第四話 「トゥシューズの血痕」

 その日は火曜日だったので、卓球部の全員が集合できる唯一の日だった。しかし生憎と狼森が家の用事で欠席であり、糺は磐と東名に教えてもらうことになった。


 磐と東名は糺の上達っぷりに目を瞠っていた。「一週間ですぐ上手くなるんだねー」と言う東名に磐が「上手くなるってレベルの上達具合じゃないでしょ」とツッコむ。それは薄々糺自身も思っていたことなので、やっぱりこんなに早くできるようになるのはおかしいのか……。と思った。


 狼森に教えられてから二週間も経たない内に下回転はマスターしてしまった。一度色麻・遊佐それぞれと横回転ナシ・サーブありのラリー練習をやったが、さほど苦にすることなくできた。色麻はいけると思ったら容赦なく強打スマッシュをかましてくるし、遊佐はネットの手前に落とすなど悪辣な手ばかり使ってきたが。


「ライジングも上手になったね。でもタイミングもうちょっといいトコまでいけると思うから頑張ってー」

「はい……」


 糺の裏面は粒高という、打つだけで回転が逆向きになるラバーを使用している。卓球人口的には使用者は少ないが、東名はたまたま粒高を裏面に使用し、糺と全く同じ構成だったので粒高での戦い方を彼女に教えている。基本的にディフェンス向けなので普通の選手とは攻撃の仕方が違い、糺や東名は『ライジング』という、球の打点を低くかつタイミングを素早くすることによる攻撃を行っていた。


 ライジングをする上でもっとも重要になるのはタイミングであり、タイミングを計るには慣れるしかない。多球練で果てしない量を打たされた糺は未だ五月の下旬であるというのに汗だくである。足がヤバすぎる、本当に動かない。絶対に明日の土踏まずは筋肉痛である。


「こんだけできるとは流石に思ってなかったけど……。来週は、まあ久々に部内戦やるか」


 糺と磐とのゲームを見ながら色麻が呟く。磐が「げぇ。マジ?」と言いながらしかめっ面になったが、色麻は「ンじゃ弦にも連絡しとくわ」と何一つ気にしない様子で自分の練習に戻った。

 糺が「あの、部内戦って」と磐に訊ねると、少しだけ考えるような仕草を見せる。自分の中である程度説明の段階を組み立てたのか、パッと顔をあげ、


「トーナメント形式でちょっと試合しましょう、っていうヤツ。今までは五人だったから全然やらなかったけど、まあ律が公式戦出る前にちょっと試しておきたいんじゃない?」

「公式戦?」


 素っ頓狂な声をあげた糺に、「そうだよ~」と伸びた声が応答する。未だ滴る汗を拭ってそちらを見ると、東名がへらっとした表情で水筒を抱えて立っていた。よいしょ、と座り込んで糺と同じ目線になる。


「七月の中旬くらいに大会があってねー。わたしたちは人数足りないから団体戦は出れないんだけど、個人戦は出るんだー。部長と遊佐はいっつも良いトコまで行くけどー、わたしはいつも一回戦負け」

「去年の最後の大会じゃ、色麻が確か全国常連校のヤツに一セット取ったんだっけ。しかもその人そのまま個人戦優勝したしなあ」


 全国常連校――それはすごい、と目を丸くした糺に、「律ちゃんもすぐ上手になるよお」と東名が笑って言った。

 翌週の火曜日は狼森含め全員が集まることができた。が、このそれなりに拾い北棟二階にたった六人しかおらず、卓球台を出す数がたった三つで良いというのは、風景がどことなく淋しい。


「三年はくじ引きでやんぞ。糺と弦は最初の試合だけ固定でシードな」


 ということで、糺の一回戦目の相手は狼森である。くじを引いた三年は色麻対東名、磐対遊佐が初戦となる。この対戦で勝った二人が再度試合をし、決勝にて糺か狼森のどちらかが三年と戦う。


