第零話:こがね、みずがね(後編)

 ___太陽樹の森。燦々と降り注ぐ日差しが、若葉を透かして木漏れ日を写していた。その下を駆け行く子供たちが五人。虫取り網を持ち出して、きゃっきゃと笑いながら、彼らは駆けていた。いつもとなんら変わらぬ、彼らの日常だった。

 しかし、不意に先頭の子供が立ち止まった。するとすぐ後ろを走っていた子が背にぶつかり、二人はもつれ合いながら倒れた。駆け寄った三人が「大丈夫?」と言いながら二人を起こし、「どうしたの?」と先頭だった子に聞いた。先頭だった子は前方を指差した。

 子供たちのいるところから十メートルほど向こうの木立が、汚れていた。黒く粘つく液体が、その幹と葉と、茂る草地に塗りつけられていた。

「なにあれー!べたべたしてるよー」

 モンちゃん、と呼ばれた子が、よく見ようと一歩踏み出した。その時。粘液の木のその少し向こう、木立の影から、それは頭を出した。

「あ、なにあれー?___なに、あれぇ……」

 子供たちは、それをじっと見た。見えたのがその生き物の頭、というのは、その子たちの誰もが理解できた。なぜならその部位は球体で、目と、鼻と、口と、耳がついていて、黒い筒状の肉で胴らしきものと繋がっていたからだ。ただ___そのどれも、とってつけたように不揃いで、出来の悪い粘土細工のような顔だった。言うまでもなく、人の顔ではなかった。そして、黒くぬめる、粘液まみれの斑な毛皮。引っ張って伸ばされたかのようなひょろ長い肢体。ぬるりとしなる、触手のような尾。___全長約二メートルのそれは、魔物と呼ぶに、相応しかった。

『___ナっ。』

 魔物は体を震わせながら、口を開いた。

『ナ。ナぃ……ナに。ナにアれ。ナにあれ。なにアれ。』

 湿気った息と共に吐き出された、若い女と爺二人が同時に喋っているかのような声。子供たちは目を見開き、口を開け、そしてわなわなと震えながら後ずさった。魔物は、瞼のない今にも落ちそうなその瞳で、じっと子供達を見つめながら、うわ言のように呟き続けた。

『なにあれ。なにあれ。なにあれなにあれなにあれなにあれ。』

 魔物が、四つん這いのその右手を一歩前に出した。子供たちは来た道を一目散に駆け出した。

 五人のうち三人が、走りながら泣き出した。

 一人が、助けてと叫びながら走った。

 そして一人が、小石に躓いて転んだ。モンちゃんと呼ばれていた子だ。

 子供たちは前しか見えていなかった。涙で歪む視界を頼りに、ただ逃げることと、恐怖だけを頭に、あるいは助けを求める声を張り上げて走っていた。だからモンちゃんの「まって」という声も、「おいてかないで」という声も、気づけなかったのだった。

『なにあれなにあれ。たすケて。マって。おいてカないで。』

 魔物はうわ言を呟きながら、粘っこい這いずり方で、逃れようとするモンちゃんに近づいて行った。



___その半刻ほど前。

 母の伝言を伝えに来た従弟に連れ帰られ、アーランはようやくそのお使いの任を終えていた。母から「まったくしょうがない子ね」と軽いお叱りを受けたアーランを、ハイドラは苦笑いしながら茶化した。

「まあ……その、なんだ。アーラン、悔いはないんだろ」

「……ないっ!クッキー美味かったから!」

 料理をしに戻っていくアーラン母を見送って、二人は表に繰り出した。

「じゃ、釣りにでも行っちゃいますかねぇ!」

「……ああ」

 アーラン宅から釣竿とバケツをそれぞれ二つ、それと餌箱を持ち出して、二人は橋へと向かい歩き出した。橋は、アーランの家とハイドラの家とを繋ぐ道を隔てる川にかかっていた。川はそこまで大きくはないものの、村の田畑に引く水の源であり、また魚もそこそこ獲れるため、ケテルナの住人たちはこれをありがたがっていた。

