第四話:思想犯

 その山道では昼間だというのに葉が日の光を隠してしまうため常に薄暗く、また木々の多さも相まって視界はめっぽう悪かった。不意打ちにはもってこいのロケーションと言える。そうしたところに好んで潜む捕食者がいる。そしてこの手の輩のだいたいのお目当ては自分達の存在を知らない旅人であり、非力な女子供であるとなおよいと奴らは思っている。そういう意味でハイドラたちは運悪く、いや、ハイドラは運悪く狙われやすかった。今日奴に襲撃されたのも、屈強とは言い難い見た目と気配をした彼には当然と言えば当然であった。また魔物にせよただの獣にせよ、野生に生きるものならばその直感で、未熟そうな少年と正体不明、うち一方は手を出してはならない存在であることも勘付く次第であった。しかる理由により、師弟が魔物と相対すれば、魔女の方から手出ししなければ魔物はハイドラだけを襲い、彼はその都度実戦経験をつまされることになるのであった。なので、ハイドラはほぼ毎日と言っていい頻度で一対一、或いは一対多の戦いに身を投じていた。

 魔物は大人の男と同じくらいの長さの、丸太ほどもある太さをした蛇の体に、虎の四肢がついている。ハイドラはこの「蛇足」という魔物との戦闘に臨んでいた。

『シャガララララ!』

 蛇足はつくりの悪い楽器のような威嚇の鳴き声を上げながら枝から枝へと飛び移り、木々の合間を縫うようにしてハイドラの周囲を駆けまわった。その目は非常にいやらしく光り、構えている剣ごと彼を丸呑みにするのが楽しみだとでも言うかのようであった。ハイドラは蛇足の動きを目で追うのが精一杯だった。

「ちっ…クソトカゲが」

「ありゃ蛇だぜ、ハイドラ。足が生えた、ね」

 苦戦するハイドラから少し離れて、魔女は蛇足を観察した。体は蛇であるため凄まじく柔軟に優れ、そしてネコ科の脚力と鉤爪を持っている。その上地の利あり。蛇足は自身の武器と環境を駆使し、小さな一撃ずつでも確実に相手だけに傷を負わせる理想的なヒットアンドアウェーで徐々にハイドラを追い詰めていた。

(今のこの子じゃ、ちょいと無理があるか)

 魔女はその場にいた何者にも気付かれることなく、その手のなかに魔力を充実させはじめた。指先から発せられる青白い光の粒が掌の一点にどんどん集まっていく。灯りにたかる夜の虫のようなそれは、どんなに小さくとも凝縮されたエネルギーの束として成立する、まさしくれっきとした攻撃魔術の初動であった。もっとも、蛇足もハイドラもお互い睨み合う相手に夢中で、そんな彼女の動向は全く眼中になかったのだが。

 そして、引っ掻き傷だらけになったハイドラが目に入りかけた汗を拭おうとした一瞬。反射で動いたその意識の空白。獲物が自ら視界を隠し、これは絶好の機得たりとばかりに蛇足は彼に飛びかかった。

「あ___」

 完全な油断。無意識すら制御しなければ命に関わるのが自然の摂理。ハイドラは死を直感した。向いくる殺意の塊に対処すべく、脳は普段の何倍もの速度で動く。正面に構えて受け止めるか、横に転がって回避するか、いっそのことこちらも突進し串刺しにしするか。様々な選択肢がハイドラの脳裏をよぎるのだが、反応できていようがいずれにせよ体が追いつかなかった。ハイドラが動くより前に、蛇足は彼を押し倒して覆いかぶさった。ハイドラは逃れようともがくが、しかし蛇足は紙を抑える文鎮のようにどっしりとしてびくともせず、ぬらぬらした唾液を撒き散らしながら今まさに目の前のご馳走に牙を立てようと大口を開け___

