第零話:こがね、みずがね(前編)

 ___十年前。

 照りつける夕日に影を伸ばして、少年はまだ幼い従弟を背負って野道を歩いていた。うなじをくすぐる枯草色の柔らかな毛先と、肩越しに聞こえるかすかな寝息に優しく微笑み、少年は従弟を起こさぬようできるだけ気遣いながら、その小さな体を落とさぬようにグイッと背負い直した。少年の金色の髪が夕日の赤に燃ゆるように揺れ、今度はその金の毛先が幼き従弟の頬をくすぐった。従弟はほんの少しみじろぎ、しかし目覚めることなく安らかに眠っていた。

 やがて少年は従弟を背負ったまま畔道を行き、橋を渡り、自分の家の前を通り過ぎてもまだ歩き、従弟の家の前までやってきた。すると玄関を開けて女が出てきた。女は小走りで少年に駆け寄った。

「ああもう、この子ったら。ごめんなさいねアーラン、重かったでしょう?」

 金髪の少年___アーランは「これくらい大丈夫だよおばさん」と笑いながら従弟を揺すった。

「ほら、ハイドラ〜。家に着いたぞ〜」

「……んん」

 そう言われ枯草色の髪の子___ハイドラは目を擦りながら欠伸をした。

「ふぁ……あれ、お母さん」

「アーランがおんぶしてくれたのよ。お礼しなさいな」

 アーランに下ろされながら、ハイドラは彼に礼を言った。

「いいよ、いっぱい遊んだから疲れちゃったよな」

 アーランは晴れ空のような青い目を優しげに細め、ハイドラの頭を撫でた。

「それじゃおばさん、俺も帰るよ。またな、ハイドラ」

「ハイドラをありがとうね、気をつけて帰るのよ」

「うん」

 手を振る親子と別れ、少年はまた歩き出した。今度は自分の帰路として。



「よぉ、アーランくん!もう暗くなるから、早く帰るんだぞ!」

「おーい、アーラン!今度また遊びに来いよー!アルセノさんにもよろしくなー!」

「アーラン、今帰るところ?そう。ねえ、明日みんなで森に探検に行くの。あなたも来ない?」

 すれ違う人々は皆アーランに声をかけた。その一つ一つにアーランは心からの笑顔と言葉で応えた。ケテルナ村。とある英雄が住まうこと以外なんの変哲もない、田畑と森しかないのどかで辺鄙な村だ。そしてこの村のちょうど真ん中あたりに、彼の家は建っていた。周りの家と比べても大きく作りのいい屋敷。アーランが正面の門を通ると、玄関から一人の男が出てきた。アーランはその男を見るや、顔を綻ばせて小走りになりながら言った。

「ただいま、父さん!」

 男もまたアーランと同じ輝くような金髪で、晴天のような青の瞳だった。そしてアーランと瓜二つの整った顔立ち、しかしその肌には大小無数の傷跡が見られた。男の名はこの国で、否、この世界で最も多くの人間が知っていた。もう二十年も前の話だ。男は世界を救った。その力と勇敢さは伝説として語り継がれ、そして平和の象徴とまで呼ばれていた。男の名はアルセノ。人々は彼をこう呼ぶことも多い。「英雄」、或いは、魔王を倒した「勇者」と。

「おかえり、アーラン」

 アルセノは愛息子に微笑んだ。



『___目覚めなさい。目覚めなさい、アーラン』

 アーランは聞き覚えのない女の声を聞き、目を覚ました。アーランはすぐにここが自分の寝室ではないことを直感した。ひどく暗く、ひどく静かで、周囲には人の気配もまったくなかった。だが唯一、女の声だけがアーランには聞こえていた。

