1章

 あれから三ヶ月――。

 結論的に言えば、何も変わっていない。

 どうやら、あの吸血鬼は本体ではなく分身、つまりアバターだということが報告されている。

 そのおかげで隼はお日様の下でも歩けるのだ。

 何も困ったことはないが、何の恩恵も受けていない。

 つまり何も変わっていない――ということだ。

 パスタを茹でながら、ぼうっと、そんなことを考えていた。

 わがままを言って、買ってもらった大きな寸胴鍋の中で、お湯が脈打つように沸き立ち、中でパスタが踊っている。

 日曜日の昼ごはんである。

 味はアマトリーチェ風パスタ。

 インターネットで検索して選んだだけで、初挑戦だ。

 炒めたベーコンにタマネギとしめじを加え、更に唐辛子とニンニク。母親の白ワインを頂戴して、風味をつけた。後はトマトソースを入れ、黒胡椒で味を調えたら、パスタの出番となる。しかも昨日のサラダで余ったトマトも使うという贅沢さ。

 ベーコンの肉汁と香辛料が、鼻を通り越して腹を直撃する。なるほどベーコンよりパンチェッタを勧める理由が分かった気がした。もっとブローが激しいに違いない。

 吸血鬼の血を引き継いでいたら、ニンニク抜きだったかもしれない。そう思うと、何も変わっていなくて良かったなあ、としみじみ思うのだ。

 カア――カラスの鳴き声が、かなり近い所からした。

 昼間の陽光が差し込むキッチンでも、かなりどきっとする。

 隼は窓に近付いた。その間に二回鳴かれている。

 ルーパー窓を開閉すると、はらりと葉っぱが落ちてきた。それに気を取られた隙に、大きな羽ばたきが遠ざかっていく。

「またか……」

 拾い上げた葉をなぞると、文字が浮かび上がってきた。

 場所と時間だけだが、それだけで依頼主の顔が浮かぶ。

 大きくため息をついている間に、葉の文字は消え、どんどんと萎れていった。

 ゴミ箱に捨ててから、料理に戻るが、先程までの高揚感は消えていた。

 昼食の後の予定が、半ば強引に決められてしまったのだから。


 隼の住んでいる天日部市は川が多く通っている。

 主要な三つの川の内、二本が、自宅のある香々櫛町を挟んで流れていた。

 呼び出されたのは東に流れる遠果川だ。

 二十メートルの川幅が、青々とした草の茂る高水敷に挟まれている。

 水際には背の高い草が、川に沿って群生していた。

 騒々しく集まる人間たちを無視して風に揺れている。

 堤防上からその様子を窺う隼も、傍目からは同じ穴の狢でしかない。

 緑の中に場違いな青は、警察のブルーシートだ。その奥には死体が転がっている。

 どこから情報が洩れたのか、立入禁止のロープを囲むように、覗き込んでいる人が数十人いる。

 堤防上からも、恐いもの見たさで、遠巻きに見学する人たちが列を成していた。

 隼は彼らの後ろを歩いて、土手唯一の大木へ向かった。

 立派な木は、堤防を越える高さを誇っている。

 待ち合わせの相手を探し、隼はその木の上を見上げた。

 ふっくらと膨らむような梢に人影はない。

「そんなとこにいないわよ」

 後ろから声を掛けられ、隼は振り向いた。

 ほぼ同じ目線の位置に顔がある。一重瞼だが綺麗な弧を描き、控えめな鼻と口は上品で和風な顔立ちをしている。

 待ち合わせの相手である天城椎葉だ。

「だって、高いとこ好きだろ」

「時と場合によるわよ」

 否定はしないらしい。

 椎葉が隼の横に並んで、野次馬の向こうのブルーシートを見た。

「どう思う?」

「吸血鬼か、ってこと?」

 最初の事件は三日前。失血死で亡くなった人が、岸に倒れていた。事故ではないと断定した警察は、パトロールを強化した。

 ここまでは前もって聞いている。

 天城家も警戒していたらしいが、再び事件は起こった。隼がこうして呼ばれたからには、同じ失血死だと想像がつく。

 そこから導き出せる推論を口にする。

「生き血を啜るのは、吸血鬼だけじゃないだろ」

「他の妖怪の仕業だと――?」

 隼が最近学んだ妖怪たちを列挙してみせた。

 野襖、樹木子、飛縁魔が当てはまる。

 ネームバリューの高いろくろ首も、血を吸うという文献があったが、それは未確認だ。

「現在純粋な吸血鬼は、両手にも満たないんだ。なら確率的に、他の妖怪の仕業とした方が、方向性を見誤らなくていい」

「それだと、あたしたちの管理能力を問われちゃうじゃない」

 勝手なものである。

