第三話:感情なき道化師

「ほら坊主、お前さんに合いそうなサイズだとこのへんだ」

 ハイドラは店主の持ってきた三本の剣帯を見比べた。右のものは金糸で装飾された豪美なデザインの一品。中央のものはとても質素で少し古くさいが、しっかりとした作りで実用的に見える。左のものは全体的に樹皮に似た深い皺が刻まれており、またバックルには絶叫する中年男性の顔のようなレリーフが___

「ちょっとハイドラ、見てよこれ!まるでさっきの樹怪みたいじゃないか!これ!これにしなよ!」

「真ん中ので」

 ぶーぶー文句を垂れつつも代金を出してくれる魔女に礼を言い、ハイドラは店主から包みを受け取った。

(なんであんな剣帯がこの世に存在する…)

 疑問に思いながら武具店を出た時、ふと、彼の視界の隅に見慣れない物が映った。道化師の格好をした男の後ろ姿。なんの変哲もない街かどに、異装の男が際立って立っていたのだ。体のラインにぴっちりと合ったオレンジと白の派手な衣装に身を包み、二股に分かれた帽子をかぶった男は、キョロキョロと何かを探すようなそぶりで通りを歩いていった。街の住人たちも、ちらちらと男の行方を端目に気にしているようだった。

(クラウンの散歩?とは珍しい…いや、人探しか?)

 ハイドラもしばらくその後ろ姿を目で追っていたが、珍しいものを見た、というだけのことだったので、店から出てきた魔女とともにその場を後にした。

 例の森を抜けた師弟は、イーストホームズという街にたどり着いた。昼前には着く目論見だったが、樹怪たちの妨害のせいでもう午後になってしまった。もっとも、急いでいたわけではないので特に問題はない。ランチタイムを過ぎたイーストホームズにはゆったりとした時間が流れ、市場では主婦たちが世間話に興じており、街の中央にある広場では子供たちが追いかけっこなどをして遊んでいた。

 春先の陽気に歓迎されながら、師弟は広場のベンチに座り込み、市場のパン屋で買ったサンドイッチで遅めの昼食をとることにした。バターを塗った焼き立てのパンに、みずみずしいトマト、新鮮なレタス、そしてハムとたっぷりのマスタードを挟んだサンドイッチは、一口ごとに好ましい刺激をもたらすものだった。

「ん〜!何これすごく美味しい!あの店は当たりだね!」

「ええ。俺辛いのそんなに得意じゃないんですけど、これは美味い」

 ハイドラはサンドイッチを数口でペロリと平らげ、手についたパン屑を叩いて落とした。

「ああ、そうだ師匠」ハイドラは先程の道化師のことを思い出した。

「ん?」

「さっき武具店から出た時、クラウンが通りを歩いてたんですよ」

「クラウン?じゃあサーカスでも来てるのかな」

「かもしれないですね。まあそれはそうと、そのクラウン、なんか探し物してるみたいな感じだったんですよ」

 こうキョロキョロして、と付け足した。

「うーん、迷子だったんじゃない?」

「いや、それはどうでしょう。後ろ姿しか見てませんけど、結構いい年してたと思いますよ」

 魔女はふふんと笑った。

「大人だって迷子くらいなるさ…何故ならそう、人は誰しも人生の迷子なのだからね!」

「口の横にマスタードついてますよ」

 昼食をとり終えた師弟が広場を後にしようとしていると、追いかけっこをしていた子供が二人、師弟のもとに駆け寄ってきた。

「兄ちゃんたち旅人でしょー?」

 相方より少し背の高い方の男の子はハイドラの顔を見上げながら尋ねた。

「ああ、そうだよ。俺たちは旅人だけど、それがどうかしたか?」

「やっぱりそうだー!」男の子はニカっと笑った。上の前歯が一本ない。

「なーなー、こいつんち宿屋さんやってんの。まだどこに泊まるか決めてないんなら、泊まってってくんない」

 そう言うと少し幼げな方の男の子は首を縦にこくこく振った。魔女はしゃがみ、子供たちの頭を撫でた。

「おおそうかいそうかい!じゃあ泊めてもらっちゃおっかなぁ!」

「わあ魔女ー!」

「魔女ー!魔法見せてー!」

 子供たちははしゃぎながら魔女の帽子のつばを叩いたり引っ張ったりした。

「あーこらこら、やめて!やめないとお姉ちゃん怒っちゃうぞ〜?」

「わー!」

「こわーい!」

 子供たちはクスクス笑いながらハイドラの後ろに逃げ込んだ。

「…師匠、お姉ちゃんってのはさすがに」

「お黙り」

 目が怖かった。



 宿は広場のすぐ前で、ちょうど師弟が今晩の寝床にと目をつけていたところでもあった。元気な子供たちに案内されて師弟はドアを開いた。カウンターで帳簿をつけていた小太りな女性は来訪者に気付き顔を上げた。どうやらこの宿の女将のようだ。