「はいそこまで」

 魔女は素早く手を振り抜き、その内に溜めていた魔力の弾を飛ばした。超高速で飛来した青い弾丸は蛇足の首に命中すると爆発し、硬い鱗に覆われた頭部を木っ端微塵に吹き飛ばした。《純魔力弾》、魔力を別のものに変換せずエネルギーの塊として射出する、最も基礎的な攻撃魔術。基礎的ではあるが、威力は術者が込める魔力量によって変化するため、決して侮っていいものではない。ましてや術者がかの大賢者ともなれば。

 残された首なし死体がどさりと倒れ込み、塵と化す前にその焦げた断面をゼロ距離から見せつけられた上に返り血をどばどばと浴びせられたハイドラは絶叫した。



「ああクソ、あのトカゲ…次に出てきたら…!」

「だから蛇だってば」

 蛇足の血を頭から浴びて血みどろになったハイドラと清潔な魔女は、歩きながら先の戦いの反省会を開いていた。

「ハイドラ、さっきなんでやられたか、わかる?」

「……隙を見せました」

「うん」

「そのせいで、反応できても体がついてこなかった」

「そうだね。でも一番の課題は、そもそもそういう状況に持っていかせてしまったことだよ。君はスタミナがないから長期戦には向いてない。対してあの蛇足がとっていた戦法は、それを知ってか知らずかのヒットアンドアウェー。だからじわじわと追い詰められるより先に、決定打を入れるべきだった」

 ハイドラはばつが悪そうに、乾いた血がこびりついた髪をかき上げた。

「決定打って言っても、剣一本じゃ…」

「できるさ」

 魔女は確信に満ちた声で言った。

「少なくとも動きは捉えることができてた。なら、相手が飛び込んでくるのに合わせてカウンターを狙えたはずだよ。さっきみたく油断せず、そして闇雲に攻撃しようとしなければ」

「…先に言ってくださいよ」

「自分で気付かせたかったんだよ。…ふむ」

 魔女は「ここで問題」と続けた。

「蛇足の弱点はどこでしょうか」

 ハイドラは少し考えたが、すぐに答えた。

「…足の付け根?」

「理由は」

合成獣キメラ系の『接合部』は関節や骨が脆くなりやすくて、また必ず太い血管が通っている…から」

 魔女は意外だとばかりに目を丸くし、ひゅうと口笛を吹いた。

「よく知ってたね」

「伯父さんに教わったんですよ」

 魔女は「なるほど」と笑った。

「知ってたんなら狙いなさいな…おろ?」

 ぽつりぽつりと、雨が降り出した。最初は小ぶりだったが雨足は徐々に強くなっていき、すぐにたらいをひっくり返したような土砂降りになってしまった。ハイドラは返り血が洗われることに関しては感謝が尽きなかったが、初夏とはいえ濡れれば冷える。風邪を引きかねない。さらにただでさえ視界が悪いのに輪をかける始末。加えて足場も悪くなるとくれば、これは天を恨むほかない。街に着く頃には、二人揃ってずぶ濡れ泥まみれであった。



 例え彼らが酷い汚れようであっても、サンクル街の住人たちの、旅人に対して好意的に接するという風習は変わらなかった。師弟はそんな街のとある宿で一泊。夜明けには朝日が雲間から覗き込み、柱のような光が差す快い雨上がり。水たまりも気にかけず、弟子は今朝も組み手で師に揉まれに揉まれ、その後宿の受付が始まるとともに彼らは発った。そして師弟が街の通用門に差し掛かった辺りでのこと。

「……ん?なんだあれ」

 門の正面には小さな人だかりができており、その隙間から何やら看板がのぞいていた。ハイドラたちが近づくと、手前にいた気の良さそうな老婆が彼らに話しかけた。

「おや旅の人たち、ここを通られるつもりかね。難儀じゃ難儀じゃ」

「ええ、まあ。それで、何かあったんですか?」

 ハイドラが訊ねると、老婆はこの先で山崩れが起きたことを伝えた。なんでも土砂やら倒木やらにより道が潰されてしまったらしく、危険なので立ち入り禁止のお達しが出たのだそうだ。

