第3話 叶わなかった約束

   3.叶わなかった約束


 これは友人の河野から聞いた話しです。河野は看護師として働いていているのですが、

「病院で夜勤なんかしてると、何か怖い思いはしたことがないの?」

 と何の毛なく、暇潰しに彼女に聞いたことが、この話しを知るに至った所以でした。




 当時河野の働いていた病院に、悪性新生物――つまり癌に罹患して、もう後先短いと宣告された末期の患者がいたそうです。名前は明かしません。

 彼はまだ40代で、子どもが二人いました。彼はまだ生きたいと毎日話していたそうです。

 しかし彼の病状は刻一刻と進行し、日に日に巨漢だった体躯が細くなっていって、顔色も悪く、その時には病室で絶対安静になっていたそうです。

 しかし彼はある時、痩けた頬を震わせながら、決死の思いで受け持ちの高木という、河野の5つ先輩の看護師にこう訴えたそうです。


 下の娘が中学生になる入学式に、是が非でも出席したい、と。


 無論、抗がん剤治療で体が弱り、感染症にもかかりやすいそんな時に、人混みに外出するなんて考えられませんでした。

 今回は一先ず見送って、少し病状が安定してからにしましょうと高木さんは伝えたそうです。

 しかし彼は、必死になって懇願するのです。毎日毎日。

 次の日、主治医の先生の診察がありました。その時にも彼はそう訴え、涙を流して先生の白衣の袖を掴みました。

 その先生にも中学生のお子さんがいたらしく、思うところがあったのでしょうか? 先生は、受け持ち看護師の高木さんと相談することにしました。

 二人の意見は同じでした。長くてもあと半年程しか彼の余命が無いことは周知の事でしたので、彼の人生をより良いものとして締め括る為に、仮に寿命を縮める事になろうとも、行かせてやろうとの結論だったそうです。

 それに入学式はその日から丁度三週間後で、その頃には今している抗がん剤治療も一段落して、病態も安定する時期でしたので、三週間後に高木さんの付き添いのもと、一日だけ外出する事に決まりました。

 彼は青白くなった顔を紅潮させて、細い目に涙を浮かべて喜びました。何処か淀んでいた瞳に生気が宿った様だったそうです。

 その日から彼は、指折りして三週間を数えていました。毎日の辛い抗がん剤治療も、弱音を吐くことなく、時に笑顔を見せ頑張っていました。

 しかし、やはり彼の病状は予想以上に早く進んでいるらしく、日毎に頬は痩けてきて、太かった腕や足も筋肉が落ち、骨が浮き彫りになってきました。常に貧血を起こしているような青白い肌で、ふらふらと点滴台に寄りかかって歩くのを付き添いの看護師が常に支えていました。

 入学式まであと二日となったその日。

 彼の状態は突然に急変しました。腹水が貯まってはち切れそうに膨れ上がった腹から、噴水の様に多量の嘔吐をして、気を失ったのです。

 そして次の日、入学式まであと一日にして、彼は水が貯まってパンパンになった顔で息を引き取りました。その日は高木さんも出勤していましたので、彼の最後を見送ったそうです。

 その後のエンゼルケアという死後の処置の時に高木さんは、涙を流しながら、むくみ上がった彼の全身を拭いていたそうです。

 河野はその晩夜勤として出勤しました。無人になったICU(集中治療室)を見て、あの男の患者さんが、念願の入学式に間に合わず、亡くなった事を改めて実感したと言っていました。


 その日の夜中の2時頃の事でした。

 無人になったICUから、ナースコールが鳴ったのです。河野は相方の看護師と目を見合せながらも、詰所にある受話器を取りました。

 無音――なのですが、

 良く聞いてみると遠くで、ラジオでもついてる様な不鮮明な音が聞こえたそうです。ICUは詰所の目の前にあるのですが、ラジオの音なんて聞こえず、廊下は暗い闇と静寂が満たしています。

 恐る恐る、河野は相方とICUに入っていきました。ガランとした室内の真ん中にベッドがあるだけで、ラジオなんてありませんでしたので、二人は飛んで詰所に戻りました。


「まさか……ねぇ、あの人かなぁ?」と話す後輩に河野は「そんなわけ無いでしょ、誤作動することもあるから」と言ったそうです。


 ――その時


 パタンパタンパタンパタン!