「あらあんたたち、お客様連れてきてくれたの?ようこそいらっしゃいませ、二名様ですか?」

「どうもこんにちは。ええ、二人。一晩泊めてくださいな」

 魔女が女将と話しているのを少し後ろで眺めていると、ハイドラは服の裾をちょいちょいと引っ張られた。見ると前歯がない方の子がにこにこしていた。

「どうした?」

「なーなー、兄ちゃんたちってカップルなの?」

 ハイドラは面食らった。そして少し苦笑し、広場で魔女がしたようにしゃがみ込んで子供と目線を合わせた。

「いいかマセガキ、あの人は俺の師匠だ、師匠。先生。わかるか?カップルじゃあない」

「えー、なんだちがうのー?」

 何故か子供は残念そうにした。

「うん違う。わかったら弟分連れて、広場で追いかけっこの続きしてきな」

「うーんじゃーねばいばーい」

 わかってなさそうだったが、子供たちはまた走って広場の方へと戻っていった。

「ハイドラ、部屋へ行くよ」

「今行きます」

 子供たちの後ろ姿を見送り、ハイドラは魔女について行った。

 宿屋は二階建てで、一階がロビー、二階が客室となっていた。廊下を歩きながら、「さっきの子に、私たちが恋人なのか聞かれてたろ」と魔女はクスクス笑った。

「あー、そうですね。マジあり得ませんね」

「あん!?どういう意味だ!」

「いや、だって…年の差百以上はちょっと…」

 ハイドラが言いにくそうに目を泳がせながら言うと、魔女は「レディに年のことを言ったな!」と非常に憤慨したようで、彼の脇腹をきつくどついた。

「ぐえっ、すみませんて。ほ、ほら、ここの部屋じゃないですかね」

 タイミングよく部屋に着いたため、ハイドラはどさくさに紛れて話題をすり変えた。女将から預かった鍵を使い扉を開けると、ベッドと寝具が二つずつあるだけの簡素な部屋だった。しかし室内は清潔に手入れされているようで、不快感は皆無といってよい。

「うん、いい部屋ですよ、師匠。どうぞ入ってください」

 魔女は解せない顔をしながら最後にハイドラの肩を軽くどつき、帽子を放り投げてベッドに飛び込んだ。

「…ベッドだ。我が弟子よ、今日の寝床は硬い土じゃないんだ。…ふう、これに免じて先ほどの非礼は許してやろう」

「そりゃありがたい」

 ハイドラは拾い上げた三角帽を魔女のベッドに置き、窓を開けながら適当に答えた。窓からはさっきの広場が見える。広場ではまだ子供達が遊んでいた。窓から入ってくる風は爽やかで気持ちがよく、ハイドラは旅の疲れが身体中から滲み出してくるのを感じた。首を回すと関節がゴキゴキと鳴り、伸びをすると視界がチカチカした。

「あ、そうだ」

 剣帯のことを思い出したハイドラは、鞄から武具店の包みを取り出し、自分のベッドに広げた。

「明日も早いからね、今のうちに調整しておくといい。そしてよくおやすみよ」

 魔女は寝そべりながら大きなあくびをした。



 翌日、いつもと同じように、日が昇るのと同時に魔女は目覚めた。そしてハイドラを叩き起こして、支度を済ませた師弟は広場に出る。早朝組み手の時間である。

「場所を探す手間が省けるね。どの街もこういう作りだと助かるんだけど」

 屈伸、伸脚、前後屈、上体の回旋、背中合わせでの担ぎ合い、入念に準備体操をする。

「すぅ…はぁ…同感ですね。ゴミ捨て場みたいな路地裏でやるのは勘弁して欲しいですよ」

「はは、確かに。じゃあ準備体操も終わったことだし、始めよっか」

 お互い十歩ほど距離を取り、一礼。構える。

「かかってきなさい」と魔女は指で挑発のサインをとった。

 ハイドラは魔女の完璧な構えのどこかに隙がないか探しながら、ゆっくりとにじり寄る。魔女は常にハイドラを正面に見据え、その位置から動かない。ハイドラはしばらく魔女の構えを観察したが、すぐにわかり切っていた結論に至った。ならば隙を作るまで、と軽いステップで距離を詰める。

