第44話 もどかしすぎて



「うっ、ん~~~っ」


 そんな悩ましげな声を上げながら、縺れ合う一組の女の子たちがいた。澪と美琴だ。


 美琴の素足に上から乗っかって体重をかける澪。必死に上半身に力を入れる美琴。


 二人の顔が近づいては離れる。


 美琴は澪にもっともっと近づきたくて力を振り絞るけど、一歩及ばず。決して届かないその距離がもどかしい。


「七回! 美琴ちゃん、頑張って!」


 しかし美琴を見つめて待っている澪の紫紺の瞳は真剣そのもので、だからこそ美琴は次の一回を頑張ろうと思える。


 その先にあるふっくらとした唇に触れたい。その衝動に突き動かされて。


「ふっ、ん~~~っ!」


 あぁ‥‥‥でもやっぱり駄目だ。非力な美琴では、数を一つずつ積み上げていくほどにどんどん難しくなっていく。


 再び離れる。届かない、たどり着けない。なんとか近づけたとしても、すぐに自ら距離を置かなくてはならないもどかしさ。


 それはまるで拷問のようだと思った。


「八回目! 美琴ちゃん、もうちょっと!」


 美琴は澪の言葉に勇気づけられてなんとか粘る。あと少し、もう少し澪を近くに感じたい。


 それが同じ気持ちであると、至近距離で絡み合う視線が、触れたところから伝わる体温が、重なる鼓動が教えてくれる。


「はっ、ん~~~~っ!」


「九回目! もう一回!」


 しかし美琴は自分の無力さを痛感する。起き上がることが耐えられず、その身をマットに沈めてしまったのだ。


 湿り気を帯びた美琴の吐息。短く吐き出される熱く荒い呼吸。頬を赤く染めた苦しげな表情。プルプルと震える身体。


 そんな様子の美琴を見て、澪はもう美琴が限界であることを悟った。


 けれどダメだ。ここで諦めたらその望みは決して叶わなくなる。


 澪には必死に美琴を鼓舞することしかできない。美琴が動くしかないのだ。だから精一杯声をかける。


「美琴ちゃん、まだ行けるよ!」


「ぜぇ、はぁ‥‥‥もう、だめ‥‥‥」


「諦めないで! 僕がそばにいるから!」


「澪、ちゃん‥‥‥」


「あと一回! あと一回で届くよ!」


「あと‥‥‥一回‥‥‥」


 それなら、こんな自分でもできるだろうか‥‥‥いや、やるんだ!


 今こそ最後の力を振り絞るべき。澪が本気で応援してくれている。それを想えば限界などいくらでも突破できる!


(だって、美琴たちは‥‥‥両想いだからっ!)


 美琴はグッと腹筋に力を入れた。身体中から絞ったその力はか弱いものだが、根性と愛の力でゆっくりゆっくりと上半身を持ち上げる。


 グングン近づく澪の顔、その唇を目指して真っすぐに。


「ぐぅっ、うぅ~~~~~っ!」


 あと少し‥‥‥ほんの少し顔を傾ければ触れそうになった‥‥‥その瞬間。


 ——ピピ~ッ!


 鳴り響く笛の音はタイムリミットの合図。


「あっ‥‥‥」


(間に合わなかった‥‥‥もうちょっとで澪ちゃんとキスできたのに‥‥‥)


 やっぱりジメジメきのこな自分など無力だと、改めて実感して思わず顔を俯ける美琴。


 しかしそんなブルーな気持ちは、肩を揺さぶられた衝撃で霧散する。


「すごいすごい! 美琴ちゃん、目標の10回までできましたよ! おめでとう!」


「え‥‥‥あっ」


 目の前には満面の笑みで褒めてくれる澪の姿。最初は気分が沈みかけていて何を言われているのか分からなかったけれど、徐々に言葉の意味を理解する。


(そういえば、途中から澪ちゃんの唇に気をとられて数えるの忘れちゃってたけど。美琴、10回できたの‥‥‥?)


