第9話 萬屋やんごとなき 請負サービス 1

 気が付いたら玲子は田村朱美の部屋にいた。

 天井近くに浮いている状態で朱美を見下ろしていた。

 彼女はベッドの上で胡坐をかき、スマホで友達と楽しそうに会話をしていたが、その内容は玲子の悪口と言うより、玲子を酷く批判し、小馬鹿にした悪意のある揶揄やゆがほとんどだった。

 朱美はゲラゲラと下品な笑い声を上げながら「少しばかり美人だからって、いい気になり過ぎなんだよ。この間なんてさぁ~」と言いたい放題である。

 スマホから電話の相手の声が聞こえる。

「そんなこと言ったら可哀そうだよ」

「そんなことないよ。あんなブス。ドブ川にでもハマって溺れて死んじゃえばいいんだ」


 と憎々しく言い放った瞬間、パシンッ! と何かが弾ける音がして部屋の照明のすべてが一瞬で落ちた。その瞬間、部屋中の生活音も何もかもが消え、耳が痛いくらい無音になった。

「えっ、停電?」

 呟いて、窓の外に視線を向けたが、信じられないことに朱美の部屋全体に漆黒のとばりが下りたように、小さな光源の一つも見えない。


 慌ててスマホに目をやるが画面は真っ暗で、何度電源のスイッチを押してみても全く再起動しないし反応ない。


「やだ、マジで」と呟いた時、背後にゾクッとするような嫌な気配を感じて振り向けば、大きく見開いた恐ろしい目がじっと朱美を見下ろしている。


 びっくりした朱美は自営本能のようにベッドの隅に身を寄せ、体を小さく丸めて、

「あっ、あんた誰よ!」

 と大声で悲鳴交じりに叫んだが、その声は流れのまったくない水の中で叫んでいるように、響きもせず自分の口の周りにまとわりついているだけである。

 朱美が自室から脱出しようとしても水中でもがくように動きは緩慢で、階下にいるはずの両親に助けを求めようと、思い切り床を踏み鳴らそうとしたが、重く体にまとわりついている液体が邪魔をして、足は空しくも重い水を蹴るような動作しかできない。


「何で、何で、何で? 誰か助けてッ!」

 じたばたと暴れていると、体は勝手に仰向けになり、朱美の顔のすぐ前に恐ろしい表情の水原玲子がいた。

 長い髪は水中に大きく広がり踊るようにたゆたっている。


 まさに恐ろしい姿をした化け物であった。


「ギャアァァァァァァッ!!」


 思わず恐怖で大きく口を開け悲鳴を上げたその瞬間に、口や鼻、耳からも大量の水が一気に流れ込んで来て、呼吸ができなくなる。


「ご、ごめんなさい。もうあなたの悪口も言わないし、男たちの前でからかったりしない。だっ、だから……たすけ…………て…………」


 ゴボゴボゴボゴボッ! と口から大量の空気と泡を噴き出しながら、朱美の体はゆっくりと床に落ちていった。



 これが水原玲子が「生き霊」を飛ばした初めての体験だった。



 そして田村朱美は翌朝、起こしに来た母親に発見された。

 朱美はベッドから転げ落ちたように床に倒れていて、喉元を引っ搔くように押さえ、見開いた目は、眼球が飛び出しそうで、その形相はこの世のものとは思えないほど恐ろしいものだった。


 母親の説明を聞いても、警察はそんなオカルトじみた証言は信用できないし報告もできない。司法解剖をした法医学者も首を捻るだけで、田村朱美の死因に対し困惑が増すばかりである。

 一般家庭の自室で「溺死」など、決してあり得ない。

 科捜研や検視官が彼女の部屋を隅々まで調べたが、溺死するほどの大量の水がこの部屋に存在した痕跡は当たり前だがないし、彼女の部屋にあった「水」と呼べる物は、五百ミリリットルの飲みかけの飲料水が入ったボトルしかなかったのだ。しかしどんなに調べても彼女の死因は「溺死」である。


 おまけに彼女の体内から検出された水は、汚水同然の汚れたものであった。

 当然、被害者の家の周囲には、しっかりと蓋のされた普通サイズの側溝はあったが、大人が溺死するほど大きく深い川や、落下防止のしっかりした蓋がなく大人が溺れるほど深い側溝など存在しない。


