第五話:未亡人。と、魔剣
「どうしたハイドラ、もうおしまいか?そんなんじゃ、俺から一本取るのは百年先だな」
俺は木剣を放り、修練場の地面に仰向けに倒れ込んだ。息も絶え絶えで全身汗まみれの俺とは対照的に、横で余裕そうに微笑むアーランは息ひとつ乱れていない。俺は一発もまともに当てられず、かたやアーランにはいいところを何発も決められた。ずっと小さい頃から、俺たちはこんな感じだった。本気でやりあった時、俺は一度としてアーランに勝ったことはなかった。それで大体、最後には手加減したアーランにいいように打たされる。いい兄貴なのだ、こいつは。
縁側に腰掛けた伯父さんたちは、微笑ましそうに俺たちの試合を見ていた。伯父さんも伯母さんもにこやかで、心の底から幸せそうだった。皆、笑っていた。俺も悔しがりながら、この日常を心地よく感じて笑っていた。この、俺より強い男はいつの日か、世界を救うために旅立つのかもしれない。もしそうなった時、俺はこいつの旅について行き、役に立とうと決めていた。だからせめて、こいつより強くなれなくても、こいつと同じくらい、俺は強くなりたかった。そう思って、小さい頃からずっと鍛えてきた。けれど追っている背中は大きくて、遠くて、まだまだ届くわけもなく、だから俺は性懲りもなく、何度だって打ちのめされに行くのだった。俺は立ち上がって木剣を拾い、アーランに構えるよう促した。
「…ふう、よし。もう元気になった。…続きだ、アーラン。もう一度___」
「いや、もう一度はない」
ぐにゃりと、世界が歪んだ。同時に、そこら中から血のような赤い液体が滲み出す。液体はひどく粘り気を帯びており、徐々に広がり出したそれは瞬く間に修練場を浸していった。液体に触れたものが溶け出す。縁側を見ると、伯父さんと伯母さんは___いつも通り生気のない顔になっていて___液体に触れて、醜く溶けてしまった。俺はその惨状に声も出せず、助けを求めるようにアーランに振り向くが___
「どうしたハイドラ、そんなんじゃ、勇者になんてなれないぞ」
体の至る所を、よく見えない黒い獣たちに喰らい付かれたアーランが、死体の如き無表情のまま俺に言った。そんなアーランが、赤い液体に足から飲み込まれて沈んでいく。俺はアーランに駆け寄ろうとするが、踏み出した俺の足も既に液体によって腐っていて、俺はそのまま顔から赤い液体に突っ伏した。そして、どうしようもない絶望と全身が溶けていく感覚に身を蝕まれながら、ただの肉塊になっていく従兄の名を叫んだ___
*
ハイドラはアーランの名を叫びながら跳ね起きた。冷や汗をかいた彼の体にシャツがべったりと張り付いていた。ハイドラは乱れた呼吸を刻み、動揺したまま辺りを見回した。そこは真っ赤に染まった修練場などではなく、昨夜泊まった宿屋の一室だった。不意に、ハイドラは隣のベッドに座って自分の顔を覗き込む女と目があった。細く開かれた窓から差し込む淡い月光。それに照らされたオパールの瞳。その人物が己が師であると脳が理解するまでに何秒かかったかハイドラにはわからなかったが、彼女が「大丈夫かい?随分うなされてたけど」と声をかけたことで、ようやく状況が飲み込めた。
「はぁ…はぁ…。ええ…大丈夫です。悪い夢見てただけです」
ハイドラはじっとりと湿った髪をかき揚げ、深く息を吐いた。一刻も早く今見た夢を忘れたかった彼だが、しかし赤く粘りつく情景は目蓋の裏に焼き付いたようで、ハイドラは目を閉じればその狂気の様を鮮明に思い出して止まなかった。
「…少し、夜風を浴びてきます」
ハイドラは立ち上がって部屋から出ようとした。そしてドアの前まで行ったところで、魔女に訊ねた。
「夢魔って、本当にいるんですか」
魔女はベッドに横になりながら答えた。
「実在はするけど、ここにはいないよ」
「そうですか」
「ハイドラ」
ドアを開けたハイドラに向かって、二度寝のために目を瞑った魔女は言った。
「ここにはいないけど、今度ぶっ殺しに行こう」
「…ええ、きっと」
ハイドラが部屋から出て、ドアが閉まった。夏の暮れの夜中のこと。熱帯夜と、少年と、悪夢と。
*
その翌朝、宿の裏手でのこと。組み手にあまり身が入らないハイドラは、いつもどおりの魔女によっていつもより酷く打ちのめされた。原因は明らかだったが、魔女は敢えてそのことに口を挟むような真似はせず、ただ普段となんら変わらず、弟子の体の動きに注意するのみだった。だが気抜けしたようなハイドラは何を言われても飲み込みが遅く、打ち合えば反応はすこぶる鈍かった。何度鼻血を出したかわかったものではない。いつもかけている時間の半分ほどで、ついに魔女は切り上げるようハイドラに言った。
「やめにしよ、ハイドラ。君、調子悪いなんてもんじゃないぜ。今の状態じゃどれだけやっても身に付かない」
