5章

 隼は高水敷を勘のみで歩いた。

 下流へ向かっているつもりだが、定かではない。

 なんせ光が届かなくて可視性ゼロなのだ。

 五感が人並みの隼には、向かないフィールドであった。

 人並みかどうかも怪しいけどな――波美を傷つけてしまったことを、未だに引きずっていた。

 もっとうまく嘘をつければ、とは叶わぬ願いである上、嘘でごまかせる自分なんか好きになれるとも思えなかった。

 集中力が全くもって欠けていた。

 川から何かが飛んでくるまで、その存在に気付けなかったのだ。

 かわしきれず、隼は左の甲で弾いた。

 直撃は避けた――が、その勢いに負け、身体が宙に浮き、もんどりうって地面へ落ちた。

 普段ならこんなに後手にならない――!

 痛みは無視。

 すぐに起き上がった。

 左手が痺れている。

 攻撃方法を推理――するまでもない。袖がびしょびしょだ。

 そうか、水だ――。

 飛んできた物の正体だ。

 水を塊にして飛ばしているのだ。

 体勢低く、ジグザグで川岸へ近付く。

 二撃目が、さっき立っていた辺りで弾けた。

 相手は水棲の妖怪。引き込まれたら勝ち目はないが、正体を掴めば、展開を優位に進められる。

 水辺ぎりぎりのラインで足を止めた。

 まだ左手の痺れが取れない。

 隼は警戒しながら目を凝らす。

 遠い町の煌めきが、川面の動きを捉えた。

 いた――!

 川の流れに乱れ――そこに波紋を見つけた。

 力強く弧を描いている。水面下でUターンしているのだ。

 隼は掌より少し大きな石を持った。

 ざざっと水を鳴らし、影が飛び出る。

 その先端部から水が噴き出た。

 隼は身体を倒しながら石を投げた。

 水弾は隼の上を飛んでいった。

 交差するように、アンダスローで放った石は水の上を跳ねていく。

 どうっ――と川の中程で音がした。

 当たったようだが、川へ意識を向けた時には、影は既に水中へ戻っていた。

 下流へと波紋が移動している。

 追うか一瞬迷う。

 媛香を探すほうが先ではないか――という迷い。

 辺りに人影は全くない。

 媛香が巻き込まれた可能性を考える。

 彼女は隼よりも妖怪の血が濃い。

 こんな僅かな時間でやられるとも思えなかった。

 となれば、今はあいつを追う方が得策だ――。

 隼はそう結論づけた。

 水を進む者を追って、隼は下流へと走り出した。


 走り出して数分。もう見失っていた。

 向こうは水が得意だから川にいるのだ。

 水中の移動速度に、普通の身体能力である隼が追いつけるはずもない。

 走って逃げる人間にだって追いつけるかどうか――隼は息を切らしながら、自嘲気味に思った。

 昼間見ても黒い、その名も黒水門が、夜を切り取ったように聳えている。

 本当の名前は知らない。いわゆる俗称だ。

 隼は足を止めた。

 最初の分岐点だ。右に行けば支川、左なら媛香と会った橋に行ける。

 つまり選択を誤れば追跡失敗となる。

 浅く狭い支川へわざわざ行くであろうか――。

 常識的に言えば、左の本川の方が水量もある。容易く逃げ切れるだろう。

 隼は頭を振った。妖怪相手に固定概念は通用しない。身体を水に同化できたり、人間体になれるとしたら、黒水門から支川へ入っても、充分に逃げられる。

 結局どっちなんだ――堂々巡りで思考が止まってしまった。

 その時だ――。

 まず耳が捉えた。

 ざざざざ――と下草を鳴らして、何かが通り過ぎた。

 長い――それは擦る音の長さで判断が付く。しかも速い――。

 隼の背後へと回った。

 陸に上がれるのか――?