 現在、吸血鬼は八名しかいないという。

 吸血鬼の姫が反乱を起こし、その王は最後の抵抗で、姫の吸血鬼の力を七つに分け、世界に放ったらしい。

 つまり実際の吸血鬼は姫一人だが、彼女にはその能力は無い。

 散らされた七つの力は、吸血鬼の眷属の姿をしているだけではなく、倒せば力は取り戻せるため、姫は彼らを追っているのだ。

 隼が倒したのは、その七人のうちの誰かのアバターだ。アバターでも、能力譲渡の定義は生きていて、隼はその力を引き継いでしまった――というわけである。

 これは天城一家から聞いた情報だ。確かめる術はないが、隼は大方信じている。

 妖怪を管理し、妖怪絡みの事件が起きた時に、解決する役目を負っている一族がいる。

 日本を富士山で東西に分け、東を管理しているのが、天狗一族――つまり天城家だ。

 その一人娘であり、跡取りでもある椎葉は、日本に上陸した吸血鬼を倒そうと試みる。隼は流れで手伝わされ、アバターと戦うこととなったのだ。

 更に、流されるように、他の事件にも関わることとなって、結果、隼は今ここにいる。

 椎葉は細い顎に手を当てて、眉間に皺を寄せた。

「他の海外系モンスターかも――」

「往生際悪いな」

 隼は苦笑する。

 確かに洋物でも、モルモーやラミアがいる。その他にも、バンシーが血を吸うという説を聞いた。

 これだけいれば、ありえなくもないが、こうなると容疑者だらけだ。

 その時だ――。

 刺すような視線を感じた。

 隼は辺りを見回したが、見える所にはいない。気配を探ってみる。

「分かった――?」

「今は――……いないね」

 椎葉は頷いた。

 ブルーシートよりずっと奥だ。

 すすきが群生する辺りに、僅かな形跡を感じる。

「カラス天狗たちは、気付けてないわよね……」

 椎葉は悔しそうに言った。

 天城家が使役するカラス天狗。文字通りカラスの顔を持った天狗だ。

 聞いた所によると、彼らは罪を犯した、他の種族の妖怪らしい。

 罪人は姿をカラス天狗に変えられ、その懲役の間、天城家に仕えているのだ。その期間が百年、二百年と聞くと、人間で良かったと思えてしょうがない。

 追跡させるつもりだったのだろうが、椎葉の指示が出てからでは、素早い相手にはとても通用しない。

「袖篠がカラス天狗ならなぁ……」

 椎葉は怖いことをあっさりと言った。

 あら――と、声が野次馬の向こうから上がった。

 聞き覚えのある声だ。柔らかさの中に、厳しさが内包している。

 それで想像はついたが、視線をそちらへ動かした。

「やっぱり、袖篠くんじゃないの」

 坂本波美だ。

 同級生の、普通の人間の女子だ。隼の秘めたる片思いの相手であり、ひょんなことから校外活動の仲間でもある。

 横には彼女がクラスでいつも一緒の友達が憮然とした表情で立っていた。

 波美の言い方は親しげであったが、口調には棘があった。

 それはウニ並みだ。全包囲逃げ場のない尖り方である。

「吸血鬼かもしれない事件があったから、召集の電話したのにいなかったじゃない。まさか、ここへ来てるなんて……どういうこと?」

「え――と、だから……」

 ちらと見える端で、椎葉は知らん顔をしている。

「事件を知って先行したのさ、吸血鬼調査隊の隊員として」

 ふうん――と、視線が椎葉に動いた。

「で、ここで天城に会ったんだ――」

 椎葉は露骨に嫌そうな顔をして、同じく嫌そうに言った。

「暇に付き合わせられて、困ってたのよね」

 言いながら椎葉は、隼と波美たちの間を抜けていった。

「坂本さん、後はよろしくね」

 言葉は波美に向けているが、視線は隼へ投げて寄越した。

 意味は調査よろしく――だ。

 隼は小さくため息をついた。

 茶系の長髪が遠ざかっていく。

「何、それ? 押しつけられたのは私なんですけど?」

 見送っていた波美が、振り向いて膨れた。

 おっと――意識的に目を逸らす。

 無意識ではあまりのかわいさに見とれてしまうからだ。

 波美は美人そのものではないが、美人度は高い。柳眉が表情を凛々しくし、多少離れた目には愛嬌がある。シンメトリーの顔立ちが、非常に隼好みであった。

「じゃあ、あたいも行くね」

 横で友達が言った。

 え――今度は波美が慌てた。

「一緒にパフェ、付き合ってくれるって言ってたでしょ」

「オカルトマニアに付き合ってもらいなよ。あたいは帰って二度寝だ」