「シッ」

 鋭く吐き出した息と共に牽制の拳。それを軽々いなした魔女は反撃として、獰猛に襲い掛かる蛇のような掌底をハイドラの顎目掛けて放つ。ハイドラもハイドラでこれは読んでいたのか、それを難なくブロックした。そして次の瞬間には魔女の膝上目掛けてローキックを打ち込む。ハイドラには直撃したかのように思えた。だが、実際には命中の寸前に魔女は一歩踏み込んでいて絶妙に打点をずらすと同時に、さらに自身のレンジに持ち込んでいたのだった。「直撃した」という思い込みがハイドラの体をほんの刹那、硬直させた。隙あり。

「しまっ…!」

 時すでに遅し、魔女の拳は不可視の速度でもってすでにハイドラの鳩尾を捕らえていた。

「セイッ!」ぐんっ!と、ハイドラの体が一瞬浮く。肺の中にあった全ての空気と共に情けない声が漏れ出す。視界がぐちゃぐちゃになるような痛覚の絶叫。衝撃で全身が痺れ、呼吸すらままならなくなり、ハイドラはその場に沈み込んでしまった。勝負あり。

 そんな彼の横にしょうがなさそうにしゃがみ、魔女は手をかざして治癒魔術をかけた。若草色の光がハイドラの体を包み、彼の体を内外から癒していった。

「はい立つー。打ち込みが浅いし遅い。もっと素早く、鋭く。あと、クリーンヒットとったと思ってもすぐ油断しちゃだめ。完全に倒し切るまで反撃を警戒して、無理が出る前に距離をとるか構えを戻すの。フットワーク軽いんだからインファイトに持ち込むこともないし」

「げほっ…ごほっ、…はい」

 回復したハイドラは立ち上がり、再び構えた。魔女も数歩離れて応じる。

「じゃあ、今度は私から仕掛けるよ。カウンターを狙ってごらん」

 魔女は一息の間に射程に入り、ボディ目掛けての蹴り上げ。それを両腕でガードしたハイドラだったがしかし、腕越しにも衝撃は彼の内臓を揺らし、体幹がぶれる。間髪入れずに魔女の第二撃、顔面へのフック。反射的にガードしようにも体勢を崩される。揺れる視界とおぼつかない足に喝を入れ、ハイドラは気合で構えを保った。しかし、この時上体ばかり守っていたハイドラの下半身はガラ空きになり___

「そこ」

 ビュンッ、と鞭のようなローキック。同じローキックでも、ハイドラのものとは比べようもない練度の一撃。だがお手本だと言わんばかりの、ハイドラが先ほど放ったのと全く同じ軌道をとるその技。ハイドラは戦いの最中、師匠の技を盗もうと一つ一つの動作をしっかり見ていた。だからこそ見様見真似で一歩踏み込む。大腿筋炸裂。肉がぶった切られるような痛みに、ハイドラは思考が端から白くなるような錯覚を覚えた。だがクリーンヒットだけは外せた。そしてハイドラは魔女の胸ぐらと袖を掴むと、足を引っかけて一気に体を捻り、渾身の力で魔女に背負い投げをかけた。

「くっ…らぁ!」

 魔女の体が舞い上がり、弧を描き___そして、何事もなかったかのように両足で着地。一本ならず。だが魔女は満足げな笑顔を見せた。

「…やるじゃないかハイドラ!覚えが早いぞ!でも投げはまだ勉強不足だから今度改めて教えるとして、今は打撃に繋げるようにするとその後の流れが…ハイドラ?」

 魔女が振り返ると、ハイドラは太腿を押さえて地面にのたうちまわり、情けない声をあげていた。

「あー、ごめん。今治すから…じっとして、ほら、手どけて、動くなって」

 そして魔女の手によってすぐさま復活したハイドラはまた立ち上がり、フィードバックを受けては魔女と打ち合う。そんなことを一時間ほど続けるのが、魔女がハイドラに課した毎朝の格闘訓練、早朝組み手だった。ハイドラがアルセノの下で受けていた訓練をもとに、魔女はそれをより実戦に近い形、つまり寸止めなしの打ち合いをさせる中で、並行してハイドラに技術指導も重ねていた。魔女は時に構えや型から教えることもあれば、細かな改善点を挙げてさらなるキレを引き出そうともした。根気強く一つ一つを丁寧に説明し、ハイドラもまたそれを身につけようと努めた。師弟のいつもの朝であった。



「またのお越しをお待ちしております。どうかよい旅を」

 女将に見送られて宿を出た師弟は、次なる街へと歩き出した。ハイドラは新調した剣帯の巻き心地に満足したようで、顔には出さないがその足どりは比較的軽ろやかだった。天気も良好、旅日和。イーストホームズの街は今日もまた、穏やかな一日となるだろう。