 こんな奇想天外な事件報告と死亡原因の報告書類を上層部に提出することは出来ない。確かにこの世で起きた事件の中には科学や医学でも説明できない事象はあるが、その事件内容をそのまま提出ても事件報告書はその場で破り捨てられ、鬼の形相の上層部から「ふざけるなッ!」と一喝され、田村朱美の「不自然死」の報告書は受理されることなくその場で「お蔵入り」となるのは決定的だろう。


 そこで彼女の死因は、単独での「自殺」に変更された。


 それからも玲子は新人、特に女子が入社してくる度に、本人が望むと望まらぬに関わらず、眠っている間に少しでもその人物に関して「嫌だ」「好きではない」と考えていると、体から幽体が勝手に抜けだすようになり、生き霊を飛ばすようになっていた。


 自分の体に「生き霊」が戻ってくると、全身が酷い疲労感に襲われしばらくは動くことが出来ないほどだ。

 一番恐ろしかったのは、生き霊を飛ばすたびに丁寧に手入れをしていた肌はガサガサになり、どんなに高い化粧品を使って手入れをしても酷くなるばかりであった。


 小生意気な谷山早苗と吉川明里が入社してきた頃には、常に気を張っていないと年寄りのように背中は丸くなるし、声だって嗄れてしまい高音で綺麗な声が出なくなり、姿見の鏡に映る姿も歩く姿も、老婆のようだったのだ。


 だが、自分の意志では「生き霊」飛ばすことを止められない。

 

 どうしても止めることが出来ない。


 あの若いたちは何も悪いわけではないのに、勝手に心に膨れ上がる憎悪を抑えきれなくなっていて、彼女たちを苦しめ、それを見る男たちが何もできずに見て見ぬふりをする情けない姿を見るのが快感になっていた。


 玲子は、自分の心も精神も完全に壊れてしまっているのではと、感じていたが止まらないのだ。


 玲子は常に「誰か」に助けを求めていた。


「人を呪わば穴二つ」ということわざがある。

 

 まさに天罰が下ったのだ。


 悪意の込もる人の言葉は恐ろしい。


 言葉には「言霊ことだま」という魂が宿る。


 ただの冗談や揶揄やゆのつもりでも、受け取る者が嫌だと酷く傷つけば、それは「悪い言霊」となる。


「言葉」は恐ろしい武器になる。


「言葉」だけで、簡単に人を殺すことも出来るのだ。


 だからこそ放つ「言葉」は相手の事を思って選ばなくてはならない。


 これは「心の学び」だと思う。


 世界は自分を中心に回っているのではない。自分もその世界の一部だということを忘れてはならないとても大切なことだと思う。


 それを忘れたら、わたしのように悪魔に墜ちる。


 わたしと同期入社した女の子のように、田村朱美の存在が生理的に嫌悪で、我慢できないほど嫌いだったなら、いらぬプライドなど捨ててさっさと逃げ出していれば良かったのかも知れない……な…………。


 わたしは、絶対に地獄行きだ。


 神様も、決して許してはくれないだろう。


 後悔先に立たずとは、よく言ったものだ……………………。


 遠い意識の中で、玲子は懺悔の言葉を一つ一つを思い浮かべていた。




 ここは、例の面会謝絶の病室の中。


 室内は患者の負担を少しでも軽くするため、照明の明かりは中程度に落とされている。

 薄暗い病室には、微かな機械音と、苦しそうな玲子の呼吸音が聞こえるばかりである。


 秋葉と村瀬がこの病室に入室してから約二十分ほどの時間が経っていた。

「そろそろ部屋を出た方が良いのでは?」

 村瀬が小声で言う。

 その時玲子の瞼が痙攣するようにピクピクと動き、うっすらと瞼を開いた。

 開いた瞼から覗いた瞳は白く濁っていて、見えているのか、見えていないのか傍目には判断がつかない。


 彼女は一度大きく息を吸い込むと、何かを喋ろうとして何度か口を開いては閉じるを繰り返し、やっと発した声は酷く掠れたもので、穴の開いたホースから空気が漏れるように弱々しかった。


 発せられたその声は、年老いた老婆のようにしゃがれていた。

 彼女は白く濁った瞳で秋葉の方に少しだけ顔を動かし、彼に焦点を合わせるようにして、消え入りそうな声でこう呟いた。


「わたしの……記憶……を……覗いた……でしょ」

「うん」

「悪い子……ね……ッ!」

 と言葉を発した後に、玲子は苦しそうに背中を丸めて咳込んだ。

 すぐさま村瀬が緊急ボタンを押す。


 時間を置かず、雄介医院長と看護師長が飛んできた。


 医院長の邪魔をしないように部屋を出て行こうする秋葉の腕を、骨ばった手が掴んでくる。

 この弱り切った体のどこに、こんな力が残っているかと驚くほどだ。

 彼女の瞳は縋るように秋葉を見つめ「行かないで」と言った。

 