 そんな川にかかった石橋を目前にしたところで二人は、橋の下からそろそろと歩み出て土手を登ってくる三人の人影を見た。

「……あ?よお、アーランじゃねえか」

 三人の一人、焦茶の髪を短く刈った、アーランよりも少し背の高い青年がアーランに声をかけた。

「よ、ディーン。それにハウロ、ヨッヅ」

 アーランは三人に向かって気さくに挨拶した。ディーンと呼ばれた青年はアーランに肩を組むと、ニッと笑って少し黄ばんだ歯を見せた。

「ちょうど帰るとこだったんだけどよ、俺らさっきまでモクやってたんだ。最近たまたま安くてウマいの手に入ってな。どうだ?お前も」

「んー今日はいいや。吸うの下手でいつもむせるし」

 ディーンは少しの間アーランを見たが、やがて彼を解放した。

「へへ、つれねえな。まぁいいよ。それじゃまた今度な」

 ディーンは最後にハイドラの方を一瞥すると、仲間たちと共に去っていった。

「……」

「あーあー確かにちょっと臭うな〜。ハイドラー、こっちで釣ろうぜ」

 アーランとハイドラは対岸側まで行き、三人がいた方と対角に位置する橋の縁に腰を下ろし、釣り糸を垂らした。

「……ここはいつも釣れるけど、魚はタバコの臭いわかるって聞くぞ」

「えっマジ?」

「噂だけどな」

「ええ〜……今度あいつらに言ってここで吸うのやめてもらお」

「……ああ」

 緩やかな流れの紋の川。釣り糸二すじ、静かに垂れて、水面を貫き時を待つ。少年二人は黙して眺め、耳を澄まして春を聴いた。遠い柳の房の揺れ、通りがかりの踏む轍。とうの昔に見た夢も、今にもなって思い出す。アーランは不意に、「そういえば」と口を開いた。

「俺、夢に見たことあるよ」

「……なんの話だ?」

 アーランは未だ張らぬ糸をゆらりゆらりと揺すりながら、おもむろに語り出した。

「さっきのクッキー倍の話じゃないけど、俺とお前が一緒にいた」

「……いつも大体一緒にいると思うが」

「そういうんじゃなくて___」

 その時、対岸の方から誰かが橋を渡ってきた。その人物は橋に掛ける二人を見つけると、そちらへ歩み寄った。

「あっ、あっ、あの!ここんにちは!ハ、ハイドラ君!アーランさん!」

 二人が振り向くと、そこには少女が立っていた。少女は先のピクニックにはいなかった子で、年と背丈はハイドラと同じくらい。春だというのに、薄手とはいえ少しサイズの大きいベージュのセーターを着ていた。そして黒く長い前髪が、シャイそうな目元を隠していた。