 と廊下を走る足音が聞こえたそうで、始めは驚きましたが、それよりもこんな暗い廊下で走られて、転ばれたら叶わないと思い、河野は一人で音のしたトイレの方に様子を見に行きました。

 パタンパタンパタンパタン!

 まだ聞こえる。

 河野はトイレに足早に向かい、懐中電灯を照らしました。

「どなたですか? 走ると危ないのでやめてもらえます?」

 返事はありません。トイレの中には人の姿は無く、もう部屋に戻ったのかなと思い、廊下を照らしながら詰所に戻っていくと

 パタンパタンパタンパタン!

 後ろから足音がして、河野は振り返って音の方を照らしました。

 照らした明かりの先で、膨れ上がった青白い足だけが走って、廊下の先に消えていったそうです。病衣を身に纏っているのですが、腰から上は全く何もなかったそうです。

 河野は、声にもならない悲鳴を小さくあげると、走って詰所に戻り後輩に今見た事を知らせました。

 後輩は先程の一件ですっかり縮みあがっていたので、涙ぐんでしまったそうです。

 二人で肩を寄せあって詰所にいると、ピピピッと、心電図の異常を報せるアラームがなりました。怖がっている場合じゃないと、河野は詰所にある心電図モニターを確認しました。

 一つのディスプレイに、上から四分割して四人の波形が出ているのですが、そのアラームは、一番下の波形から鳴っていました。


「ひっ……!!」


 流石に絶句したそうです。一番下のモニターは、ICUでの心電図の波形を表す所だったからです。

 今日の夜勤の前、つまり亡くなるまでは、そこには彼の波形が映されていたのです。

 しかし今は心電図モニターなどあの部屋には無く、四つ目は誰も使用していないのです。しかし確かに、そこには人間の心臓の波形が出ていました。

ピッピッピッピッと今は規則的に動いています。

「あ……あの人、気付いてないのかな、死んだことに」

河野が思わずそういうと、遂に後輩は泣き始めたそうです。



 地獄の様な夜勤が明け、朝陽が病棟を包んだ頃です。日勤で出勤だった高木さんが、詰所に顔を見せました。河野はその時、心から安堵したと言っていました。高木さんの元に後輩と二人で詰め寄ると

「聞いてくださいよ高木さん! 昨日ICUから――」

 そう後輩が言いかけると、高木さんは割り込むように


「私の方こそ聞いてッ!!」


 ギョッとして高木さんの顔を見ると、目の下には隈が出来ていて、化粧も全くしてない薄い顔で、充血した目を見開いて河野たちに詰め寄って来たのです。

「き……昨日、仕事終わりにスーパーにいったのね……そう、車で、そこの駅前の……

 そこで、何時も通り買い物をして、今日はエンゼルケアもあって遅くなったから、早く帰ってご飯作らなきゃってそんな事思いながら、真っ暗の駐車場を歩いて車に戻っていくとね……良く見ると、いたの……いたのよ彼が!」

 いつも飄々とした高木さんが、血相を変えて話す様に呆気にとられながらも、『彼』というのが、昨日亡くなったICUの患者さんだということは察しがつきました。

 高木さんはぶるぶると震えながら、続けました。

「彼がね、いたの。私はぼーっとしながら自分の車の方を見て歩いてたんだけど、ふと気付いちゃったのよ、10メートル位手前だった。

 あの人が、あの人がね……いるのよ。

 真っ暗な車内の助手席に!

 こっちに手を振ってるの! 私の車から!

 気のせいだと思って見直してみても、消えないのよ! ずっとずっと私の方に手を振ってたのよ、真っ白な顔で、感情の抜け落ちた様な表情をして、顔はパンパンに膨れて凄く大きかった!

 まるで、まるでエンゼルケアをしたあの時の様に!」




 といった所までが今回私の聞いた話しでした。

 ――彼はきっと、高木さんに約束通り入学式に連れていってもらおうとしたのかもしれませんね。ですが、良かれと思ってした約束が、高木さんをこんな恐怖に陥れると誰が予測出来たでしょう。

 高木さんが彼とした約束は、道徳的で優しく、そして正しかった。けれど、正しいからといって、必ずしも良い結果ばかりがもたらされるとは限らないのですかね。

 彼は今も、高木さんの助手席に座っているのかもしれません。

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