 三、四十分ほど歩くと、師弟は関所に着いた。昨日街に入った側とは逆側だ。「よい旅を」と微笑む守衛に会釈し、師弟はイーストホームズを発ったのだった。

 関所の外には緩やかな丘陵が広がっていた。まばらな木立や背の高い草に囲まれた道が丘向こうまで続くが、先日の森林とは違い日差しを遮るものがほとんどなかった。

「…師匠、その格好暑くないんですか?」

 全身黒ずくめの魔女に、ハイドラは素朴な疑問をぶつけた。魔女は歩きつつ今後の道のりを地図で模索しながら答えた。

「いや、大丈夫。暑くなったら服の下に冷風の魔術かけるから平気なのさ」

 魔女は見ていた地図を三角帽の中にしまうと、ハイドラに向かって指を振り、ふわりと心地よい冷気を送った。

「あっ、涼しい。でも服の中でやってたら湿気りそうだ」

「ふふん、そうならないように適度に乾燥の魔術もかけるんだよ。ようは組み合わせってことだ」

 師弟は談話しながら歩いた。まだ勾配もほとんどなく、非常に歩きやすい道だった。草むらには小鳥が降りて虫をつついており、師弟が近くを通ると飛んで逃げていった。

「魔術…できると色々便利そうですね」

 ハイドラの「できない自分」への卑下が混じったニュアンスに、魔女はしょうがないやつだと苦笑しながら答えた。

「そりゃあ便利さ。魔術の本質とは再現だ。本来そのシーンでは為し得ない事象すら、魔力と引き換えに発生させることができるのだからね。取引みたいなもんさ」

「取り引き、ですか」

「そう。例えば通貨制度のもとでは肉が食べたくなってもわざわざ狩りに出たり、一から自分で家畜を育てたりする必要はないだろ?」

 魔女は饒舌に語った。肉屋に相応の代金を払えば、それに応じた肉が手に入る。これは肉を買ったのではなく、肉を調達する労力を買ったとも言える、と。

「魔術にも同じようなことが言えるんだよ。例えば発火現象。普通物を燃やすには、燃料と火種を用意する手間がかかる。魔術ではこれを、魔力という対価に置き換えて行っているのさ。魔力という対価で、その命令を術式が請け負う。或いは、魔力という燃料を術式という火種が燃やす。まあ、実際はもっと複雑なんだけどね」

 なるほど、とハイドラ。

「けど、通貨なら尚更節約したほうがいいんじゃないですか?たかが体温調節に魔力を割くのは、なんかもったいなく感じますよ」

 そう問うハイドラに魔女は一瞬何か考えたようだが、すぐに語弊があったと言った。

「ごめんごめん。これはあくまで君たちにとってはそういうもの、と言う意味で言っただったんだ。私は魔力に制限がないから、魔力切れなんてしないのさ。だから、魔術使いたい放題」

 魔女はからからと笑った。しばらく、無言のままハイドラは魔女の顔を見ていた。魔女も空笑いしているだけで、特に何も言わない。

「…不老不死ってのは前に聞きましたけど、それと関係が?」

「うん、そう。私の不死性は肉体を万全の状態で維持するからね。魔力切れで死んでも、枯渇した魔力を瞬時に再生してしまうんだよ」

 師弟はしばらく、無言のまま歩いた。なだらかな峠を越えて行き、はるか向こうに行くべき街のおぼろげな像が見え始めた。街はどうやら高台に構えられているようで、師弟はいずれ登り坂を越えて行くことになりそうだった。

「人に言ってはダメだよ」

 魔女は口の前に人差し指を立てると、冗談めかしてにやりと笑った。いつも笑ってばかりいる師のことが、この時ばかりは少し不気味に思うハイドラだった。



「前にも言ったけど、」

 ぼうっと自分の手を見つめている弟子に、魔女は声をかけた。

「光の粒は、できたところでそんなに意味はないんだよ。あれはただ魔力を体外放出する感覚を覚えるだけのものだからさ」

 ハイドラは手をポケットに突っ込んだ。

「魔力垂れ流せたところで、術を組み立てる力がなきゃはっきり言ってなんの役にも立たないじゃない。そんなの練習するよりも、理論構築だ。しっかりとした理論が組めれば、低級の術や少ない消費魔力でも威力は出せるようになるから。勉強あるのみさ。あと、自信つける」