「あ、ユーリリカ、おっす」

「……ユーリリカか」

 ユーリリカは自分から声をかけておきながら、少しおどおどした様子で話しかけた。

「え、えっと……い、いいお天気ですね。お魚、釣れますか……?」

「いや……」

「あっ……そ、そうなんですね……」

 唐突に速度を失った会話が墜落しかけたのを察知して、英雄の子は口を開いた。

「そうなんだよ〜!昨日もボウズで今日もまだ!でもね〜ここはホントに釣れるから、多分もうイケる!俺にはわかる!なっ、ハイドラ!」

「ん……そうだな。ここで釣れなかった日は数えるくらいだ」

「へ、へ〜……!すごいですっ!」

「うんうんすごいんだよ。チョーおすすめスポット。ところで、ユーリリカはどうしてこんなところに?」

 アーランに会話を振られ、あわあわと手を忙しなくさせながら喋るユーリリカ。

「あっ、えっ、その、お墓参りに!行ってきました。……あっ!おばあちゃんの!」

「なるほど、えらいな〜さすがユーリリカ!やっぱご先祖様は大事にしなくちゃな〜。な、ハイドラ、俺たちも近々じいちゃんばあちゃんに顔見せないとな」

「……ああ、そうだな。花……ちょうど色々咲いてるしな」

「あっ、お花……太陽樹の森の近くに、いっぱい咲いてました」

 少年少女は橋の端に並んでかけて、しばらく雑談に春の花咲かせたのち、やがてユーリリカはそろそろ家の手伝いに戻りますと立った。

「すみません、その、釣りのお邪魔しちゃって……そ、それじゃあ、また!」

「おう!またな!」

「……じゃあな」

 ユーリリカは小走りで去っていった。途中どんくさく転びかけながら。

 再び、静寂。しかし不意に、アーランはハイドラの脇腹をツンっとつついた。

「ぐぇっ、なにすんだ」

「……気づいてやれよ〜」

「はぁ?」

「ケテルナの朴念仁」

「なんだそりゃ」

 ハイドラは脇腹をさすりながらアーランを見たが、しかしアーランは苦笑いをするのみだった。なのでハイドラは要領を得ない話を断ち切るべく、前の話題を戻した。

「……そんで、なにを夢に見たんだって?」

「ああ、そんな話だったな」

 すう、と、上流の方から一尾の魚がやってきた。魚は揺らぐ水面にその鱗の光をきらきらとさせながら、目の前に並ぶ二つの餌を品定めしていた。

「見たのもう十年くらい前かな。なんか今まで忘れてたんだけど、ついさっき思い出したんだよ。俺が勇者になって、旅に出たって夢」

「……」

「暗い森の中を、俺とお前が二人で進んでた。そんで、魔物と戦ったり、旅先で仲間集めたり。『勇者アルセノ伝』に出てくる、父さんの若い頃の冒険にそっくりのことしてた」

 アーランは魚を透かし見ずに、その水面に映る自分と従弟の鏡像を眺めた。金と枯草の二つの並びに、あの夜見た不思議な夢の記憶が、蘇る。

「旅をしたのは、全部で七人。最初の二人は、俺と、お前。その後に加わったのは、弓を持った男の子、剣を持った女の子、魔法使いの男の子、チャラそうな騎士の男の子、最後に鎧の女の子。同じくらいの年代の、同じ志の仲間たち。___ワクワクしねえか?」

 ハイドラはふっと笑みを溢しながら、「冗談じゃない」と。

「お前が旅立つってことは、相当ヤバい事態だろ。そんな状況があるとしたら、まず伯父さんたちが動けなくて、軍人たち全員が手一杯で、そんで……そういう時に、魔王が現れでもした時だ」

 ハイドラは「縁起でもない」と言った。だが___

「……縁起でもない。けど、ああ……なんでだろうな。確かに、正直言ってワクワクはする。馬鹿だよな、普通に考えて世界の危機でしかないのに。でもお前となら、どんなピンチだってきっと最後にはきっと楽しんでるって思うんだ。……俺もお前も、業が深いよ」

 アーランはニヤリと笑った。

「業が深いだなんて、そんなことあるもんか。冒険に憧れんのは、全ての少年の本能だ……!」

 悪びれもせず言い放つアーランに、ハイドラは額をピシャリと叩いて顔を綻ばせた。

「世界の危機、人類の存亡を賭けた戦い。どんなピンチだって、どうせ挑むことになるなら楽しんじまえばいいんだ!父さんたちは乗り越えた!なら、俺たちにだってきっとできるはずだ!俺も、いつか父さんのように強く立派な勇者になってみせる!」

「……お前はいつもそうだ。どこまでも純粋で、豪胆で、強い憧れを抱いて今を生きてる。……けどな、憧れに生きてるのはお前だけじゃないぞ」

 ハイドラも、未だ品定めに迷う魚には目もくれず、静かに水面の鏡像を見た。

「ゼト先生がどっか行っちまってからも、俺が剣振ってるのは知ってるだろ。……お前が旅立つようなことがあれば、着いていこうと思ってたからさ」

 アーランはパッと顔を輝かせ、ハイドラの方を見た。魚は、ようやくどちらを口にするか選んだようで、ハイドラの方にぱくりと行った。ハイドラはピンと張った糸に反応し、竿を引いた。

