第三話 「酸いも甘いもおとがいも」

「今日はねー、下回転をやろうと思う。律ちゃんスゲー上達すんの早いから」


 狼森がゆるゆるな表情で言うので、糺も「はい」と頬を緩めながら言ってしまう。遊佐の素振り講座が終わってから無事に糺の教育係の座に戻った狼森はなにかと糺に優しくするようになった。糺に見捨てられるとでも考えているのだろうか。


 ちなみに庚塚高校の卓球部は週に五日、水曜と日曜以外が活動日であるが、それに毎日出席している者は少ない――というか今までは色麻と狼森だけであった。現在は糺が加わり、この三人が常に出席している。


 これには色々と理由があり――毎回来れない人の中で一番出席率が良い遊佐はメチャクチャに頭が良くて、模試での学校順位は常に一桁である。それだけあって土日は塾三昧で、主に平日だけ練習に来る。

 残りは磐と東名だが、この二人は主に週一で来る。磐が女テニと兼部しているため、活動日が被っていない火曜日しか来れない。東名は卓球部以外に属していないのでいつでも来れるのだが、彼女いわく「涼香ちゃんが来ないなら行かな〜い」だそうである。


 なので基本的なメンバーは色麻と遊佐、狼森、糺のみ。ある日ふと我に返った糺は「二年と一年がそれぞれ一人ってメチャクチャヤバくないか? これ三年がいなくなったら確実に廃部じゃないか?」と思ったが、同級生の卓球への興味のなさを見た今から考えればこの人気のなさにも頷ける。


「卓球で一番大切なのって何だと思う?」

「回転、ですか」

「エ正解! すごいね、おれ去年『威力!!』って答えたよ」


 まあ狼森先輩ならそうでしょうね、という言葉が咄嗟に口から飛び出そうになったが、それはかろうじて堪える。最初に「新しい回転やるよー」と言われてこの質問に結びつけない方がおかしいと思うが。


「卓球はね、基本のが上回転と下回転で、難しいのには横回転と無回転があんの。上回転はいつものボールだから、今日は下回転やんね」


 台の上で練習するようになってから、「ボールは打たないでいいんだよ、ボールを擦るだけでいいの」と何度も言われたことを思い出す。その言葉通り、球の上部を擦るだけで勝手に相手の陣地に戻っていくのを見てひどく感動した。

 わずか一週間足らずで上回転のみのラリーはできるようになった糺に、狼森は「すごいね」と限りなく褒めてくれる。気恥ずかしい気分がまだ抜けないが、これが狼森の本心なのだろう。


「おれが今から下回転打ってみるから、それを普通に返してみて」

「――? はい」


 台の反対側に回った狼森がサーブをする。いつものただこちらに送るサーブではなくて、下側に切るような動作で送られてきたサーブだった。それを普通にフォアで打ち返して、――ネットに引っかかった。

 きょとん、とした顔になった糺に「これが下回転」と戻ってくる狼森。


「下回転のを普通に上回転と同じように打っちゃうとネットにかかるんだ。あと上回転のボールは前に進むけど、下回転はこーやると戻ってくる」


 ヒュ、と狼森が球の下部分を擦った。強い回転がかかったボールは一瞬止まったように見え、狼森の方へ跳ねて戻ってくる。おお、と糺が感動したような声をあげると嬉しそうに「へへ」と頭をかいた。


「下回転を返すのを『ツッツキ』てゆーんだ。返球の時にボールの下部分を擦る動きがツッツいてるみたいだから。サーブから下回転を出す時の動作も『切る』っていう」


 水平に開いた手に球を乗せた狼森は、それをふっと空中に放り投げる(昔はボールを手の中に隠しておいても良かったのだが、ルール改正で現在は手を丸めてはならず、球を手の平から十六センチ以上高く上げなければならない)。


 球が一瞬頂点で止まり、台から少し上まで落ちてきたところで斜め下に振り下ろす――確かに切る動作に似ている――球は普段の上回転よりも勢いが弱まった状態で台から落ちていった。前に進む力よりも下回転(戻る力)が強いと、球はこちら側に戻る。


 やってみてと言う狼森に従うが、どうにも球に回転がかからない。素振りは辛うじてやり方がわかったけれど、こちらはやり方さえもわからないという感じだ。

 切る、というのはわかる。斜め下に向かって振り下ろせば、とりあえず球の下部には当たる。下部を擦れば自然と下回転がつくはず、なのだが。


「もっと速く切ってみて」

「こ、……うですか? あ」


 素早く切るとラケットの側面に球がぶち当たってすっ飛んでいった。軽い音を立てて壁にぶつかり跳ねるピンポン球を見つけて、沈黙したまま顔を見合わせる二人。


「下回転は、練習あるのみだから……おれも最初マジでできなかったから……」

「はい……」


 哀愁漂う感じで狼森が言った。


「この下回転を上回転に変えるのをドライブっていってね、おれドライブが一番得意なんだー。ツッツキは基本守りの技術で『相手のボール』なんだけど、それを無理矢理『おれのボール』に変えんのがね、チョー気持ちいいの! 律ちゃんが下回転打てるようになったらおれのドライブ練付き合ってね」

「は……え、あ、もちろんです! が、頑張ります」


 威勢のいい返事をする糺、で、あったが。

 幾度やっても、どうにもこうにもうまくいかず、見兼ねた狼森が「休憩しよっか」と言い始めるくらいだった。同じ動作のやりすぎでウンザリしていた糺には願ってもいない言葉だったので、諸手をあげてその提案を受け入れた。


