第五話 「情けない私の青春」
部内戦から丸々一週間、糺は卓球部に行かなかった。その間ほとんど部からの接触はなく、狼森からは毎日のようにメッセージが届いていた。全部既読スルーをしているのにめげない男である。
放課後早々に帰り支度を始め、部活動に行くのと同じくらいの速度で教室を出た糺の目の前に壁かと思うくらいの長身があった。急に立ちはだかったそれに目を瞠ると、「まだ来ないつもりかよ、糺」という声が上からふってきた――色麻である。
「……すみません」
「いや、別に謝ってほしいワケじゃねーのよ。来るのか来ねーのか」
「行きません」
「絶対に選択肢間違えたなコレ……。来るか行くかだ、糺」
わざわざ言い直した色麻に、もう一度「行きません」と言った。整った色麻の顔立ちが少し歪んで、「いや……、逆ならわかんだよ」と心底悩ましげに言った。
「おまえが狼森っつー二年のクソガキに負けて、もう卓球なんてやりません! て言うのはわかる。でもなんで――なんで勝ったおまえが、そんな思い詰めてんだ?」
確かに、色麻の言う通りだ。普通勝って嫌になることはなく、負けて嫌になる。悔しさを乗り越えられない人間がスポーツを辞めていく。しかし糺はそうではない。
「……小学生が、戦艦のプラモを作って遊んでるとしますよね」
「――? おう」
急に始まった例え話に戸惑いつつ、おとなしくその光景を思い浮かべる色麻。
「そこに、大人が急に本物の戦艦を持ってきて、『プラモより本物で遊んだほうが楽しいでしょう』って言って子供に押し付けるんです。――私がやっていたのは、たぶんそういう卓球でした。だからもう、できません。退部届も今度提出します」
「は? いやいや、おい」
色麻の横をすり抜けて、部活に向かう一年生の波に紛れる。後ろで悪態を吐きながら「ぜってーもう一回来させるからな!」と叫ぶ声を、糺は無視した。
家に帰ってきたら母親が妙に高いテンションで電話で喋っていた。訝しみながら自室へ戻ろうとすると、「ちょっと、律今日暇よね?」と言われた。いや全然暇ではない、と反論しようとしたが、事実部活に行かなくなってからは何一つやることがなかった。
「今から高谷さんたちとお茶会しに行くの、律も来なさい」
「はっ? 誰その人……」
「アンタの中学の同級生のお母さんよ! 早く準備して」
糺が引っ越す前の家は、ここから電車で一時間、いや二時間以上かかる。しかめっ面をしたのにも気付かれず、母親の中では糺は行くことが決定していた。
* *
電車でガタゴト揺らされて、半ば夢の世界にいた糺を迎えたのはかつての近所である。糺は退院した後すぐに引っ越していたため、このあたりの街並みにはほとんど見覚えがない。だが母親の後ろをついて回るだけになるのは嫌だったため、図書館に行ってるだかなんだか誤魔化してお茶会を回避した。図書館の場所も覚えてないが。
適当に町を散策する。全く知らない道ばかりで、時折スマホで位置を確認し駅から離れすぎないようにしながら散歩する。
もう六月の初旬だった。初夏の気配がしていた。
「――律?」
呆然とした声で糺を呼んだのは、糺の記憶に全く残っていない、前の糺を知る者だった。
* *
なし崩し的に公園まで連れてこられて、色々と相手が喋り続けるのに適当に相槌を打つ。ボブヘアーの髪の女の子で、髪が内側に巻かれている。彼女の話にはたくさんの人の名前が出てきていたけれど、糺は誰一人としてそれがわからなかった。
ふと回り続けていた彼女の口が止まり、「なんか反応薄くない?」とジト目で見られる。うぐ、と言葉に詰まった。
「引っ越しって話も聞いてないしさあ。あたしおかーさんに律ちゃんとはちゃんとお別れしたの? て言われて初めてあんたが引っ越したって知ったんだからね。しかもスマホ買い替えたとかで全く連絡つかないし!! 引き継ぎしなかったワケ!?」
「え、あ……いやあ」
怒った様子で大声をあげながら糺を真っ向から非難する言葉に、ちょっと愛想笑いを浮かべながら「私、記憶喪失なんだよね」と言った。コレ以上記憶がないことを誤魔化せない。
混乱するだろうなあと思って彼女を見れば、案の定目をぱちくりとさせて、「記憶……喪失?」とオウム返しになる。
質問責めにされるかな、と思ってじっと彼女の先の言葉を待つ――が、そんな予想を大幅に裏切り、彼女は「なるほどね。なんか雰囲気違うと思ったわ」とひとり頷く。こちらがびっくりするくらいの潔さである。
「え、納得……するんだ?」
「あんた昔から意味ない嘘つかないし。あと私の名前一回も呼ばないし」
「う……、ご、ごめん」
「はん。記憶喪失ねえ……、連絡つかないワケだわ。あたし明日香よ、
「は、はい」
謎の迫力に押されてこくこくと首を縦に振る。それを見て満足そうにした雲谷は、「じゃああんた高校どこ行ってんの?」と問うてきた。