「誰ですか?」

 アーランが尋ねた。

『私の名はイデア___女神イデアです』

「女神様?」

 女神イデア、そう名乗った女の声は、アーランの頭の中に直接響くようにして伝わった。

『そうです。アーラン、よく聞いてください。あなたはこれから、力をつけねばなりません』

 イデアがそう言うと、瞬間世界がワッ!と燃え上がった。思わず体を跳ねさせたアーランだったが、しかしそれが熱さのない幻の炎だと理解すると、すぐに落ち着きを取り戻した。そして気づくと闇は消え去っていて、代わりにそこは戦場へと変貌を遂げていた。あたりに響く怒号、爆発音、悲鳴、数えきれない程の叫び。熱はないが、漂う焦げ臭さと、鉄と、饐えた匂い。血のような朱色に染まった空、そして大地には屍の山。地獄の如き、戦場であった。アーランは口をキュッと結び、そして眉を顰めた。しかし、目や耳や鼻を、手で覆おうなどとは決してしなかった。

『やがて、戦が始まります。魔物と、人の戦です。あなたは力をつけなければなりません。あなたのお父上のように』

 不意に、アーランの視線の先、煙の向こうに何人かの人影が現れた。人影が近づいてくるにつれ、それが人ではないことにアーランは気づいた。すると背後から足音が聞こえた。一人、二人……いや、もっと多くの。ものすごい勢いで近づいてきた足音たちは、やがてアーランの横を通り過ぎて行った。それは七人の少年少女、アーランよりもずっと年上で、彼の目には皆とてつもなく大きく見えた。

 一人は、特に体が大きくて特に筋肉がついていた。

 一人は、影のように全身真っ黒で特に足が速かった。

 一人は、特に背が低くて三角帽子をかぶっていた。

 一人は、鎧を着ていてみんなに置いていかれないよう必死について行っていた。

 一人は、弓を持っていて走りながらものすごい勢いで矢を射ていた。

 一人は、杖を持っていて最後のもう一人に肩を貸していた。

 そして最後の一人は傷だらけで、アーランと同じ金色の髪をしていて、杖の人に走りながら魔術で治療されているようだった。そして治療が終わると、途端にものすごい速さで駆け出し、あっという間にみんなより先に行ってしまった。煙の中で、七人は向こうから来た影と戦っているようだった。

『あなたは力をつけねばなりません。そして、仲間も見つけなければなりません。あなたのお父上のように』

 ブツリ、という音とともに、今度は景色が森の中へと代わった。今度はどこにも火の手は上がっておらず、誰も争ってはいなかった。ただ、二人の少年の後ろ姿が見えた。茶のマントと灰色のマントの少年たちは先の七人と同じぐらいの年頃に見え、しかし彼らとは別の人間らしかったが、二人のうちの茶のマントを着た方と先の七人のうちの金髪の少年はどことなく重なって見えた。そしてもう一人の少年は灰色のマントを着ていて、枯れ草色の髪をしていた。アーランは直感した。

(俺と、ハイドラ……?じゃあさっきのは……)

 それからは目まぐるしく風景は変わった。風景が変わるたび、少年たちの仲間は増えていった。弓を持った背の高い少年、長い剣を持った少女、ニッと笑うと八重歯が見える少年騎士、三角帽子に眼鏡の少年、小柄ながら鎧を着込んだ少女。風景は山だったり、街だったり、学校?のようなところだったり、聖堂の中だったりと、どれもバラバラだった。

『彼らを探すのです、アーラン。彼らは導かれし者たち。あなたたちはいずれ、世界を救うために戦うのです。けれど___』

 女神イデアの声は、そこで急に、ほんの少しだけ冷たい響きを湛えた。

『けれど、決してこの夢のことを人に話してはなりません。約束ですよ。勇者の子、アーラン___』

「あっ、待って___」

 世界がまばゆい光に包まれ、加速した。アーランは眩しさのあまり目元を手で覆った。

 そして、目を開くと今度はちゃんと自分の部屋だった。外は暗い。カーテンの隙間から、か細い月光が部屋に侵入していた。



 照りつける灼熱の日差しにも負けず、アーランは剣を振っていた。玉のような汗をほとばしらせ、剣は風を切り、覇気の充実したかけ声が中庭の修練場にこだましていた。側では英雄たる父がその様を見守り、時々もっと脇を絞れだとか腰を入れろだとか説いていた。その一つ一つを吸収するごとに、素振りの切れは増してゆく。