 オカルトマニアって俺のことか――。

 遠ざかる友達の背中を、またも波美は寂しげに見送った。

 それを寂しく見守る隼――間抜けにも程がある。やっと我に返った。

 逃げるチャンスだ。

 憧れの波美としている校外活動。その名も『吸血鬼調査隊』。リーダーは波美で、隊員は隼。今は二人だけの調査隊である。

 その存在意義はオカルトを調べることが目的なのだから、これは確かに絶好の事件だ。

 普通なら、憧れの子と会う口実に出来るのだが、隼は知っている。本物の事件があることを。

 だから誘えない。今回はダメだ。

 本物が絡んでいる時に、巻き込めるはずがない。

 ということで、隼も逃げることにした。

 人混みに紛れるように姿勢低く移動――したが、回り込んだ所で、リボンのついた茶色のパンプスが行き先を塞いだ。

 顔を上げるまでもない。

「あなたまで逃げる気?」

 波美だ。

 悲しさを内包した声が、隼の後悔を誘う。

 言い訳、言い訳――。

 頭を回転させるが、さすがにすぐには浮かんでこない。

 姿勢を戻すと、笑顔が待っていた。

 シンメトリーの、整った顔が作る笑顔は美しい――はずだが、何故か隼の背筋を冷汗が走った。

「さ、行きましょうか?」

「ど――どこへ?」

 「行く」が「逝く」にしか聞こえない。恐れ慄く隼へ、更に波美は笑顔を見せた。

「怖がらなくても大丈夫。喰ったりしないから――」

 冗談になってない――。

「あなたはね」


 波美の言葉の意味は、数十分後に理解する。

 香々櫛駅を通り越して商店街へ。

 入ったのは、その中程にあるケーキ屋だ。その二階が喫茶店になっていて、店頭のケーキも食べられるのだ。

 そこの季節限定のケーキパフェを、波美は注文した。

 驚くべきはその大きさだ。通常のパフェの一・五倍はあるグラスに、何層にも渡る生クリーム、シリアル、スポンジ、フルーツ、そしてパフの交響曲だ。

 それだけでもフルーツケーキの様相を呈しているのに、とどめはバニラアイスに、シュークリームとチーズケーキが乗っている。

 三日分のカロリーは容易く取れそうだ。

「袖篠くん、いただきますね」

 波美は注文する前に言った。

 笑顔には険が取れていた。

「俺が払うのね――」

 今度は隼の頬がひきつった。

 デザートに千六百円なんて――。

 隼はコーヒーにしようとした。出費を抑えるためだ。

「あら、付き合ってくれるんじゃないの?」

「え――?」

 まだお仕置きは続いているようだ。

 結局、二つ注文した。

 パフェがくるまでの間、手持ちぶさたになるな、と思いきや、お小言タイムだ。

 波美が感じている、隼への不満から始まり、学級から学校、市や県に及び、挙げ句は日本への文句へ変わっていた。

 恐縮を装いつつ、矛先が逸れてくれたことに、隼はほくそ笑んだ。

 それにしても、色々な表情を浮かべる波美に見とれてしまう――。

 やがてパフェが到着すると、波美は締めに入った。

「袖篠くんは、まず人の話をちゃんと聞きなさい」

 唐突に切り替えた話題であった。

「今もほとんど聞いていなかったでしょ」

 見抜かれていた。

 波美の表情は、してやったりの勝利宣言をしている。

 ウェイトレスがパフェを置く。

 季節のフルーツとして、メロンとマンゴーが入っている。値段以上の豪華さだが、家計を知っている身としては、贅沢品にしか思えない。

 しかも想像以上にでかい。

 二つ並ぶと、完全に向かいの波美が見えない。

 ひょこ――と、脇から波美が顔を見せた。

「美味しそうでしょ」

 満面の笑みだ。

 やばい――見とれていて、返答が遅れた。

「坂本さん、食べられるの?」

 変な間の後にそう訊いた。

「まかせなさい」

 片目を瞑ってみせると、波美は体勢を戻していった。

 隼はしばし呆然と、彼女の顔があった空間を見ていた。

 一つの席で、こんなに近くにいるのに、これはデートではない。波美の肩書きも、ただのクラスメイトだ。友達くらいは名乗っても良い気がするが、接点がいまいち弱い。

 吸血鬼調査隊――これだけが二人の接点だ。

 まだこんなに話なんて出来なかった頃――三ヶ月前。

 波美は時折、友達とオカルトチックな話を休み時間にしていた。隼はそれを聞いていない振りをして、実は聞き耳を立てていたのだ。他愛も無い、怪談話ばかりで、隼は安心しながら、その声の心地よさを楽しんでいた。