「…じゃあ、大量の魔力とクソ複雑な理論構築とバカみたいな自信があったら?」

「神」

「…」

 ハイドラが振り返ると、イーストホームズの街はすでにずっと遠くに行ってしまっていた。その街並みがすっぽり手に入ってしまいそうなほど小さくなって、彼は自分の歩いてきた道のり、その距離を思い知った。だが次の街までの距離はそれより遠い。一向に歩調の緩まない師の足取りにげんなりしながらも、ひとまず左右の足を交互に出すしかない弟子の身であった。

「あっ、これ見なよハイドラ」

 手の代わりに、呑気に空を寝そべる雲を眺めていたハイドラだったが、不意に魔女に呼ばれてその指差す方を見ると、道端にこってりと苔の生えた看板が立っていた。

『この先猛獣注意!人食いウサギにご用心!』

(なんだ人食いウサギって、肉食な時点でもうウサギじゃないだろ)

 そんな主張がハイドラの心を占拠し、彼はそれをため息にして吐き出した。

「はは、しかしまあ、人食いと来たか。さぞ凶暴で血に飢えた化け物なんだろねえハイドラ、これはいい修行相手になってくれそうじゃないか」

 魔女はタトゥーまみれの両手を頭の上で立て、それをぴょこぴょこさせた。

「冗談じゃないですよ…」

 そう言いつつ、ハイドラはすぐにでも抜刀できるよう、鯉口をきって刃の走りを確認した。人食いウサギがどんなものかは知らなかったが、丁寧に真正面から挑んできてはくれないないだろうな、と牙が生えた野ウサギのようなものが草むらに潜んでいるのを彼は想像した。



 師弟はさらに歩き、途中昼食休憩を挟んで丘を二つ越えた。ハイドラが足腰に疲れを感じ始めた頃、魔女は何かに気付いて目を凝らした。前方のずっと向こうでオレンジの物体が暴れているのが微かに見えたのだ。魔女は三角帽の中に手を突っ込み、中から双眼鏡を取り出してその物体を確認した。

「ん〜?あれは…」

「どうしました?」

 ハイドラが魔女に訊ねると、魔女はハイドラに双眼鏡を渡して「ごらん」とその方角を指差した。ハイドラも言われたとおり双眼鏡で覗くと、思わず「えっ」と声が漏れた。あの道化師が見えたのだ。昨日、武具屋の前の通りを歩いていった道化師に、飛び跳ねる灰色の毛玉のようなものたちが襲いかかっていた。道化師は両手にそれぞれ棍棒と手斧と、物騒な得物を振るって応戦していたが、毛玉たちの数が多い。動き回っていて正確な数はわからないが、ハイドラには十匹くらいいるように見えた。さらに、その絶妙なコンビネーションと不規則な動きで撹乱されている道化師は、やや劣勢のように感じられた。

「人助けの時間だ」

 魔女の言葉にハイドラはうなずいた。まさかこっちから魔物に仕掛けることになるとは、と思いつつも、目の前で人が襲われていて見捨てるほど、ハイドラとて薄情者ではなかった。師弟は毛玉に取り囲まれている道化師のもとへ急行した。

 長く垂れた耳と大顎門を持つ灰色の毛玉、人食いウサギことカニバラウス・ファジーロップは肉食性の魔物だ。基本的には臆病な性格で、数匹から十数匹の群れを作って生活し、天敵となる大型捕食者の接近を常に警戒している。だが、一度狩りとなればその俊敏な動きと抜群の連携で獲物を追い詰め、鋭い牙で襲いかかる。主な標的は山羊や鹿などの中型草食動物、他に馬、或いは人間にも襲いかかる。

 獰猛な唸り声を上げ粘っこい唾液を撒き散らしながら、人食いウサギたちはオレンジと白の派手な衣装を着た獲物に齧り付こうとしていた。短い肢体からはとても考えられない跳躍で、人食いウサギは獲物の背とほぼ同じ高さまで跳び上がった。剥き出しの牙がぬらぬらと日の光を反射させる様は身が竦む恐ろしさだが…獲物、道化師は右手の棍棒を容赦なく振り下ろし、向いくる狂気の毛玉を思い切り叩き落とした。完璧なタイミングと絶妙な力加減で、眉間の中心を正確に捉えた棍棒がその小さな頭蓋をかち割ると、肉と骨の境界がなくなる音が鳴り、ウサギは道化師の足元に潰れて朽ち果てた。亡骸が塵と化すという仲間の惨状にも怯まない一羽が、さらに道化師の背後から飛びかかる。だが、お見通しだと言わんばかりに道化師は素早く振り向き、その回転の勢いで手斧を振り抜いた。肉厚の刃がざくりと毛玉の体に食い込むと同時に、灰色の毛皮が裂けてピンクの肉と鮮血が晒される。飛沫を撒き散らしながら、哀れな肉塊がもう一つ野原に転がり、黒い塵となった。

