第一話 「あなたを殺す世界の始まり」

 糺律は記憶喪失である。


 三月の下旬、糺は交通事故に遭った。何の変哲もないただの事故だった。そして糺は二週間の昏睡を経たのち、当初進学予定だった学校を蹴り、母の実家である山形県の田舎にある公立高校へと進学した。


「糺律です。名字も名前も一文字で、よく変って言われます。……よろしくお願いします」


 ぺこり、と頭を下げる彼女。

 五月の初旬という妙な時期に――目覚めてから二週間ほどリハビリ期間があったからである――転校してきた女子を、好奇の目で見るクラスメイト。


 糺は控えめにいうとパッとしない女子だが、その容姿を正しく伝えると『美少女』だった――黒檀の髪は後ろで緩く結ばれ、端正な顔立ちが周囲と一線を画している。まだ着崩されていない制服に身を包む清楚そうな出立ちの美少女を見て、男子がなにか喋りたそうにチラチラと友人と目配せしあっていた。


 自己紹介ののち、糺は典型ともいえる転校生への質問攻めを受けた。出身だとか趣味だとか他愛のない話が多かったが、「なんで今頃転校なの?」という質問には窮していた。少しだけ本当のことを言うか誤魔化すか迷ってから、まあ誤魔化しても意味なんてないしな、と思って「交通事故に遭ったんだ」と喋る。シン、と一気に教室内が静まり返ったことに気付かず、糺はへらっとしながら「なんかアタマ打ったとかで……、しばらくリハビリとかもしてて、そんで一ヶ月くらい入学遅れちゃった」と言った。

 質問をした、白くだぼっとしたカーディガンの可愛い雰囲気の女の子がサーッと顔を青褪めさせた。


「えっ、ご……! ごめん! その、知らなくって」

「え? いや全然……、事故の記憶とかないんだよね。そんな深刻にとらえなくても大丈夫だよ」

「ほんと? ありがと、マジごめん」


 ぱん、と顔の前で手を合わせてくれる彼女は、たぶんとても良い子だ。周りのクラスメートも、一瞬暗くなった雰囲気を明るくしようとわざとなんでもないように会話を再開させた。その中で誰かが「そういやさ」と言った。


「糺……ちゃん? は、どの部活入んの?」

「部活は――まだ、決めてないけど。でも入らないと思う」

「え。うち部活入ってなきゃだめだよ」


 驚いたような顔の彼に、糺も驚いた顔をして反射的に周囲を見渡す。他の子も似たり寄ったりの表情で、「うん、そだよ」と口々に言う。別に校則とかじゃないんだけど、と糺の隣にいたショートの女の子が言った。


「なんか親とか先生とかも全員部活は入れって言うし。入ってないと印象悪いぞー、って先輩たちにも言われてるから」

「ね。だから美術部とか半分くらい幽霊部員だし」

「運動部とかでもそこそこ幽霊部員いるよな」


 お前何部だったっけという言葉が次々クラスメートから飛び出して、糺は濡れ羽色の瞳を丸くさせながら、困惑しように「ちょ、ちょっと待って」と言った。糺は全くもって部活動に入るつもりなんてないのだ。そんな事情があるなんて知らないし、流石にやる気のない部活にも入りたくはない。


「ちなみに、ここにいる人で部活やってない人って――」


 それに反応する声はただの一つもなかったのである。



* *



 ここ、庚塚かのえづか高校はほとんどの生徒が近くにある公立中学からの持ち上がりだった。全員が幼馴染といっても過言ではないようで、大抵は小学校から一緒だということだ。道理で五月にしてクラスの中にグループが完成されているワケである。もっとも大抵のグループ同士の仲は非常に良いようで、この学校の人間関係は概ね良好だといえる。


 高校デビューのスタート一ヶ月を丸々ドブに捨てて、糺は「友達できないかもなぁ」くらいのことは思っていたのだが、どうやらそんな心配は全くないようだった。

 糺に転校の理由を訊ねてきた、あの白いカーディガンの子――柚木ゆぬきかえでは糺のことをかなり気にかけてくれていた。校内を案内してくれたり、必要な教科書やノートの種類も事細かく教えてくれたのだ。一緒に行動している女子らも溌溂な性格の子が多く、糺もすんなりと学校生活に馴染むことができた。