「……言われずとも、俺も着いてってやるさ。お前はいい奴だし強いけど、勇敢がすぎるからな。それに好奇心旺盛でお人好しで、いつも後先考えず突っ走る。……だから、お前という奴を理解した上で、逆を選べる奴が一緒にいた方がいい。……俺の夢は、お前に背中を預けてもらうことだ、アーラン。お前より強くはなれなくても、いつかお前と肩を並べられるくらい、俺も強くなってみせる。だから___あ」

 糸が切れた。魚は餌と針を口に猛烈な勢いで遡上し、やがてキラキラと水面に反射する日の光に隠れて見えなくなった。

「……替えの糸、持ってきてないよな。家から取って来る」

 ハイドラは立ち上がった。

「ハイドラ」

「ん」

 歩き出そうとしていた従弟に、アーランは笑いかけた。

「ありがとうな」

「……。まだなんもしてないっての……。すぐ戻るから、荷物見ててくれ、勇者殿」

 ハイドラは自分の家を目指して歩き出した。


✳︎


 家にたどり着いたハイドラは、物置のある裏手へと回り込んだ。ハイドラの親は農家で、家の裏手には人参やら芋やらを育てるための畑が広がっていた。彼も普段はそこの手伝いをしているのだが、その畑の手伝いにはよく勇者一家も参加していた。今日も、そんな調子だったらしい。畑ではハイドラの父・テュフノと伯父・英雄アルセノが種を蒔いていた。

「やあ、ハイドラ」

「こんにちは伯父さん……相変わらずすごいね。春の畑仕事で汗ひとつかかないなんて、人間離れなんてもんじゃないよ」

「はっはっは、大したことじゃあないさ」

「ハイドラ」

 アルセノに面影はあるものの、彼とは違い眉間に刻まれた深い皺が特徴的な、白髪混じりの金の短髪の男、テュフノが息子に声をかけた。

「どうした……」

「釣りしてたら糸切れた……替え糸、物置にあったよね?」

「ああ」

「了解」

 ハイドラは二人に軽く手を振り、物置から糸を持ち出してその場を後にした。

 そして来た道を戻りながら、ハイドラは先のアーランの言っていたことを反芻した。アーランの、勇者としての旅立ち___幼い頃からの、従兄弟の夢。輝ける英雄譚への純粋な憧れ。されど、それは逆説的に、世界最悪の事態を肯定してしまう。英雄は、脅威なくして現れない。コインの裏と表のように、勇者と魔王は切り離せない。

(あいつはある意味で、人類の危機を願っている。そしてその上で、どんな困難にも打ち勝つ気でいる。……ったく、どんな神経してやがる。……いや、結局はそれも生粋の英雄体質故の『器のデカさ』なのかもな)

 川沿いの辺鄙な道を、ハイドラは歩いた。やがて___誰もいない橋が見えてきた。

「……あれ」

 アーランの姿がどこにもなかった。荷物だけがそのまま、いや、ハイドラは場をよく見た。他は彼が去った時のままだが、アーランが使っていた釣り竿だけは、まるでポイと放られたように橋の真ん中に乱暴に捨て置かれていた。バケツ二つに、糸の切れた竿一本、餌がついたままの竿一本、それらを残してアーランは忽然と姿を消していた。

(腹でも下したか……?いや、それならいいんだが……なんだ、この違和感は)

 ハイドラは橋の半ばに落ちていた釣り竿を拾い上げながら思った___嫌な予感がする。


✳︎


 ___数分前、ハイドラが糸を取りに出たすぐ後。

 アーランはハイドラの口にした憧れを噛み締めていた。

(嬉しかったな〜、あの言葉は。それに驚いた。いつも俺の背中を追ってたハイドラが、いつのまにかあんなに頼もしいこと言ってくれるようになってた。一緒に旅がしたいって思いも一緒だった)

 張らない糸を軽く揺すりながら、アーランは一人微笑んだ。

(でも確かに、俺たちの旅立ちが意味するのは世界の危機の訪れ。いくら冒険と父さんへの憧れでも、それを願うのは業が深い、のかもな……)

 緩やかな流れの水面に小魚が跳ね、波紋が広がった。けれど糸は、未だ張らず。そんな無沙汰にぼうっとしていたアーランだが、ふと思った。

(あれ、そういえばあの夢って、誰か女の人もいたような。確か声だけ聞こえて……なんて言ってたっけ……)

