第5話 恐怖は突然、呪いに変貌する 3

 村瀬の運転する白の高級セダンは、芹澤青子が指示した吉川明里が一人暮らしをしているアパートの住所をカーナビにぶち込み、少し都内から離れたわりと閑静な住宅街の一角に、いくつかのアパートが建ち並ぶ場所に向かって一般道路を走っていた。


 後部座席では、眉間を指先で揉みながら唸っている芹澤青子に秋葉が済まなそうに声をかける。

「大丈夫か。さっきは済まなかったな」

「いいわよ。わざとではなかったんだし。これがただの嫌がらせや意地悪でやったのだったら、百倍返しで、叩き潰す」

 鼻息も荒く拳を固く握りしめ必ずにと誓う青子に、思わず村瀬が噴き出した。彼女の性格なら、絶対にやりそうだ。

 

「それはそうと、スマホは切れていないな」

「大丈夫よ」

 一瞬の間があり、秋葉は真面目な口調で言う。

「その電話が切れた時、彼女は彼岸に連れていかれる。つまり死ぬということだ」

 だからこそ明里の「生きたい、助かりたい」という強い思いを途切れさせないようにしなければならないのだと、真剣な面持ちで正直に告げた。

 一瞬、青子の表情が硬くなり、スマホを大切に握りしめなおすと、何でもいいから明里の気持ちをこちらから逸れないように必死に喋り続ける。


「それにしても芹澤さんが、日本……いや、全世界で数人しかいないと言われている、伝説級の「光の能力者」だったとは思いもしなかったです」

 どういう事? と青子の目が点になる。

「道理で徳永のおっさんが、アポの約束は受けるが、当日になると必死に逃げ回っていた理由が分かったよ」

「何それ、どういう事なの? その光のウンタラカンタラってナニ? 私には何度もアポをスッポかされて、むちゃくちゃ大迷惑なだけなんですけどぉ~」

 不機嫌マックスに、もうすぐ三十歳になるという大人が、拗ねた子供のように唇を尖らせて見せる。こういう飾らない彼女の性格が大の人間嫌いで、他人と上手くコミュニケーションが取れない秋葉にとって、無条件で彼女を受け入れられた理由が、簡単に理解できる。


 つまり、余計な気を遣わなくても済むというわけだ。


「解りやすく言えば、あんたの周りでは悪霊も怨霊も妖怪も化け物も存在できない」

「はぁ?」

 青子は頓狂とんきょうな声を上げ、頭上に?マークが乱舞している。


 予想できる十分な反応に秋葉の口元が楽しそうに微かに笑みの形になり、薄く笑っているのが分かる。


「多分だが、徳永のおっさんの下で働いている強い霊感を持っている人間が、あんたを視て光の能力に気づいたのだろう。あんたを同行させて最恐心霊スポットへ行ったら最後、その場所は一瞬で『超、最高に有り難ぁ~いパワースポット』になってしてしまう。マジで徳永のおっさん泣かせのスーパー・ハイスペックの自動悪霊祓いマシーンだ」

「マジで」

「マジで。俺もその力を目の当たりにしたのは、生まれて初めてだ。狡猾なおっさんもその伝説級の力を、簡単に手放すには勿体ないし、だからといって現場に同行させるわけにもいかず……というわけで、逃げ回っていたんだよ」


 芹澤さんは、世界最強の「お守り」でもあるんですから。と村瀬が付け足す。


 素直に喜べないし、納得も出来ない。その一瞬後で、脳裏に走馬灯のように駆け巡る今まで苦渋にまみれた十年以上続いた、地獄の面接三昧。

 大学に進学もせず、高校卒業後から即、家を飛び出し。両親に呆れられて「勝手にしろ!」と見捨てられようとも、ひたすら幼い時に運命的な出会をした『憧れのイケメン神様』にもう一度会いたくて、五~六十社近くのオカルト関係の会社を必死に渡り歩いたが、どこの会社も自己紹介をする前に……酷い所では、その場で足蹴にされ追い出された――もとい、採用されなかった理由がそれだったのかと、スマホを握りしめて悔し涙が滝のように流れるのを止めることが出来なかった。