「…思ったより戦えてません?」近づくにつれて道化師の戦いぶりがよく見えてきたハイドラは、派手な衣装と迷いのない動きに目を奪われつつも、ウサギたちの視認距離に入っていた。道化師の動きを見るに、先ほど劣勢に見えたのはあくまで「動きを観察していた」だけだったと気づかされつつ、師弟は各々戦闘態勢をとった。

「そうだね。なんというかあのクラウン、クレバーな戦い方だね。手数で闇雲に戦うのではなく、引きつけての確実な致命傷を狙って一撃。多勢に無勢だからこそ、相手の戦力を効率良く減らそうとしてるんだ…肝が座ってる」

 牙を剥いて飛びかかるウサギをひらりひらりと躱しながら、魔女は道化師を分析した。細身だが筋肉質の体、纏うはオレンジと白の縞模様の衣装、大きく出た喉仏、先の尖った靴、薄紫の髪を覆う帽子は二股に割れ、その二つの先端にまん丸な玉が縫い付けられている。そして、真っ白な顔に紫唇のニンマリ化粧。どこからどう見ても道化師、この場にいるのが不自然極まりない。だが、それ以上に不自然、いや、ミスマッチに見えたのは、この道化師が「全くの無表情」だという点だった。ハイドラも魔女も、それに気付いて少々面食らった。道化師が無表情。道化師でなくとも、襲われていたら普通もっと焦った顔をするものではないだろうか、と。

「大丈夫か、加勢する!」

 ハイドラは道化師に呼びかけたが、道化師は全く感情のこもってない声で素っ気なく「感謝する」と一言返しただけだった。あまりに無機的すぎて悶々とするハイドラだった。だが、とりあえず自分が死なないようにしなくては、と彼は目の前を跳ね回る毛玉どもに集中することにした。



「これで…ラストッ!」

 とどめに上から串刺しにし、ハイドラは息をついた。だが、油断するのはまだ早かった。

「馬鹿っ!」

 魔女が注意を促すより速く、ウサギは体を裂けさせながらも無理やりハイドラの剣から逃れ、彼に飛びかかった。咄嗟のことに体が動かないハイドラ。思わず目を瞑って体を硬直させてしまう。ウサギは最後に一矢報いようとハイドラに噛みつこうとしたのだ。しかし___

「……!」

 ブンッと棍棒がハイドラの鼻先を掠め、瀕死のウサギは横殴りに吹っ飛んだ。ウサギはやはり可愛げのない断末魔を上げながら、空中でその身を朽ちさせた。

「…あ、ありがとうございます」ハイドラは尻餅をつきながら胸を撫で下ろした。道化師はその礼に返事をせず、慣れた手つきで棍棒と手斧を回して、刃や先端にこびりついたウサギの体液を地面に飛ばした。

「もう、最後まで油断するんじゃないよ馬鹿弟子…」

 魔女はハイドラを少々乱暴に立たせながら小言を言ったが、ハイドラは借りてきた猫のような大人しさでなされるがままだった。そして、道化師はそんな師弟に目もくれずスタスタと歩き出していくのだった。

「ああ、ちょっと待ちたまえよクラウン殿」

 ハイドラにヘッドロックをかけながら、魔女は去ろうとする道化師を呼び止めた。

「何か用か」

 道化師は振り返りすらせずに応じた。その声色はどこまでも無機質で、ハイドラは少し不気味に思った。

「いや、君もこのまま道なりに行くんだろう?私たちもそうだから、途中まででも一緒に行かないか?」

 魔女の提案に道化師は応えた。

「不要。この辺りの魔物なら私一人でも対応可能だ」

 だが魔女は食えない笑いを口元に添えながら、「複数人で対応した方が効率はいいよ?」と言った。すると、道化師はほんの一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐに「承知した」と言って振り返った。

「私の名はサイライカ。道化師だ」非常に簡素な自己紹介と、感情という感情が欠如したような喋り口だった。その顔はまるで仮面のように、喜怒哀楽あらゆる表情を見せなかった。完全なる無の表情。ハイドラは喋る機能だけ持った人形に自己紹介されているような気分だった。



