第二話 「独奏シュプレヒコール」

  北棟を通り、雨と同じように注ぐ木漏れ日の間を抜けて、一階から二階へのボロい階段を上り、これまたボロい扉を開くと、くすんだ青い卓球台が目についた。どこか――懐かしさを覚える。


「糺! 今日も来たのか」

「……あ、…………はい」


 ぱあっと顔を輝かせて糺に駆け寄ってきたのが部長の色麻。色素が薄く軽そうな髪の毛がふわりと舞い上がる。ともすれば責めていそうな口調だが、彼の表情でそうではないとわかる。奥に遊佐もいて、片手をあげることで糺に挨拶した。軽い会釈で反応する。


 荷物はどこに置くんだっけ、ときょろきょろする糺に笑って「荷物はあっち」と指をさす色麻。ぺこ、と頭を下げてからその場から外れた。

 別館の二階には何に使うかわからない小部屋があって、卓球部は教員が誰も文句を言わないのをいいことにそこを更衣室として使っていた。一部屋しかないので女子も男子も一緒だが、男子は全くこの部屋を使わないので、この更衣室は実質三年の女子ふたり、東名と磐専用の部屋だったのである。これからは糺もここを使っていいらしい。


 メイク道具やテニスボール、少女漫画エトセトラがあるのを動かさないようにしながら、学校指定である緑のジャージに身を包む。

 ついでに家の自室から持ってきた、埃を被っていた卓球道具なんかもひっ掴んで更衣室をでる。


「お。……お!? いいな、それ」


 ラケットの赤い面で白いピンポン球を跳ねさせていた色麻は、更衣室から出てきた糺をみると口角をあげる。色麻の視線の先にあるのは糺の靴で、それは学校用の上履きではなく卓球シューズに変わっていた。白地を基調とし、黒色が網目のように側面にあつらえてある。自分でも「かっこいいな」と思っていたので、多少気恥ずかしかった糺は目線を外してありがとうございます、と返事をする。


「よし。んじゃそろそろ弦が来ると思うから――」

「ちわァーっス!! あれ!? 律ちゃんもう来てるんだ!」

「――どんぴしゃだな」色麻が苦笑混じりになる。「我ながら恐ろしいぜ……、じゃあ弦、はやく着替えて律に教えたれ。先輩としてな」

「せん……ぱい……!?」


 胸を打たれたような顔をする狼森。それからぱあっと顔を輝かせて、普段の数倍バカデカい声で「はいっ!!」と力強く返事をした。


 ――記憶喪失という糺の告白は、予想通り部員に衝撃を与えた。事故にあった、ということを伝えたクラスメイトと同じような顔を皆がするので、糺は非常にいたたまれない気持ちになった。本当に気にしていないのだ。記憶がないのだから精神的外傷トラウマになんてなりようがない。なので狼森が「マンガみてえ……」と呟いたことで、重い雰囲気が和らいだのはとても助かった。

 あまり口外はしないでくださいと頼むと、全員が口をそろえて「もちろん」と言ってくれた。


 というワケで当初はいる予定のなかった糺の教育係として狼森があてられたのだった。狼森は昨日も「おれが……教育係……!?」と嬉しそうな顔をしていた。

 更衣室に飛び込んでから三秒くらいで飛び出てきた狼森。二年の青色ジャージにしっかり着替えている。今もしかしてテレビでよく見る早着替えマジックやってた?