「そのお陰で、あの子を救うことが出来るんですよ」

 と村瀬が慰める、言うより苦笑交じりで言い。そして目の前にカーナビに打ち込んだ住所のアパートの前に、車は到着した。


 吉川明里が一人暮らしをしているアパートは、築年数も浅く、壁を全体を明るい白っぽい色で統一され、出窓もありいかにも若い女の子が好みそうな可愛らしい感じのアパートだった。

 彼女の部屋は二階の205号室。

 緊急事態のため、許可も取らずに空いている駐車場に素早くかつ的確に車を止め、いの一番に村瀬が車から飛び出し、階段を軽快に登っていく。その後を秋葉と青子が続く。


 村瀬は一応インターフォンを押してみたが、まったく反応せず音も聞こえない。

 仕方なくレバー式のドアノブに手をかけたが、これもびくともしない。というよりレバー式のドアノブがピクリとも動かない。本来ならばカギがかかっていても少しは遊びがあるのだが、それがまったくないのだ。

 205号室だけが一つの塊と化していた。


 追いついた秋葉に「駄目だ、開かない」と言うと、秋葉は後ろで狼狽えている青子を振り返り「お前が開けろ」と、一言。

 青子は困り果てたように「村瀬さんでも駄目だったのに、あた…………し」が、と言おうとして、ドアノブにちょっと触れただけでドアは簡単に開き、それと同時に明里の体が転がり出てきた。


「えぇぇぇぇっ! うっ……そっ!」

 あまりの驚きと、目の前で起きた信じられない事態に、青子はその場で硬直した。


 直ぐさま秋葉が明里の横に膝をつき、首の動脈と口元に手を近づけ、心臓が鼓動を打っているか、そしてを呼吸をしているか確かめる。

 かなり衰弱し、身体全体の機能は弱っていて、重篤とは言わなくても安心できる状態ではなかったが、一応は、生きている。

 秋葉は、ほっと安堵の息を吐き、


「大丈夫だ。よく頑張ったな」

 前半の言葉は村瀬と青子に、後半は明里にかけた言葉だ。


 手慣れた動作で村瀬が明里を抱き上げ、安全な場所に移動させる。

「アホ子、その子を抱きかかえて、お前の力を発動させろ」

「発動って、どうやって」

 酷く狼狽して、青子は悲鳴のように叫ぶ。

 簡単にそう言われても、意識して光の能力というものを発動させた事は一度もないし、やり方も分からないのだ。

「大丈夫だ、落ち着け。ただ抱きしめてやればいい」


 村瀬が青子の腕に、弱り切った少女を抱かせる。

 自分の腕の中の少女は、驚くほど激やせ、というより病的にやつれていた。


 青子が明里と久方ぶりに会ったのは、彼女が大学を卒業して一年近くリフレッシュ時間を楽しんだ後、明里は姉のように慕う青子を追うように、一人娘を溺愛する両親の反対を押し切り就職のため生まれ育った家を出て、一人暮らしをするために都会に来たのが、今年の二月初旬で、まだ寒い時期だった。


 彼女の性格はちょっぴりおっとりした、少しぼっちゃりめの健康そうで明るい笑顔の、いつもの可愛い妹だった。それが今は頬がコケてしまい、顔色も酷く悪るい。桜色をしていた可愛い唇は、からからに乾燥し、何か所かひび割れ、痛々しく血が滲んでいる。強く抱きしめたら壊れてしまいそうだ。


「何で……何で? こちらに来て半年も経っていないのに、こんなに痩せて……。あんなに可愛い子が……」

 思わず青子の目から大粒の涙が零れた。自分の力が本当にあなたを救えるなら、何でもするよと強く願いながら、意識のない明里を抱きしめた。


 その瞬間、明里の全身から真っ黒な煙のようなモノが、まるで生き物のように渦を巻きながら、ごおぉぉっと音を立てて、凄まじい勢いで噴き出していく。

 その黒い煙の塊は、一度、二階の通路にある、アパートの利用者が雨などで濡れないように突き出している屋根にぶつかり、どごぉぉぉぉんと嫌な音を立て、そのまま上空に広がり、漆黒の煙が空気で薄まっていくように、広がりながら消えていく。


 青子にはその真っ黒な煙は視えないようだったが、それは明里を襲った化け物のが放った怒毒おんどくの瘴気だった。

 