 ところが、どこから手に入れたのか、吸血鬼が話題に上がっていた。探し出そう、という波美に、隼は危険を感じた。

 それが本物だと、その時には既に隼は知っていた。

 止めようと声をかけた。そうすると――。

「じゃあ、あなたを調査員に任命します」

 吸血鬼調査隊が結成された瞬間だ。

 調査は適当に済ませようと思っていた。しかし吸血鬼と出遭ってしまったのだ。巻き込まれるように戦うこととなった、そのきっかけでもあった。

 騒動は収まり、調査隊は解散かと思ったが、その後も怪事件が起こる度、召集させられていた。

 本物が絡んでいる時は、巻き込まないように遠ざけなければならないし、事件性が低いと、調査をしていても盛り上がらない。

 ジレンマであった。

 隼としては、波美といられるだけで楽しいのだが、それをカミングアウトさせられるはずがなかった。

 僅かでもこうして会えるチャンスを潰したくなかった。

 なんとか見とれないようにしないと――とも思っている。

 会話もままならない不器用さが一番もどかしい。

「今回の事件は吸血鬼ではなさそうよね」

 波美が唐突に語り始めた。

「河原の被害者?」

「噂で聞いたんだけど、川で大きな蛇を見た――って」

 波美は言いながらも、スプーンを往復させるのは止めない。

 見ている間にもパフェは減っていく。

「思い当たるのは?」

「蛇の姿か……。それならば……」

 隼の頭は、最近記憶したデータベースが引っ張り出された。

「七歩蛇、蟒蛇、化蛇、蛟、野槌ってのがいるね。あやかし――はでかすぎるし、蛇骨婆は蛇そのものじゃないから、除外だな。日本以外でもエキドナとか、結構いるよね」

 へえ――と、波美がスプーンをくわえながら感心していた。

 パフェグラスから、さっきと同じように顔を覗かせている。

「じゃあ、その中から血を吸う特性に絞れば、犯人が分かるね」

「文献で血を吸う記述が無いからといって、吸わないとは限らないんじゃないかな」

「どうして?」

「例えば――そうだな……、炭酸が飲める人と飲めない人がいるように、生き血を好む妖怪と好まない妖怪がいる。そうなると、文献で判断がつかなくなる気がしてね」

 実際に会うまで分からないってことね――波美は頷いた。

 言ってみると自分でも納得できる。

 先入観はよくないな――と戒めた。

「ちゃんと勉強してるのね」

 唐突に言われ、隼は返事に窮した。

 これは自分のためであった。

 こういう知識が命を救う。それを知っているからこそ、研究をしたのだ。

「うん、偉い、偉い」

 波美が頷きながら戻っていた。

 褒められるようなことは何もしていない。

 後ろめたさを感じていると、波美の声がパフェ越しに聞こえた。

「袖篠くんって、優しいからさ……、わたしのわがままに付き合ってくれるじゃない。本当は悪いな――って思ってるのよ」

 思わぬ人物評価に、隼は思考が止まった。

 意外と優良評価だ。

「由美子は袖篠くんを、オカルトマニアって呼んでるけど、わたしはいつも、そんなことないって言い返してるの。袖篠くんはそんなことに興味ないよ――ってね」

 由美子とは、さっき引き返していった友達だ。

 名前もうろ覚えな同級生に、隼は心で謝った。

「興味なくはないよ。マニアってほどではないけど……」

「じゃあ――調査で招集かけるのは、問題ないのね」