「……あっ」

 アーランは思い出した。十年前、夢の中で語っていた声の主、女神イデアの名。そして、「人に話してはならない」という戒め。

(しまった、ハイドラに喋っちゃった。……これが原因で勇者になれなかったらどーしよ)

 アーランは渋い顔をしてむむと唸った。そうしてまた釣り糸に意識を向けようとした時___遠くから、誰かが助けを呼ぶ声が聞こえた。

「!」

 アーランは釣り竿を橋に放り、素早く声のした方を振り向いた。岸はアーラン側、ハイドラの歩いて行った方とは真逆の方角から、子供四人が走ってくるのが見えた。皆___泣いているのが見えた。アーランは走り出した。

「どうした!?」

 アーランが駆け寄ると、子供たちは阿鼻叫喚の様子でアーランに泣きつき喚いた。

「落ち着け!まずは深呼吸するんだ……大丈夫、大丈夫だから……」

 アーランが子供たちを宥めると、子供たちは徐々に落ち着き始め、うち一人が言った。

「……魔物が出たよぉ」

「!?……どこに?」

「太陽樹の森……」

 アーランはしゃがみ、子供たちに目線を合わせた。

「そっか、みんなよく無事で逃げてきてくれた。もう大丈夫。みんなおうちに帰って、それで途中誰かに会ったらそのことを伝えてくれ。俺は今からこのことを父さんに___」

「……あれ?モンちゃん……いない」

 子供たちのうち一人が、気づいた。そして、場が凍りついた。アーランはあくまで冷静に、一切の動揺を見せない声色で子供たちに尋ねた。

「……モンちゃんも、一緒だったのか?」

「うん……でも、今、いない……あれ……?」

 アーランは立ち上がった。遠くを見据えるその険しい目に、覚悟を宿して。

「ごめん、やっぱりみんな、おうちに帰る前に俺の父さんを呼んできてくれるか?」

「えっ……アーラン……?」

「俺んち……分かる?」

 子供たちは頷いた。

「大丈夫。必ずモンちゃんを連れて帰ってくる。だから悪いんだけど、俺の代わりに父さんを呼んで来てくれ!」

 それだけ言って、アーランは走り出した。子供たちが逃げてきた、太陽樹の森へ。



 太陽樹の森奥地に響く、不協和音。がり、がり、がり、と耳障りなそれを奏でていたのは、歪に伸びた黒い爪。木の幹に爪痕が残るほど、がり、がり、と何度も引っ掻いていた。

『おりテこイ。おりてこい。オリてこいおりてこいおりてコいおりてこい。』

 魔物は取ってつけたような眼球の底なしの眼差しで、木の上で震える幼な子を舐め回すように見ていた。呪詛にも聞こえるうわ言は止むことなく、幼な子、モンちゃんの耳に絶望を流し込んでいた。

 逃げ遅れたモンちゃんは転んだあと、なんとか魔物から逃れようと死に物狂いだった。だが、その恐怖こそが「ただ走る」という正常な判断を狂わせ、木に登って難を逃れるという選択をとらせてしまった。魔物は木を登らなかったが、しかし、それゆえにモンちゃんは「あとはもう殺されるのを待つだけ」というさらなる恐怖に晒され続けることとなったのだ。必死に幹にしがみつく小さな腕。座す枝には恐怖のあまり失禁した小水が滴り、モンちゃんは濡れた下着の不快な冷たさと足の下の狂気にガタガタと体を震わせていた。

『おりてこい。おりてこい。おりてこい___降りてこい。』

 それまでうわ言のようだった魔物の言が、急に流暢になった。まるで、「学んだ」とでもいうかのような変化だった。魔物は深く抉られた木の幹になお深く爪を立て、そして___甲高い叫びを上げた。

『___ォォオオオオオオオ!!!』

 モンちゃんは魔物のあまりの声量と声質の不快感に思わず幹を掴む手を離し、耳を塞いでしまった。それと同時に、ズンと木が揺れる。魔物は腕を隆起させ、爪を木にめり込ませていった。するとやがて、幹がメキメキと音を立て始め、さらに揺れが大きくなる。モンちゃんは涙と鼻水でグチャグチャの顔をさらに歪めた。悟ってしまったのだ___死を。

