第1話 恐怖の始まり 1
吉川明里は広いフロアーで、他の社員たちが全員帰った中、ポツンと蛍光灯のライトに照らされたデスクで、たった一人でデーター入力の仕事を続けている。
まだ試用期間中の明里に対し、これは教育係の先輩である水原玲子に課せられた本日のノルマだ。現在の時間は、明里のスマホが表示している夜の十一時少し手前である。このノルマを完璧にこなさなくては、明日は更に大量のデータ入力の仕事が渡される。
教育係の水原玲子の年は三十代の真ん中だと男性社員にそっと知らされたが、彼女の顔には信じられないほどのホワイト系のファンデーションを、これでもかと厚く塗られている。心無い男性社員が揶揄を込めて「あの女王様は、白塗りお化けだ」と言って笑っているのを見たことがある。
確かに今の時代、五~六十代の女性でもナチュラルな化粧を好む人が多いのに、まだ三十代という若い女性なのに、という疑問がわく。もしかしたら彼女の顔には酷い傷か痣でもあるのでは、それを隠すために分厚い化粧をしているのでは……と思うのだが、実際のところ定かではない。
全ての作業が完了し、ざっと入力間違いないか確認し、パソコンのハードディスクへ保存し、念のためUSBメモリーにも保存して、全ての作業が完了した。
思わず大きなため息が零れ、シーンと静まり返ったフロアーに大きく反響し、誰もいないというのに明里は慌てて口に手を当て周囲に視線を走らせた。そしてこのフロアーには自分一人しかいないのだと気づき、クスリと笑いを零し、つい左隣のデスクに視線を向けるが、きれいに片付けられたデスクが視界に入った途端、大きな淋しさに胸が痛くなる。
その席には、十日ほど前に突然退職した、同期入社の谷山早苗という女の子がいて、彼女は明里と違い、性格は明るく活発な娘で、頭の回転も速く仕事内容の飲み込みも早く「天才」という人間は存在したのだと驚いたものだ。
周りの正社員、特に男性社員は「出来の悪い子ほど可愛い」とでも言う様に、明里が頭を抱えていると「どこが解らないんだ?」と声をかけてくれ、解りやすく丁寧に教えてくれたものだ。
それが水原玲子には面白くなかったのか、その日を境に入力業務は膨大な量に増やされるようになった。
目に余る水原玲子のパワハラともいうべき指導の行き過ぎに、彼女と同期入社の滝沢という男性社員が勢いよく席から立ち上がり、他の者が見て見ぬふりをしている中、水原玲子に食ってかかった。
「いい加減にしろよ水原。彼女たちはまだ試用期間だ。そんな仕事の量は社員だって逃げ出すわっ!」
蒼白になって引きまくっているフロアーの中で、滝沢の中で水原玲子に対しての、溜まりに溜まった諸々のストレスやうっぷんが一気に大爆発し、その思いが口からとめどなく噴き出した。
「お前、また若い子たちを殺す気か。何人の新人を廃人にしたら気が済むんだ! お前の厳しすぎる指導で、自殺した娘もいた。未だにお前への恐怖に怯え震え上がっている女の子は精神を病んで、病院から出られずにいる。今度はこの娘たちに何をするつもりだ!!」
大声で喚く滝沢に、同年代くらいの男性がしがみつく。
「やめろ滝沢、お前殺されるぞ」
「殺せるものならやってみろ!」
「滝沢、マジでヤバいって!」
すました顔の水原玲子は、細身の体で長身の男を見上げると、
「言いたいことは、それだけかしら?」
怒りが治まらない滝沢が何かを言おうと口を開いた時、他の仲間の男性たち二人が加わり、感情をむき出しにする滝沢を三人で押さえる。
水原玲子は少しも怯むことなく、あろうことか長身の滝沢に向かって腕を真っすぐに伸ばし、その手首を下に向けると、立てた親指を数回、クイクイと下に向けて動かした。
水原玲子は滝沢に、自分の前に土下座をしろと示しているのだ。
「誰にものを言っている」とでも言う様に。
フロアーの全員が驚愕する。
滝沢は初めて目の前の女を、思い切り殴りたいという感情に駆られた。
こいつの神経は人間じゃない。化け物だ、と。
フロアー全体の空気が、ビリビリと真の恐怖に震え上がっているのが、そこに居合わせた全員に伝わり、泣き出す女子社員もいた。
恐怖に染められた視線が水原玲子に集中する。
その時、水原玲子は鼻で「ふん」と笑うと、興がそがれたとばかりに、鼻歌交じりにフロアーを出て行った。
滝沢の元気な姿を見たのは、本当にこれが最後となった。
彼は、家へ帰宅中、自分の車で信じられないような自損事故を起こした。
目撃者によると、真っすぐな直線道路で、彼の車はあり得ない何か強い力で引っ張られていったという。白い高級セダンは歩道わき植えられているイチョウの大木に、物凄い勢いで衝突した、と目撃者たちの証言である。
白い高級セダンは、無残に原型を留めていないほどの、大破だった。
救急車や救助隊、そして警察が到着し、エアバッグに顔を埋める様にして身動き一つしない滝沢を車から救助した時、周囲にいた全員が恐怖に戦慄し、戦いた。
滝沢は、眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、それは真っ赤に血走り、その形相は、まさにこの世のものならぬ恐ろしい異形の化け物でも見たように引き攣り、血の泡を口から噴いていたという。
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