 ひょこりとパフェの横から、また波美が顔を見せた。

「もちろん」

 それどころか他の用事だって、喜んで馳せさんじるよ――とは、さすがに言えない。

「良かった――。じゃあ、早速良いかしら」

「え、何――?」

 ちょっと期待してしまう。

「今回、吸血鬼調査隊は番外編ということで――」

 ああ、この件も調査対象にしようということね――。

「いい?」

 思わず頷きそうになる。

 ダメだ、ダメ――隼は思い至る。

「ダメだ」

「駄目? どうして?」

 これは本物の事件なのだ。彼女を巻き込むわけにはいかない。

 波美の眉間で、皺が縦に寄っている。

 怒っているというより、前言撤回した隼への抗議のようだ。

 思い切って本当のことが言えたなら――と切実に思った。

 言い訳、言い訳、と頭で繰り返す。

 数秒――待つ方には長い時間だ。

 追いつめられた隼は、思いもよらぬことを口走った。

「今、スウィーツの研究をしてて、時間が足りなくて」

「そういえば料理するんだっけ――」

 その情報は幼なじみの学級委員長からだろう。隼は公言していない。

 隼は頷くと、スプーンでパフェを一口食べる。

 クリームも美味いし、スポンジも美味いが、パフェの宿命として味が混じり合う。その時に個々の風味が薄くなるのは、マイナスに思えた。

「これも美味しいけど、俺の方がきっと勝てるね」

 へえ~~と、波美が素直に感心した。

「甘味ハンターとしては食べてみたいところね」

 そこは「甘味ハンターって何だよ」と返すところだが、口が別人のように他のことを言っていた。

「じゃあ、その舌を満足させてやろう」

 しかも気取って何かのセリフのようであった。

 ハンターに対抗したキャラのつもりだが、自分でもよく分からない。

 あちゃぁ、やってしまった――。

 隼は叫びを上げながら、走って逃げたかった。

 波美はパフェの向こうに戻っていた。

 周りの声が急にざわめいて聞こえた。波美の言葉に集中していたせいだろう。スプーンとグラスが奏でる旋律が、ざわめきの隙間を埋めている。

 肩を落としながら、パフェをもう一口――。

「で、いつ――?」

 ためらいがちな声が、テーブルの向こうに聞こえた。

「何が?」

 ぐい――と勢い良く、波美が顔を見せてきた。

 これは怒っている。

 理由を考える。答えは彼女自身がくれた。

「食べさせてくれるんでしょ、究極のスウィーツを」

 『究極』とは言っていない。

 ハードルはかなり上がったが、訂正する余裕も無く、隼は頷いた。

「いつなら良いの?」

「え――と」

「調査をキャンセルするくらいだから、一ヶ月後――なんて言わないわよね」

 暗に言わせないと言っている。

「今度の土曜日」

 波美が笑顔になった。ご機嫌で戻っていった。

 正答だったらしいが、猶予は五日間となってしまった。

 スプーンがちらちら見える。もう三分の二が彼女の腹に収まっていることになる。

 隼はまだ半分以上ある。

 もうギブアップ寸前だ。

 グラスを避けなくても波美の顔が見え始めた。まだ鼻から上だけだが、目が合うには充分であった。

 にこり――と微笑まれた。

 やる気が出た。

 五日で事件を解決し、メニューの選定と仕込みまで、終わらせてやる――と。

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