第6話 因果の家に、新風来る 1

 石動いするぎ家本宅の後ろに、本宅より三分の一ほどの大きさの離れがある。離れと言っても本宅と甲乙つけがたい立派な造りの日本家屋は、秋葉と村瀬の住まいであった。その住まいの立派な和室の客間で、吉川明里は運び込まれて六日目の往診を受けていた。

 その部屋は十二畳はある広い和室で、高貴な来客用にしつらえた部屋のようで、昼間は障子越しに日の光がたっぷりと入り、広い部屋を照らす蛍光灯の明かりなど必要ないほどだ。


 部屋全体に真新しい畳の香りがして、手入れも隅々まで行き届いている。

 床の間には見事な一幅の掛け軸が、静かにひっそりと飾られている。その下には白磁の一輪挿しにひっそりと、季節の花である紫の大きな花弁が美しい菖蒲しょうぶが一輪、活けてあった。掛け軸とワンセットで、心が落ち着く一つの「美」として存在していた。

 掛け軸の絵は主に墨の濃淡を基本に描かれ、一か所だけ目にも鮮やかな色合いの朱を使った場所があった。それは一対の小鳥がついばむ朱色の小さな木の実だ。


 その掛け軸の絵をじっと眺めていると、不思議な感覚を覚える。小鳥たちは生きていて、今にも楽しそうに戯れ軽やかなさえずりが聞こえてきそうで、心がほっこりと和む。


 初めて体験した恐怖体験は、明里に心身共に極度の疲労と、心が酷く不安定になり、何度も恐ろしい夢を見ては悲鳴を上げて飛び起きていた。

 それほどあの恐ろしい恐怖の体験は、明里の心に深い傷をつけたのだ。

 もし、あの時、姉と慕う芹澤青子が駆けつけてくれなければ、もしその場に石動秋葉と村瀬という青年たちがいなければ、明里の心は完全に壊れていたか、あのまま化け物によって殺されていたかもしれないのだ。


 明里が悲鳴を上げて飛び起きる度に慌てふためく青子と、冷静に落ち着いた静かな口調で当たり前のように秋葉という青年と呼ぶには若い彼はこう言うのだ。


「この離れ全体には、強力な結界を張ってある。だから余計なモノは絶対に入っては来れないから安心しろ」

「お……お化けも……?」

 幼い子供のように明里は訊く。

 年齢は明里の方が四歳ほど上だが、心身共に弱り切りきっている今は、幼い少女のように心もとない彼女に対し、秋葉は怯えさせないように、静かに優しく言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。

「そうだよ。あんたを怯えさせる全てのモノは、俺が許可しない限りこの屋敷には侵入できない」と。それに対し明里は安心したように「うん」とだけ答える日々だったのだ。


 恐怖に怯える彼女の心のケアは、秋葉にしかできなかった。

 そのため彼も青子と一緒に、明里の傍にいた。




 本日の午前の十一時頃に診察を終えた石動家専属医師、濱田邦彦氏は今年の八月で七三歳になる高齢だ。だが、彼の一族は、代々石動家の専属医師して仕えてくれている。

現在は、病院の全権と医院長の座は長男に譲り、その父である濱田医師は名目上会長という身分に落ち着いているが、その分自由行動ができ石動家の専属医師として呼び出しがあれば、総合病院が大変な時でも、好き勝手に動き回っている。


「もう大丈夫だね。後はしっかりと栄養のある食事を摂って、ゆっくり静養すれば、二~三週間で、完全に完治だ」

 濱田医師は、素直で控えめな孫娘にでも言うように、好々爺こうこうやの笑顔でお墨付きを言い渡した。後ろで心配そうに様子を伺っていた青子は心の奥から安堵の息を吐き出す。


 六日前の夜八時近くに、この家に運び込まれた時の明里は、重病者のように生気のない表情と、まさに骨と皮という表現が一番当てはまるほど酷く痩せていた。直ぐにでも入院をしてしっかりと治療を受けなければ命に係わる状態だったのだ。

 彼女を心配する青子自身も、明里に負けないほど青ざめていた。


 優しいおじちゃん先生に「もう大丈夫」とはっきりお墨付きをもらい、今は驚くほど顔の血色も良くなり、いつもの明るい笑顔を見せるようになった彼女の前に。


「診察が終わったなら、昼食にいたしましょう」

 と、少々恰幅の良い、いわば「優しいお手伝いのおばさん」が五人分の食事を乗せたトレーを用意して、現れた。その後ろに、同じように白い割ぽう着を身に着けた二人の女性たちが手際よく並べていく。

