第2話 恐怖の始まり 2

 五月の冷たい雨が降る中、滝沢の葬儀は無事に終了したが、多くの女子社員は名残惜しそうに中々退出しなかった。


 滝沢は長身でかなりのイケメンであった。そんな彼に密かに憧れを抱いたり、恋心を抱いている女子がかなりの人数いたことの証だ。


 本当に今日の雨は、切なくて寂しくて、悲しい雨だ。


 これを人々は「涙雨」というのだろうか。


 滝沢の突然の死は明里にとって、決して他人事には思えなかった。彼が不慮の事故に遭ったのはの自分と同期入社で友達になった谷山早苗を水原玲子の強引なパワハラから守るために訴えてくれたからだ。


 谷山早苗は事故の翌日から会社に来なくなった。理由は「体調不良」という事だったが、実のところは公表されていない。ある女性社員が何とも言えない困惑したような口調でこう言っていた。


「あの子、仕事ができる分、水原玲子のパワハラにもくじけずに簡単に仕事をこなしていたから、まさかと思うけど

あの子も…………」と、意味深な言葉を口にした。


 そんな時、一人の女子がこらえ切れずに友人の女子に縋って号泣する。


「何で、何で滝沢さんが死ななければならないの。死んだのがあの女だったらよかったのに、あの分厚い厚化粧女を、なぜ会社はクビにしないの」


「あの女のせいで、まったく新人が育たない。育つ前にみんな辞めていってしまうし」


「そうよ、あの女は会社にいらない汚いゴミよ。汚物だわ。悪魔、化け物、鬼女!」


 洟をすすりながら涙を拭う女子たちに、パートで働いている中年の掃除婦の女性が素知らぬ顔で、誰とも視線を合わせず小声で呟く。


「あなた達、ここでその事を口にするのはやめなさい。どこで聞かれているか分からないわ」


「でも、でも、おばちゃん」


 この女性は四十歳の時にパートとして入社して、「掃除の木村のおばちゃん」というニックネームで呼ばれている。若い社員たちの大きな声では言えない秘密的な愚痴や、家庭の相談事や結婚相談やその他も諸々などを、かれこれ二十年以上は、若者たちの何の事はない大小関係なく、心の叫びを真摯に受け止め、優しい笑みを浮かべながら的確なアドバイスをくれる、今年六十一歳になる、どこにでもいる優しい普通の掃除のおばちゃんである。


 このパートのおばちゃんは、良くも悪くも社内を掃除しながらあちこちで聞き耳を立て、社内の内情については隅々まで熟知している、いわば「地獄耳」とか「生き字引」とか、「人生の大先輩」と、この油断ならぬ掃除のおばちゃんに知らない事などないと豪語するほど、会社の内情にはまさにどこかの国の秘密組織のスパイのように詳しかった。


 そしてこの掃除のおばちゃんは、弱い者の味方の正義の味方のようだった。


 そして今、女子社員たちが口にしている「あの厚化粧女」というのは、水原玲子の事である。


 彼女も新入社員としてこの会社に来たときは、それはもう美しい顔立ちとモデル顔負けのスタイルをしていて、独身の野郎どもが「今年の女の子は、ズバリ大当たりだ」と彼女を囃し立て、まるでお姫様でも扱うように騒いでいたものだ。


 だが翌年に新たに新人が入社すると、男性社員どもはあんなに水原玲子に夢中だったのに、新人の初々しいく可愛い女の子に夢中になり、水原玲子には見向きもしなくなるという、残酷でどうしようもない生き物だ。



 話は戻るが、冷たい雨が降り注ぐ中、ポツンと斎場の広場に置かれたベンチに所在なく傘もささずに座っている、まだあどけなさが抜けない顔立ちの明里の隣にあのおばちゃんが、孫の隣に座るように腰かけた。


「こんばんは、大丈夫? こんなに濡れて、風邪をひくわよ」


 と言って、さり気ない仕草で明里がこれ以上濡れないように傘を差し向ける。


 明里の不安そうな顔を見て、おばちゃんは優しく微笑み、


「滝沢君の事故は、あなたたちのせいではないわ」


「でも…………」


 そこでおばちゃんは、明里の濡れた髪を拭いてやりながら、懐かしい昔話でもするように語った。


 滝沢君はね、今から二年半前に中途採用された21歳の、どこにでもいるような普通の女の子に、会った瞬間に恋に落ちたの。


 確か工藤未希ちゃんと言ったわ。


 彼女は特別美人でもないし、どちらかと言えば少しポチャリ型の娘でね、それでも彼女は他の女子にはない、本当に心が優しく笑顔が可愛い子だった。ああいうこの事を「性格美人」というのでしょうね。


 二人が結婚を考え始めた頃、信じられない怪奇現象……とでも言うのかしら、彼女が突然正気を失った様に、あんなに愛し合っていた滝沢君を避けるようになったの。彼が心配して彼女に近づくと、あの子はまるで殺されるような悲鳴を上げて、


「来ないで、お願い、私と貴方が仲良くすると、どちらかが「あいつに殺される」私はあいつに貴方を殺させたりしない。あいつには気を付けて。あいつは人の皮を被った化け物よ。悪魔よ!!」


 悲鳴を上げながら絶叫し、滝沢君から離れるように後退し、開け放たれていた窓の所まで近づいたら、廊下から突然強風が吹き荒れ、彼女は、未希ちゃんは何か得体のしれない力で身体を掴まれ、その身体は窓の外へと投げ捨てるように放り出されたの。


 大勢の社員たちがいる前で、彼女は六階のフロアーから落ちたのよ。


 未希ちゃんは即死だった。


 咄嗟に未希ちゃんに伸ばした手は、滝沢君の彼女の名を叫びながら必死に伸ばされた手は、届くことはなかった。


「未希、未希ぃぃぃぃぃっ!!!」


 落ちていく未希ちゃんは微笑みながら泣いていた。


 まるで、決して滝沢の顔を忘れないように、記憶にしっかりと焼き付けるように、視線を彼から絶対に逸らさず、アスファルトに叩きつけられる瞬間まで。


「殺されたのが、私で良かった」とでも言う様に、リップも引いていないピンクの唇が動いていた。


 彼女の身体がアスファルトに叩きつけられ、グシャリと嫌な音を立て、その周囲から通行人の悲鳴がいくつも上がった。


 彼女の全身は、全てがあらぬ方向を向いていて、じわじわと血だまりが大きく広がっていった。


 未希の後を追うように身を乗り出す滝沢を、他の男性社員たちが数人で必死に取り抑え、二次被害は何とか食い止めることが出来た。


 滝沢は、悲痛な声を上げ、周囲で心配する仲間の声など耳に入らないようで、彼は人目も憚らず大声で泣いた。


「なぜ、なぜ、一緒に死なせてくれなかった。未希を失ったら、俺は、俺はぁ……もう一人では…………生きていられない」


 と彼は身体を小さく丸め、うずくまるような体勢で、子供のように大声をあげて泣き続けた。



 その後、救急車がサイレンを鳴らして到着し、警察の車両も到着した。


多くの警察官や刑事たちがたちが詳しく実況見分をこなし、事故現場にいた社員たちの証言を聞いた刑事が出した結果は、突然常軌を逸した工藤未希の事故死は「自殺」と断定された。



 どんなに滝沢が説明しても、警察関係者は誰一人として、彼女が自ら窓から飛び降りたという証言を重視し、恋人であった滝沢の気持ちは十分に理解できるが、工藤未希の突然の変貌や、自ら飛び降りたという事実は、決して覆される事はなかった。


 




 

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