「これがまた酷い有様らしくてなぁ、復旧のめども立たんのじゃて」

 師弟は顔を見合わせた。

「どうしますか師匠。道、通れないらしいですけど」

 魔女は帽子から取り出した地図とにらめっこして唸った。さしもの大賢者もこれは予想外だったようで、ああでもないこうでもないと言い、ようやく妥協できるところを見つけたようだった。

「うーん、仕方ない。かなり遠回りになるけど、別の道を行こう。ここ、ラクヒの街は経由したいからこういうルートで…」

 ハイドラにも地図を見せつつ先行きの相談をしていると、そんな彼らに声をかける者がいた。

「もしもし、そこのお二人」

 師弟が声の方に振り向くと、人だかりのうちの一人の長髪が興味深そうに二人を見ていた。

「今、ラクヒに行くと仰られたね?」

 長髪は緑暗色のケープにブーツ、背負った大きな鞄には巻いた毛布がくくりつけられ、さらにいつでも手が届く位置に引っ掛けた弓銃と、いかにも旅人らしい出立だった。しかし特徴的なのは、長い睫毛で縁取られた大きなブルーの目と、線の細さと儚げな雰囲気。顎や鼻すじは彫刻家が削いだようにしゅっとしており、シャツの襟からは細い首がのぞいている。肌も魔女ほどではないにしろ、雪のように色白であった。艶やかなブラウンの一房を耳にかけながら、長髪は柔らかな声色で師弟に訊ねた。

「実は私もラクヒに行きたくて。しかし知っていた道がこの通りで途方に暮れていたんだ。もしよろしければ、ぜひご同行させて頂きたい」

 ハイドラたちは再び顔を見合わせた。

「だって。いいよね、ハイドラ?人助け人助け」

「…まあ、俺は師匠がいいと言うなら」

 長髪は大げさにお辞儀して礼を述べた。



 気の良い老婆に手を振り、師弟と長髪はラクヒを目指して別の門からサンクルを出た。道は、崩れたところの逆からぐるりと山を回り込むようになっており、これが勾配の厳しい上に岩だらけで非常に歩きづらく、その上昨日の大雨で大変滑りやすくなっており___

「うおっ!?」

「おっと、大丈夫?」

 つるりと足を滑らせかけたハイドラだったが、間一髪のところで隣を歩いていた長髪が腰を支えてくれたので岩に身を打たずに済んだ。

「…すみません、助かりました」

「どういたしまして」

 ハイドラは長髪の少々近すぎる距離と屈託のない笑顔、そして腰を支えられているどうしょうもない格好の自分に顔を赤らめた。そんな弟子の痴態を見て、魔女はさも愉快そうにからからと笑っていた。

「はは」

「…」

 足元に気をつけつつ三人は岩場を歩いていたが、しかし転びかけたのにも懲りずにハイドラは胸の前に人差し指を立てて何やらぶつぶつ唱えていた。それを見て、長髪は魔女に訊ねた。

「彼は一体何を?」

「ん?ああ、これは魔術の練習さ。指先に火を灯して維持するんだけど、まずなかなか点かないようで」

 魔女はちゃんとイメージを膨らませながら理論を組めだの魔力の流れ云々だの色々とダメ出しするが、ハイドラもやってるができないだの言ってることがよくわからないだのと屁理屈をこねては、ごちゃごちゃと言い合った。そんな二人の様子を見て、長髪はくすりと笑った。