 試合形式は二セット先取三セットマッチ。大会でも大抵はこの形式であり、ブロックごとの決勝や準決勝になると三セット先取五セットマッチとなる(人数の問題でもあるので地域によって違う)。


 卓球の試合は基本的に最初をラリーから始める。ウォームアップではなく、その台での打ち方や球の打球感覚のチェックだ。何球打つか何分やるかは人によって完全にバラバラなので、どちらかが「ラスト一球で」と言えばそれでラリーが終わる。

 糺はある程度ラリーを続けることはできるが、完全に狙ったところに球を送ることはできない。これが上級者ともなれば、延々と同じ姿勢で同じ動作、同じ位置に球を送り続けられる。


「よし。じゃ始めよか」


 ある程度ラリーをすると、狼森の方からそう言ってきた。ちらと他に視線を向けると、色麻と東名はまだラリーを続けていたが磐と遊佐は既に試合を始めていた。


「はい。よろしくお願いします」


 卓球のサーブ権は基本じゃんけんで決まる。大会でもそうなので、それを聞いた糺は「え、公式でじゃんけんやるんだ……」と驚いた記憶がある。

 サーブは糺からだった。まだサーブの種類が少ない糺だが、種類が少なくたって『狙い』さえあれば、実力に差がある狼森とだって渡り合える。


 狼森は基本的にフォアのドライブが得意だ。だから送るならバック前(ネット近く)。下回転ボールを止める技術はまだ糺にはそれほどないが、バウンドする場所を手前側にすることはできる。

 狼森はツッツキでそれに対応。しかし一球目ということもありフットワークが上手くいかず、半ば体勢を崩しながらだった――糺の予想通りクロスに返ってきたので、それを今度はストレートで狼森のフォア側に送る。本来狼森なら容易に取れる球だが、最初の返球で体勢を崩していて追えなかった。


「あー! マジかよ」


 悔しそうに叫ぶ狼森にぺこ、と頭だけ下げる。

 先制点を取ったのは糺だったが、その次は痛恨のサーブミスで狼森の得点。サーブ権が狼森に移り、そこから二連続で点を取られた。卓球は基本的にサーブ権のある方が有利だ。狼森3-1糺。


 下回転をフォアに送るのはあまり得策ではなかったが、狼森はミスも多かった。ドライブで上回転がうまくかからずネットに何度かかかるため、点数はかなり拮抗している。


 糺にサーブ権が移る。また下回転のショートを狼森のバック側に送る――が、少し長すぎた。彼も糺がロングを送ると思っていなかったのか、「うぉ!?」と驚きの声をあげてなんとか球にラケットを当てるだけやる。が、ネットにかかり糺の得点。狼森7-6糺。糺のサーブが続くが、コースが甘く狼森にサーブレシーブでスマッシュを打たれ狼森の得点。


 そして一セット目は結局、狼森11-7糺で狼森がセットを取った。


「うえ、あぶねー……。途中までめちゃめちゃ競ってたじゃん」


 眉根をぐっと寄せた狼森は、ガラガラと氷の鳴る音がする水筒を逆さにして飲む。セット間の小休止である。糺はちらと他の台を見やった。

 色麻と東名のところは糺たちよりも試合開始が遅かったのに、もう一セット終わっているらしい。「5-2」と色麻が呟いているのが聞こえる(人数が足りないため基本各々が点数を数える。相手の点数か自分の点数、どちらを先に言うかは人によって違う)。

 磐と遊佐はまだ続いていた――どうも今はデュースらしい。卓球は11点マッチなので、10-10になった時点でどちらかが二点差をつけない限り試合が終わらない。この状態をデュースという。