「で、部活は? 決まったの?」

「え? もちろん決まってるに決まってるじゃん、もうアレで決まり! ってレベルで決まってる」

「ゲシュタルト崩壊しそう」

「で何にするの」

「帰宅部だよ」

「バカなの?」

「バカでしょ」


 半ばコントのようになってしまっている会話の中、糺は憤慨した顔つき(表情が変わりにくい彼女にしてみれば、ということで大して迫力はない)で「いや真面目だが」と言い放った。心優しき友人らは揃って顔を見合わせた。糺はどうやら本気で『帰宅部』を立ち上げるつもりのようだ、と察したのである。


「なにする部活なの? 顧問は?」

「いかにして走らず早足にもならず帰宅時間を縮小するかを研究する部活。顧問は物理のおじいちゃん先生にやってもらいたいなって……」

「却下よ却下! ど却下よ!」

「本当に救いようのないバカじゃん……。そんな部活を考えるヤツ普通いる?」

「ここにいるだろ、目の前に」


 なにを言ってるんだ、という表情で友人らを見る糺。その全員に白い目で見返される。


「中学の時は何してたん?」


 おっとりとした、全体的に柔らかい印象のある温海あつみ優梨奈という女子が発言する。訛りの残る喋り方だが、温海は兵庫の出身だった。たまにここ特有の方言を喋る人もいて、糺にはその違いは全くわからないが皆に言わせれば「全然違う」らしい。

 ともかく、彼女の言葉を聞いて、ああ、と全員が「その手があったか」とでも言いたげな顔で頷いた。むしろ今までその話題が出なかったことがおかしいのだ。

 注視された糺はぱちぱちと目を瞬かせてから、こてり、と首を傾げた。


 ――糺が庚塚かのえづか高校に来てから既に二週間と少し経過している。

 ちなみに庚塚の制服に関しては、女子はブレザー、男子は学ランの高校だった――が、既に糺は柚木たちの甲斐甲斐しい世話によって立派な女子高生になっている。糺は自分の格好に頓着しないタチで、スカートを折れ、ベストはこのブランドが良いからここのを買え、と言われるがままだったのである。


 閑話休題。

 とにかく糺の実際の内面は、最初のクールな美少女といった第一印象からは程遠く、かなりの天然であるということが既に判明している。そのため糺の首を傾げた動作は、あ、コイツ何もわかってないな、と彼女の友人らに察させるには十分であった。

「え? なに?」とすっとぼけた顔で言う糺に、心優しき友人らは「律のために言ってんだよ」「話聞きなよ」「頬引っ張るぞ」とボロクソに貶した。もちもちの糺の頬はむにーっと引っ張られて、糺はえーん……と涙目になる。


「いたい……」

「吐け! カツ丼あげるから」

「完全に取り調べじゃん…………」


 じんわりと赤くなった頬を押さえた糺。

 ――糺は記憶喪失であることを、まだ家族と医者以外の誰にも知られていない。

 教える理由がないのだ。理由がないということは、糺にとってそれだけで『教えない』という結論に至ることができる。基本的な過去の情報は両親から聞かされているし、このあたりの人と糺は全く面識がないので記憶喪失を悟られることもないだろう。

 そして両親によると――、


「卓球部……、だったって」


 家には卓球用のラケットも、卓球用のシューズも、卓球雑誌だってあった。練習内容のところはいつでも見返せるように端のところが折ってあった。専門用語もあって、記憶喪失となった今ではわからないことばかりだったけれど。

 身体が覚えているかと思ってラケットを軽くふるのもやってみた。全然わからなくて翌日筋肉痛になった。漫画でよくある設定は、糺には適用されなかったようである。


「卓球? あー、確かあるんじゃなかったっけ? 体育館?」

「いや体育館はバスケとかバレーとかがいっつも使ってるし」

「別館だった気がする。私勧誘されたし」

「入ったの?」

「いや体験もしてない。女バレ一択だったから」

「ていうか卓球部入ったって人全く聞かなくない?」


 まだ一言も「卓球部に入る」なんて言っていないのに、完全にその気になって喋り出す友人たちにかける言葉もなく、糺は話題の中心人物であるにも関わらず蚊帳の外に置かれていた。