「庚塚高校ってところ」
「全然知らない」
でしょうね、と思った。電車を幾つも乗り継いだ先にあるド田舎公立高校だ。ほぼ地元の人間しか進学しない。
「ホントに何も覚えてないの?」
そう言われて、記憶の欠片のことが頭に浮かぶ。だがそれを振り払って、「うん」と雲谷の言葉を肯定した。
「んじゃコレも?」
「――?」
彼女が見せてきたのは、一本の動画だった。
たった二分半くらいの、カップラーメンもできないくらい短い動画だった。
* *
「部活サボってすみませんでした」
「早い早い早い展開が早い」
卓球道具をしっかりと抱えて部室に来た糺に色麻がツッコむ。遊佐はいつもと変わらない表情だったが、狼森はポカンとして糺を見ていた。今日は木曜日なので東名と磐はいないが、いたらきっと同じようにびっくりした表情だっただろう。
「え……え? オレ一昨日糺のこと引き戻しに行ってすげなく断られてたよね? ど、どういう心境の変化なんだ。そしてオレのこの一週間の悩みのタネは解決されたということで良いのか」
絶対にもう一度来させてやる、と大言壮語を吐いていただけに肩すかしを喰らった気分なのか、色麻が混乱した表情で早口になる。
「はい。もう、ちゃんと来ます。狼森先輩も、あの時急に帰ってしまってすみませんでした」
「いや、……いや、いいよ。戻ってきてくれただけでおれ嬉しいよ」
ふるふると首を振る狼森だったが、でもどうして、と言いたげな表情をする。
それは、雲谷の見せてきた動画のおかげだった。
* *
ぼやけた風景がそこにある。すぐにピントが合って、そこにたくさんの人がいることがわかる。
『あ、おいちょっと……、明日香、撮んなよ』
『いいでしょ別に』
画面の中の糺は髪が肩につかないくらいの短さだった。髪を切ったようだった。目は真っ赤になって濡れており、頬に涙の筋がいくつも残っている。しかしそこにいる全員が似たような表情なので目立つことはなかった。
『部長コメント! コメントちょうだい、カメラに』
『は? いや、無理だって、そういうの』
『いいからやってよ』
『おねがーい!』
『琵琶法師になって永劫語り継ぐからー!』
全員涙声で聞き取りづらいけれど、けらけらと無邪気に笑いながら糺にまとわりついている。手を引っ張られたり抱きつかれたりしている糺は、『なんだよ、それ。絶対やめろよ』と言いながら笑っていた。それからカメラにふっと視線を向けて、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま微笑みかけた。
『――楽しかった。お前らと過ごした三年間が一番最高で面白かった。お前ら以外なんて考えられなかった。……全員大好きだ』
一拍の静寂を置いて、わあっと歓声があがる。あっという間に糺は皆に揉みくちゃにされて見えなくなって、そして映像が終わる。
見終わった糺は呆然として、――い、今の、と言った。首を傾げた雲谷にいつのかを訊ねれば、「最後の総体の時だよ。志波中に負けた後のやつ」となんでもないように言う雲谷。
「な、なん……で。わ、私――皆に嫌われてると、思って」
「え? あー、まあ中二の途中まではそんな感じだったよね。でもいつの間にか――いや、それは違うか。律がちゃんとあたしたちと向き合って喋ってくれたり、勝つことが楽しいって思わせてくれてから、皆ちゃんと卓球するようになってたじゃん。今の動画ちゃんと見てた?」
――母親と一緒に家に帰った後で、日記を見直した。途中まで――ちょうど糺が読むのを辞めたあたりまでは確かに、部活についての愚痴や、もう無理だ、などと弱音ばかり書いていた。しかし明らかに途中から内容がポジティブなのに変わっていて、恐らく総体の日に書いたのであろう日付には、【これ以上ないくらいの青春を経験した。あれ以上の経験なんか私にはないし、きっと今後一生ないと思う】と書いてあった。
わかり合えないワケではなかった。
嗚呼、なんてバカみたいに震えた声が出る。記憶はまだ全部は蘇らないけど、でもその時の感情が蘇る。
ピンポン玉を弾く感触、友人とハイタッチをした手の痛み。大会の床でシューズが鳴る音。スマッシュを打った瞬間の息もつけないような快感。主審の手がこちらを指して、「ありがとうございました」と互いに言った後の、チームの燃えあがるような歓声。
全部が全部、映画みたいな臨場感で糺の胸に湧き上がる。日記を胸に閉じ込めて、その文字を決して忘れないよう抱き締めて、声も出ないままに泣き続ける。
どうしようもないワケでは、なかったのだ。
【でも、やっぱり――私は】
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