 あれ? と思った。先輩たちが試合をしているのを見て、なんだか、頭にひっかかることがあった。


「よし、二セット目はじめよーか」


 ぱ、と意識が引き戻される。はい、と抱えていたタオルを置いて飛び起きた。

 狼森はこのセットを取れば勝てる。大して糺が勝つにはここから二セット連続で取らなければならない。かなり難しいことは確かである。


 一セット目で最初のサーブは糺であったため、二セット目の最初のサーブは狼森からである。狼森は掌を上に向けて、ボールをその上で静止させる。

 また、あれ? と思った。なにか――なにか、違う気がする。


「あ」


 糺が頭の中の違和感に意識を取られた瞬間、狼森はサーブを放っていた。が見事なまでの空振り。サーブでの空振りほど恥ずかしいものはないのである。狼森0-1糺。もう一度狼森のサーブだったが、今度は外さず上回転のロングを出してきた。普通の試合では上回転サーブを使う人間など滅多にいないから、恐らく手加減の意味合いで出してくれたのだろう。ただ今まで下回転のサーブで慣れていたせいで、とっさにツッツキで返してしまった。球が高く上がる――オーバーになる、と思ったが、なんとギリギリエッジ(台の側面に当たること)だった。


「すみません……」

「い、いや、いいよ……」


 それで狼森の運がなくなったのかは知らないが、このセットだけで狼森は実に四点分のサーブミスをやらかし、糺が追加で二回ネットインをするという事態になって狼森6-11糺という大差をつけ、フルセットになった。どちらも王手の状態である。


 正直運が良かったとしか言えない。糺は大した疲労もなく第二セットを終えたが、狼森は「う~ん」と呻きながら自分の素振りの姿勢フォームを確認している。先輩たちは、と彼らの方を確認した。まだどちらの試合も終わってはいないが、色麻と東名の試合はもうすぐ終わりそうだった。色麻のスマッシュによって弾きとばされた球を東名がかろうじてブロックするが、ネットに引っ掛かって色麻の得点になる。「10-4」と色麻が言ったのが聞こえた。本当に強いんだな……。


 もっと優しくしてよー、と言いながら東名がボールを取る。色麻がちょっと笑いながらゴメンゴメン、と応答した。東名がサーブだったらしく、そのまま手に持ってサービスの構えをする。色麻はすぐに表情を切り替え、姿勢を落とし、上半身をほとんど台と水平にして――。


「……あ」


 あ、コレだ。なんか――なんか違うと思ったら。コレだ。

 ようやく気付いた。姿のだ。打球のフォームとかではなくて、通常のフォームが違う。狼森は単純に素振りの時のような前傾姿勢だけれど、色麻は前傾どころではなく上体を倒している。相当疲れる姿勢であることには違いないが、その状態をずっと維持しているのは彼の下半身の筋肉と体幹のおかげだろう。


「律ちゃん、三セット目やろー」と狼森が言った。糺は少しだけ長く色麻を見つめて、視線を外した。

 三セット目のサーブは糺からである。下回転で狼森のフォアに入れる。狼森がちょっと楽しそうな表情で足を踏み込み――バンッ! と凄い音がした――その勢いを減らさずにドライブをかける。


「――あれ!?」


 球の先には糺のラケットがあった。自分のドライブとほとんど同じ速度で返ってきた球に反応しきれず、糺の得点となる。糺は最初からブロックを狙っていた――狼森なら、フォアのロングに下回転が来たなら確実にドライブをするだろうと思った。それも絶対にクロスで返す。狼森はまだドライブのコース打ち分けができていない。


 ぐーっと悔しそうな表情になる狼森に若干申し訳ない気持ちになりながら、サーブを構える。

「え」と驚いた表情になった狼森にクロスで――つまりフォア側にサーブが打ち込まれた。狼森は驚いた表情ながらもそれを打ち返す――が、球は大きくオーバーとなって失点となった。現在狼森0-2糺である。


「え、え~~!? バックサーブできたの律ちゃん!?」

「い、勢いが強い……」


 目をまん丸くして大声をあげる狼森に若干気圧されながら、「で、できたってワケではないんですけど」ともごもご言い訳を口にした。言い訳かコレ?