「おねーちゃんに卓球部の友達いないか訊いてみんね」

「わたしもお兄に訊いてみるわぁ」

「いや、……いや、あ、あの」



* *



 というわけで田舎の恐るべくネットワークを活用された結果、なんと翌日に卓球部の仮入部を許可された。とてもじゃないが、既に許可が下りたあとで断りますなんていえない。それに糺の興味のある部活がないというのも事実なのである。そろそろ身を固めねば。いや別に結婚するワケでもなんでもないが。


 友人の言う通り、卓球部は別館の二階で活動していた。別館は二階建で、普通教室がある本館、それぞれの教科の教室(化学室や地学室、LL教室など)があるのは北棟。本館と北棟は垂直――L字型に位置している。長い方が本館である。囲われるような位置に中庭。校庭は中庭からみて本館をはさんだところにある。

 別館は本館からは行けず、北棟を通る必要がある。完全に別の建物として独立しているのだが、通路は申し訳程度に屋根がついているだけでしかなく、雨の日や冬場は皆足速にそこを過ぎる。生徒からは「改築しろ」と大不評である。


 一階には視聴覚室と和室がある。和室はいちおう華道部の活動場所だが、ほぼ全員が幽霊部員なのでその上でどれだけ跳ね回っていても誰にも文句は言われない。

 まだ新しいといえる上履きで階段をあがる。階段のスペースはせまく、一段一段が急であった。二週間ものあいだ昏睡状態であった糺には少々つらい。

 上り終わるとすぐに扉があって、リュックを持つ手に力を入れながら、「失礼します」と挨拶しながらドアノブを捻る。


「きっ来たァ!!」

「――!?」


 ドアを閉めた。

 身体の産毛が逆立つほどの大声に、反射ともいえる速度で勢いよくドアを閉め、影響でガァァン! と派手に音が鳴る。「……え、」と呼気とともに掠れた音を出せばドタドタと足音が迫ってきた。

 咄嗟に逃げるか逃げないかの二択が頭に浮かんだが、ここにいるということは今の人は卓球部員であるはず。逃げるもなにも会いにきたのだ。


 と考えている間に、糺の目の前のドアが勢いよく開いた――興奮で頬を赤く染めた、端麗な顔立ちの男だった。全体的に雰囲気が幸薄そうで、色素も薄い。三年生であることを示す赤色のジャージ(糺たち一年生は緑、二年は青)に身を包んだ青年である。

 だが顔の良さだけで誤魔化せるような登場シーンではなく、糺は唖然として彼を見上げていた。彼も糺を驚かせてしまったことに気づいたのか、「あ、あー……、ご、ごめん」と捻り出すように言う。


「い、……いえ。大丈夫です」

「そ、うか、よかった」

「新入部員怖がらせてんじゃないよー」

「るせー、ヤジ飛ばすな!」


 ドア枠をつかんで顔だけ後ろに向けた彼は、「糺律ちゃんだよな?」と確認してくる。登場の強烈さでさほど目がいっていなかったが、かなり身長が高い。百八十は確実にあるだろう高身長が、百六十ほどの糺を不安そうに見るのは随分と妙な構図である。


 肯定の返事とともに頷けば彼はあからさまにほっとして、「じゃあ、こっち」と糺を手招きした。おそるおそる、という様子で部屋の中に足を踏み込む。

 部屋にいたのは女子が二人、男子がもう二人だった。フローリングに少し丸くなるように座っている。糺を含めないと、この部屋にいるのはたったの五人――まさかこれだけ?


「こちら、糺律ちゃん。このたび卓球部に入部してくれるそうだ!! 全力で他の部にいかないよう引き留めよう。……よし、とりあえず全員自己紹介するか。おら、はじっこからいくぞ」


 入部するとは言ってませんが――と言える雰囲気でもなく、糺は開きかけた口をもにゅもにゅとさせながら「へい……」とダルそうに声をあげた男に目をやる。


「三年の遊佐ゆさ久遠くおんだ。あー……、まぁ、よろしく」


 気だるげに喋るのは癖らしい。目もどことなくぼんやりしていて、雰囲気もぱっとしない。薄幸の彼と同じくらい背は高いんじゃないだろうか。ふらりと立ち上がると、枯れ木のようにひょろりとしている、という印象を受ける。