「…え?」
「組み手おしまい」
そう言って魔女はさっさと宿に戻ろうとするが、しかしハイドラは魔女を呼び止めた。
「何さ?」
「いや、やれます…俺」
魔女はため息を吐いて、ハイドラに向き直った。
「あのねぇ、ハイドラ。はっきり言って全く集中できてないんだよ。私が何言っても話半分上の空って感じだし、いつもなら余裕で対応できてるようなのもボカスカ受けるし。何より今の君は学ぼうとしてない。そんなんじゃ教えてる私に失礼だと思わない?」
ハイドラは言葉に詰まった。何か言おうと口を開くが、しかし何といえばいいのか分からずに、口をぱくぱくさせるのみだった。そしてやるせなさそうに肩を落とす弟子を見て魔女はまたため息を吐き「とりあえず今日はもうやらないよ」と言って宿に戻ってしまった。一人その場に残ったハイドラは、身が入らないままに軽く素振りをして自身も宿に戻った。
宿を発ち、師弟はまた旅路についた。森林地帯だが通り道ははっきりとしていて勾配もほとんどない、とても歩きやすい道ではあった。ハイドラはいつものように詠唱練習をすべく呪文を口にしようとしたが、しかし魔女がそれを止めた。
「だめ、今はやらなくていい。他の修行もそうだけど、特に魔術は心の整理がついてる時だけにしなさい。精神の影響がモロに出るから。ちょっと失敗した、じゃ済まないことだってあるよ」
ハイドラは何も言わず歯噛みし、手をポケットに突っ込んで歩いた。日差しは強かったが、森の木々が盛夏の最後にとばかりに大きな青葉を我先にと天高く幅をきかせていたので道は木陰に埋れていたため、体感気温は高くはなく通り抜ける南風は爽やかで心地よいものだった。しかし、今のハイドラにはそんなものに感じ入る余裕などなく、ただ昨夜見た悪夢が残していった暗闇が心のうちを占拠していて、それに加えてろくに眠れもしなかったために気分は最悪だった。魔女は、いつにも増して荒んだ目つきをした難しい年頃に手を持て余していた。
しかし、そういった心の機微をどうこう考えるのはあくまでも人の理であって、自分たちの縄張り近くを美味そうな獲物が通れば、魔物たちは嬉々として襲いかかるのみだった。師弟を取り囲むように、異形の蝙蝠たちはわっとその場に湧いて出た。
『キーキッキキキ!!』
「…師匠!」
「…はあ。まあ確かに、敵はいつも万全の時に襲ってくるとは限らない、か」
魔女は観念したように天を仰いだ。
「…わかった。絶対、油断するんじゃないよ!今日は安全第一!ダメなら退くこと!冷静にいきな!」
師匠からの許可が降りた、ということだけ頭で処理したハイドラはぎらついた目で周囲を見渡すと、塵になりかけていた先の一体の残骸を踏みにじり、蝙蝠どもを挑発した。普段はやらないようなことをする弟子の姿に魔女は、すぐに痛い目見ることになるぞと、その戦いの行方を予見した。
仲間の屍を辱められたということは理解できたのか、蝙蝠たちは少年剣士に向かって大挙としてかかった。特に速い一体が彼の青筋の通った首に牙を立てんとするが、ハイドラはがっと手を伸ばし、なんとはばたいていた羽を鷲掴みにした。恐るべき動体視力に度肝を抜かれた蝙蝠だったが、その驚愕ごとすぐに地面に叩きつけられ、頭蓋を踏み砕かれて散った。ハイドラはわらわらと群がる無象どもに剣を振り回した。一撃を丁寧に、確実に決めようという普段の心構えはいざ知らず、荒ぶった剣筋は対象を捉えても一刃のもとに斬り伏せることはなく敵を無闇に痛めつけては、地に転がってもがくところに乱暴なとどめを振り下ろす、そんなやり方だった。弟子のあまりの荒れように魔女は多少心痛めたが、しかし指導者としてはそれよりも、己の心に剣を乱されている弟子の未熟さに憤りを感じる次第であった。
『ギキーッ!ギッ___』
振り下ろされた剣がまた、歪な頭蓋を両断した。ハイドラは瞬く間に十近い数を葬った。地獄絵図。蝙蝠どもの返り血で、彼とその周囲は真っ赤に染まっていた。そして、その赤に意識が向いた途端、ハイドラはその場でぐらりと膝を崩した。
「…っ!?」
音や臭いすら引き連れるような鮮明さで先の悪夢がフラッシュバックし、ハイドラは両の目と体とを小刻みに震わせた。精神が溶け出すような不快、頭の中を虫が這い回るような不快、血塗れの世界で生が腐っていく不快、ただただ不快、苦の幻覚。昨夜の悪夢のイメージと、その不快感によって芋づる式に呼び起こされた故郷にて負った心傷の記憶。瞬間、ハイドラの内側に刻まれたいくつものトラウマが死と再生を繰り返し、その脳裏に呪いじみた曼陀羅を描いた。血、腐敗、死、無力、橋、嘲笑、不出来、嗚咽、虫、傷、衰弱、痛み、屈辱、哀しみ、離別、アー……ドラ!ハイドラ!