 日差しに穏やかさが現れる季節になっても、アーランは素振りを続けた。素振りを続けながら、彼の日課に格闘術の修練が増えた。まずアルセノが蹴りや突きの型を見せ、それを見よう見まねでアーランは身につけていった。そしてすぐに、アルセノはそれを実践の形に落とし込んで練習させていった。まだ幼さの残る体の、拳や脛に皮剥けや痣が増えた。しかしそれも一時のことに過ぎず、傷が癒えるごとに皮は厚く、骨肉は堅く、その体はまるで戦いという環境に順応していくかのように頑丈に、強かに成長していった。

 冷たい風が肌を切るような季節には、剣と拳の生活を己がものとしたアーランは、新たな日課としてアルセノから読み書きを教わりはじめた。自分の名前が書けるようになり、数の足し引きができるようになり、内容は日を追うごとに段階を上げていった。手紙の認め方や自国の歴史、食べられる動植物についての知識から礼儀作法、簡単な科学実験、基本的な法律など、内容は多岐に渡った。アーランは初めて知るそれらに目を輝かせながら、父アルセノも驚くほどの早さでそれらの知識を修めた。

 雪が解けて文武の礎が成った頃、アルセノはアーランに魔術の稽古をつけ始めた。といってもほんの些末なもので、まずは魔力を蛍火のように体外へ放出する訓練から、その粒子の集め方や、形や動きを変える程度の、基礎の基礎を教えた。

 さらに次の一年は、全般的に前の年の内容を引き継ぎながらより高度なものとなった。修行の日々は熾烈を極め、学びの内容は難解を極めた。しかしアーランはなんのそのといった風にこなしてみせ、気がつけばまた一年が過ぎた。体もひとまわりふたまわり大きくなり、身につけたものが様になっていった。より厳しい内容に対しわずかばかりの躓きもなくついていった。気がついた頃には、ただ振るわれていただけの剣に剣術が宿っていた。ただ打ち込んでいただけの蹴りに武術が芽吹いていた。ただ頭に浮かぶだけだった思考に教養が備わっていた。ただ漂わせていただけだった魔力を自在に操れるようになっていた。

 ほんの数年の鍛錬だけで、アーランはどんな節穴でも一目でわかるほどの天才性を発揮していた。それも何か一つの分野への尖った才の類ではなく、何をやらせてもすぐにコツを掴む要領のよさ、広範な適性をみせた。アルセノは我が子の神童っぷりに、愛すべき祖国の安寧の未来を予見していた。否、アルセノだけではない、アーランの噂はいつしか村中に広がり、噂は風に乗り近辺の街々へ、やがて勇者の子の神童たるは王の耳にも入るに至った。そして国中がアーランの成長を祝福し、アーランはその周囲の期待以上の成長を遂げ続けた。

 そんな修行の日々の続くこと十年の年月が流れて、アーラン少年は偉大なる父の下で偉丈夫へと成長した。すらりと伸びた背筋に逞しい手脚、父と同じ太陽のように輝ける金の髪と、晴天の如き青の瞳。その姿は若き日のアルセノの似姿そのものであり、まさに絵に描いた英雄の秀麗さであった。

 そして美しい外見以上に、彼の心には一抹の汚れもなかった。父譲りの剣才に抜群の運動神経を持ち、広い分野の学問を修め、また礼節にも通じる。しかしそれらを鼻にかけることはなく、明朗快活で素朴な性格をしていた。万人から愛され、万人を愛す。衆のために力をつけ、衆のために力を尽くす。宿命の重さに対し、アーランという少年はその重圧をまるで感じさせない、あるいは笑い飛ばしてしまうかのような晴れやかな心、そして研ぎ澄まされた技と肉体を併せ持っていた。すなわち、万人が認める次世代の勇者、ケテルナ村のアーランの誕生である。



 その日も朝の鍛錬を終えたアーランは、従弟とともに川釣りに興じていた。金髪の頭と、枯草色の頭の横並び、服装は二人ともほとんど同じラフな麻のシャツにズボン。二人の後ろ姿は一見すると仲の良い兄弟そのものと言った感じだった。いつも通りののどかさ、春のあたたかな陽気、農夫たちが畑仕事をする風景、ひらひらと飛ぶ蝶を追いかける子供たち。ある英雄が住まうこと以外、何の変哲もない小さな村。その小川のほとり、アーランは垂らした糸を軽く揺らすが、しばらくして竿を上げ、その釣り針にエサがついたままになっているのを見て従弟とともに笑った。