「…なんですか」

 ハイドラがふてくされたように目を向けると、長髪は慌ててすぐに謝った。

「ああ、気を悪くさせたのならすまない!ただ、とても楽しそうに見えたもので、つい」

 そう無邪気に言われると、ハイドラも立つ瀬がない。とにかく話題を変えようと、ハイドラは長髪の名を聞いていないことを思い出して話を振った。

「…そういえば、まだお姉さんの名前聞いてませんでしたよね。俺はハイドラと言います。こっちは俺の師匠の、光の魔女。お姉さんは?」

 自分と魔女とを交互に指し示しながら早口に言ったハイドラだったが、その様子を長髪は虚をつかれたような表情で、また魔女は笑いを堪えながら見ていた。二人の反応に、ハイドラも何か違和感があると気付いたが、しかし何か気まずくなってそれ以上は何も言おうとはしなくなった。三人の足が止まった。そして、長髪は少しだけ目を泳がせながら口を開いた。

「……あー、申し遅れた。ハイドラ君と、光の魔女殿。私はリュッセース。…こんななりだが、一応男だよ」

 今度はハイドラがぽかんとさせられる番となった。

「ンンッ、ハイドラ…今後は気を付けよう。特に、逆の間違え方は絶対ダメだからね」

 真っ赤になって震えるハイドラの指先に、小さな火が点いてはすぐに消えた。

 リュッセースは昔から言われ慣れていたから気にしていないと言った。特に子供の時分には、それは女の子と間違えられるのが常だったもので、言われるたびに怒ったものだが、しかし歳をとるにつれてあまり気にしなくなったとのことだった。

「けれど、それを言われたのも久しいよ。旅を始めてからと言うものの、あまり人と話さなくなったものだから」

 リュッセースは少しはにかみながらも嬉しそうに笑ったが、しかしハイドラはそっぽを向いて呪文を唱えるのに集中しているように見せた。しかしその日の明るいうちはもう、ハイドラの指先に火が灯ることはなかった。



 夕刻、日の入前。休めそうな場所を探していた三人は渓流に出た。先の大雨の影響か、流れこそ緩やかなものの渓流には水が大量に流れており、一帯は涼しげな空気に満ちていた。河にはあまり近づかないようにしつつ、ハイドラは魚でもいないかと小池のようになっていた窪みの水面を見回した。

「…ん」

 残念ながら魚は見つからなかったが、少し離れた岩の上で二羽の鴨が休んでいた。そこの窪みの水を飲んでいる二羽はこちらに気付いている様子はなく、その無防備な尾羽を三人に向かって振っていた。それがあまりにも無防備だったもので、ハイドラは運が良ければ一羽くらいと思い、手ごろな石を拾おうとしたが、ちょうどリュッセースも鴨に気づいてそれを制止した。

「待って、ここは僕が」

 そう言ってリュッセースは弓銃に矢をつがえ、鴨に狙いを絞った。すぅ、と呼吸を整え、瞬間、大きなブルーの目が見開かれ、シュッと弦が走り、矢が飛び立つ。やがて大きな鳴き声が上がり、一羽は飛び去っていった。

「お見事」

 師弟の拍手と、名手の得意顔。その晩、師弟の野宿にしては珍しく、彼らは保存食以外のご馳走にありついた。

 日が落ち切り、満点の星空のもと三人は焚き火のもとで休息をとった。魔女は追加の薪を取ってくると言って一人枯れ木や流木を探しに行った。リュッセースは危ないからと同行を申し出たが、魔女もハイドラもそれには及ばないだろうと彼に聞かせた。そんなわけで、残ったハイドラとリュッセースは焚火を見守っていた次第であった。

「しかし本当によかったのかな、夜は危険なのだから今からでも…」

「だから大丈夫ですって。あの人なら灯りにも困らないし、魔物なんてへっちゃらだし…少なくとも俺たち三人の中ではあの人が一番強いだろうし。俺たちがついていったら寧ろ足手まといになりかねない」

