第2話 貼り付く男

   貼り付く男


 今から五年ほど前になるでしょうか? 当時私はその病院で看護師として働いていました。

 看護師として三年目の私は、慣れた感じでその日の夜勤の見回りをしていました。

 時刻は夜中の三時、患者さんのいる部屋や廊下の電気は落とされ、足元の常夜灯が鈍く灯っただけの病棟を、懐中電灯片手に見回っていたのです。

 その日はとても静かでした。ナースコールもほとんど無く、私はほっと溜め息をついて、患者さんの寝ているのを確認しながら、次の日の休みにすることを思案していました。

 四人部屋の巡回が終わり、残すは廊下の一番奥の個室のみとなった時です。丁度今入ろうとしていた個室から、ナースコールを押した際に灯る黄色いランプが扉の前を照らしました。

 ランプの横にある復旧ボタンを押してそれを消すと、私はその個室の押戸になった扉を開きました。

 入ってすぐ左手にトイレとシャワーがあり、正面には大きな窓、患者さんのベッドは壁の左側につけられて、足元には洗面所と鏡があります。

「どうしました?」

 返事がありませんでした。そしてその時正面の窓に、懐中電灯を持った自分以外の人間が、はっきりとそこに写っている事に気が付きました。

 窓に反射した患者さんかと思い、じっと見つめていると、どうもその人の様子が異様な事が徐々にわかってきました。

 巨大な卵形の輪郭の顔、こちらに向かって開かれた両の掌、顔と掌だけがそこに浮いているように白く、腕と、首から下は外の暗闇が映るだけで見えませんでした。

 正面の窓の左の方、その男は窓の外からこちらを覗いているのです。それもベタリ、とこれでもかというほどに窓に顔を押し付けているので、押しつぶれた表情だけが嫌にはっきりと見えました。

 ここは四階、窓の向こうに人の立てるスペースなどありません。

 唖然として見つめていると、その男がニヤニヤと口元を歪ませて、目を印象的な程見開いてギラギラとさせている事がわかってきました。

 そうしていると、私の方にその爛々と光る視線が移り、こちらに向かって男が動いたのです。青白い顔と掌だけで。

 咄嗟に私は部屋を出ました。

「…………っ!」

 そして廊下から閉じられた個室の扉を見つめる格好になった私は、その直後に――今から思うと何故そんな事をしたのかわかりませんが――今の不可解な存在を確かめるように、目前の押戸をゆっくり、ゆっくりと押していったのです。

 窓には、男の青白く巨大な卵のような輪郭や掌はありませんでした。

 少し冷静になった私は、先程の事を寝ぼけていたのだと思う事にして、ベッドに眠る患者さんを懐中電灯で照らしました。

 患者さんは眠っていました。先程鳴ったナースコールは何だったんだろうと思いながら、私は部屋を後にしようと振り返りました。

 患者さんの寝ているベッドの足元には洗面所と、鏡があるのですが、そこに映る背後の、先程男の貼り付いていた窓が気になりました。

 じー、と見ていると、信じられないことに、鏡の中の窓が、少しずつスライドして開いていき、下から先程の卵形の男が沸き上がって来るようにじりじりと現れたのです。

 咄嗟に窓の方に振り返りますが、窓は締め切られ、開いてなどいないのです。

 再び正面の鏡を見直すと、鏡の半分を埋め尽くすほどの、異常に大きな卵形の顔面が、目を見開いて私のすぐ背後から、鏡越しに私と視線を合わせていました。

「…………ッ!!」

 急いで部屋から駆け出した私は、顔面蒼白になって、詰所に戻って、先輩に今あった話しをしました。


 その後先輩が部屋を見に行ってくれましたが、患者さんも、部屋も何も変わったことはなかったと言われました。


 一週間後、その個室にいた患者さんが亡くなりました。病状は安定していたのに、急な事で、みんな不思議に思っていましたが、私だけは何と無くその理由がわかったような気がします

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