 彼女の全身は氷のように冷たく、このままでは本当に死んでしまうかもしれないと思ってしまったら、青子は明里を本当にうしなってしまうのではないかと、全身が震えるほど恐ろしくて、身が裂けるほど悲しくて、思わず叫んでいた。


「お願い、お願いだから、明里を助けて! お願いだからぁ~」


 青子の絞り出すような強い思いを、天に向かって真剣に強く何度も叫んだ。

 全知全能なる「神」に祈るように。

 その思いに呼応するように、明里の全身から黒い瘴気はすべて消え去り、逆に眩しいほど光輝く閃光が明里を覆った。


 声を上げて泣く青子の腕の中で、明里は小さく身じろぎをした。子供のように泣き叫ぶ青子に、弱々しく顔を上げ、小さく掠れた声で囁いた。


「青子……お姉……ちゃん……」

「!! 明里、ちゃん?」

「助けに……来て、くれた……の?」

 青子は涙を無造作に手の平で、ゴシゴシと拭いながら、

「当り前でょ。大切な可愛い妹のピンチを放っておけないよ」

「青子、お姉ちゃん……」

 明里が力なく微笑むと、その側に村瀬が膝をつき、出版社を出るときに購買部で大量に買い込んだ飲み物をビニールの袋の中からあさりながら、まずは真夏の暑い時期の熱中症対策や極度の脱水状態に用いる経口摂取けいこうせっしゅ用に、素早く効率よく水分補給が出来る五百ミリリットルのボトルを数本取り出し、キャップを回して外し、明里の口元に持っていく。


「水だ。楽になるから、ゆっくりと飲んで」


 明里は最初の一口を飲み込むと、今度は村瀬の手の平ごと握りしめ、むさぼるように水分を口に流し込もうとする。

 彼女が酷い脱水症状を起こしていることは明白だった。

 本来だったら、直ぐにでも体内に効率よく必要な水分を補給するために、点滴の一本でも打ちたいところだが、それが出来ない今は、口から摂るしかないが。


「ダメだよ、飲み物はたくさんあるから、ゆっくりと飲んで。一気に飲むと、気持ち悪くなるから」


 明里は村瀬に言われた通り、彼が一口一口ゆっくりと口に注がれる、ほんのりと甘みのある水分を飲んでいく。

 本当は体全体が「もっと、もっと、頂戴」と訴えているが、一口一口ゆっくりと飲んでいくと、不思議なほど全身の乾きが楽になっていくのが分かる。


 最初は脱水用の補給液だったが、それを五百ミリリットルのボトルを三本半ほど飲み干した後、今度は糖分がたっぷりとは入っている果汁百パーセントの甘いりんごジュースを村瀬は飲ませる。

 その甘いジュースが体内に入ってくると、脱水とは別に、まったく力が入らなかった体全体に、少しずつエネルギーが補充されるように楽になっていき、ほっと一息吐いた。


 村瀬の読み通り、彼女は極度の脱水+低血糖にも陥っていたのだ。

 

 このは日常的に、まともに食事も摂っていなかったのだろう。

 そうでなければ、あの怨霊だか、悪霊だか知らないが、あの化け物に襲われた一瞬で、これほど全身が酷い衰弱した状態にはならない。


 村瀬は「こんな若い子が……」と呟いて、辛そうに眉を寄せるのだった。




 秋葉は明里の部屋の前で腕を組み、微動だにせず玄関の奥に向かって鋭い睨みを利かしていたが、明里の状態が少し落ち着いた事を村瀬の手が親指を立てるサインを出したことで、危機的な状態は回避されたと認識し、

「村瀬、先に車に行っていろ。それからアホ子はその子をしっかり抱いているんだ」

「解った」

 返事をしたのは青子で、村瀬は軽々と明里を抱き上げ、青子を伴い階段を下りていく。

「あっ、あれ? 秋葉は?」

 一緒に階段を下りた来ないもう一人の仲間の事を、今思い出したように背後を振り向いて、青子が不安そうに明里を自分のスーツの上着でくるみ、平然と階段を下りていく村瀬に問う。


 あの玄関の奥の真っ暗な穴のようになっている所には、青子には視る事は出来ないが、恐ろしい化け物がいるのだということは、何となく分かる。

 その証拠に、平然とした態度の秋葉の背中は、酷く警戒していたように見受けられたし、彼は玄関の前から決して動こうとしなかった。


 何も感じない青子でさえ、秋葉を中心にバチバチと目に見えない、尋常でない強力な静電気が激しくスパークしながら秋葉を中心に走り回っているな気配がする。

 そのエネルギーが全身を逆なでする気持ち悪さと共に、秋葉の人間離れした強力な力が、明里の部屋から出てこようとする化け物を、全力で阻止しているように思える。


「これからは、秋葉の領分だ」


 村瀬が当然のような口ぶりで、一言いっただけだった。


 あのクソ生意気で、絶対に可愛くないガキは、マジで本物の能力者??