「___イドラ!ハイドラ!!」
幾度にもなる魔女の呼びかけで、ハイドラはようやく我に返った。気がつくと、その場で蹲って嘔吐していた彼は、食道と口腔に残っていたつんとくる胃酸と吐瀉物の臭いに咳き込んだ。ハイドラは剣を杖代わりにして力の入らない足腰で立ち上がろうとするが、血と吐瀉物に塗れた地面に足を滑らせて転けた。無様に転がったところに、最後の蝙蝠が果敢に襲いかかった。しかし、仲間の仇に今にも喰らい付かんと肉薄した蝙蝠ではあったが、ついに一矢も報いることなく、魔女の魔力弾の餌食になって塵と散った。
「はぁ、はぁ、はぁ…っ!」
ハイドラは、悪夢の前に見ていたあの輝かしい夢の中でのように、その場で仰向けになった。だがあの夢と対照的なのは、そこが故郷の修練場ではなく血と吐瀉物に汚れた戦さ跡であり、近くにいるのが和やかに笑うアーランたちではなく鬼の形相をした己が師であるということ。魔女はハイドラの腕を掴んで無理やり立たせると、彼の頬を引っ叩いた。
「…いってぇ」
「馬鹿弟子が…私何て言った?」
「いきな」
「その前」
「……」
魔女はハイドラの胸ぐらを掴んでぐいっと顔を近づけた。
「自分の立場わかってんの?死んだら、あとがないんだぞ」
静かに、だが強く感情が込もった言い方をした魔女だった。普段のハイドラならば、しっかりと一言一言を咀嚼することもできただろうが、しかしこの時ばかりは、ハイドラは魔女の言葉につっかかった。
「…アーランのあとだってなかっただろ」
「…何だと?」
ダムが決壊したように、ハイドラは語気を強めた。
「…自分の立場だ?そのくらいわかってんだよ。俺はアーランの代替品の出来損ない野郎だ…!死んだらあとがないだと?アーランだってそうだったろうが!あいつはあいつだけだ!そもそもクズの俺には天才のあいつの『あと』になんかなれねえんだよ!そういうこと言うんだったら何であいつを助けなかった!?あんた万能の大賢者なんだろ!?なあ!?」
「そういうこと言ってるんじゃないだろ!」
「じゃあ何なんだよ!もうわけわかんねぇよ!」
魔女の手を振り払い、ハイドラはどこへともなく走り出した。魔女は呼び止めたが、しかし今彼を呼び止めたところでどうしようもないことは火を見るより明らかだった。魔女は歯を食いしばりぐっと拳を握ったが、ふと、視線を向けた先にそれが目に入った。研ぎ澄まされた、刃渡り一メートルもない業物。
「あれ…あいつ、剣…」
ハイドラは空の鞘を腰につって走り去った。
*
「くそっ…!くそっ…!どいつもこいつも……いや…俺だよ…マジで何やってんだ……。つか、どこだよここ…」
後先考えずに疾走して失踪したハイドラは開けた場所に出て、澄んだ水の流れる小川に行き当たっていた。丁度体中ひどく汚れていたので、彼はそこでシャツを濯ぎ身を清めた。嘔吐した上に全力疾走したものだから喉が痛みに悲鳴を上げていたが、清水を飲めば多少は辛苦も楽になった。けれど、このあとどうしたものかと彼は頭を抱えた。
「…あー、くそっ。なんかもう頭わけわかんなくなってやばいこと言ったよな…どうやって謝ろう…つーかホントにどこだ、ここ…」
ハイドラは、未熟なところはあれど本来は冷静な男だ。少し頭を冷やせば、非があるのが誰かはすぐに理解できた。彼は勢いに任せて、どうしようもないことを口走ったことを後悔した。魔女の言葉を曲解した己の、あの時のあまりにも正気ではない状態。説明してもただの言い訳になるのだから、平謝りを決め込もうと腹を括ったところで…彼は水面に映り込んだ影に気付いた。
「うわっ!」
咄嗟に真横へと跳ぶと、先ほどまでハイドラがいたところにてガチンと鋭い歯が閉じた。人頭蝙蝠、その一際大きい個体。一帯の群れを率いるボス、名を
「……あ」
ハイドラの背筋をつぅ、と冷たい汗が伝った。先ほど血塗れの地面に転がった時に剣を拾うのを忘れていたのを、彼は今更気付いた。バクバクと鳴り響く心音、迫りくる蝙蝠の群れ、彼は自身の最期を悟り、絶体絶命のその状況に思わず目を閉じた。アーランや両親、伯父や師匠…いろいろな人に胸中謝罪しながらも死を覚悟したその瞬間、何か重たい塊が目の前で風を切って振り下ろされたのを、彼はその微風と衝撃から肌で感じとった。
『___ギッ』
そして何かが潰れ落ちるような叩きつけられるような音、それが二、三と続いた。いつまで経っても噛み付かれないことを妙に思って、ハイドラは恐る恐る目を開けた。
「それっ!よいしょっ!」
女が、鉄塊を振り回していた…いや、どちらかというと、鉄塊に女が振り回されていた。長さ二メートルは優に超える鉄塊、ハイドラはそれを注視した。それは、鈍く輝く黒鉄の大剣だった。生き物を殺すためだけに作られたとしか思えない無骨な形をしたそれは、分厚い刃をぎらぎらとさせて次々に蝙蝠たちを冥土に送っていった。
「せーのっ!はいっ!」
では黒鉄に振り回されている女の方はというと、これがなんとも、可憐。背は一メートル半もないくらいと非常に小柄で、春の花がよく似合いそうな顔つきはどこか幼さを残している。ふわり揺れる亜麻色の髪。黒鉄の重量を操るには明らかに華奢すぎる四肢、ひらりと舞う薄桃色の羽織りと白いワンピースのスカート。乙女の二文字は、彼女の大まかな像を極めて正確に説明できる言葉であった。その大剣さえなければ。