「ならいいのだけど…」

 辺りにはハイドラたちの夕餉の匂いがまだ残っており、焼いた鴨肉の香気がハイドラの舌根に残る肉汁の味を思い出させた。

「鴨、美味かったです。俺、ジビエなんてはじめてで。リュッセースさんは狩りもできて、その場で捌いて調理もできるなんて器用なんですね。旅をする前は狩人をされてたとか?」

「…いや、狩りは生業にしていたわけではないよ。これは嗜みというか、ね」

 ハイドラからの言葉に満足げな顔で応えたリュッセースは、星空を見ながら語った。

「…でも、そうだね。もし生業を選べたとしたら、私はきっと狩りに生きていただろう」

「…望まない職に就いてたんですか?」

「まあ、楽しそうだと思ったことも、楽しいと思ったこともないね。…僕の国では、生業は全て世襲だったから、仕方なく」

 リュッセースは星から視線を戻し、焚き火越しのハイドラの目を見た。

「この国では世襲もあれば生業を自分で選ぶ人もいると聞くけど、ハイドラ君はどうかな?何かやってみたいことはないのかい?」

 ハイドラは焚き火に目を落とした。

「俺は…世襲、ですね。もとは違ったんですけど、世襲だった親戚の後継が早死にして…その代わりを」

 リュッセースは、途端に驚いたような申し訳ないような顔をした。

「…すまない、聞くべきではなかった。…そんなことが…」

「いや、大丈夫なんで。気にしないで」

 ハイドラはなおも謝るリュッセースに言葉をかけた。

「…うちの親父は百姓で、俺はその一人息子だったんですが、無理に継がせる気はないって言われてて…」

「…いい父君だね」

「まあ、そういう意味では。それで、俺は将来アーラ…その親戚の、えーと…手伝い?がしたかった。やりたかったことといえば、それくらいです」

「…そう、か」

 二人はしばらく黙って火を見守った。パチパチと弾ける火の粉の声のほかに聞こえるのは、絶え間なく岩にぶつかる渓流の水の音。少年と青年と、自然。それぞれの呼吸の音だけ。

「私はね、」

 リュッセースは口を開いた。

「人は皆、自分の望んだ生業を選び、それに心血を捧げるべきだと思うんだ」

 ハイドラはただ、その言葉に耳を澄ませた。

「お前は農家の子だから農家に、お前は商人の子だから商人に、お前は…貴族の子だから貴族に、なんて。そんなのは横暴だと思うんだよ。だって、人には皆それぞれ素晴らしい才能があって、きっとそれを生かせることが世の中にあるはずなのに、生まれだけでその人の生業が決まってしまうなんて、ひどいことだと思うんだ」

 リュッセースは視線を落とし、膝に乗せていた手を組んだ。その手が少しだけ震えていたのをハイドラは意図的に無視して彼の言葉を聞いた。

「きっと、中にはやりたいことが他にあった人もいるはずだ。やりたくもないこと、不向きなことを、家業だからと無理につがされた人も。なら、それぞれのやりたいこと、得意なことを生業にした方が、幸せなのだとしたら。そう思って私は…国のやり方に異を唱えたんだ…」

 リュッセースは手の震えを抑えようと、手に力を込めた。きめ細かな肌に爪が食い込み、徐々に赤くなり、やがて血が滲んだ。

「だが、他の貴族や王はそれをよしとしなかった…。議会は…我々の平和は定められた人間が定められた役をこなしてこそ成り立っている、と…。納得できなかった。それは、自分達の地位が脅かされるのを恐れているだけだ。肩書きだけで偉そうにふんぞり返っているだけで、私たちは民に何をしてやれた…?こともあろうに私を思想犯などと追い立て…あ…」

 不意にリュッセースは我に帰ったように、強く組みしだいていた手をぱっと離して、ハイドラの方を見た。ハイドラは何も言わず、黙って焚き火を見ながら、うん、うん、とうなずくのみだった。

