に続いた。
質問は続き、適当に答えているだけで、時間は結構経っていた。
かなり下流まで来たようだ。
もう少し歩いていけば、水門がある。
支川に対する門で、黒く塗られた外観から『黒水門』と呼ばれている。
十分ほどの分岐で東京側へ向かえば、妖怪体の媛香と会った橋へ行ける。
あの場所も暗かったが、工場らしき建物の多い、この近辺も負けていない。
住む人が少ないせいか、灯りが弱い気がする。
高水敷まで照射範囲が届かず、水辺に近付くほどに暗くなっていく。
媛香が言ってたように、人目にはつかない場所だ。
つまり、本当の犯人が動くには、好都合と言える。
「隼くんって、好きな人はいるんですの?」
いい加減にしてほしい――隼は呆れた。
「それが事件に、一体なんの関係があるの?」
「答えてくれたら、私もお話しますわ」
夜目にも真剣な表情が見えた。
それで隼も、真面目に答える気になれた。
「いるよ。ずっと片思いだけどね――」
「袖篠くん――?」
声が聞こえた。
『片思いの君』だ――。
自分で言ってしまうとは何と不覚。
声の主は、坂本波美だ。
噂をすればなんとやら。
このタイミングで遭遇するとは、色々な意味で、運が悪いとしか言いようがない。
聞かれたか――隼の不安はまずそこにあった。
恋心のない、ドライでクールな関係だと思わせることで、吸血鬼調査隊は成り立っている。気持ちを知られたら、一緒に行動できなってしまう。
「やあ――坂本さん、こんばんは」
「まさかと思うけど、事件を調べてるんじゃないでしょうね」
波美は川の方を見ながら言った。
声にはからかいの調子と、親しみが感じられる。
「菓子作りの研究に行き詰まって、夜の散歩だよ」
嘘は言ってないぞ――隼はまず自分に言い聞かせた。
ついでに矛先を変える。
「坂本さんこそ、こんな時間に何を?」
「わたしはバイトの帰りよ」
「バイト――?」
こんな時間に終わるバイトとは何だろう――と、怪しい想像を次々に思い浮かべる。
「家庭教師よ」
下衆の勘繰りに気付いたのか、波美が自らをフォローし、隼の妄想を断ち切った。
「知り合いの女子中学生の、勉強を見てあげてるの」
「そうなんだ」
隼はちょっと安心した。
「紹介しないわよ」
「――何を?」
「その子。純真なんだから、汚れないように守ってあげてるの」
「そうなんだ――」隼は、は――っと気付いた。「坂本さんの中で、おれはどういうキャラなんだよ?」
「気付くの遅いわ」
波美は笑い声を上げた。楽
しげで明るい声は、閉塞的な夜の世界を、揺るがす力があるようだ。
「ふうん――」
隣で媛香が言った。
すっかり忘れていた。
媛香は明らかに不機嫌そうだ。
「ところで、そちらは――?」
波美も不機嫌そうに言った。
何なんだ――隼の平常心が崩れた。
「こちら、クラスメイトの坂本波美さん――」
「ふうん――」
媛香が同じ言葉を洩らした。
値踏みするような目には、明らかな敵意が見て取れる。
反対に波美は「どうも」と、笑顔でやり過ごした。
なぜか媛香の睨みより、怖い。
「こちらは千濡媛香さん――」
やばい――追いつめられていることに気付いた。
媛香をどう紹介するべきか――だ。
事件絡みとは絶対に言えない。
二人の視線が突き刺さる。
「おれの料理の師匠なんだ」
とっさに出た言葉だが、一番当たり障りのない紹介じゃないかと、隼は自分を褒めた。
「ふうん――」
今度は波美が探る目つきになった。
「しょうがないからばらすとね、今回研究しているのは、実は和菓子だったんだ。ちょっと手に負えなくて、師匠の出番――というわけ」
おれ、ナイス――心の中でべた褒めした。
ところが――。
「初めまして、坂本さん。私、隼の許嫁です」
「な――」
予測を越える言葉に、隼は絶句した。
「料理ベタな私に、手取り足取り教えてくれてたんです。こんな時間まで面倒見てくれるのも、私に惚れてるからかしら」
今までの言い訳が台無しだ。
何とか言葉を継がなければと思ったが、口がぱくぱくと動くのみであった。
波美の顔から一切の表情が消えていた。
「高校卒業と同時に籍を入れるつもりなんです」
「ちょ――千濡さん……何を言ってるの――?」
「式はもう少し後になりますが、坂本さんも来てくれますか?」
「ええ、考えておきます」
波美は意外と普通に言うと、一礼をして、隼の横を通り過ぎた。
その背を追うより先に、隼は媛香に言った。
「何のつもりだよ!」
「そっけないですね。あれは脈がないから諦めた方が良いですわ」
媛香は悪びれもせずに言い放った。
隼は返事もせずに、波美を追いかけた。
坂本さん――と声をかけると、くるっと振り向いた。
「何?」
「千濡さんが言ったのは――」
「嘘でしょ」
「え?」
「分かるわよ」
「――どうして?」
「袖篠くんがそんなに甲斐性があるとは思えないもの」
波美がにこりと笑みを浮かべて言った。
「そうか――良かった」
「そこは怒る所よ」
今度は波美が声を上げて笑った。
ええと――と、戸惑っているうちに、波美の笑顔が消えていた。
「でも、彼女との関係を説明する時、ごまかそうって考えたでしょ」
ばれてる――とはいえ、本当のことなど言えるはずがない。
返事にさえ窮してしまった。
波美がまた笑った。
声のない笑いだ。
ぼんやりとした街灯だけでも、寂しげな笑顔なのが伝わった。
「じゃあ、わたし、行くね」
小さな背中を見せると、波美は深海のような夜に分け入り、消えていった。
全て打ち明けたい――隼は本気でそう思った。
一歩踏みだしかけ――止めた。
彼女を安全圏に置いておくために、それは絶対にしてはいけない。誰に言われたわけでもない。自分で決めたことであった。
たとえ二人の仲が壊れても、波美が危険な目に遭うよりは、何倍もいい。
おれが我慢すればいい話だ。
そう結論づけて、隼は振り向いてびっくり。
いない――。
媛香がいなかった。
「ちょ――ちょっと、マジかよ!」
踏んだり蹴ったりだ――隼は自嘲気味に思いながら、土手を駆け降りていった。
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