 

 素早く青子が脚付きの小さなテーブルを明里の膝の前に置く。


 まだ来客用の大きなテーブルでみんなと一緒に食事ができるほど体力が回復していないので、布団の上で座椅子に座って食事を取る。

 そしてみんなで一緒に明里を中心に美味しく昼食を食べるのだ。

 これは秋葉と村瀬からの命令だった。


 ご丁寧に明里の両親には既に連絡済みで、青子と一緒に旅館で気分転換も含め、静養している。という内容の便りを送付済みだ。


 明里の両親は、青子と一緒ならと安心したようで、二日ほど前に青子のスマホに電話があり、宜しく頼むと母親から何度も言われた。


 母親も明里の置かれていた状況を心配していたようで、会社から離れ、旅館でゆっくり静養しているのならと、心の底から安堵したようで、発する声が涙を含んで震える両親から何度もお礼と娘を宜しくお願いいたします。という言葉をかけられた。

 青子はどこぞの営業マンかと笑えるほど、見えない電話の両親に、ペコペコと何度もお辞儀を繰り返していたのだった。


 青子は明里と一緒に「三食昼寝付き」の高待遇で、まるで明治初期の資産家をモデルにしたような、格式の高い石動家の和式の客間にやっかいになっている。


 おまけに毎日、目の飛び出るような高級和食料理が青子の前にも用意されるのだ。


 六日前は、濱田医師の的確な判断と治療をかね、毎日数本の体に必要な栄養価の高い点滴と水分補給用の点滴が明里の食事のようなものだった。そして二日前の昼辺りから口から食事を摂ることを許され、明里の症状と状態に合わせ初めて出された食事は、流動食のような味気ないものだったが、食後に吐き気や、食べ物が喉を通らないという症状はなく、ゆっくりと時間をかけ明里は出された食事をきれいに平らげた。


 青子は明里と違い健康そのものだ。その自分には、毎食目が飛び出るような、いかにも高級で一目で物凄く高そうだと、腰が引けてしまうような食事を出される。


 普段の青子の食事といえば忙しさにかまけて自分で食事を作らない――というより、性格的に面倒くさくて作れない。よって毎日定番のコンビニ弁当かカップラーメンと握り飯で済ませている日々だ。だらこそ自分まで当たり前のようにこのようなご馳走を頂いてもよいのだろうかと心が酷く痛み申し訳ない気分になる。


 朝昼晩と規則正しく出される食事に、悲しいほどお腹は空く。たぶん自分は意地汚いのだと思うのだが、石動家の料理長が心を込めて作られる食事を前に、きちんと背筋を伸ばし、礼儀正しく「頂きます」と手を合わせ、一日三回出される食事を緊張しながらぎこちない動作で明里と一緒にご相伴しょうばんにあずかっているのだ。


 出される食事の全てが超絶に美味しくて、泣きそうだ。


 今日の昼からは、まだ完全には回復していない彼女の状態に合わせ、消化の良いバランスのとれた栄養満点の食事が、料理長の計らいで、若い女の子が喜びそうな可愛らしい形と絵柄の入った、十個ほどの小鉢に見た目にも美しくいろどり豊かな食材が少しずつ盛られ、後は温かい白米と味噌汁だ。


 高級和食店で、これだけ手の込んだ料理を注文したら、一食どれほどの値段が付くのだろと考えると、さすがに肝が冷えるが、食欲を誘う美味しそうな香りを漂わせている料理の前では、そんな危惧きぐなどは一瞬で吹っ飛ぶ。