 玲子の言葉に対し、秋葉は問うように雄介を見る。

 雄介は無言で頷いた。


 もう彼女には、時間がない。

 彼女の最期の望みを叶えてやれということだ。


「どこにも、行かないよ。傍にいるから」

 彼女は嬉しそうに少しだけ微笑みを浮かべ、人間の顔とは思えないガサガサに荒れた目尻から、一筋の涙がこぼれる。

「無理をするな。どこにも行かないから」

 玲子は小さく頷いて見せるが、それが今の玲子の精一杯だった。


 そして彼女は秋葉に問う。

「わたしは……もうすぐ……死ぬ………のね」


 玲子は真っすぐに秋葉を見つめ、全てを悟り覚悟した者の穏やかな表情で問うた。


 秋葉は玲子の手を優しく握って「そうだ……あんたはもうすぐ死ぬ」と返す。


 看護師長が秋葉の肩を掴み「何て事を言うの!」と責めるように少しだけ声を荒げた。それを医院長が首を左右に振って止める。


 看護師長はぐっと唇を噛みしめた。


 秋葉には玲子の時間が後どれくらい残っているのか、悲しいくらい把握している。


 秋葉は玲子の乱れた長い蓬髪を整えるように優しく撫でて、


「喋らなくていい。あんたの思念は全て俺に伝わるから」

(そう……だった……わね……)

 弱々しく微笑んで、今一度大きく息をした。


(静かねぇ……)


 こんなに穏やかに気持ちになるのは、本当に久しぶりだ。


 心に凝っていたどす黒い呪いと闇が、天界の神様が聖水で全身を洗い清めてくれているように、心がどんどん軽くなりっていく。


 霞んで秋葉の姿ははっきりと見えないが、彼自身が神様ように神々しく光り輝いているのは、玲子の瞳でもはっきりと見て取れた。


(あなたに……もっと……はやく…あえて…いれば………)


「こうして、会えたろ?」


(でも………)