「___
まさしく、舞いの如き剣の閃きだった。死を撒き散らす舞い。舞うは乙女、或いは黒鉄。そしてそれはどうにも…やはり、人が刃に、振られていた。
*
あっという間に蝙蝠の群れを皆殺しにした乙女は、驚くべきことにほんの一滴の返り血も浴びることはなく、そのワンピースは純白を維持していた。ずりりり、と血塗れの大剣を引きずって、乙女はハイドラに近づいた。その時ハイドラは恐怖を感じなかったといえば嘘になるが、しかし彼も、恐らく彼女が敵ではないであろうことは理解できた。どうやら殺されかけていた自身を救ってくれたらしい、という状況を飲み込めるくらいには、彼も頭の整理がついていた。
「…えと、ありがとうございます」
ハイドラが恐る恐る礼を言うと、乙女は花が咲いたようにパッと笑った。
「どういたしまして!」
応えて、乙女は周囲をキョロキョロと見回すと、ハイドラに「一人?」と訊ねた。
「あー、なんというか…今は」
「?」
「…ツレがいたんですけど、さっき喧嘩して…それで今ははぐれて、一人です」
「あら、そうだったの」
乙女は足元に転がる湿ったシャツに気付き、拾って砂利を払った。
「あなたのよね?」
ハイドラは思わず顔を赤らめた。彼は自分が上裸だったことを思い出したのだった。バツが悪そうにシャツを受け取ると、ハイドラはまだ湿ったままのそれに迷いなく袖を通した。すると当然、ぴとっ、と彼の背筋にシャツが張り付いた。
「ひっ、冷た!」
少年の慌ただしい一部始終を見て、乙女の笑みが溢れた。その笑みに、少年はまた顔を赤らめるのだった。
「……ちょっと」
「ん?…うわっ師匠!?」
「きゃっ!」
「うわっとはなんだよ」
突然その場に現れたように、魔女は二人の側に姿を現した。ハイドラは口を開いたがうまく言葉が見つからず、気まずそうに彼女から目を背けた。魔女は溜め息を吐き、その手に握っていた彼の剣を見せた。
「あ…」
掴もうと手を出したハイドラだったが、魔女はひょいと下げてその手を避けた。
「…」
「…」
師弟は互いに黙って見合った。しばらくそうしていると、乙女がハイドラの肩を叩いた。ハイドラが見ると、乙女はにっこりと笑って言った。
「先に謝った方が、きっと後で気持ちが楽になるわ」
そう言う乙女の笑顔があまりにも無邪気だったものだから、ハイドラは思わず口を開いてしまった。だが、何と言おうか決めてはいなかったものだから、出てきた言葉はちゃんと思考のまとまった文章にはならなかった。ただ一言「すみませんでした」とだけ。けれど、ハイドラはしっかりと魔女の目を見て言った。
「…」
「…」
「…頭、冷えた?」
「……おかげさまで」
魔女がハイドラに剣を返したのを見て、乙女は再びにっこりと笑った。
「よかったわ。やっぱり、みんな仲良しが一番だもの!」
魔女はくすりと笑って、乙女に向き直った。
「弟子がとんだご迷惑を。私は光の魔女、この子の師をしている者だ」
「あ、ハイドラです。改めて、さっきは危ないところをありがとうございました」
ハイドラと魔女が頭を下げると、乙女は「いいのよ」と気前よく言った。
「あたしはアイリーンっていうの。よろしくね!」
アイリーン曰く、小川に寄ったのはたまたまで、道を探しながら歩いていたら偶然襲われていたハイドラを見つけたという。彼女は大剣をぶん、と振り、血のりを明後日の方向に飛ばした。そして右肩から袈裟にかけたベルトに沿うようにして大剣を背負おうとカチリと音が鳴り、大剣はその小さな背に固定された。柄は辛うじて彼女の手が届くところでにょきりと出ており、案の定剣尖は地を擦っている。ハイドラは留め具の仕組みが気になりながらも、それよりもアイリーンのような華奢な乙女が身の丈を凌駕する鉄の塊を操るという超常現象について、言葉を選び選び問いかけた。
「ああ、この剣?いいでしょ、旦那の形見なの」
それだけ言ってにこりと笑うアイリーンに、ハイドラはそれ以上何も聞けなかった。だが、魔女は大剣を一目見て、少し驚いた顔で一言呟いた。
「…魔剣」
「あら、そちらのお姉さんはご存知なのね。それより」
アイリーンは両腕を広げて「道がわからないの!案内してくださらない?」と師弟に持ちかけた。しかしハイドラも道がわからなかったので、彼は魔女の方を見たが、魔女は「弟子を助けてもらった礼をしなくちゃ」とこれを快諾した。アイリーンは両腕をぶんぶん振り、喜びを全身で表現した。
「やった!それじゃあ、歩きながらお話しましょ!」
*
森林の道に戻った三人は歩き出した。アイリーンは、川原では大事そうにほとりに置いていた何か筒のような物が入った縹色の風呂敷包みを、肩から腹側に掛けていた。意気揚々と歩く様から、ハイドラはやはり彼女にどこか幼さを感じさせられたが、しかし彼の見立てでは年は十近く上だろうというところだった。
「で、魔剣だ」
魔女が口を開いた。
「ハイドラは魔法武器、というのを知っているかな?」