 だが少なくとも『できた』ワケではないのは確かだ。狼森から下回転を教えてもらった頃に、家にある雑誌にたまたまバックサーブのことが載っていた。たぶん昔の糺もこのサーブを使っていたのだろう。成功率は他のサーブに比べてかなり低いが、結構すんなりと身体に馴染ませることができた。


 ちなみにバックサーブは自分の利き手を反対側の肩の上か脇の下に回して行うサーブだ。フォア側でやる普通のサーブよりも横回転が利きやすく、狼森が今のサーブを取れなかった原因はそこにある。


「あー、そういやお前横回転苦手だもんなあ」


 急に後ろから声がして、驚いて振り返ると色麻が糺たちの試合を眺めていた。東名が「負けちゃったよ~」と磐に絡みにいっている――もう終わったのか。


「まあ、いい練習になるだろ。『おれはドライブしかやらないんです!』つって横回転練習してこなかったお前が悪い」


 ド正論すぎる。そんなこと言ってたのか……、と狼森を見れば「そりゃそうですけど」とぶうたれた表情で口をもごもごさせていた。さっきの糺と立場が逆転している。

 狼森にサーブ権が移り、試合が再開された。今度はサーブミスをしなかった狼森が二連続得点し、狼森2-2糺。サーブミスからのネットインにより狼森3-3糺、と拮抗する。


 バックサーブはミスの可能性がかなり高いため、基本は下回転の普通のサーブで責める糺。だが色麻を真似して視線を低くすることで球の距離感覚を掴みやすくなった。狼森はヒートアップしてきたのかドライブの威力は上がったがオーバーやネットが増えた。狼森8-10糺で、次のサーブは糺だ。あと一点取れば糺の勝ちだが――、


「……くそ」


 バックサーブがオーバーになり、狼森9-10糺。次狼森に得点されたら同点だ。

 入れば糺の得点になる可能性が高いが、サーブミスはそれだけで相手の得点だ。デュースになる。ラリーを続けられれば糺が得点できるかもしれない。やはり普通のサーブで――いや、けれど。バックサーブなら。だがそれだと。


 ――でも、あんなに何度も読んでいた。マーカーも引いて、自分でやってみた感想を書いて、いつでも見返せるようにして。


『膝をたわめてやるとできる! 台スレスレまでボールが落ちてくるのを待って。思うよりもメチャクチャ待て』

『ラケット極限まで後ろにやる。回転を強くかけるためには距離がいる』

『止めないでそのまま振りぬく。速くやることじゃなくて回転をかけることを重視』


 球を手の平に乗せた。膝の跳ね上がる力と共に球を放り投げ、落ちてくるまで待つ。――高い。まだ、高い。台の上ギリギリまで。落ちてきたのを、腕を振り抜いて。


 球の下部が擦れた。ラバーの弾力をしっかりと受け止め、かつ前方向へ推進。横回転を軸とし下回転も添えた球が、狼森のミドルにどんぴしゃで入る。ミドルはフォアでもバックでも打てない場所だ。フットワークでどちらかが打てるように移動しなければならないが、このバックサーブは速度もフォアでのサーブと遜色ないくらい速い。眉根がぐっと寄った狼森が、辛うじてバックで受ける――が、横回転のかかった球はあらぬ方向へと飛んでいった。つまり――サービスエース。

 ポカン、として球の行く末を見つめた狼森。糺も同じような表情で、緊張からか暑さからかわからない汗を顎から落とした。狼森9-11糺。と、いうことは。


「おお。勝ったのか、糺」

「………………、……勝った?」


 ほとんど独り言のような小ささで呟いた糺の声に、狼森が視線をゆっくりとこちらに戻して、「え」と言った。


「え。え……、ええーっ!? えっ、お、おれ負けたの!? ダッ、おっ、えっ!? お、おれ、だって――え!? おれ律ちゃんより半年も卓球始めんの早かったのに――負けたの!?」

