第二話 柳井揚水機場の怪



「私は秋枝鈴音あきえだすずねっていうの。松島町から来たんだ。あなたは?」


由良奈ゆらな


「由良奈ちゃん、苗字は?」


「そんなもの、無い」


 由良奈ちゃんは本当にヘンテコな子で、生まれた時からこの敷地を出たことがなく、親も家も無いと言うのです。


「お前はあいつらの仲間じゃないのか? 初めて見る顔だ」


「あいつら?」


八広やひろという子供だ」


「ああ……」


 話を聞いてみると、由良奈ちゃんはこの施設を守る役目を与えられていると言うのです。


 八広というのは、この町の小学校に通うリーダー格の子供の名前。八広が肝試しと称して何度もこの施設に侵入しようとするので大変嫌っている様子でした。


「あいつは偉そうに仲間に威張っている割には小心者だ。物音を立てればすぐに逃げていく」


「ふーん、由良奈ちゃんもあいつのこと嫌ってたんだ。なんだか気が合うね。ねえ、私そっち行っていい?」


 ずっと鉄柵越しに話をするのが嫌だったので、鉄柵をよじ登って施設の敷地に入ろうと思いました。鉄柵は錆びた鎖が巻き付いていて開きそうになかったのです。


「ダメだ、誰も入れちゃいけないって決まり事がある。私がそっちに行くから少し後ろ向いてろ」


「うん」


 私は少しの間、施設の反対側の沈みゆく夕日で茜色に染まる田園地帯の風景を眺めていると「いいぞ」と声をかけられました。


 振り返ると由良奈ちゃんは私のすぐ目の前にいたので驚いてしまいます。くりっとした目、その顔はドラマの子役みたいに整った綺麗な顔立ちでした。


「近いよ由良奈ちゃん。びっくりするなあ」


 この時、なんだか不思議に思いました。鎖が巻かれた門は当然開かれていないし、鉄柵をよじ登ってきたのなら鉄の軋む音が聞こえてもいいはずなのに何も聞こえなかったのです。


「鈴音、お前も八広が嫌いなのか?」


「うん、だって私のことあだ名で「鈴虫」って呼ぶんだもん」


「酷いやつだな……」



 * * *



 ──カナカナカナ。


 夕方五時半。空が茜色から青紫色に変わり始めた頃、私は親戚の家に帰り着きました。


 由良奈ちゃんは帰る家が無いと言っていて、初めは冗談かと思っていましたが、帰り際、「私はずっとここにいなきゃいけない。お前はもう来るな」と告げられました。


 長屋にしまおうと借り物の自転車を押しながら庭を歩いていると、家の網戸越しに電気のついていない薄暗い部屋が見えて、仏壇に手を合わせてムニャムニャ拝むお婆ちゃんの姿と、ゆらゆら揺らめく蝋燭ろうそくに灯る二つの火を見ました。



 * * *


 晩御飯、家族みんなで食卓を囲んでいたところお母さんが訊ねてきました。


「鈴音は自転車でどこまで行ったの? ふーん、柳井揚水機場の方なんだ」


 柳井揚水機場という言葉を聞いたお爺ちゃんがニタニタと気味悪く笑みを浮かべながら「出なかったか? これ、これ」と両腕を前に出して、手首をだらんとしてみせました。


「ん? なあに?」


「ハァ……幽霊だよ、幽霊。鈴音を怖がらせるのやめなさいよ。じーじ」


 と、赤ん坊の妹をあやしながらお母さんが呆れ声で言います。


 なんでも、柳井揚水機場の門前に幽霊が出ると噂されていて、この町に住む人なら誰でも知っている心霊スポットになっているようでした。


「夜にな、道行く人々を恨めしそおうに見つめるそうだ」


 お爺ちゃんが私を怖がらせようとおどろおどろしく語ってみせますが、お笑い番組を見ながらお酒を飲んでゲラゲラ笑うお父さんがうるさくて、全然怖く思いません。


「私の友達が言ってたっけな。大人の女の人がジッとこっち見てた、ってさ」とお母さん。


「そういえば昔、あんた柳井揚水機場に肝試しに行ったことあったな」とお婆ちゃんに話しかけられたお母さんは首を傾げて、「そんなことあったっけ? だいぶ昔のことだから覚えてないや」と言いました。


「今はまあ、幽霊より施設管理人の柳井さんの方が怖いな。鈴音はあの敷地に入ろうとするなよ」


「えっ?」


「柳井さんは勝手に侵入しようとする子供らにな、かなり嫌気をさしておる。敷地の至る所に監視カメラと防犯センサーが取り付けてて、侵入したら警報が鳴って警察呼ばれるか、家から車ですっ飛んできて怒鳴り散らされるぞ」


「うん……分かったよ。お爺ちゃん」


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