ハイドラが首を振ると、魔女はまず魔法武器について説明した。魔法武器とは、魔術によって生成され、魔力や魔術を帯びた武器のことを指す。有名なところだと勇者の「聖剣」、そして「魔剣」___古の時代の英雄、最も異色なる勇者、「魔剣の祖オース」によって鍛えられた十振りの剣。強力な魔力と呪いを帯びたその剣は、それぞれ異なる特別な力を宿し、己を振るう主人を常に一人と定めたという。そして、その力に魅入られた者たちによって主人が殺されるたび、その所有権は前の主人を殺した者に渡されるというのがその「呪い」___。
「これまで数々の冒険者や名だたる剣士たちがそれらの剣を求めたという。オースの力の一端を求めて、ね」
魔女は非常に興味深そうに魔剣を眺めた。
「そうなの〜!旦那、生きてた頃は冒険者やってて、もうすっごく強かったんだから〜!」
「…ん?いやちょっと待て」
ハイドラは話を遮り、アイリーンをまじまじと見ながら言った。
「殺した人に所有権が渡るって…つまり」
「ん!ちがいまーす!」
アイリーンは非常に遺憾そうに説明した。
「もう、魔剣のこと知るとみんなそう言うんだから。旦那の死因は落下死…殺害者がいないの。だから、この剣はもう所有権が移ることがなくなったわ。誰のものにもならない。ずっと、旦那のよ」
「…でもさっき振り回してましたよね?」
「ああ、あれはあたしが剣を振ってるんじゃなくて、剣にあたしが振られてるの」
ハイドラは吹き出した。
「ちょっと、冗談言ったんじゃないわ!そうじゃなくて、本当にあたしは握ってるだけで、剣が勝手に攻撃してるの。この剣、旦那のこと随分気に入ってたみたいで…そのよしみであたしのことを守ってくれるんだとか。さすがに、あたしの腕じゃこんなの振れないしね?そういうことなの」
剣豪じゃなくてごめんね、とアイリーンは付け足した。
「…しかし何というか、まるで剣に自我でもあるかのようなもの言いですね」
「あるわよ?」
『アルゼ?』
「…誰だ今の」
三人とも、足が止まった。ハイドラは目を丸くしてアイリーンの方を見た。正確には、その背の方。
『オレダヨ、コノオレ!暴虐ノ魔剣様ダゼ!』
「…師匠、魔法武器ってのは、みんな喋るんですか?」
「いや、そうそうない」
三人は歩き出した。
「しかし、女性一人と一本で旅ですか…何でまた」
「二人と一本よ」
また、三人の足が止まった。アイリーンは風呂敷包みをぽんと叩いた。
「旦那よ。もう灰だけどね」
ハイドラは藪蛇だったかな、と思ったけれど、しかしアイリーンも気を使ってか微笑みを保っていたので、彼はバツが悪そうに頬をぽりぽり掻くのみだった___
『藪蛇ダゼ坊主!』
「ちょっと!魔剣さん」
アイリーンの背負った魔剣の先端ががりがりと地面を削り、彼女の歩いた後に一本の線が残されていく。ハイドラはもし彼女を追いかけようとしたらこの線を辿れば簡単だろうな、と他愛ないことを思いついた。
「大丈夫だからね、剣士くん!もう、この子ったらたまに一言余計なんだから…あ、旅をしてる理由だったわね。そうね…供養っていうのかしら。あの人との思い出の場所に、灰を撒いてあげたくて」
アイリーンは彼女の亡き夫について語った。根っからの冒険者だった彼は、世界を股にかけ様々な場所へ足を運んだという。そこで彼が見聞きした珍しいものや美しい景色の話を聞くのがアイリーンは好きで、時には共に旅をしたこともあったのだそうだ。アイリーンと彼、シントレークは、例えどれだけ離れていようともお互いのことを忘れたことはなく、そして隣り合えばお互いの言いたいことが言われる前に何故だかわかってしまう。つまり二人、心から愛し合っていた。彼が魔剣を手に入れたことすら、アイリーンを守る力を求めてのことだったほどに。だが、シントレークは先日この世を去った。アイリーンの待つ街へ帰る途中、渡っていた吊り橋が崩れ、彼は谷底へ。救助に行った者たちは、亡骸と遺品を持ち帰るのみだったという。
「せめて、二人で行った中で一番綺麗だった場所で眠らせてあげたいの…冒険好きなあの人だから、きっと街の墓地じゃ退屈しちゃうわ」
そう言って風呂敷に包まれた骨壺を撫でるアイリーンの手には、きっと永遠に褪せることのない慕情が込められていた。
「…それで、その場所というのは?」
「イペリカロテ岬よ。ここから一日半も歩けば着くと思うんだけど、本当に綺麗なところなの。見渡す限り、エメラルドみたいな海が広がっててね…」
それを聞いて、アイリーンに不思議そうに見られながらも魔女は帽子から地図を取り出して眺めた。
「ふむふむ…イペリカロテ、イペリカロテ…あ、ここだね。…ちょうど進路上にあるな。よし、それじゃそこまでは私たちも同行しよう」
「まあ、本当?嬉しいわ!やっぱり旅はみんなでの方が楽しいものね」
アイリーンは目を輝かせた。その無邪気に嬉しがる様子は年端もいかない少女のようであった。
*
この日の三人が幸運だったのは、日が落ちる前に手頃な廃屋を見つけられたことだろう。長いこと放置されていたらしい屋内の天井には蜘蛛たちが我が物顔で巣を張っていたが、壁などはまだ腐りもせずしっかりとしていた。魔物が多い地帯では、野宿をするよりかはこういったところで夜を越した方が比較的安全であり、何より旅人たちからすれば壁があるというのは気が休まるというものだった。三人は寛げる程度に掃除をし、そこで休息をとった。