「…すまない、私としたことが、取り乱してしまった…今言ったことは、できれば忘れて欲しい」

 ハイドラは口を真一文字にきゅっと結んで、うん、うん、とうなずくのみだった。



 明け方、リュッセースは聞き慣れない音で目を覚ました。渓流のせせらぎに紛れて聞こえる、何かが風を切るような鋭い音。リュッセースは起き上がり寝ぼけ眼を擦り見ると、音はハイドラが剣の素振りをして鳴らしていたものとわかった。火を焚いていたところから少し離れて、ハイドラが剣を振り、魔女がそれに何か言っているようだった。時折、魔女は帽子の中から(到底帽子の中に収まる長さではない)剣を引き抜き、それを振ってハイドラに手本のように見せた。風を切る音が二つ、心地よいリズムで朝日に刻まれる。

「おはよう。二人とも早起きなんだね」

 リュッセースが声をかけながら近づくと、師弟は彼に気づき素振りを中断した。

「おはようございます」

「おはようリュッセース。悪いけどもう少し待ってくれるかい?そうしたら朝食をとって出立しよう」

 リュッセースはうなずいて近くの岩に腰を下ろし、師弟が素振りをしているのをしばらく眺めた。

 ハイドラの素振りが終わり、簡素な朝食をとった三人は道に戻り、歩き出した。道中、行商や他の旅人とすれ違った三人はラクヒの街が近いことを悟った。

「そういえばリュッセースは、何故ラクヒへ?」

 やはりなかなか火が点かないハイドラを横目に見ながら、魔女はリュッセースに話しかけた。

「ああ、旧い友人を尋ねて」

 リュッセースが嘘は言っていないということと無害な人間であることは、昨夜彼と話したハイドラには分かっていた。だからリュッセースが「亡命のため」と言わないのなら、ハイドラに敢えて口を出そうという気は起きなかった。

「そっか、会えるといいね」

「ああ」

 岩ばかりだった山道に、徐々に土や緑が増えてきた。やがて険しかった景色はその様相を変えてゆき、随分と歩きやすくなった頃にはラクヒの関所が見えてきた。関所は赤煉瓦で作られた背の高い壁に埋もれており、その大きな木造の門を開放してはいた。しかし壁や門に刻まれた幾つもの爪痕や修理した跡が、かつては固く閉ざされていたであろう歴史を物語っていた。

「あの街はね、ハイドラ」

 魔女は呪文を唱えていたハイドラに語り聞かせた。かつてあの街に魔物の大群が押し寄せた際、旅の途中、駆けつけた勇者一行がそれを退けたという経緯。以来住民たちは勇者一行への感謝とその勇姿を忘れることはなく、彼らが魔王討伐を成し遂げ国に平穏が訪れると、住民は彼らを称えるべく広場に銅像を建てたという。

「へぇ…勇者一行のモニュメント。…もしかして、ここへはそれを見せるために?」

「うん。よく、見ておくべきだと思って」

 リュッセースの手前、「伯父の顔なら万回見た」とは言えず、ハイドラは適当に返事をしてお茶を濁した。リュッセースは魔女の話を聞いて「楽しみだ」と言うばかりだったから、ハイドラは知られる必要のない事実が彼に知られてはいないであろうことに少しだけ安堵した。もっとも、知られたところでどうということでもないが。

 そして、三人は関所にて衛兵たちに会釈して街に入った。しかし、その時すぐに後ろから声をかけられた。三人は衛兵に呼び止められたと思いながら振り返った。だが、呼び止めた男たち二人組は先の衛兵たちとは格好も違い、そして何より剣呑な空気を漂わせていた。魔女が何か用かと訊ねると、男の一人が話し出した。

「お前たち、ここに来るまでに旅の男を見なかったか?髪の長い青瓢箪だ」

 粘っこい視線をリュッセースに向ける男たちとの間に、ハイドラが割って入った。

「その人…なんかしたんですか?」

 男たちは少しムッとした様子だったが、二人ちらりと目配せをし、そしてわけを語り出した。

「まあ、俺たちも詳しいこたぁ言えねえんだがよ、所謂逃亡犯って奴だ。とある国で馬鹿げた思想を掲げて民を煽り、国家転覆を企てたテロリスト…そいつが一人この国に亡命して、この街を目指してるっつータレコミがあったから、俺たちゃあここを張って___」