「あー!今日はダメだ!」

 アーランは仰向けに寝転がり、同じくボウズに甘んじていた従弟も竿を上げた。

「どうするアーラン。場所を変えるか?」

「そうだなぁ。もう移動するか……そういえばハイドラ、お前今日の午後家の手伝い頼まれたって言ってなかった?」

 ハイドラと呼ばれた少年は言われてはっとし、ポケットから懐中時計を取り出して針を見た。

「……うわ、しまった」

「へへーん、忘れんぼっ。ほんじゃ、帰るか。また今度橋で釣ろうぜ」

 二人の少年は空のバケツと竿を持って、その場をあとにした。風薫る春の小川に沿って、きらきらと日の光を反射させる水面を眺めながら二人は歩いた。父との鍛錬と、従弟との釣り。これがアーランにとっての日常だった。

「ただいま」

「あらアーラン、ずいぶん早かったのね」

帰宅したアーランは、洗濯物を干そうとしていたらしい彼の母と廊下ですれちがい、空のバケツを見せて笑った。

「いやぁ、実はハイドラが予定あるの忘れててさ。しかもボウズ」

「あら、あの子ったら普段はしっかりしてるのに、たまに天然さんだものね」

「ま〜、そこが憎めないとこだよね」

 アーランは釣り道具を片付け、彼の母が洗濯物を干すのを手伝った。

「ああ、そうだわ。アーラン、お父さんがちょっと顔を出してほしいって」

 真っ白なシーツが風になびくのを見届け、アーランは書斎に向かった。ノックに対してすぐに応答があり、アーランは入室した。

「ただいま父さん」

 入って突き当たり、窓際の机の向かいの椅子にアルセノは体を預け、湯気のたつ茶を飲みながら何やら手紙を読んでいた。

「ああ、おかえり。実はお前に王へのお目通りを求める文が城から届いたんだ。それについて話をしようと思ってな」

 アーランがアルセノの向かいに座ると、アルセノは持っていた手紙を机に置き、アーランの方に向けた。アーランは手紙を読みながらアルセノに訊ねた。

「あれ、王様への謁見って来年じゃなかったっけ?確か元服した後に正式に勇者襲名してからってのが習わしだったような……」

「そうだ。だが今回は王たってのご要望だそうだ」

 アルセノはもう一つカップを出し、既にティーポットの中でぬるくなった茶を淹れながら言った。

「王は大変なご高齢だ。なにせ私が子供の頃から現役であらせられていた。近頃はお身体の調子もあまり芳しくないと聞く。お前の噂は王都にも届いているそうだからな、会えるうちに会っておきたいということだろう」

 アーランは注がれた茶を一気に飲み干し、手紙を読みながら「そういうもんかなぁ」とアルセノの話をのんびり聞いた。

「うーん、まあわかったよ。王様が会いたいって言ってるんだし行くよ、俺。挨拶するよ!」

「ふふっ、挨拶ってお前……いや、そうだな。それでいい、そうしてくれ。改めて日取りが決まり次第伝えるから、覚えておいてくれ」



___ケテルナ村の外れ、太陽樹の森。豊かな緑に溢れ、村人たちも頻繁に立ち入るごく穏やかな森。木こりが材木を求めて赴くこともあれば、子供たちの遊び場になることも多い。時折獣が姿を見せることはあっても、魔物の類が出ることはごく稀である。仮に魔物が現れても、しかし森のすぐそこには魔物狩り、否、魔王殺しが住んでいる。太陽樹の森は材木以外にも木の実や山菜が採れ、また小川からは魚も釣れる。豊かな資源を安全に得られる、ケテルナの村人たちの生活基盤の一つであった。

 しかし『それ』はおぼつかない足取りで、今にも死んでしまいそうな這いずり方で、今まさに森に入っていった。太陽樹の葉を通してきらきらと光る木漏れ日の下、悍ましくぬめる黒い毛皮。それはまるで切り取られた誰かの影がひとりでに這いずっているかのようで、どこか助けを求める屍のようで、或いは狂気こそが全てだと言い張る赤子のような、そんな不気味さを捏ねて毛と悪意と共に人型に練りつけて作られたようななにかだった。