 悲しいほど単純に出来ている己の胃袋がとてつもなく情けないが、それ以上に貪欲な食欲は「遠慮」という言葉を忘却の彼方に追いやるほど、最強で無敵であった。


 二人が楽しそうに食事をしている中、濱田医師は診察道具を鞄に収めながら、秋葉の前に移動し、開口一番、質問を口にする。


 明里に向けていた好々爺の表情が、ギロリと一変して迫力のある鬼の形相に豹変する。


「若様」


 口調も改められ厳しい口調になる。さすがの秋葉も逃げるように身を仰け反らせ、返した返事は情けないほど裏返っていた。

「は、はい……?」

「お体に異変とか、調子がいまいちだとか、何となく具合が悪いということはございませんか?」


 「ないない。まったく無い。百二十パーセント無い」と言い切ると、「本当でございますか?」と今度は、その表情のままで、視線を隣で固まっている村瀬に向ける。

 有無を言わせぬ厳しい表情の濱田医師には、秋葉同様に村瀬も超絶にビビる。


 この状態を言葉で表現するなら、まさに「蛇に睨まれた蛙」である。


「は、はい。大丈夫だと……思います」

 冷や汗をかきハンカチで額を拭いながら返答し、村瀬の視線はこの状況を誰に押し付けるのが一番かと左右に泳ぎまくり、隣の秋葉にロックオンする。


 元はお前の事だろう、秋葉が自分で答えろと、少し涙目の村瀬が訴えている。

 村瀬も自分たちの秘密の全てを知っている、このじいちゃん先生が大の苦手だ。

 そんな村瀬を無視して放っておけば、そのうち悲壮感たっぷりに泣きついてきて、後で機関銃のように恨み事を夜どうし言われる羽目になりそうである。


 それはそれでかなり面倒だし、濱田のじいちゃの前では決して嘘やごまかしは通用しない。

 なぜなら秋葉も村瀬も、目の前のじいちゃんには子供の頃からの、特に秋葉に至っては赤んぼの頃からの付き合いで、身体の事は、頭のてっぺんから足の爪先まで把握されていて、身長・体重・アレルギーの類まで全てじいちゃん個人の分厚いカルテに手書きでびっしりと書き込まれているのだ。


 秋葉は、諦めた様子で大仰にため息を一つ吐き。


「本当だ。今は大丈夫だ。俺の命の終わりはあの神が決める。死にたくても神が許さなければ、この首をねても、上半身と下半身を真っ二つに切り裂かれても、瞬時に元通りに生き返る。今現在は『死にたくても死ねない』から安心しろ」


「そうですか」と一応は納得したように見えるが、それでも濱田医師の視線は、秋葉の全身をくまなく観察し。無造作に顔面を両手で触ったり、目の下をめくって貧血があるかを確かめ、首の動脈に触れ、健康そのものに規則正しく脈を打っているのも確認する。

 一応、健康状態は良好のようだ。出来れば内臓の状態も触診したいが、そこまでやっては秋葉は「いい加減にしろ!」と癇癪かんしゃくを起すだろう。


 そんな六日前、秋葉個人から緊急の呼び出しがあった。何事かと駆け付けてみれば、何ともふざけたネーミングの仕事で保護した女性の診察と治療の依頼だったのだ。


「萬屋やんごとなき 請負サービス」という複雑怪奇な名称は、秋葉がつけたものらしいが、じいちゃん先生は「もう少し分かりやすい、今風の若者が好むような、格好の良い名は思い付かなかったのかのぅ~」と頭を捻る。


 秋葉は全てにおいては完璧だが、じいちゃんでさえ呆れるほどネーミングのセンスは皆無だったようだ。


 このところ、明里の容体は安定し、落ち着いてきている。後は体力が戻れば全快だ。そしてこの好機チャンスを逃がすわけにはいかないと、ずりずりと膝を滑らせてにじり寄り、互いの膝頭がコツンと触れるまで近づく。


 さすがの秋葉もビビったようで、彼には珍しく喉の奥から「ヒッ!」と声を漏らし、滅多に表情が変わらない彼でも青くなり眉尻や口の端がヒクヒクと引き攣っていた。

 好々爺のじいちゃん先生が、一瞬で頑固で鬼に変貌しする。

 それも、ものすごーく楽しそうに。


「近い、近い。マジで近いから」

 必死で顔面を背け両の手の平でガードするが、じいちゃん先生は白髪交じりのもっさもさの眉をキッと吊り上げ、鼻息がかかるほど怖い顔を近づけて、秋葉の顔を覗き込んでくる。