「――――、――」

「いや、でも、そーだよな、律ちゃんほとんど経験者みたいなもんだったし、……いや、そうだよなあ」


 顔芸のようにころころと表情を変えていく狼森。


 糺は未だに現実味が湧かなくて、転がっていった球の先を見つめて、自分のラケットを見つめた。感慨ともしれぬ何かがラケットから手の平越しにじんわりと侵入してきた。は、と浅く息をついて、ふと顔をあげる。


「――――――――え」


 狼森の両目から、ぼろりと涙が零れていた。


「あ、いや……、ごめ、おれ、たかがこんなんで」

「え? あ――せんぱ、い」

「うわーっ、悔し。やっぱまだまだってことだよな、おれ、もっと練習しないと――半年も無駄にしてたんだから、もっと頑張ってないとダメだったんだよな」


 せんぱい、と空気の抜けるような音がする。誤魔化すように早口になった狼森の言葉。半年無駄にしたって、それは確か、途中入部の話か。自己紹介の時に言っていた――気にしていたのか。確かに普通だったら狼森が勝つだろうけど、糺は飲み込みが速すぎた。こんなよくあるセリフを言いたいワケではないが、身体が覚えていたのだ。

 貧血になったかのように、頭がぐらんと揺れた気がした。


「お……、おー、弦、大丈夫か? 泣くなよ、急にどした、ほら。弦、大丈夫か」

「いや、す、みませ……、な、なんでもないっす、」


 色麻さえも戸惑ったような顔をしていた。狼森の嗚咽がいやに耳に残る。誰かと、重なる。その子が泣いていて、周りの皆がそれを慰めていて。


『可哀想だって思わないの』

『――――』


"律"の喉がきゅうと狭くなって、何かを言おうとした。鋭い目線に射抜かれて、なんにも言えなかった。だって、試合だろ。勝つか負けるかしかないだろ。なんで勝った方が、こんな風に見られなきゃならないんだ。


「糺、ちょっと待――糺? おい、顔真っ青だぞ」

『たかが部活でしょ? 勝つことだけが全部じゃないじゃん。ちょっとくらい手加減してあげてよ』

『それにさ、勝った時なんか嬉しそうだったよね。負けた人の気持ち考えてないの?』

『――――』


 手加減、って。なんだそれ。ラブゲームじゃねえんだから。勝って嬉しいのダメなのか、勝ったら申し訳なさそうにしてればいいのか。つーか私が負けたことがねえと思ってるのか。頭の中でそんな言葉がぐるぐるしていたけれど、結局全部外に出なくて、『私、は』という音だけがぽつりとそこに残っていた。誰もそれに反応してくれなかった。


「糺? ……糺!」

「――――ッ」


 は、と意識が引き戻される。糺の両肩をがっしりと掴んだ色麻は安心したようにほっと息をついていた。全身が冷や汗でびっちょりしていて、糺は目を丸くしたまま「え」と言った。状況が全く理解できなかった。


「律ちゃん?」


 色麻が振り返る。高身長の色麻に隠れて見えなくなっていた狼森が、こちらを心配そうに見ていた。その瞳は赤くなっていて、涙の膜が表面に張っている。ひゅ、と息がつまったような気がする。


「あ、わ、わた――すみ、ません!」

「は? オイ糺っ、待」


 さっと身を翻して、荷物の置いてある小部屋に飛び込んだ。自分のバッグだけ引っ掴んで、すぐに出る。ガァンッ、とものすごい音がして「いッッ……!!」と色麻が鼻を押さえて仰け反った。糺が勢いよく開けたドアが顔面に直撃したらしく、よたよたと数歩下がったかと思うと尻もちをつく。ごめんなさいと辛うじて言った、気はする。もうそこからは何も覚えていなくて、気付いたら糺はジャージのまま家の玄関の前に立っていた。汗だくでアスファルトに黒い染みができるくらいだった。