 安全であるはずの営みの森に厄あり。されどケテルナ村は、そのことを知らない。



「さーてさて、おつかいおつかいっと〜」

 ボウズで帰った翌る日の昼過ぎ、母の手書きのメモとバスケットを手にアーラン少年は市の方へ続く畔道を歩いていた。ケテルナの市は市とは名ばかりで、パン屋やら酒屋やらわずかな店が点々と集まってできているにすぎない程度のものだが、しかし住人たちは皆親しみを込めてその数十メートルほどの通りを「ケテ横丁」と呼んでいた。そんなケテ横丁を目指して、アーラン少年は鼻歌まじりに歩いていたが、やがて向こうにのそのそと動く人影を見つけた。

「ん、あれは……おーい!」

 大きな風呂敷包みを抱えた老婆に、アーランは手を振り呼びかけた。老婆はアーランの声に気づき、包みを道に置きアーランの方を見て手を振り返した。アーランが老婆に駆け寄ると、老婆は袖で汗を拭いながらにこりと笑った。

「あら、こんにちはアーラン。いいお天気ね」

「こんにちは婆ちゃん。重そうだね、持ったげるよ」

 そう言ってアーランはバスケットの取手に肩まで腕を通し老婆の包みを持とうとしたが、老婆は慌てながらそれを止めようとした。

「ああ、待ってアーラン、あなた今から向こうへ行くところだったのでしょう?私の家は逆よ、申し訳ないわ」

「ん?大丈夫だよ。そのくらい」

 アーランは軽々包みを持ち上げると、今来た道を振り返った。

「若者に任せちゃってよ〜、見てのとーり体力には自信があるんですからねぇ!」

「ふふ、もう。それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら。ありがとうね、お願いしますね」

 アーランの屈託のない笑みに老婆は感謝を述べると、二人は畔道をゆっくりと歩き始めた。



 「そんじゃそんじゃ、おつかいおつかい〜っと」

 老婆を家まで送った後、アーランはお使いを再開し、先の畔道を引き返していた。村はいつもと変わりなく、平穏そのもの。都会にはない田舎ののどかさ、春の陽気、農家たちが畑仕事をする風景。春風には土と花々の香りがかすかに混じり、そのほんのりとした優しい甘さにアーランは鼻腔をくすぐられながら畔道を歩いていた。すると、先ほど老婆と鉢合わせたあたりで、子どもたちが数人、虫取り網を持ってしゃがんでいるのをアーランは見つけた。

「おーい、何してんのー?」

 アーランが呼びかけながら近づくと、子供たちはその声にパッと顔を輝かせながらアーランに駆け寄った。

「アーラン!見て!つかまえた!」

 子供の一人が、網越しにその白い翅を摘んでアーランに蝶を見せた。

「おー!やるじゃーん。多分ピエリス蝶だな」

 アーランは子供たちに腕や服、バスケットを引っ張られながら蝶を眺めた。

「モンちゃんすごいんだよ!虫取りのサイキョーなんだよ!」

 アーランの腕に掴まっていた少年にモンちゃんと呼ばれた、蝶を摘んでいた子は自慢げに笑い、アーランはモンちゃんの頭を撫でた。

「すごいなぁモンちゃん。ちょうちょよく見せてよ」

「いいよ!」

 モンちゃんは翅を放し、網越しに手に乗せた。すると、「ちょっと持ってて」とバスケットを引っ張っていた子にそれをそのまま預けたアーランはおもむろに手を網の中に入れた。「あっ!」と、逃されるのではと思ったモンちゃんの声が上がるが、アーランは静かな声で「大丈夫、逃がしたりしないよ」と子供たちを宥めた。蝶は網の中でゆっくりと近づいてきた指先から、はじめは逃れようとしきりに羽ばたきもがいたが、しかしすぐに大人しくなり、品定めするように触覚で指先を撫で回した。そして、自らその指先に乗ってきた。