 アパートの階段を中ほどくらいまで下りてくると、秋葉の姿は完全に見えなくなってしまった。

 村瀬は車の鍵を故意に施錠していなかったようで、後部座席のドアを開けると明里を先に押し込み、続いて青子が隣に滑り込む。そして秋葉に言われたように明里の細い体を守るように抱きしめた。

 村瀬は後部座席のドアを音を立てて強く閉めた後、一瞬だけ、視線を二階の明里の部屋へ向けたが、自分も運転席に座り、ドアを閉め、しっかりと施錠した。



 車のドアが閉まる音を聞いて、村瀬たち三人が無事に非難した事を確認した秋葉は、そこで少しだけ化け物と自分の間に引いた強力な一線、つまり結界の力を緩めた。

 そうしなければ、物凄い形相でこちらを睨んでくる化け物と話も出来ない。


 目の前の化け物の長い髪はほとんど白髪で、所々地毛なのか染めたものか分からないが、茶色い髪もわずかに交じっていたが、その化け物は乾いた荒れ地に吹く強風に煽られたように、土にまみれて酷く傷んでパサパサになった髪は蓬髪ほうはつのように大きく乱れ、広がっている。


 そのせいで、見た目はかなり不気味で、マジで怖い。


 皮膚は陸上に上がった魚のミイラのように、鱗が剥げて無様にボロボロになっている。

 おまけに血の涙を流し続けたのか、眼球は血のように赤一色だった。お陰でどこが白目で、どこが瞳なのかまったく分からず、そのため化け物の視点がどこを向けているのかさえ分からないのが、さらに不気味さを増している。


 身に着けているモノはどうやら白いネグリジェのようだが、あちこち裂けて破れている。身体は明里に負けないほどやつれ、骨と皮状態であった。

 低レベルな、三流オカルト映画に出てくる化け物の定番な姿だ。


 秋葉は大きく息を吐き出し、呆れたように化け物に声をかけた。

「あんたさぁ~。自分の恨みつらみに飲み込まれてんじゃねぇよ。あんた自身が『呪い』っていうか、『呪物じゅぶつ』になっちまてんじゃん。早く自分の体に戻りなよ。そうしないとあんたの部屋で、ボロボロに干からびた婆さんが一人、突然死または孤独死して、転がっていることになるぞ」


 我を忘れ暴走状態の女は喉の奥から地を這うような唸り声上げ、憎悪に満ちた真っ赤な眼球がわずかに反応し、動いた。


「あんたも、それは理解しているんだろう?」


 化け物は己の心が揺れる様に気づき、酷く動揺して苦しんでいるように見えた。

 己の心が秋葉の言葉で少しは動揺しているように……一応は見て取れるが、どんなに秋葉が「真実」の言葉を尽くして説得しても、化け物自身が心から改心しなければ、神様でも救うことはできない。

 そのまま地獄に堕ち、再び人として蘇ることもできず、下手をすれば魂ごと粉砕され、無間地獄で未来永劫、死ぬよりも苦しい責め苦を受け続けるしかなくなる。


「あんたには、残された時間はそんなに無い。その無様な姿のまま彼岸を渡るか、あんたの両親や兄弟、姉妹、そしてあんたがいている人間に看取られて、安らかに彼岸に……人間たちの言うあの世に逝くかだ」


 決めるのは……あんただ。


 と、一言、告げると、秋葉は容赦なく彼岸と此岸を繋いだ漆黒の空間へ向け、前に突き出した手の平で力強くギュッと闇の空間ごと握り潰した。その瞬間、耳をつんざく嫌な悲鳴とともに、化け物は闇とともに跡形もなく消え去った。


 広げた手の平には、何も残っていない。

 秋葉は、切なそうに、

「ばかやろう…………が」

 と、一言だけ言っただけだった。





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