「わ、律ちゃん靴カッコよくなってんね!」

「どうも……」


 ドストレートに褒める人が多いな、と糺は反応に困る。

 狼森は犬ころみたいな笑顔になって、えっとね、と言いながらラケットケースを卓球台の下に置いてラケットだけを台に置く。律ちゃんもケースは下に置いていいよ、と言われたので同じようにする。保護フィルムをべりっと剥がして、ラケットのみを準備した。


「んーと、まずは道具から……でしたっけ色麻先輩!?」

「あー?」


 遊佐と一緒にボールの箱を引っ張り出していた色麻が、顔だけこちらに向けて「んあー」と相槌のような呻き声を発した。


「まあ、自分が何使ってっかも知らねえんならその方がいいだろ」

「ス。えーとね、じゃあね。まず卓球には二種類のラケットがあるんだけど、知ってる?」

「いや」

「だよねー! おれも知らなかった!」


 青い卓球台の上に置かれた、狼森と糺のラケット。狼森の方が持ち手グリップ部分が太い。ラケットの面も糺のものはどちらかといえば正方形であり、狼森のものは長方形だ。


「ラケットで主流なのは二種類でね、おれのが『ペン』、律ちゃんのが『シェーク』てゆーの。持ち方がそのまま名前なんだよね」


 狼森はペン(正式名称はペンホルダー)の取っ手を左手の親指と人差し指で挟んで、軽く素振る。確かに鉛筆などを持つような持ち方だ。


 次に糺のを握って――こちらも名前の通り、柄の部分をただ握るだけであった。シェークハンドという正式名称である。「律ちゃんはこういう持ち方ね」と言われた通りに握ってみたけれど、どうにも違和感がある。人差し指はここでー、親指はここでー、とただラケットを握るだけでも指導される始末。


 ペンは基本的に攻撃用のラケットであり、威力の高い球を打ちやすい。そのぶんバランス性はシェークに劣る。卓球人口的には圧倒的にシェークを扱う人間の方が多く、ここ庚塚高校でもペンを扱っているのは狼森だけである。去年の三年生に一人だけペンを使う先輩がいたため、狼森はその人に教えてもらっていた。


「ラケットについてる赤い面と黒い面を『ラバー』って言ってね、これも種類があんの。裏ソフト、表ソフト、粒高」


 裏ソフトは回転重視、バランス重視のコントロール力が非常に優れたラバーである。卓球人口の大多数が裏ソフトを使う。

 表ソフトは攻撃的なラバーだ。粒が生えていて球との接地面が減り、相手の回転を受けにくいという利点がある。スマッシュを多用する選手に向いている。


 粒高は名前の通り、表ソフトよりも長い粒が生えている。守りに向いたラバーだが、プッシュという技で攻撃にも転じられる。打っただけで回転が逆になる、というのが最大の特徴だ。


 狼森はペンを使っているのでラバーを貼れるのが片面しかなく、それには裏ソフトを使っている。糺は自分が使っているのがどのラバーなんてのは全く知らなかったが、どうやら赤い面が裏ソフトで黒い面が粒高らしい。粒高は最初ちょっと使いにくいかもしれないからがんばろーね、と言われた。使いにくいんだ……。 


 狼森は卓球台の真正面に立つと、左手にペンを構えて腰を落とした。深くスクワットでもしているかのような姿勢だが、体幹には一切ブレがない。


「利き手側で打つのをフォアハンド、そうじゃない方をバックハンドって言うんだ。おれは左利きだから左側がフォアハンドだけど、律ちゃんは右側がフォアハンドになる。構えた時にラケットのある方がフォア」


 ゆっくりと素振りをしてくれる狼森を真似して、糺もできる限り同じように手を振った。不格好になっている気しかしなくて、事実狼森は糺のやるフォアの姿勢フォームをしげしげと眺めてこてんと首を傾げた。


「もうちょっとね。えーと……、ラケットは顔の前で止めて。そう。手首はそんな動かさないけど、でもちょっと動かして……、あれ? 素振りってどうやるんだっけ?」


 知りませんが、と口をついて出そうになったのをなんとか堪える。流石に先輩に対してその言い草は失礼だろう。

 しかしこのまま二人で顔を突き合わせていてもどうにもならないことではあるので、狼森は「せんぱいー、どうやって教えればいいかわかんないです……」と先程よりいくらか気落ちした声で言った。


 片方が球出し、片方が延々とそれを打つという多球練習をやっていた色麻と遊佐が手を止めてこちらを見る。台に取り付ける型の集球ネットにおびただしい量のボールが入っていて、表情筋が勝手に引き攣りそうになった。こんな量を打つのか。