「素直な子だね〜」

 アーランは穏やかな手つきで手から網を外し、蝶を日の下へと連れ出した。蝶はいつでも自由になれる状態となったが、しかし、アーランの手から離れようとはしなかった。

「えー!?逃げない!」

「なんで!?」

 子供たちはアーランの腕や服を放すと、目を丸くして蝶に顔を近づけた。蝶はそれでも大人しかった。ごく落ち着いた様子で、ゆっくりと翅を閉じたり広げたりしたが、しかし一向に飛ぶ気配はなかった。

「……すっごぉ!」

「アーラン、どうやったの!?」

「ん?おいで〜って」

 その時不意に、どこからともなくもう一匹同種の蝶が飛んできた。アーランが空いている方の手を掲げると、二匹目の蝶もまたアーランの指先にとまった。アーランは指に乗せた蝶二匹を子供たちと共にひとしきり眺めると、モンちゃんの網の中に入れ直した。

 そしてアーランはしゃがみ、子供たちと目線を合わせると、優しげな声色で子供たちに聞かせた。

「優しくしてやってな。そんで、弱ってきたり、気が向いたりしたら、逃してあげてな。みんなが外で遊ぶのが大好きなのと同じで、こいつらも外を飛び回るのが大好きだからさ」

 子供たちは少しの間ポカンとしていたが、やがて頷き、そしてモンちゃんは蝶をその場で逃した。

「ありゃ、よかったのモンちゃん」

「うん……」

「……そっか。じゃ、そんな優しいモンちゃんには肩車したげるよ〜!」

 アーランは笑いながらモンちゃんを肩に乗せ、他の子供たちにも肩車をせがまれながら、共に畔道を再び歩き出した。



 子供たちを連れたまま市へとやってきたアーランの微笑ましい姿に、市にいた人々は自然と笑みが溢れた。アーランが今日はおつかいを頼まれて来たことを子供たちに伝えると、子供たちは途中までアーランのお使いに付き合ったが、やがて退屈したのか自分たちは森へ遊びに行くと言い、今度また遊ぼうねと約束してアーランに手を振って去っていった。アーランは子供たちの元気な後ろ姿をパン屋の前で見送り、ドアノブを回してパン屋に入店した。店内には年季の入った陳列棚が取り付けられ、その上には焼きあがって間もない商品が並んでいた。そしてカウンターの奥には女将が頬杖をついてニコニコして座っており、アーランが挨拶しながら近づくと女将は「いつものね」と言って立ち上がった。

「アーラン、みんなの面倒を見てあげてたの?相変わらずのお兄ちゃんっぷりね」

 パン屋の女将はアーランから受け取った風呂敷で大きな丸パンを包んで渡しながら微笑んだ。

「いやぁそんな、俺も楽しかったし。それにしてもここのパンはいつ見てもうまそうだね〜。持って帰らずにこの場で齧り付きたいよ」

「もう、お上手なんだから!」

 アーランは代金を渡し、丁寧に包まれたパンを受け取ってバスケットに入れた。するとカウンターの奥のドア向こうから「おかーさーん今アーランって言ったー!?」と、ドタバタという足音と共に赤毛の女の子が出てきた。

「あっ!アーラン!えっほんとにいた……んと、その、元気そうね」

 女の子は少し頬を赤らめながら、うわずった声でアーランに言った。

「よっ、ノエレア」

 くりっとしたブラウンの瞳に、少しばかりツンと上を向いた鼻先。もじもじとアーランに歩み寄る少女は、ごくありふれた赤茶のワンピースにエプロンを身につけていた。顔を出すまでの威勢のよさはいざ知らず、急にしおらしくなって上目遣いにアーランの手をとった。

「ちょうど今クッキー焼いたとこなの。よかったら食べてかない?お茶も出すわ」

「えっ、マジ?やったー!食べる食べる!ありがとうノエレア!」

 その時、先のドタバタ三倍の足音が店外から聞こえてきた。やがて凄まじい勢いで店のドアが開いた。

「アーランが!」

「来たって!」

「聞きましたっ!」

 追ってやってきた少女三人、皆揃いも揃って手作りクッキーの入ったカゴを持っていた。そうして都合五人の若いのは、誰からいうでもなくせっかくの天気なのでピクニックにという流れになった。