「はい、じゃあ次わたしー。東名とうなまみっていいます。よろしくねー」

いわお涼香。テニスと掛け持ちしてるからあんまり関わりないかもしれないけど、よろしく」


 どことなく柔らかな印象の女子が東名、ハキハキした物言いのスポーティーな女子が磐といった。東名は百五十くらいの身長で、幼さの残る顔立ちとともに中学生に間違われそうな様相である。

 それと正反対に磐は背が高く、頭の上の方で艶やかな黒髪をひっつめている。小さなポニーテールは日に焼けて先端が茶色い。


 最後に残ったのは短髪の青年である。体つきは二年を示す青色のジャージの上からでもわかるくらいがっしりとしていたが、三年の二人とは正反対に背が低かった。おそらく糺と同じくらいだろう。


狼森おいのもりげんです! あの、おれはまだ卓球始めたばっかだけど、頑張ろーね!」

「お前はもう半年くれー経ってるだろーが」


 ごつん、と拳が狼森の頭頂部に直撃する。狼森は途中入部だったらしい。「ったぁ!」と叫んだ狼森の頭を今度はわしゃわしゃとかき混ぜたのが、最初に爆音を轟かせた背の高い彼だった。


「で、オレが色麻しかま芳樹よしき。現部長――つって、こんだけ一気に言われてもわかんねーよな。覚えるのはまだまだでいいよ、いつでも訊いてくれ」


 親指で自分のことを指しながら、色麻は糺を安心させるように笑みを浮かべた。実際すぐに覚えられるかどうか不安だったので、糺は顎を引いて頷く。

 部長が色麻しかま。痩躯が遊佐ゆさ。おっとりとした方が東名とうな。髪をひっつめているのがいわお。二年で背の低いのが狼森おいのもり

 はい、と僅かに顎を引きながら返事をすると、色麻はニッと白い歯を見せて笑った。


「んで、中学は卓球部だったんだって? どんくらいできるんだ?」

「……それは、…………あー」


 言葉を濁らせた糺を、部員らが不思議そうな目で見つめる。彼女は結局記憶喪失であることを喋っていないままずるずるここに来たので、彼らは糺のことを卓球の経験者だと信じて疑っていない。いや確かに経験者であることは間違いないのだが、それは彼女の精神に蓄積されてはいない。身体に残る卓球をやっていた証拠といえば、ふくらはぎが多少人より発達しているくらいである。寝たきり状態で筋肉量が落ちてコレなのだから、恐らく中学の時はもっと筋肉はあったのだろう。

 話は逸れたが、とにかく糺は卓球のことが全くわからない。まず素振りからしてできない。流石にこのまま経験者だとして扱われるには無理があるだろう。


「いえ、その――実は」


 急にしどろもどろになる糺に、皆が怪訝そうな表情になった。


「私、記憶喪失――というやつでして」



* *



 六限であった現国の教科書をロッカーにしまってこようと立ち上がった糺に、「ね!」と朗らかに声をかけたのは柚木だった。ボブヘアーのハネた髪の毛を揺らし、顔を仰け反らせた糺を見て「なにその顔」と片眉をあげる。

 いや、なんでも、と誤魔化しにかかった糺を疑わしげに眺めつつ、ぱっと表情を変えて「そんなことより」と言い始めた。


「で、どうだった? 卓球部」

「ああ……、」


 その話か。

 なにを言うべきか迷ってから、「まあ、入ってみようかなとは思った」と返す。もっともそう思ったというより断りきれなかったという方が正しい。部長の色麻があまりにも期待に満ちた語り口で卓球部の良さを語ってきたので、それほど渇望されているなら入るか、という思考になった。


 柚木は「ふうん」と相槌をうつ。そっちから訊いてきたのにまるで興味のなさそうな口振りだった。指摘すると、にへらと愛想笑いを浮かべて、


「だって私、卓球とか知らないしー。今年の新入部員ゼロってことは人気ないんじゃないの?」

「…………」


 ぐうの音もでない。


「でもま、律が入りたいんならよかった。律にもそういう意欲があったんだねえ」

「――――」



 ――たぶんそれは、自分が一番そう感じていることだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る