 色麻がキョトンとした顔になる。


「なんだ、素振りのフォームか? そんなんバッとやってシュッ、てやればできるだろ」


 この人二年より説明下手だな……。

 糺のドン引きした表情に気付かないまま、色麻が「いや、こうだよ、こう」と狼森と同じようにラケットを振る――流石に彼よりは洗練された動きだったが、糺からしてみれば『多少すごく見える』くらいのことで、それ以上がわからない。というか自分の何がダメで、何を真似すればいいかわからない。


 狼森も色麻も困った顔になり、気まずい沈黙が流れそうになった直後、「振ってみろ」と声がした。遊佐が糺より頭一つ分高いところから見下ろしていた。


「え……と」


 それ以上喋るのは面倒だとでも思ったのか、糺を見つめたまま一言も発さない遊佐に困惑する。振ってみろと言ったか、と思ってとりあえずその通りにしてみる。


「――――」


 何を思ったか糺の後ろに回り込む遊佐は、無言のままガッと糺の両腕を掴んだ。あまりにも急だったので心臓が五センチくらい跳ねた気がしたが、実際には「ヒョ……」と変な声を出しただけであった。遊佐はガチガチに固まった糺の関節を人形のように曲げさせる。

 糺は気に障ることを言ったら関節逆向きに折られそうだな、とクソ失礼なことを考えていた。


「左手も構えて。ファインティングポーズの位置を少し下げたものだと思え。前傾姿勢だ。背筋伸ばせ、曲げるな。腰をもっと落として、足は肩幅に広げろ。肘はほとんど曲げんな」

「は、はい……」


 言われるがままに姿勢を矯正する。頭を思い切り鷲掴みにされ強制的に重心を低くされたのには流石に文句を言いたくなったが、怒涛の勢いで改善点を羅列されて口を開く間も与えられない。肩甲骨を開かされ、スイングの動きを繰り返させられる。その間にも腰は落とされるし顔は上げさせられるしだが。


「肘固定しろってんだろ。手首でも肘でもねえ、腰で打つんだ。重心低く。んで身体ごと捻って――」


 ――あ、なんか。


 急に身体が軽くなった気がした。軽い身体のままスイングすると、決して止まらなかった遊佐の口が急に閉じられた。それからパッと身体から手が離され、「やってみろ」と今度は真正面から見下ろされた。


 ――両手を構える。腰を落として重心を低くする。足は肩幅。フォアハンドだから、右腕を引いて、体重移動を使って。


 シュ、と風切り音が鳴った。糺は思わず自分の身体を見下ろした。己の身体じゃないように、まるでそういうプログラムが設定されていたかのように動いた。

 今までで一番自然な体運びだった――と、思う。自分ではよくわからないけれど、でもすごく、懐かしい気がする。ずっとこれをやっていたような気がする。


「いいんじゃね? スゲー良かったよな、今の」

「え、あ……ありがと、ございます」


 色麻の言葉にはにかむように答えれば、狼森も追随して「エすごくね!? おれより上手くね!?」と大袈裟に言ってくる。全身用の鏡があるワケでもなく、自分の姿勢フォームが本当に正しかったのかどうか微妙な糺はそのコメントにどう対応すればいいかわからずに迷う。


「今のは確かに良かったけど、たかが一回だろ」

「遊佐ァ、素直に褒めてやれよ」

「うるせえ。今のはどう見たってまぐれだろうが――糺、もう一回やってみろ」


 ニヤつく色麻を一蹴した遊佐は、相変わらず気怠そうな表情でこちらを見下ろす。言われた通りもう一度構えて、さっきと同じことを考えて――振る。


「……あれ?」

「ほらみろ」


 自分でも不恰好だったなと思う素振りだった。さっきの身体が自然と動く感覚は遥か昔のことのように思える。確かにできたと思ったのに、また元の位置に戻ってきている。

 あちゃー、という表情の色麻と、困惑した表情の狼森。遊佐だけが変わらない表情で「だから言ったろ」とため息を吐きながら言った。


「まあ、今の感覚を忘れずにやりゃあ自然とできるようになるだろ……。身体をどういう風に動かすかっていう理屈も。バックも、まあ教えてやるが……、別に正直素振りなんてできなくったっていい」