 とても和気藹々としていた。本当に。アーランも、少女たちも皆笑っていたので、そうに違いない。



「ぶっは〜!食った食った!いや〜美味かった!」

 村の外れ、太陽樹の森付近の原っぱにて、少年少女は敷き物を敷き、水筒に入れた紅茶と持ち寄ったクッキーでティータイムに興じた。一欠片のクッキーもなくなって、アーランは重たい腹を抱えて満足そうな顔をし、その場で寝転んだ。

 はじめ少女らのクッキーは五人で等分されて食べ始めたのだが、少し経つとノエレアが「珍しい鳥が飛んでる」と向こうを指差し皆の注意を引かせた。見ると別に普通の鴨であったが、しかし視線を戻した少女らは何かを悟り、そしてまだ鴨を見ているアーランを尻目に睨み合った。何かが開戦した。

 それからというもの、雑談の最中誰かが定期的に何か珍しいものを見つけ、そちらを指差すようになった。ことあるごとにアーランは少女らの指差す方を見たが、見れば何の変哲もない草木や動物だった。アーランはうまうま言いながらクッキーを貪った。少女らも自分の分を食べ進めた。しかし減らない、アーランの分だけ、クッキーが減らない。アーランは訝しみ始めた。少女らが食べ終えても、アーランだけ食べ終わらない。同じ量、同じ早さで食べていたはず。いや、少女らよりも自分の方が少し早いとアーランは思っていた。けれど、食べても食べても、気づくとクッキーは増えていた。そんな馬鹿なと思ったアーランだったが、その時彼の脳裏に稲妻が走った。

(まさか、まさかこの中の誰かが……!)

 アーランは咀嚼したクッキーをごくりと飲み込みながら思った。

(叩いているのか……!?ポケットの中……!使っているのか……!?ビスケット属性の魔術……!……なんつって)

 普通に少女たちが、自分の作ったクッキーをより多くアーランに食べさせようとしていただけだった。

 少し長かったティータイム、無限にも思えた増殖クッキー、しかしアーランは無粋なツッコミなどは一切せず見事完食してみせた。穏やかな昼下がり、気持ちのよい風が吹く草原、笑顔絶やさぬ少女たちの攻防は知らず、英雄の子は寝転んだ。ちょうど日差しが薄い雲に隠れ、眩しくて見られなかった日輪が光のシルエットを霞に透かした。アーランはその心地よい翳りをして、細めていた目を開いた。ふと、背後に目をやると、その時向こうの野道を通る人影が見えた。

「お」

 アーランは顔を輝かせながら声を漏らした。見慣れた枯草色の髪が見えたのだ。アーランは起き上がり、気づかず行ってしまいそうな彼に声をかけた。

「おーい!ハイドラ〜!」

 アーランが手を振ると、ハイドラは彼らに気づいて歩いてきた。

「よっ、どうしたんだこんなところで」

「……どうしたもこうしたも、お前を探して村中歩いたよ、アーラン。息子が買い物から帰ってこないって伯母さん困ってたぞ」

「げ」

 ハイドラはため息をついた。そして腕を組み、片眉を上げた。

「『へへーん、忘れんぼ』……ってか?」

「むぐぐぅ。俺も人のこと言えんな、こりゃ〜」

 頬をポリポリ掻くアーランの後ろから、ふと、視線を感じたらしいハイドラが少女たちの方をチラリと見ると、少女たちもハイドラの方をじっと見ていた。

「……」

「……もうお茶しかないけど、アンタも飲む?」

 ノエレアが探り探りと言った感じにハイドラに茶を勧めたが、ハイドラは「いや、いい」と素気なく答えた。

「……とにかく、さっさと帰れアーラン。伯母さんが待ってる」

「おー」

 アーランはおつかいの品が入ったバスケットを掴むと、少女たちと別れた。

「じゃあもう俺、行かないと。ご馳走様!またなー!」

「またね〜アーラーン!」

「クッキーまた作るわねー!」

「今度ウチに遊びに来て〜!」

「むしろ家行かせて〜!」

 アーランたちが見えなくなるまで、少女たちは手を振っていた。そして、二人の後ろ姿が見えなくなって。

「……はぁ、アーランかっこよかった」

「たまんないわ〜。やっぱり好き」

「なんて綺麗な横顔……」

「美味しいって言ってくれた……」

 少女たちは口々にアーランへの愛を語り合った。



 薄い雲は切れ間を探すように、己が身に隠れた太陽をどうにか覗かせようとするように、高空の風に煽られて懸命に動いていた。けれども日はまだ翳り、その柔らかな光の塩梅は野道を歩く二人の影帽子を溶かしていた。