「……色麻先輩たちは何してるんですか?」

「んー? ああ、アレね」


 水分補給をしながら狼森に訊ねる。

 試合をしているワケではないだろう。まだ少ししか見ていないが、色麻が三球以上サーブを続けて打っている(卓球の試合はサーブを二回やると相手に移る。サッカーやバレーのように直前の点は関係しない)。


 色麻がフォアから(恐らく下回転)サーブを遊佐のバック側に送る――遊佐は左利きなのでストレートで送ったことになる。遊佐が台上のバックドライブで返すが、角度があまりつかなかったため色麻がバックで十分対応できる位置に返球され、色麻は苦労することなく打ち返した。遊佐も球が返ってくることはわかっていたが、対応しきれずに後方へ球を逃す。


 この一連の流れを何度か繰り返している。遊佐の一度目の返球、つまりバックドライブで打った二球目が返せなかったり、色麻が三球目をミスったりもしていたが、おおむねこの流れである。


「三球目攻撃っつーんだけどね。まあ……、わかりやすくいえばサーブの練習かな」


 狼森は色麻を指さした。


「色麻先輩が打ってるサーブはずっと一緒っしょ? 先輩がショート――つまり台の手前、ネットの近くに落とすと相手は基本ツッツキで返すんだ。台上ドライブはけっこう難しいから」


 高跳びの選手が上に跳ぶための助走を卓球で表すなら、このドライブを振る距離なんだよね、と狼森が言う。

 基本的に球とラケットの接地時間が多いほど回転は多くかかる。大振りになればなるほど回転が強くかかり、これを台の外側でやる分には問題はないのだが、台の上だと十分にラケットを振ることができない――回転がかけられない。


「下回転のショートサーブの利点は、『相手の強打スマッシュが来る確率がもっとも低い』ってことなんだよ」


 まあ台上ドライブが得意な選手はそこそこいて、大抵の学校でも練習だけはやることが多いらしーけど、と狼森が付け加える。


「でも遊佐先輩は台上ドライブが――つか基本的に台の上で使う技術が上手いんだよな。ラリーの最中に急にネット近くとかに落とすのとかスゲー上手いんだよ。だから遊佐先輩は攻撃のためにバックドライブで返してる――色麻先輩はフォアから遊佐先輩のバックにサーブを出してるから、遊佐先輩がクロスで返すと色麻先輩から一番遠くて取りにくいところに返球することになるでしょ。でも色麻先輩は相手が『自分の一番取りにくいところに送ってくる』っていうのをわかってるから、あーやってすぐに動けるワケ。まあストップとかで同じように台の手前に返してくる人もいるから一概には言えねーんだけど」

「…………?」


 内容の半分も理解できなかった気がする。とりあえず「なるほど」と言えば、絶対わかってないなとでも言いたげな表情で狼森が笑っていた。

 遊佐と色麻は「ノオ――ッ! ミスミスミスサーブミスった」「こんくらい入れろボケ」と会話している。そちらに狼森はちらと視線を向けて、また糺に笑いかける。


「おれもわかったのは最近になってからだから。でも律ちゃんは上達スゲー速いから、きっとすぐわかるようになるよ。なんにも心配いらない」


 大丈夫だよ、と狼森が言ってくれたから。

 ――だから、ではないかもしれないけれど、大丈夫だと思った。



 家に帰ってきて、ご飯を食べて、風呂に入って、明日の学校の準備をしたら一日が終わる。

 糺は卓球部に入ってからそんな生活をしていたが、そういえば卓球の雑誌とかがスゲーあったよな、とふと思った。いつもより早めにご飯を食べて、本棚に山積みになっている埃を被った雑誌をひっくり返す。折り目のついているところを重点的に読んだ――前に見た時はサッパリ意味がわからなかったのに、今はわかる。全部わかるワケではないけれど、でも卓球の戦法だとか下回転サーブのコツとかは理解できる。


「――――」


 ふ、と目に留まるページがあった。そこの部分だけマーカーが引いてあって、シャーペンでコメントが書き込んである。それをじっと眺めた。その文字は確かに、糺律の文字だった。



* *



『君にはわかんないでしょう! やればできることがなんでできないのかわかんないんでしょう!? 律みたいな、頭も良くて、卓球もできて、友達の多い人間には一生わかんないんだよ――』


 糺はまた、"律"が怒鳴られている光景を見ている。

"律"の中には、怯えと困惑と、同時に怒りがある。糺はそれを確かに自分の感情と自覚していて、しかしその感情は透明な膜の外側にある。そこにあることは理解できるけれど、触れて、共感することはできない。


 ――そりゃあ、わかるワケがないだろう、と怒鳴り返したくなったけれど、ぐっとこらえる。何かしようと思えば、"律"は大抵のことはできたのだ。そして大抵のことは目標など持つこともなかったのだ。他の人が十の努力をしてできることが、律は六の努力でできた。それを人が羨むことがあるのを知っていたから、『ごめん』って、謝った。

"律"には彼女の気持ちは共感できなかったけれど、でも理解はできた。なんとか、なんとか歩み寄りたかった。こんな風に喧嘩したい訳じゃなかった。


『……なんで謝るの。謝るだけなんて何もされないより不愉快なだけなんだけど』


 理解しようとして歩み寄った足を、口論を止めようとした手を、その一切を断ち切るような言葉を言われて"律"は立ち尽くしていた。泣きたくなったけど、"律"は人の前で泣けるような器用な人間ではなかった。喘ぐような呼気が空気に溶けた。


 ――だって、もう、何をすればいいのかわからないだろ。

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