「ほ、本当ですか?」


「ほんとほんと! 最後はギリギリでしたけれど、ちゃんとできてました!」


 改めて澪にそう言われて、美琴もじわじわと実感が湧いてくる。


 澪と美琴がペアでやっていたのは体力テストの上体起こし。


 お嬢様たちは雅な生活を毎日送っており、あまり運動をしないため体力が少ない人が多い。その例に漏れず美琴も体力が無く、今までの上体起こしの記録はずっと一桁の記録ばかりだった。


 高校生になったからにはせめて10回は達成したい。始める前に澪にそう伝えて、意気込んで挑んだのだ。


 だから今回ついに目標が達成できて嬉しくないはずがない。


「やったっ!」


 思わず手を握ってガッツポーズをしてしまう美琴。


 そんな様子を微笑まし気に見ていた澪が、唐突にポンと手を合わせる。


「そうだ。頑張って目標を達成した美琴ちゃんにはご褒美をあげたいですね」


「えっ。そ、それって……」


 ご褒美と言われて美琴が思い浮かんだのは、あの昼食会の時。額に落とされた柔らかい感触。


(ま、またチュッてしてくれるってこと!?)


 さっきまでずっと、澪の唇を見てそのことを考えていたのだ。やはり自分たちは同じことを考えてる。美琴はますます嬉しくなった。


 けれどいくら両想いとはいえ、いざしてくれるとなると気恥ずかしい思いもあって。


「あの、じゃあ‥‥‥お願いしますっ」


 それでもやはり欲望には敵わない。


 美琴はここが体育館であることも忘れて澪を見つめる。澪をもそんな美琴を見つめ返した。


 今ここは二人だけの世界。邪魔する者は誰もおらず、お互いのことしか目に入らない。


「澪ちゃん‥‥‥」


「美琴ちゃん‥‥‥?」


 ゆっくりと近づく二人の距離。今度はもう、もどかしい思いをしなくて済む。美琴はそっと潤む瞳を閉じた。キスをねだる甘い表情‥‥‥。


 しかし、次に感じた感触は美琴の期待したものではなかった。


「あっ、撫でてほしかったんですね!」


(え、ちがっ‥‥‥)


 否定しかけたが、その前に頭に降りて来た手のひらに封殺される。


「よしよし、よく頑張りました」


「ぁ‥‥‥うにゃぁ‥‥‥」


(な、なにこれ、気持ちいぃ‥‥‥)


 あまりの撫でられ心地に思わず変な声が漏れた美琴。咄嗟に口元を抑えたけれど、ふにゃふにゃになるのがとまらない。


「いい子、いい子」


「ぅんっ‥‥‥」


 ゆっくりと髪を梳くように撫でられるたびに、その場所から優しい温もりと、甘く痺れるような刺激が全身に伝播していくようで、身体の力が抜けそうになる。


 このまま澪に溶かされてしまうのだろうか‥‥‥。


(それも、んっ‥‥‥いい、かも‥‥‥っ)


 そう思ってその身を全て委ねようとしたその瞬間、まるで見計らったように澪の手が離れる。


「ぁ‥‥‥」


「そろそろ交代するみたいですから、今度は美琴ちゃんが僕の足を抑えてもらってもいいですか?」


「‥‥‥はい」


 本当はそんなことよりもっと撫でて欲しいけれど、澪にそう言われてしまえば従うほかない。


 別に抑えるのが嫌な訳じゃない。むしろその役目に美琴は自分を選んでくれて嬉しいくらいだけれど、今はそれよりも身体が疼いて仕方がなかった。


 中途半端に止められたナデナデ。期待しただけに気持ちが高まったままのキス未遂。その前の触れそうで触れられないあと少しの距離の連続。これらの要因が重なって、美琴はもどかしさでどうにかなってしまう。


 そんなぽわ~っとした状態で、澪の足の上に乗っかる。そのまま足が動かないようにギュッと腕を回して膝を抱きかかえる。しかし力が入ってないのは美琴の潤んだ目を見れば明らか。


 準備が済むと、すぐにホイッスルの音が鳴り響いて、30秒のタイマーがスタートした。


 同時に腹筋を使って澪が上体起こしを始める。


(あっ‥‥‥来る)


「‥‥‥っ」


 澪の顔が一番近づくとき、思わずギュッと目を瞑ってしまった美琴。その顔が何かを期待してるのは明白だ。


 けれど、澪は吐息だけをそこに残して後ろに下がってしまう。


 美琴と違ってまたすぐに近づくけれど、二人の間にあるほんの少しの距離が全然縮まらない。


(うぅ‥‥‥もどかしいよぅ‥‥‥)


 美琴は我慢の限界だった。無意識のうちにじりじりと美琴の身体は前に傾いていく‥‥‥。


 だから上体起こしをしている最中、そんな風に腰を浮かせればこうなってしまうのは必然だろう。


 澪が後ろに倒れると同時に、その足の反動で前に飛び出す美琴。


「えっ!? 美琴ちゃん!?」


「きゃあっ!」


 澪に覆いかぶさるように倒れて‥‥‥。


 ——Chu♪


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