「馬鹿が、喋り過ぎだ」

 後ろで腕を組んでいた男が、喋っていた男の肩を乱暴に掴んだ。男たちは睨み合い、しばらく誰も喋らなかった。ハイドラは、ちらりとリュッセースの方を見た。リュッセースは顔にこそ出してはいなかったものの、ハイドラからは小さく固唾を飲んだように見えた。ハイドラは睨み合っていた男たちに聞こえるように、魔女とリュッセースに振り返って声をかけた。

「そんな人には会わなかったよな?魔女姉ちゃん、狩人姉ちゃん」

 その呼び方にリュッセースは一瞬固まったが、すぐに顔に笑顔を貼り付け、透き通るような作り声で「ええ、そうね!」と答えた。魔女はこれまたニコニコと笑いながらそれに同調し、そんな二人の様子を見たハイドラは「それじゃあ、なんかあったらまた来るよ」と男たちに言って手を振った。男たちは足早に去る三人の後ろ姿をじっと見ていたが、三人を追いかけはせず、どちらからともなく「あの姉ちゃんたち、二人とも美人だったなぁ…」と呟くのみだった。

 関所から充分に離れた路地裏で、ハイドラはリュッセースに言った。

「疲れてるかもしれないけど、さっさと他の街に行った方がいいんじゃないですか?狩人姉ちゃん」

 リュッセースは作り声のまま「参ったわね…」と呟いた。

「多分、御友人にも会わないほうが身のためなんじゃないですか…タレコミ、どう考えてもその人が売ったでしょ」

 少し言いにくそうに、しかしはっきりと言うハイドラだった。リュッセースはポリポリと頬を掻き、他に宛てがないことを言った。

「それでも、ここに居る方が明らかに危険だ。そりゃ放浪も、危ないでしょうけど…」

 黙り込む二人を見てやれやれといった感じの魔女は、おもむろに帽子からペンと手帳を取り出し、それに何か書き始めた。やがて書き終わると、魔女は書いたそれを手帳ごとリュッセースに渡した。

「魔女殿、これは…?」

「少し遠いけれどね。安全なところさ、君が善人なら」

 リュッセースとハイドラは首を傾げた。

「一応、君以外には見えないように書いたから、口外厳禁ということで___秘境への道のり」



「それじゃあ、お気をつけて。誇り高き思想犯殿」

「縁があれば、また。若き剣士殿、それと魔女殿」

 リュッセースと別れ、師弟は例の広場へと足を運んだ。昼間の広場はがらんとしており、その静けさは七人の英雄たちの威容を称えているようですらあった。横一列に美しく並んだ銅像と向き合ったハイドラは、そこが神聖な場所であるということを肌で感じ取った。大理石で作られた台座の一つ一つに、それぞれ文面が刻まれていた。

『脅威を討ちし剛力を称えて』

『民を救いし慈愛を称えて』

『決して退かざる気高さを称えて』

『己を顧みない献身を称えて』

『広めし啓蒙と術技を称えて』

『耐え忍びし精神を称えて』

 そして、ハイドラはそれらの中央に据えられた台座を見た。

『最も勇敢なりし英雄称えて』

 見上げると、見慣れた顔の、少しだけ残っていた見慣れない幼さがハイドラの目には不思議に映った。ふと、ハイドラはその像が構えている剣に目が行った。これも、見慣れたものだった。柄は手の中にあるのでよく見えないが、鍔元や刀身などは丁度、今腰につっているのとそっくりだった。ハイドラはぐっと胸に込み上げるものを抑え、従兄の形見を優しく撫でた。