 木には、めり込ませた爪を中心に大きなヒビが烈々と走り、そのヒビは悪意ある蛇のように凄まじい速度で巡っていった。そして……とうとう、モンちゃんの乗っていた枝が傾いた。

「あ、あっ、あっ……ぁああぁぁあ」

 宙に投げ出されたモンちゃんの体が、落ちる。地面へ、若葉へ、魔物のもとへ、死へ。無力な幼な子は、ただ一つの言葉を頭に浮かべることしかできなかった。

(たすけて)

 風に舞う太陽樹の葉。崩れゆく太枝と幹。いやらしく嗤う物の怪。涙の雫が落ちる、その刹那。駆け抜ける、黄金の風___!

「___助けにきたぜ」

 泣きじゃくる幼な子の身体、汚泥に触れるその前に、少年勇者が受け止めた!



「もう大丈夫。さあ立って、モンちゃん。村に向かって走るんだ」

 俺はモンちゃんの背中を押した。モンちゃんはしゃっくりをしながら、過呼吸気味に俺に尋ねた。

「アーランは……?」

「モンちゃんが逃げ切れるように、あいつをやっつける。だから安心して走って!」

 俺はニコッと笑って、モンちゃんの頭を撫でた。モンちゃんはほんの少し逡巡したが、やがて走り出した。俺はその小さな後ろ姿を見送り、奴へと振り返った。

「……よう。待ってくれるなんて、随分行儀がいいんだな」

『……ヨう。ずいブン。ギョうギ。』

 およそ二十歩の距離を保ったまま、俺は魔物を観察した。真っ黒で四つん這いの、尾の長い人型に近い体つきの魔物。歪な骨格から、最初は合成獣キメラの類いかと思った。だが、どうやら違うらしい。どの部位も明らかに、自然の生物の生態から逸脱している。本当に生きているのかさえ怪しい外見だ。はっきり言って、どういった魔物なのか全く見当もつかない。俺は過去ケテルナ村の周辺で見つかった魔物のリストを見たことがあるが、それで見たどの魔物にもそぐわないどころか、この魔物は父さんの部屋のデカい図鑑で見た凡ゆるタイプとも特徴が一致しない。___新種。対策を立てるための情報が足りないから厄介だ。

 俺は腰を落とした。慌ててきたため武器もなく、その上相手の出方がわからない。よって必然的にはじめは受けに回るしかないと踏んだのだ。そしてそれと同時に、魔物も動き出した。

「来いよ」

『待って。おいてかないで。』

 魔物は手足を激しくバタつかせながら、大口を開け突進してきた。___噛みつき。だが、

「遅え」

 俺は瞬時に体内の魔力を回した。フッと周囲に風が舞い、全身を蒼い光の渦が包む。そうして強化した脚力で横に跳び、俺は魔物の攻撃を避けた。さらに避けると同時に、俺は元いた場所に残した魔力に術式を組んで命令した。

「___設置魔力弾!」

 閃光、魔物が俺の体を逃して光の残滓に歯噛みすると同時に、蒼の爆発が巻き起こり魔物を焼いた。

『ァァアアア!!!』

 魔力熱で焼かれた魔物は苦悶の叫びを上げ、のたうち回った。しかし、息を荒げながらも魔物はすぐに体勢を立て直してこちらに向き直った。

「……キツイの決めたつもりだったんだけどな」

 殺すつもりの技だった。一応ダメージは通ったように見えるが、どうやら純魔力に耐性があるらしい。

『……なにあれ。なにあれ。』

 魔物はうわ言を呟きながら、そのギョロギョロした目で俺を睨んだ。

 人の喋りの真似をする習性と、耐久力のあるフィジカル。攻撃は爪や牙などによる原始的なもの。俺は魔物の観察を続けながら、頭の中で戦術を組み立てた。耐性がある以上、その手の攻撃魔術はこちらが消耗するだけであまり得策じゃない。体はデカいが、少なくともスピードはこっちが上。武器なしでの接近戦は、リスキーだが不可能じゃない。長期戦に持ち込んで父さんを待つ手もあるが___その場合父さんが来る前に逃げを打たれると、再捜索の時に被害が出る可能性がある。___ここで仕留めるべきだ。___あれをやるか。