 愚問であった。

 被害者は河原で襲われているのだから。

 目で追うが、影にとけ込む一瞬の姿だけでは、全く捕捉できない。

 しかもその円周は確実に狭まっている。

 草土が踏まれて立ちこめる青臭さに、小学校の時の飼育水槽のような生臭さが混じる。

 元々あった川の臭いとは異質の臭気だ。

 視覚、聴覚、嗅覚――通常の感覚では、追いきれない。

 今頼れるのは己の勘だけ――隼はそう決めた。

 軽く足を開いて腰を落とす。

 同じく力まずに両腕を緩く前に出し、呼吸を整えながら流れるように両手を動かす。右手がひらり……と描く弧を、左手がすう……と追う。

 父親に習った拳法だ。

 妖怪たちとの戦いで、何度も命を救われた技能だ。

 父親から受け継いだのは、この拳法と妖怪の血――どちらも大事な父親の形見なのだ。

 天の型、地の型、そして人を示す民の型――初歩であり、基本でもある三つの型を演舞するだけで、スイッチが切り替わる。

 感覚がほんの少しだけ鋭くなるのだ。

 わずか一割にも満たない差だが、この差が勝敗、生死を分ける。

 頼りにならないと言ってしまった五感が、新しい情報を伝えてきた。

 回る風圧に遅れて鼻に届く臭い――妖怪たちと戦うようになって、嗅ぐことが多くなった鉄のような臭い――それは血の臭いだ。

 隼は掌を正面に向け、空気の流れを生むようにゆっくりと軌跡を描く。

 自分の体内の命を力に変えていくイメージ。掌にその力が集まるイメージ。

 次第に自分以外の世界が、スローモーションのように流れる。

 脳の勘違いかもしれないが、これがイメージの導き出した結果だと、隼は信じていた。

 すぐ傍まで迫った影に、隼は掌を突き出した。

 思った以上に硬い手応え。

 げふ――身体へ当てたはずが、突き出した掌のすぐ近くで呼気が漏れた。

 前髪を揺らした息には、血の臭いが混じっていた。

 身体に口がある――?

 確かめるより先に、長い身体は転がるように地面へ逃げて、闇に溶けていた。

 一瞬だけ目に焼き付いたシルエットは、媛香の妖怪体に酷似していた。

 ずずずずと、地を擦る音が遠ざかる。

 逃がすか――隼は追って闇へ踏み込んだ。

 あの血の臭いは、隼の攻撃で吐いたものではない。

 長い飲食を繰り返した末に、こびりついた陰湿な臭い――つまりそれは、犯人の可能性が高いいうことだ。

 媛香のことは信じている。

 しかし姿をくらませたタイミングと、あのシルエット。

 渦巻く疑惑を晴らすためにも、捕らえるしかないのだ。

 巨大な蛇が蛇行するような音が、がさりと乾いたような音に変わった。草むらに入ったようだ。

 本川へ向かって遠ざかっていく。

 隼は警戒しながらも、草むらへと分け入った。

 水音はしなかった。草音も聞こえない。

 川へ逃げたわけじゃなく、待ち伏せか――。

 自分の居場所だけが歩く音で晒されている。

 そんな不公平を罵りながらも、隼は草の中を進んだ。

 さららと流れの速い川音が、耳につく。

 川にだいぶ接近している。

 その時――。

 ざ――っと草を切り散らして太い影がしなって迫った。

 隼は左足を蹴り上げる。

 力負けするのは目に見えていた。

 だから影に触れる瞬間に軸足を跳ね、身体を浮かせた。

 ガツリと硬い感触が足底に伝わる――思いの外、力が強かった。

 このままでは遠くまで弾き飛ばされてしまう――!

 瞬時にそう判断すると、隼は軸足だった右足を、隼は攻撃に転じた。

 飛ばされる直前、身体をひねり、右足で更に蹴り返したのだ。

 力を相殺し、引き算で残った力の分だけ、隼は飛ばされた。

 着地した姿勢のまま、後ろへ草を分けながら滑る。

 目を上げた時には、草を掻き分ける音は川へ向かっていた。

 後を追ったが、気配は消えていた。

 草は途切れ、足下の土が軟らかくなっていた。もう鼻先には川がある。

 隼は戦いの気が、薄まっていくのを感じた。

 水に逃げられたか――。

 媛香が犯人ではないという確証が得られないまま、同じタイプの妖怪体だという考えだけが強まった。

 心を侵食するように浮かぶ疑念を、隼はかなり苦労してかき消した。

 光量不足と知りつつ、辺りを見回す。

 目を凝らすと、下流に影が見えた。

 隼は警戒しつつ近付いた。影は二つ――横たわる影の脇に、座り込む影。

 近付くにつれ、重鈍な闇の中で、発光するような白い肌が見え始めた。

「まさか――」

 隼は駆けだしていた。

 座り込んでいた白い肌が、やっと隼の接近に気付いて顔を上げた。

 裸の媛香であった。

 隼は目を逸らすように、伏せた影を見た。

 うつ伏せの後ろ姿には見覚えがあった。

 媛香を待っていた時にすれ違った、バンパイアハンターであった。

 暗くてよく分からないが、死んでいるのだけは確かであった。

「私じゃないの――私が来た時には、既に死んでたの――」

 隼は応えられず、バンパイアハンターの傍らにしゃがみ、彼の脈を取った。

 予想通りの結果が得られただけであった。

「ねえ、隼くん――信じて! 私じゃないの」

 媛香は涙声で訴えた。

 天城ならどう判断するだろう――?

 彼女の行動を思い浮かべながら、媛香へ視線を移した。

 泣き崩れる少女に対して、親しみや同情などの感覚を排除し、その犯罪性だけを推理する。

 事実のみを判断材料とするのだ。

 考えたのはほんの五秒。

 隼は決心した。

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