 こういう話題に敏感な青子の耳が巨大ダンボになり、興味津々に食事をしながら聞き耳を立てていた。


「あんたも、どこか悪いの?」と、言いながらちょっぴり甘く良いだしの聞いた厚焼き玉子を口に運んだ。


「悪くはないが、俺はゾンビだからな」

 無表情で、おまけに感情を一切含まない平板な口調で答える。

「またまたぁ~。冗談はヨシコさんだよ」

「本当だ。俺が母体から引きずり出された時には、完全な『死体』だった」

 その言葉発した瞬間、青子は盛大に噴き出した。

「――! 汚い……。青子お姉ちゃん…………」

 明里が嫌そうに、眉をひそめる。

「ご、ごめん……」

 青子は手拭きで口元を拭い、その後周囲に飛び散った厚焼き玉子の残骸を拭きとる。


「冗談は顔だけにしてよ。あんたの冗談は、マジで笑えないんだから」

「冗談ではない。本当の話だ」


 秋葉と青子のやり取りを見て、ある事を濱田医師は思いつき、提案を口にする。


「若様。これは私のお願いなどでく、命令です」


 その場にいた全員の視線が濱田医師を注目する。


「村瀬はあなたと血のつながりはありませんが一応兄、です。そしてあなたの『道標みちしるべ』あり『ほこ』でもあります」と言いながら、視線を青子に向ける。「青子さんは、あなたの命を守る『護符』となりましょう」

 と、真剣な顔で言う。

 何を隠そう、濱田医師にも、というより、濱田一族もある意味で能力者の一族であった。当然濱田医師にも青子の光の能力の事は、彼女を一目見て濱田医師はしっかりと見抜いていてもおかしくない。


 だが秋葉は困ったように右の蟀谷こめかみをポリポリと掻く。

「何か問題でも?」

「いや、彼女がウチに来てくれたら最強の護りだけど、それを決めるのはアホ子だ」


 青子の目は、じいっと秋葉を見つめていた。

 どこの家にも、大なり小なりはあれど、何かしらの問題を抱えている。

 その中でも、このように時代劇に出てくるような大きなお屋敷を構える一族は、特にであろうと思う。

 探ればいくらでも腹黒い一面が、これでもかと出てくるはずだ。

 それが時代をいくつも跨ぎ、長きに渡って続く旧家の隠れた黒歴史の面々だ。

 一見、華やかな名家の一族の隠された裏には、決して表に出せない「因縁」とも呼ぶべきドロドロした汚泥のごとく、その家にまつわる人間たちの醜い欲や野望が渦巻く黒歴史がいくつもあるはずだ。だからこそ「旧家の一族」と呼ばれるものが存在できるのだろう。


 青子は、お世話になっているこの数日で気づいた事がある。

 威厳に満ちた大きな本宅と違い、まるでお家の恥じとでもいうように、表舞台から隠すような場所にわざわざ、これ見よがしに離れを建て、どのような人間関係が隠れているのか分からないが、名字の違う村瀬はともかく、同じ石動の名字を冠する秋葉までも、追い出すように離れにたった二人で生活を送っている。


 だがその生活ぶりは、自分たち一般市民からすれば、信じられないほど贅沢で華やかなものだが、お世話になっているこの六日間の間に、一度も本宅の人間と顔を合わせた事がない。


 それは二人に対して、悪意の満ちた「見せしめ」のようではないか。

 青子は強く腹をくくり、表情もキリリと引き締めて、ゆっくりと言葉を発した。


「秋葉と村瀬さんがが望むなら、先生のおっしゃる通り、あんたの傍にいてあげる。その代わり、何一つ隠すことなく、あんたたちに関する全てを話してちょうだい」

 それが条件だと、青子は真っすぐに秋葉の目を見て宣言した。


「さすがは『光の能力』をその身に宿す娘さんだ。肝が据わっている」

 と、濱田医師は膝を叩きながら大笑いをする。

「気に入った! あなたになら若様を任せられる」


 濱田医師の終わりのセリフに、思い切り驚愕する二人の声が「えぇぇぇぇっ!!」と頓狂に響き、本気で慌てふためく秋葉と村瀬の対照的な態度に、青子は「こうなったら『毒を食らわば皿まで』よ。全てを聞かせてもらいましょうよ」と開き直り、背筋をピンと伸ばして、きちんと正座をし体制を整える青子。


 濱田医師は心の中で「新たな風が、吹いた。それも台風並みの強風だ」と、こっそりとほくそ笑むのだった。






 






 

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