だが、月が昇り虫たちのさざめきを聞いていても、ハイドラの目は冴えたままだった。暗闇の中目を閉じれば、自ずと赤に溶け崩れるアーランの幻影がちらつき、ハイドラはそれを振り切れず唇を噛んだ。何度目かわからない寝返りを打ち無心を保とうとするも、そう集中して気を張ることこそが彼の眠りを妨げた。やがて安眠を諦めたハイドラはぴしゃりと額を叩くと、軋む床をすり足で進み外の空気を求めて廃屋を出た。
夜の森は月明かりを浴びて青ざめたように薄らとし、水場が近いのか、その闇の中を二、三匹の蛍が人魂のようにふらふらと泳いでいた。ハイドラは廃屋の壁に背を預けて座り込み、その幽かな光の波線を目で追った。そうしていると、不意に彼の頭上で物音がした。ハイドラが見上げると、窓を開けたアイリーンがそこから顔を出していた。
「綺麗ね、蛍」
「…そうですかね」
「嫌い?」
「嫌いというか、苦手なものに似てるんです」
言いながら人知れず開かれたハイドラの手からは、何が溢れることもなかった。
「そっか。…眠れないの?」
「夢見が悪くて」
「…夢か。怖い夢でも見た?」
「……はい」
窓が閉まり、床の軋む音がし、廃屋から出てきたアイリーンはハイドラのすぐ隣に腰掛けた。そうするとハイドラが拳一つ分距離を開けたのを見て、アイリーンはくすりと笑った。
「…すみません、起こしちゃいましたか?」
「大丈夫、あたしも眠れなかったから」
二人が眺めているうちに、蛍たちはどこへともなく消えていった。彼らの視界にはその光の軌跡がぼんやりと残っていたが、それすらも時が経てば夜の闇に溶けた。
「眠るたびにね、旦那が夢の中に出てきてくれるの」
アイリーンは静かに語り出した。
「あたしはすぐにそれが夢なんだってわかるんだけど、でもあの人と会えるのが夢だとしても本当に嬉しくて…。抱きしめ合って、キスをして、初めて会った時のことなんかを話すの。あの人が生きてた頃みたいに。それで___最後には泣きながら、いかないでって言うんだけど、やっぱり目が覚めて。朝が来るたびに、死んじゃいそうなほど辛くなるの」
ハイドラはアイリーンの横顔を見た。切なそうに微笑む彼女に普段の幼げな印象はなく、行方を失った恋慕と悲哀だけが月明かりを受けているのが、そこから見てとれる全てだった。ハイドラにはアイリーンの心が理解できた。恋人ではなくとも、慕っていた相手を喪った経験、その後に来る抗うことのできないもの。穴も栓も開いていない瓶から水が抜けていくように、自身を満たしていたものが消え虚になる感覚。そして今ここで自分が生きているということにすら信憑性が持てなくなり、心が枯れることを、彼は知っていた。だからハイドラはアイリーンに、アーランのことを話した。彼との思い出、彼がこの世を去った時のこと、あの剣が彼の形見であること、そして昨夜見た悪夢のこと。言葉が唇を通る限り、ハイドラはアイリーンに語り聞かせた。
「…そっか。なんだか似てるね、あたしたち」
全てを聞いたアイリーンは、抱えた膝に頭を預けて言った。さらりと垂れた亜麻色の髪に目を奪われながら、ハイドラはうなずいた。
「…ありがとうございました。話したら、なんだか眠れそうになってきました」
「そう?よかった。それじゃ中に戻りましょ、明日のために寝なくちゃ」
立ち上がり、二人は廃屋の中に戻っていった。月は高く、虫たちの歌は止むことなく響き、夜は変わらず森を包んでいた。
翌朝のハイドラは、魔女との組み手にて今までで一番のキレを見せた。よく眠れたらしい彼はすっきりとした様子で、昨日の無様が嘘のようによく動けていた。魔女はそんなハイドラを見て安心し、今日も彼を手荒く揉んだ。
*
「剣士くんは、ガールフレンドとかいないの?」
岬を目指して歩いていた三人。唐突にアイリーンが訊ねれば、たじろぐハイドラを魔女はにやにやしながら眺めた。
「…はい?」
「剣士くんだってお年頃でしょ?お姉さんコイバナ聞きたいなー、なんて」
「お姉さんも聞きたいナー!」
便乗する魔女を無視し、ハイドラは顔をしかめて首を横に振った。
「…いませんよ、そんなん。俺は故郷じゃ日陰者で通ってたし…それに、村の女の子たちの好意を一身に受けるヒーローがいたもんですから」
「じゃあ、ハイドラが気になる子とかは?」
「いませんて」
「えー」と声をもらす大人の女性二人組に、少年は口をへの字に曲げて天を仰いだ。
「つまんなーい」
「私の弟子つまんな」
「うっせ」
足音三つ、引きずられた鋼が地を削る音一つ、葉の揺れる音、蝉時雨。高く照らす日から隠れた森の中、何度か分岐路を経て道は徐々に細くなっていくが、時折アイリーンは見覚えがあると言い、風にはわずかに潮の香りが混じり始めていた。
「恋をすべきよ、剣士くん!」
「はあ」
「人生、恋してナンボなの!旅をするのもいいけど、それなら旅先でいい子を探したらどうかと思うわ、あたし!」
「…アイリーンさん、ちょっと、圧が」
「素敵な人を見つけて、その人と一緒に恋と愛の違いを探すのよ!きっと、それこそ人生の意味だと思うのよ!あたしは!」
「圧が」
「人生は恋愛なの!!」
「圧がすごい」
ぐぐいと前のめりになるアイリーンに気圧されたハイドラを見て、魔女は大笑いしていた。
「そうだよハイドラ、アイリーンちゃんの言う通り。村の子たちに気が向かないってんなら、いい機会じゃないか。この旅の中で将来のお嫁さんも探しなよ」