「っぷ。流石に食いすぎた」

「なにやってんだ」

 腹をさするアーランの足取りはゆるかった。そして伯母さんが困っていたぞと言った割に、ハイドラの足取りもゆるかった。二人は肩を並べてのんびりと歩いていた。

「……どうせいつもみたく、勧められる片っ端から食ってたんだろ?腹いっぱいなら、そう言えばあいつらも無理には食わせないだろうに……」

「ん〜、まぁそうなんだけどさ」

 アーランは晴天の如き瞳を翳る太陽に向けた。

「でも、あの子たちさ、わざわざ焼いてきてくれたんだよ、クッキー。多分、俺のために」

 アーランは「そりゃ残せねぇよ〜」と言いバスケットを抱え、逆の腕でハイドラの肩にもたれかかった。

「じーぶーんーでーあーるーけー!」

 ハイドラは言いつつも、でろんともたれるアーランをずるずる引き摺って歩いて行った。

「……はぁ。まぁ気持ちはわかる。けど、いつだってそうできるわけじゃないだろ」

 アーランはハイドラに引き摺られながら聞いた。アーランからはハイドラの顔はよく見えず、ハイドラからもアーランの顔はよく見えなかった。

「……どっかで限界を伝えておかないと、際限なく期待されるぞ。アーラン、確かにお前はすごいやつだ。でも、俺やみんなと同じ人間だ。できることできないことはある」

「おう」

「クッキーを食べすぎるくらいのことは、別にお前ほどの男ならなんてことないと思う。でも、お前このままいったら、いつかクッキー食わされまくった直後に、倍のクッキー食わされるぞ」

「……」

「……倍なのが、悪意で出されたクッキーならまだいいよ。それならお前もさすがに断ると思うから。けど善意の……いや、違うな、『懇願』だ。完食を懇願されて出されたら、お前食うだろ。腹が裂けてでも」

「……食っちゃうな〜。『懇願』されちゃったら。へへ」

「だからそうなる前に___」

「だって俺、勇者になるんだもん」

 ハイドラの足が止まった。アーランはハイドラの肩にかけていた腕を解き、すくと立つと、自分の足で歩き始めた。そしてハイドラの半歩先を行きながら、今度は逆に語り聞かせた。

「……いいか、ハイドラ。確かにお前の言ってることは正しい。人には限界がある。そして人は時に、誰かに無茶なこと願っちまうこともある。誰かの望みを全部叶えてたら、いつか自分がパンクしちまうだろうな___でも」

「……」

 ハイドラは黙してアーランの後を歩いた。雲は動いていた。

「でも、仮に腹がパンクするような量のクッキーだとしても、食うのさ。願いや祈りがそこにある限り、俺は手を差し伸べるよ。どんな困難も、限界も、その自分で届かなきゃ、その時その場でその自分を超えてやる。胃が裂けたって、五秒で治して、残りのクッキー平らげてやる___それが俺の『勇者』だ」

 雲が切れ間を見つけ、日が差し込んだ。薄い雲の膜を切り裂いて、傾きはじめのまだ白い日の光は少年二人を照らした。黄金と枯草、それぞれの髪がそれぞれの光を反射した。アーランは振り返り、ハイドラと向き合った。

「『前を見据えろ、構えを保て。その心が折れない限り、勇者は何度だって立ち上がる』……だぜ」

「……『勇者アルセノ伝』。好きだなそれ」

「名著だったろ?」

「違いない」

 少年たちは、再び肩を並べて歩き出した。

「……もし」

「お?」

「もし、クッキーたらふく食った後に倍の量持ってこられたら、呼べよ。二人いればなんとか食えるだろ」

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