 ハイドラと魔女の数歩先を歩く道化師・サイライカは、無感情そのもののような男だった。顔に塗りたくられた厚化粧は絶えず笑っていても、その奥の冷たい瞳や真一文字に閉じられた口、さらに元の荒削りな顔つきが相まって、その顔はある種の恐ろしさすら秘めていた。ハイドラは道化師全般に対して特別恐怖を感じる性質ではなかったが、このサイライカという「笑わない道化師」には何か極めて歪なもの感じていた。だが、一人悶々とするハイドラを知ってか知らずか、魔女はいつもの朗らかな口調でサイライカに話しかけた。

「ねえ、君はどうして旅をしているんだい?」

 サイライカのやや速いペースの足取りに難なくついていく魔女は、「私たちはこの子の修行の一環で、私は師匠役としてだけど」と自分と疲れ気味の弟子を親指で指差した。これにサイライカは簡潔に「ある男と物を探している」と答えた。ハイドラは、そういえば最初に見かけた時も何か探し物しているようだったなと、周囲をキョロキョロしながら歩いていく彼の後ろ姿を思い出した。

「私の感情を奪った男と私の感情だ。心当たりはないか」

「え?」思わず声を出してしまうほど、ハイドラは突拍子もなく感じた。ポエムか?とハイドラの脳内は疑問符でいっぱいになった。だが、魔女はサイライカの話を笑うでも訝しむでもなく、少し真剣そうな顔をしてさらに訊ねた。

「…魔術師かい?」魔女の問いに、サイライカは間髪入れずに「そうだ」と答えた。一人話についていけないハイドラは、頭の中の疑問符を打ち消せずに二人の話を聞くだけだった。

「かつて私は通常の人間だった。だが百五十一日前に魔術師の男に感情を液体にされて奪われたのだ。以来私は男の行方を探している」

 サイライカの説明に、ハイドラはようやく話が見えてきた。つまり、取られたものを取り返そうと犯人を追っているわけだ。しかし、「感情を液体にされて」というのがハイドラにはよくわからなかった。

「あの、サイライカさん。ちょっとわからないんですけど。感情を液体にされてってのは?」

「不明だ」

「えぇ…」

「ただ男が何か唱えながらガラス瓶を私の顔に押し付けその瓶の内部に勝手に液体が溜まっていくと同時に私の感情が消えたのだ」

 サイライカは少し俯いた。感情がないと語り、実際に表情一つ変わらない彼の顔に影ができた。それは空白なる彼の心境を語っているようにも見えるが、しかしハイドラたちからはそれを伺うことはできなかった。

 魔女は少しぶつぶつと何かを独りごちた後、またサイライカに訊ねた。

「対象の感情を液体化して奪う魔術、か。完全にそいつのオリジナルだね。サイライカ、君は魔術についてはどの程度理解がある?」

 その問いにサイライカは「まったくの無知だ」と即答した。それを聞いた魔女は少し残念そうに肩を落とした。

「そうかぁ…術の構造さえわかれば、もしかしたら私が治してあげられるかもしれないんだけど…」

「それは本当か」

 サイライカは立ち止まると、魔女の方へぐいんと振り向いて食い気味に言った。ハイドラはその挙動に少し肩を跳ねさせたが、そんなことよりもたった今魔女が言ったことが気になった。

「師匠、そんなことできるんですか?今の感じだと師匠もその魔術自体は知らないんでしょう?」

 魔女はサイライカを手で制止しながら応えた。

「うん、精神活動を物質化する魔術とかそんなの聞いたこともない」

 ハイドラは「だめじゃねえか」と脳裏で呟いたが、魔女は「だけど」と続けた。

「あらゆる魔術は理論なしに成立し得ない。つまり、裏を返せば構造さえわかれば再現くらいはできるのさ。例えば詠唱がある魔術なら、使われる語のニュアンスや並べ方なんかさえ判明すればほぼいける。または簡潔な魔術であればあるほど、最終的に導きたい効果がわかれば、細部は違えど似た術式は組める。そして、魔術はその性質上、より超常現象そのものに近い効果のものなら、基本的には詠唱があるはずなんだよ」どうだい?と魔女はサイライカに問うが、サイライカは首を横に振った。

「確かに男は私にその魔術をかける時に何か唱えていたがなんと言っていたかまでは聞き取れなかった」

 ハイドラは、サイライカには感情がないというのに彼が肩を落としたように見えた。

「それか、」

 もう一つ提案がある、と魔女は人差し指を立てた。サイライカは眉一つ動かさずに顔を上げた。ハイドラには彼が興味深そうにしているように見えて、やはり彼は多少感情が残っているのではないかと思った。

「新しく君に感情を植えつけてやるか、だ」

 そんなことすら可能なのか、とハイドラはにわかには信じ難かったが、魔女は確固たる口調で「できるよ」と言って憚らなかった。

 ならそうしたらいいじゃないですか、とハイドラが言おうとした時、しかしサイライカは「それは遠慮する」と首を振った。ハイドラはそのサイライカの返答に疑問を抱き、彼に問うた。