ハイドラはよるべがないあまり、アイリーンに背負われている魔剣に助けを求めた。
『イイジャネーカ坊主!オンナ探シノ旅トシャレコメバヨォ〜ッ!ギャーッハッハー!』
四面楚歌だった。
*
雑談に花を咲かせながら、或いは咲いた花を素振りの剣やぶつぶつ呟いた呪文で散らしながら、三人はしばらく歩いた。風は強く海の香りを運び、彼らの踏みしだく土には砂が多くなり、草木も今までの道中には見なかった種が多数を占めていった。
「もうすぐだわ…!」
アイリーンは胸の前で手をぎゅっと握り締め、熱のこもった声で呟いた。さらに歩くと、木々は広い葉のものがほとんどなくなり、傾きかけた炎帝の日差しがそれらの間を抜けて照り付けた。道はもう道と呼べる体をなさずぼつぼつと途切れて、やわらかな砂地の上に青い芝生が健やかに伸びていた。夏の終わりに吹き抜ける熱い風が彼女の目的地への到着を告げ、そして、三人は開けた場所に出た。
「…そう、ここよ」
遥か遠く、目を見張るような露草色の空と、日の光をきらきらと乱反射する深い碧の色の海。薄い霞の中で、それらを隔てる水平線。見渡す限り、二つの宝石が溶け合うかのような世界が広がっていた。
「…また、二人で来れたよ、シントレーク」
アイリーンは静かに前へと歩み出ると、ぽろぽろと涙を流しながら、花が咲いたように笑った。そして包みから骨壺を取り出して抱きしめ、声を上げて泣いた。吹き荒ぶ潮風が彼女の亜麻色の髪を乱した。よく手入れされ整えられていたのをくしゃくしゃにしてしまう突風に、無造作にも愛を込めて彼女の髪を撫でる男の手を幻視したのは、その場にいた誰だったのだろうか。
師弟は何も言わず、アイリーンとシントレークを残して元来た道を少し遡ることにした。どちらがどちらにそうしようと提案したわけでもなく、ただ、あそこは今は二人だけの場所なのだと、彼らはきっと思ったのだ。
「…綺麗でしたね」
「…だね」
ハイドラは風に煽られながら呟いた。魔女は帽子を飛ばされないように手で押さえ、静かにその呟きを肯定した。少し行ったところで、日陰になっていた岩の上に二人は腰を下ろした。
師弟がしばらくそこで佇んでいると、三人が来た方から別の三人組が歩いてきた。筋骨隆々の体をした男二人と、その間に守られるように挟まれて、日傘をさした身なりの良さそうな金髪の女。彼女らはハイドラたちを見つけると声をかけた。
「貴方がた、この辺りで馬鹿みたいに大きな剣を背負った女を見ませんでしたこと?」
腕を組み、威圧的にハイドラたちを見下ろす男たちを背に、狐目の女はハイドラたちに訊ねた。ハイドラと魔女は一瞬考えたようなそぶりを見せた後、全く同じタイミングで「知らん」と答えた。男たちは顔を見合わせると、そのうち一人が何やら女に耳打ちした。
「おかしいですわね。わたくしの従者によるとこの辺にいるはずなのですけれど」
「…その女は、何かしたんですか」
ハイドラが訊ねると、女は癇癪を起こしたように顔を歪めながら喚いた。
「コソ泥ですわ!あの泥棒猫、わたくしのフィアンセを奪いましたの!」
「フィアンセ?」
「ええ!腕利きの冒険者で、珍しい財宝を溜め込んでるって話でしたからお父様に言ってあちらのご両親にわたくしとの婚約を掛け合ってもらいましたのよ!そうしたらあちらのご両親はちゃんと承知しましたわ!」
「…なんか、本人はウンとは言ってないような言い方ですね」
そのハイドラの言葉に、女はさらに声を荒げた。
「は?なんで当人の了承が必要ですの?結婚も恋愛も、親の決定が全てでしょう!?だからあの方はもう私のフィアンセで間違いなかったんですの!そんなこともご存じなくて?全く、これだから庶民は…!」
男たちはそっぽを向いていた。ハイドラと魔女は顔を合わせた。晩夏の暑さにも負けず白熱しているのは女だけだった。
「なのに、わたくしとの式も挙げずに事故死だなんて…!不幸ですわ!わたくしが!!でも、不幸中の幸いなのは、わたくしは別にその殿方自体はどうでもよかったことですわね。わたくし、財宝だけ貰おうと思って、その方と冥婚しようとしましたの…それなのに!」
女は地団駄を踏んでさらに荒ぶった。どこぞの乙女とは別の意味で子供っぽいな、とハイドラは少し怯えながらもその荒ぶりようを眺めた。
「あの女!わたくしより先にあの方と冥婚しましたの!!信じられませんわ!なんでも生前のあの方と恋仲だったとか聞きましたけど、そんなの関係ないんですの!わたくしの物なんですの!」
女はとうとう持っていた日傘を地面に叩きつけた。日傘は骨がひしゃげ、哀れな姿になりながら砂地に転がった。
「しかもあろうことかあの方の遺灰を持ち出しやがりましたの!この国の冥婚には遺灰が必要ですのに!これではあの女の冥婚を無理やり取り下げさせてもわたくしの冥婚が出来ませんわ!」
女は細い目を血走らせつつも、息を整えて徐々にクールダウンした。
「…ああ、わたくしとしたことが、ごめん遊ばせ。…でも、あの女を捕まえれば冥婚を取り下げさせて、奪った遺灰でわたくしがあの方の妻になれるんですの。そうすれば、あの方の財宝は晴れてわたくしの物…。こほん、それで、どうやら女はあの方の財宝の一つの…えーと、なんて言ったかしら…暴力の魔剣?でしたかしら…それを背負っていて、その引きずった後がこの線らしいのですわ!」