 魔物が再び突っ込んで来た。今度はさっきよりも速い。噛みつき……いや、今度は手を振り上げた。爪か掴み。

「___フゥ……」

 俺は精神を深く鎮めて、脳裏に新たな術式を刻んだ。そして魔力の回転を速め、詠唱した。

「迸る紫、暮れなずむ鋼、戦線よ、我に力を___」

 体に纏う魔力が、変質していく。星のように蒼く煌めいていた粒子の渦は、徐々に赤みを帯びてバチバチと音を鳴らし始め、詠唱の完了と共に、それは激しくスパークする紫紺の雷となって俺の体を覆い直した。

「___武装電離ぶそうでんり!」

 魔物は、先の噛みつきの倍近い速度で腕を振っていた。だが俺はその三倍の速度で爪を躱し、そしてガラ空きの胴体に雷の拳で連打を叩き込んだ。

「……っらぁ!」

 魔物は痺れたのか黒い体をビクンと跳ねさせながら大きくのけぞり、片膝をついた。勝負を決める好機___

「___いっくぜェ……!」

 俺は魔物の立てた片膝を踏みつけて跳び上がり、さらに上昇気流の魔術で大跳躍した。大気を貫き、昇りゆく体。やがて速度が落ちはじめ、最高高度での一瞬の静止。燦然と輝く太陽と雲のとなり、俺は月面宙返りで体を翻した。同時に、雷の出力も最大解放する。

 ___この技は、本来剣や槍を持って使うものだ。だが、この技を俺に教えてくれた父さんは言った。勇者として戦う以上、いつでも武器が手元にあるとは限らない。だからそんな時は、魔力を纏った拳でこれを放て___

 落下が始まる。加速……加速。加速!加速!!直下の魔物へ向かい、宙空を超スピードで突き抜けながら、俺は拳に魔力を集めた。稲妻は激しい唸り声を上げ爆発的に増幅し、振りかぶった拳は一億ボルトの必殺の落雷へと変化した!迸る電光が、紫紺の雷鳴と共に轟き撃ち抜く!

「___無手むて紫電一閃しでんいっせん!!!」

 落下エネルギーの破壊力と、紫電の奔流を乗せた拳を、俺は魔物の脳天に叩き込んでやった。魔物の体はその衝撃と電圧によって、割れた大地の裏まで突き抜ける勢いで派手に潰れ伏した。

『ギャぁぁぁぁあッ!!!!』

 魔物はかち割れた頭から大量の血を噴き出し、長い断末魔を上げた末、黒焦げになった体を地にめり込ませたままとうとう動かなくなった。

「……はぁ……はぁ」

 ___倒した。なんとか。土煙を払い武装電離を解除した俺は、その潰れた骸をまじまじと見た。謎の魔物は、大して強くはなかった。見た目に反して動きは単純で、その対応自体は難しくはなかった。だが、妙に耐久力が高かった。だから結果的に結構な魔力と大技を使わされて、俺もバテかけだ。

「……父さんに、報告しよう」

 そうしてその場を後にしようと踵を返した、その時。

『___ナ』

「……ッ!?」

 俺は驚愕の思いで振り返った。割れた頭を痙攣させながら、なんと魔物はめり込んだ地面から這い出てきたではないか。

『ナぁぁぁぁあああ。』

 俺は目を見開いた。魔物はつぶれた口で、俺に向かって呪詛を吐いているように見えた。あれを食らって、生きてる……!?いやそもそも、「頭が割れてる」のに、動けるわけが……。

 不意に、魔物はその血塗れの貌をドロリと歪めた。歪みは黒い泡となり、徐々に首へ、胴へと進行し、全身を蝕んでいった。そして気がつくと、魔物は真っ黒な卵状へとその身を変えていた。