 つーうっと重い後悔と悲しさに、くしゃりと顔を歪め涙がこぼれる。

 頬をそっと撫でるように、その涙を拭ってやる。


 玲子と秋葉の会話は、周りにいる者たちにはまったく聞こえていない。

 村瀬は小刻みに震えている秋葉の隣に立ち、玲子と繋いでいる手の反対側の手の平を強く握る。秋葉の手は、氷のように冷たかった。


 どんな理由であれ、死に逝く可哀そうな魂を送るのは、何度繰り返し体験しても慣れることはない。たとえ神の子だとしても秋葉は人の年齢からすれば、まだ十八歳だ。

 今の秋葉は水原玲子の「死」を同次元で共有しているのだ。

 彼女の後悔と悲痛な心の叫びも、子供のように辛いよぉ、苦しいようぉと声を上げて泣いている純真無垢な彼女の姿も。


 村瀬にしてやれるのは、玲子の最期の瞬間まで、秋葉に寄り添ってやるだけだ。


 村瀬は秋葉の冷たい手を両手で包み込むように握った。


 玲子は秋葉に三つの最後のお願いをした。


 一つは、自分が酷く気づ付けてしまった新人の女の子たちを助けてほしいと。

 それは明里ともう一人の同時入社した女の子のことだ。


「分かった、大丈夫だよ。必ず助けるから安心しろ」と秋葉。


 二つ目は、自分のこの醜い姿を誰にも見られたくないと。

 大切な両親や妹弟そして友人にも、こんな醜い化け物になってしまった姿を絶対に見られたくないだった。


「了解だ」


 三つめは、迷惑をかけてしまった皆に「御免なさい」と伝えてほしいだった。


「ああ。必ず伝える」


 そして最後にはっきりと聞き取ることが出来なかったが、玲子は秋葉に対し「ありがとう」と、感謝の言葉を口にした。


 それは彼女の唇の動きで分かった。


「――――――ッ!」


 その言葉に応えようとしたが、言葉が喉の奥で詰まり、何も返せなかった。


 それだけを伝えて、玲子は眠るように息を引き取った。


 面会謝絶の部屋にいる、秋葉を除いた全員が言葉を失い、手を合わせて黙禱もくとうした。


 村瀬は秋葉の両肩を後ろから強く抱きしめた。


 玲子の手をしっかりと握っている秋葉の手をほどき、体の向きをくるりと回転させ、自分の胸の中に抱き込む。


「秋葉、こういう時は無理して、我慢しなくてもいいのですよ」

「うるさいッ! 無理なんかしてないッ!」

「はいはい。でもね、あなたが泣いても、誰も笑ったりしません」

「俺は泣いてなんかないッ!」


そう口では言いながらも、しっかりと村瀬のシャツを力いっぱいに掴み、慣れ親しんだ彼の胸に顔を埋めたままで、発する声は涙を含んでいる。


 村瀬は一滴も血のつながらない弟が可愛くて愛おしくて、仕方がない。


「はいはい。私の胸はあなたの泣き顔を隠すためにあるのです。母様と父様にあなたを全身全霊で守ると誓いを立ててから、この場所は、あなた専用の隠れ家です」


 この世で一番大切な弟の泣き顔を、誰にも見られないようにすっぽりと胸の中に隠すように抱きしめる。


 秋葉は、一番安心できる村瀬の胸の中で、声を殺してしゃくりあげながら泣いた。


 その姿を見て、雄介医院長は前髪を辛そうにくしゃくしゃにかき混ぜ、

「何て……泣き方をするんだ。このバカタレが……」

 と言って反対側から秋葉を抱きしめた。




 水原玲子の遺体は、秋葉の術により生前の美しい姿に見えるよう、その体の上にホログラフィーの映像を乗せている。本当の姿はそのままに、彼女を見る一般の人々には美しく眠るホログラフィーの映像を見ていることになる。





 秋葉と村瀬が帰って来たのは、翌朝の五時頃であった。

 家の者たち全員が一睡もせずに、安堵の表情を浮かべて二人を出迎える中、奥の部屋からどたどたと足音を響かせ一睡もしていない寝不足の顔で、目の下にはバッチリと不健康そうな黒いクマが出ているが、すっ飛んできた人物は鬼の形相だ。


「ひっ!」


 と二人の喉から恐怖の声が漏れ、抱き合う。


 秋葉と村瀬は、精神的にも肉体的にも疲労困憊している今、この世で絶対に会いたくない拡声器の音量を最大にして声を張り上げてやって来る人物を見て、そのまま逃げ出そうとする。


「今までどこで何をやっていたのよ、心配するでしょ!」

 そのド迫力に、二人は反射的に飛び上がり首を竦めた。その二人の首に、細くて柔らかいのに力強い腕が二人の首に巻き付き、思い切り抱きしめてくる。


「遅くなるなら連絡を位入れなさいよ」

「ご、ごめん」

「ゴメンじゃないでしょう、本当に心配したんだから」

 抱きしめる腕にさらに力を込めて青子はがなる。

 

 アンタは俺たちの母親オカンかとツッコミを入れようとしたが、ボロボロと涙を流してマジ泣きしている彼女を見たら、何も言えなくなってしまった。

 

 彼女を本気で心配させてしまったと、秋葉と村瀬は姿勢を正して「ごめんなさい」と頭を下げた。


 同じく奥の部屋から、疲れた顔をした濱田のじいちゃんが現れ、

「大体の事は先ほど雄介から連絡があった。例の女性は、亡くなったそうだな」

「はい」

 答えたのは村瀬だ。

「水原玲子さんの告別式や葬儀などは、ご両親と相談の上とのことで、今は体が痛まないように凍らせて保存するとのことです」

「そうか……」

 じいちゃんも辛そうに、そっと目を閉じた。





 青子はじいちゃんから秋葉の隠された秘密の全てを聞いたと話した。その後にじいちゃんが青子の「光の能力」についてこんなことを言ったそうだ。


 青子の「光の能力」は高於ノ御神が与えたのではないかと。

 こ世には「偶然」は存在しない、すべては「必然」である。

 そして青子と秋葉が出会ったのも「必然」であると。

 青子はこの家で、秋葉と村瀬と共に協力し合う仲間としての定めを御神によって決められているのではないかとも言っていたそうだ。


 そうでなければ話が出来過ぎている。


 悔しいが、全ては高於ノ御神の手の平の上で踊らされていたようだった。




 時間は早朝の六時である。


 秋葉は青子に与えられた自室に乗り込み、

「起きろアホ子。これより『萬屋やんごとなき 請負サービス』の始動開始だ!」


「ひえぇぇぇぇぇっ。ま……まだ一時間も寝ていないのにぃぃぃ…………」


 青子の悲痛な悲鳴が、切なく響き渡るのであった。

 

 


 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る