女はアイリーンが魔剣を引きずったあとを指さした。線は岬へと続いていた。ハイドラは伸びをし、凝っていた関節をコキコキと鳴らした。
「そういう訳ですから、わたくしたちもう行きますわ。それでは庶民の方々、参考にならない情報提供どうもありがとうございまし…ちょっと、なんで立ちはだかりますの?退いてくださりませんこと?わたくしたち貴方がたと遊んでいる暇ございませんの。って、貴方よく見たら剣持ってるじゃない!何する気ですの!?…はっ、さてはあの女の差し金ですわね!?盗人猛々しいとはよく言ったものですわ!グリット、グラッツ!あんたたち、やっておしまいなさい!」
*
来た道を逃げ帰っていく男たち二人を追って、女はひしゃげた日傘を捨て置き走り去った。
「…っし、昨日の俺じゃなくてよかった」
「ああ、昨日の君なら勝てなかったね」
ハイドラは魔女との組み手で身につけた技術を遺憾なく発揮し、自身より一回りも大きい男を接戦の末打ち負かした。魔女は、その相方を一撃でのした。
「はは、この調子で行けば、大会までにはちゃんと仕上がりそうだね」
「…この旅の目的地」
ハイドラは鞘に収まったままの剣を剣帯に留め直した。
「そう、リーサリオンコロシアム・トーナメント。アルセイラで最も歴史ある武の大会」
アルセイラの国境近くにある街、リーサリオンタウン。そこには古代から残る歴史的建造物・リーサリオンコロシアムで毎年開かれる武闘大会があった。開催百年を上回るその大会には、国を越えて世界中の名だたる猛者たちが集い覇を競い合う。剣、槍、斧、戦鎚、素手。飛び道具と火薬以外ならなんでもあり、純粋な一対一で個人の力だけでの闘い。時には死人すら出る危険な大会だ。
「かつて勇者も、優勝したことのある大会だよ」
「伯父さんも…」
「目指すはもちろん優勝だ。あと半年、これからもみっちり鍛えていくから覚悟するように」
魔女はにやりと笑いながらぽきぽきと拳骨を鳴らした。
「みっちり…はい」
「さて、それじゃそろそろ戻ろっか。あんまり遅いと、アイリーンちゃんも心配するし」
砂地に残った大立ち回りの後を足でかき消し、師弟は何事もなかったかのように岬へと戻るのだった。
*
落陽は空を焼きながら、今にも水平線へ飛び込もうとその身を倒していた。空も海も同じ緋色に染まり、その境界すらも溶け合って一つになったような世界を前に、アイリーンは骨壺を抱いて岬に座り込んでいた。戻ってきた師弟に気付くと、アイリーンは彼らに礼を言った。
「ありがとう、二人とも。気を遣わせちゃったわ」
ハイドラは首を横に振った。
「もう、灰は撒いたんですか?」
「ううん、まだよ。夕凪を待ってたの」
それを聞いて「そういえば」と、ハイドラは風が止んでいるのに気付いた。
「前に二人で来た時も、ここで落ちていく太陽をずっと眺めてて、ふっと静かな夕凪が来て…あの永遠みたいな瞬間が、一番の思い出だったの」
アイリーンは立ち上がった。その目元にはか細い流星のような涙の軌跡が残っており、夕陽に照らされてきらきらと輝いていた。彼女は震える手で骨壺の蓋を開け、そして一度、祈るように目を閉じた。
「___生まれ変わったら、またあたしを選んでね」
緋の空にさらさらと白銀が舞った。途端、止んでいた風がまた吹き上がる。アイリーンの頬を撫で、髪を撫でた風はシントレークの遺灰を天高く運んだ。名残り惜しむように、彼女の頬に残る輝きと同じ光を帯びて、遺灰は空へと還っていった。
「絶対よ」
空になった骨壺を抱きしめ、アイリーンは最後だからとしっかりと、彼に笑って見せた。
*
「ねえ、剣士くん」
翌日。それぞれの行方へと続く分岐路、師弟と彼女との別れの際にて、アイリーンはハイドラに言った。
「前にも言ったけど、恋は素敵よ」
ハイドラはアイリーンと向き合った。ハイドラにはその言葉の意味はまだわからなかった。だが、その言葉が彼女の魂から来たるものだということくらいはわかった彼だから、わからずとも心してそれを聞いた。
「別れはいずれ必ず来るし、それはきっと辛いものって決まっているわ。でも、出会って、愛を育むこととは、直接の関係はないの」
アイリーンはハイドラの頬に手をやった。少し照れ臭く感じたハイドラだったが、しかしその手を振り払うような真似はしなかった。
「愛した時間と、記憶は絶対なの。たとえどんなに辛いことがあっても、その人と分け合った愛が本物なら、それに勝るものなんて何一つないわ。絶対に」
ハイドラはうなずいた。わからずとも、知らずとも、いずれ知る時が来るのなら、その時まできっと覚えていようとその言葉を飲み込んだ。そんなハイドラを見て、アイリーンは花が咲いたように笑った。
「…今はまだわかりませんけど、心に留めておきます」
「…うん、そうして!」
そうして、師弟と彼女は別れた。師弟は次の街を目指して、修行の旅へ。彼女はかつての二人の思い出を巡る旅へ。少年剣士と魔女、乙女と魔剣、それぞれの旅路へ戻るのだった。夏の暮れの明け方のこと。蝉時雨と、旅人たちと、夢の終わりと。
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