 鍵を開けて、さっきの色麻みたいな足取りでふらふらと家の中に入って、靴を脱ぐ動作さえも惜しくてずるずる座り込む。浅く速い息が家の空気に溶ける。目を瞑ると、狼森がぼろりと泣いた瞬間の映像が瞼の裏に焼き付いて離れない。くそ、と誰に吐いたワケでもない悪態だけが出る。

 ぴこん、とスマホの通知音が鳴った。ロック画面に表示された『狼森先輩』の名前。


『ごめん、泣いちゃってびっくりさせたよね。もう帰っちゃった?』

『律ちゃんが悪いワケじゃないから! 本当に違うから!!』

『いやマジでごめん。ホントにもう泣き止んだから』


 怒涛のように鳴る通知音。メッセージの通知を一時停止しますか、という文言に無言で『閉じる』を押す。ロック画面をそのまま眺める。


『いやね、なんで泣いちゃったかっていうとさ、おれ中学と高一の最初の半年バスケ部だったんだけど、身長スゲー低いじゃん?』

『一六三センチなんだよ。女の子とほとんど一緒で、おれ何百回も「これで身長が高ければなあ」って言われてさ』


『おれが一番そんなの思ってた』

『でも色麻先輩が、卓球ならそんなの関係ないって言ってくれた』


『身長が高いとか低いとか関係ないところで戦いたかった。バスケはスゲー好きだけど、他にも身長なんて関係ないスポーツなんてたくさんあるんだろーけど、でも色麻先輩が一番力強く誘ってくれたんだ。そしたら証明できるって言ってくれた、卓球が世界で一番面白くて平等なスポーツだってことを』


『わかんないことスゲー多かったけど、こんな中途半端なトコから始めてるヤツなんて他にいないだろーけど、でもおれちゃんと成長してるって思えたんだよ。バスケやってた頃より今がもっと成長できてるって思ってた』


『だから律ちゃんに負けて、おれの半年間無駄だったのかなあ、って思っちゃったんだ』


『もう無駄じゃないってわかってる。おれが卓球やってんのは勝負の話じゃない。どんだけ小っちゃくてもこんだけ楽しめるスポーツがあるんだって皆に知ってほしい』


『律ちゃんのせいじゃないから』


 靴を脱いだ。荷物を持って、自分の部屋に入った。何がしたいのかわからなくて、返信も既読もつけないままスマホをほったらかす。机の上に広がった卓球雑誌を眺めて、それを畳んだ。――ふと、その下に大学ノートがあるのに気付いた。タイトルも書いてないが、書き込まれている様子はわかる。開いてみると、それが糺律の日記であることがわかった。


【■月■日

 テストめちゃめちゃ点数良かった~~~!! 学年順位一桁だった! 私すごくない!?】


 ぺら、ぺら、とめくる。そこには大抵当たり障りのない日常のことが書かれていたが、段々とその内容が変わっていく。


【■月■日

 新しいバックサーブ試してみた。友達皆取れなかった。このサーブもっと磨こう】

【■月■日

 練習の時間くらいは真面目にやろうよって言ったら空気読めない感じで見られた。言いたいことはわかるけど、休憩中ならともかくさあ】

【■月■日

 なんか最近友達と喧嘩してばっかな気がする。どっちが正しいとか正しくないとかじゃいんだけど、すごくもやもやする】


【■月■日

 私どうして勝っちゃダメなの】


 あ、と思った――これ。これだ。さっきの、狼森にダブって見えた、記憶の欠片。


 糺は口元を押さえて、ぺた、と床にへたり込んだ。狼森や、他の部員はあんなことを言う人ではない。それはわかっている。わかっているが、それでも、あんな風に言われることを想像すると耐えられない。これがほんの些細な記憶の一片でも、この記憶をもう一度体験することだけは耐えられない。


 耐えられない、と思った。

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