「なんだ……これ……」

 ___ヤバい。俺の中の何かが警鐘を鳴らした。こいつ……ただの魔物じゃ、ない。

 そして、卵に亀裂が走った。ピシッ、ピシシッ、と稲妻のような筋が広がり、そして、殻が砕けていき、中身が貌を覗かせた。

『___たいしたものだな。勇者』

 瞬間、伸びてくる黒い腕。俺は即座に跳び退がろうとしたが、しかし既に魔力のほとんどを使っていて、思ったように体が動かなかった。

「しまっ___」

 黒い手は俺の首を捕まえるとぐっと握り締め、そのまま俺の体を勢いよく木の幹に叩きつけた。

「ぐぁっ!」

 卵の中身は、残りの邪魔な殻を蹴り壊してその全身を露わにしてみせた。最初の姿の面影を残しながらも影のようなオーラを纏い二足で立つそれは、さらに隆起した筋肉と、さらに深い闇を湛えた瞳を持っていた。それに加えて、伸縮する腕と、もはやしっかりと意味の通る文章を流暢に話す高い知能。明らかに、一魔物としては異質すぎる存在が、そこにはいた。

「お……前ッ……!なにもんだ……!」

 俺はなんとかして奴の凄まじい握力から逃れようともがきながら、締め上げられた喉に必死に力を入れて魔物に問いかけた。魔物は腕を縮めながら俺に近づいて来た。

『何者か、か。……何とも人間らしい低俗な問いだ。実に下らぬ。……だが、敢えて答えてやろう。この肉体の名は擬人ギト、お前たち風に言うと……『魔王』、だったか。そしてこうして貴様と会話している私の名は___混沌カオス

「な……んだ、よ……それっ……!?」

 言っている意味がわからなかった。ギト……?魔王……こいつが?それに、カオス……?俺は魔物の言葉の示す真意を図りかね混乱した。だが、一つ確かなことがわかっていた。こいつを生かしておくとヤバい。俺がみんなを守らないと___そこまで考えた、その時。

「___っ、……ぉブッ、ぁ……?」

 魔物のもう一方の腕が、俺の腹を貫いた。歪にも鋭く尖った爪が腑を裂き、俺は臍のあたりがどろりと生暖かくなるのを感じた。___一瞬、脳が痛みに、トんだ。

「が、ハッ……ぐぁぁぁあああああ!!!!」

 俺は狂いそうなほどの痛みに血を噛み締めて脚をバタつかせ、眼窩の裏を向きかける両目を戻そうと必死に瞼に力を入れ頭を振った。

『おお……苦悶よ。堪能するがいい、愚かなる一族の末裔よ。無駄話は終わりだ。永く苦しみ、疾く去ね___む?』

「___死んで、たまるかよ……!」

 俺は腹を貫く黒い腕を掴み返した。そして……なぜ、そうしようと思ったのかはわからない。わからないが、だが___俺は、その時この十八年の人生で一番の集中力を注いで、『精神を統一』した。

 ___遥かなる憧れ、誉れ高い父の背中。温かく抱いてくれる、愛に満ちた母の腕。笑い合うケテルナ村の人々の、守るべき日常。アルセイラの国の息吹、民の営み。まだ見ぬ旅路の、いずれ出会う仲間たち。___背中を預けてほしいと言ってくれた、最愛の従弟の笑顔……ッ!壊させて、なるものか……!!!

「ぁぁぁ……うぉぉおおおおお!!!」

『っ!?貴様……馬鹿な!?』

 俺の胸のあたりから、黄金の魔力が溢れ出す。その陽の如き光の奔流は腕を伝い、俺の手が握る魔物の腕を粒子状に分解し始めた。

「前を見据えろ……!構えを保てッ……!その心が折れない限り……勇者は何度だって立ち上がるッ……!!!」

 光が一層強く煌めく。そこまでして、ようやく俺はその光の正体に気付いた。だが___

『___ぬんッッ!!!』

 水っぽい、肉の弾ける音がして。口からありえない量の血が溢れた。

 ___心臓を、破られた。光が、散った___。

「ごぽっ……___ぁあ、ごめ……ハイ、ど……」

 ___。

 ___俺は……。俺は勇者に、なれなかった。

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