 像から少し離れたところのベンチに座っていた魔女のもとに、ハイドラは戻った。ハイドラは魔女の隣に腰をかけると、大きく伸びをし、背もたれに身を預けた。

「…師匠。リュッセースさん、どこに行かせたんですか」

 周りに人がいないことを確認済みだったハイドラは、気抜けしたような声で魔女に問いかけた。魔女は日に雲がかかるのを眺めながら答えた。

「この国には、神話の時代から人の手の及んでいない古い土地があるんだ。そういった土地は、得てして神々の隠匿を受けている。リュッセースをやったのはそういう場所の一つ…妖精の里」

「…御伽噺?」

「いや、ホントの話」

 ハイドラは両腕を背もたれの後ろにやり、だらりとした格好で話半分に聞いた。

「妖精の里は、常に濃い霧に包まれているんだ。この霧には神々の加護が宿っていて、里に近づく旅人を迷わせてしまう。けど、妖精たちが安全だと判断したものたちに限って___妖精はとても警戒心の強い種族なんだけど___その霧の中で行き先を導いてくれる」

「…リュッセースさんを試したんですか?」

「いや?そんなことない。彼なら大丈夫でしょ」

 魔女が「君だって分かっているはずさ」と言うと、師弟はしばらくの間黙り、雲隠れした太陽の丸い影を視線でなぞった。やがて雲は風に流れ、顔を出した日に照りつけられると、ハイドラは眩しそうに目元を腕で隠しながら口を開いた。

「…リュッセースさんと色々話をしました。彼は…人は、望んだことを生業にすべきだと言っていました」

「へぇ」

 魔女も帽子のつばを少しだけ深くし、目元が影るようにした。

「与えられた役割が、必ずしも向いているとは限らないとか、強制されることの不幸とか…そういうことがあるから、その人の向いていることや望んでいることを生業とすべきなのだと」

 ハイドラは「まあ、その辺の話は実はよく分からなかったんですけど」と続けた。

「それを聞いて、なら俺はどうだろうって、思ったんです。もし、例えば俺に選ぶ権利があったのなら…俺は、伯父さんの後を継がない選択をしたのかって。多分、血筋なんて関係なくとも、俺より向いている奴はこの世界にゴマンといるんだろうなって」

 魔女は少しだけ帽子をずらし、話すハイドラを横目に見た。

「…もし、アーランが生きていたら…多分アーランは自分の運命を受け入れていた。そして、もし俺の運命が農夫の後継ぎだったとしても、俺は無理やりにでもアーランについて行ってたろうなって…」

 ハイドラは話しながら目を閉じた。そして、偉大なる父の足跡に見入る、正当なる後継者の少し後ろにいる、その従者である自身を幻視した。腰にある剣は全く別物で、現実のハイドラがつっている剣はきっと、アーランの腰にあった。目を閉じたまま、ハイドラは続けた。

「多分、アーランはアーランしかいなかった。そして、その役割を継げる奴は、実際どっかにいるんでしょう。でも、継いだのは多分相応しくない俺だった。…けど、それでも___俺は、他の奴にアーランの代わりを任せても、そいつについて行こうとは思わない。だから寧ろ、これはこれでよかったのかもしれない、なんて。例え俺が力不足でも、俺は俺がこの役を負わされてよかったって、今回はじめて、少しだけだけど思えた」

 ハイドラが言い終えたのを見届けた魔女は、くすりと笑ったのを隠すように帽子をぐっと深く被ると、ハイドラの頭をくしゃくしゃに撫でた。ハイドラは少し鬱陶しそうにその手を払い除けようとしたが、しかし払い除けきれずに、結局されるがまま頭を撫でられて髪をめちゃくちゃにされた。

 広場を照らす初夏の日差しはまだ柔らかで、佇む銅像の影七つ、戯れる師弟の影二つ、石畳の上に遊ばせていた。

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