「えー!? おれの時はあんだけやらされたのに!?」


 狼森が驚いた表情で叫ぶ。二十センチ以上下のところからの爆音は遊佐の鼓膜をつんざき、その柳眉を歪まさせた。


「お前は何もかも初めてで理屈もわからんバカだったからだ。こいつはお前と違って要領も良さそうだし……、今できたみたいに『卓球の動き』自体が身体に染み付いてる。素振りってのはそもそも台での動きを反射・・でできるようにするためのモンだ……、できる奴がやる必要なんざねえだろ」

「いや、べ、別に私は」


 本当に覚えていないのに、まるで自分がさも経験者かのように語られることに口を挟む。今のはたまたまで――遊佐自身もまぐれと言ったのに。できるなんてことはないのに。

 遊佐が片眉をあげて「別に完璧だとは言ってねえ」と宣った。あそうですよね、と言いそうになった。


「狼森、色麻の練習付き合ってろ。おまえはやっぱり人に教えんのは向いてねえ」

「あ、あまりにもドストレートな言い草……! 遊佐先輩そういうとこスよデリカシーないって言われんの」

「うるせえ」

「まあまあまあまあ……」


 遊佐はもう狼森のことを自分の意識から追い出したのか、先程と同じように「次、バック」と顎をしゃくるだけで指示をしてきた。たぶん――というか確実に、遊佐は物凄く合理的なタイプの人間だ。


「じゃあオレらは練習してっから。ガンバ」


 色麻がサムズアップ。ぶうたれた表情の狼森が連れられていって、糺の目の前には冷徹な教官。教官の手本を真似してみれば、早速「違え」と指摘が飛んでくる。


 だが、さっきは、確かにできた。

 たぶん覚えていた。たぶん何百回と繰り返した動作だった。たぶん、遊佐の言う通り、体に染み付かせた動作だ。

 グリップを握る手に力が入る。


 ――何にも覚えていなくても、きっと、何かを覚えている。



* *



 ぼんやりと、不鮮明な輪郭がある。


 二人の人間がいる。糺はその光景を見ている。そして同時に糺は目の前の女の子を見ている。パソコンでウインドウを二つ開いているような感覚だったが、こころなし二人を見ている画面の方が大きく見えた。

 つまるところ、そこには糺と、糺の知らない人がいた。今より髪の長い自分は、形容しがたい表情で前の女の子を見ていた。


『――やりたいのは律ちゃんだけだってわかんないの? なんでわかんないの? それ独りよがりだってなんで気付かないの?』


 糺は漫画であるような三人称視点から二人を見ていた。あからさまに他人を傷つけるために放たれた言葉は、彼女の目の前にいる"律"に真っすぐ向けられていた。

 ――糺には、この光景に見覚えがない。糺は、彼女を知らない。糺は、そんな言葉は聞いたことがない。


 しかし同時に、"律"は彼女のことを知っている。いつもは優しく笑ってくれる彼女が、冷めた目でこちらを見てくる理由だけが理解できなくて、なんて言えばいいのかわからなくて、はくりと口を開いただけだった。

"律"にはわからなかった。糺にもわからなかった。わからないことがひたすらに怖かった。

 彼女が呆れたような息を吐いた。

 たかが溜め息一つだったのに、目の前に拳銃を突き付けられたみたいな心地がした。


『……なんでそんな頑張ってんの?』


 本当に理解できないような声音だった。その声音が心底恐ろしくて、"律"は何にも言えなくて、ラケットを握り締めていた。

 糺はそれを見下ろしていた。

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