「え、なんでですか?この場で感情が戻るんだったら、もうその男を追う必要もなくなるでしょうに」

 サイライカはしばらく思考した。やがて、やはり顔色は変えず口を開いた。

「確かにただ私は感情を求めている。かつての心豊かだったクラウンサイライカに戻りたいと希望している。だがだからこそそのためにはあの時の心を取り戻す必要があると私は考える。新たな心を得てしまってはそれ以降の私は『その瞬間から生まれた新しい私』になってしまい『かつての私』には戻れなくなると私は考えるのだ。だから私はあの男から直接『私の感情の液体』を取り戻さなくてはならないのだ」

 熱なく熱弁するサイライカを見て、ハイドラはやはりこの道化師は自覚していないだけで心が残っているんじゃないのか、と錯覚した。



 その日の夜、道沿いの開けた場所の草を刈り、師弟と道化師は火を焚いて野営にした。三人は魔女が帽子から出した保存食で手早く食事を済ませて休息をとった。

 サイライカの「私は眠らないので二人とも休むといい」という言葉に甘え、魔女は早々に眠りについたが、とはいえ睡眠中の彼女の周囲には微細な魔力の粒子が漂っていた。それがレーダーのように常に周囲を警戒しているのだった。もしも野盗や魔物が襲撃してきても、最も対応が速いのはぐっすりと眠っている魔女に他ならないというのは、きっと襲う側からしたら思っても見ないことだろう。

 ハイドラは、魔女からすぐに寝るよう言われていた。今日も今日とて歩き詰めで、当のハイドラも疲れは感じていた。しかしサイライカのことが気になって眠れず、木の枝で薪を足す彼とともに、揺れる炎をまったりと眺めていたのだった。

「眠らないのか」

「サイライカさんこそ、俺たちに気を使わなくていいですよ。火の見張りなら交代でやりましょう」

 ハイドラは薄手の毛布をサイライカに差し出したが、しかしサイライカは受け取らなかった。

「気を使ってなどいない。私は半亜人だ。その特性で必要な睡眠時間が短いからに見張りを買って出たすぎない」

「半亜人?」

 サイライカは二股の帽子を脱ぐと、髪をかき分けて頭から生えている二本の不揃いな長さの突起をハイドラに見せた。

「母は非亜人だが父がキリン系の亜人なのだ。それが遺伝して私も一日に数十分眠れれば十分な体に生まれた」

「亜人と人のハーフ…俺、亜人系の人は会ったの初めてです。キリンって睡眠時間短いんですか」

 この世界には、別種の生物に類似した身体的特徴をもつ人種がおり、それらは「亜人」と呼ばれていた。彼らはそれぞれの生物の性質により、身体能力や感覚器官が非亜人よりも優れていることが多く、それに合わせて生活習慣などにも相違が生まれることが多い。人口の割合では非亜人の方が圧倒的多数派で、そのため一部では外見などによる差別や偏見の対象となることも少なくない。

 ハイドラは渡しそこねた毛布で自分の体を包んだ。サイライカは帽子を被りなおすと「もっとも気を使うなどということは『感情』のない今の私には不可能なことだ」と言った。

「感情がない…本当に?」

「本当だ。そう説明したはずだが何故問う?」

 ハイドラは少し、言葉を選ぶように時間をかけて言った。

「…感情がないなら、心がないというのなら、『感情を取り戻したい』っていう欲求はどこから来ているんだろう…って思って」

「……」

 サイライカは、少しの間黙った。ハイドラは良くないことを言ってしまったかと彼の顔を覗き込んだが、しかしサイライカの鉄仮面からは何も読み取れない。しばらくして、サイライカは口を開いた。

「確かにこれは欲求。つまり願いだ。だがまたは生命体が持つ本能そのものであるならば感情ではない」

「本能…」

「そうだ」

 人が心を欲するのは、本能か。感情を持つこと求めるのは決して感情によるものではないのか。ハイドラは問いを重ねた。

「本能は…心ではないんですか?」

「…。私は似て非なるものだと考えている。それは私がこうして自分の中に感情を全く見出せなくなってもなお保っている行動原理であるからだ」

「…」

 ハイドラは、例えば空腹の時のことを考えた。体が空腹を訴えるのは、物を食べなければ最終的に死んでしまうからという、生命の本能によるものだろう。だが、例えば疲労が限界に達した時など、空腹を感じていても食欲が湧かない状況をハイドラは知っていた。例えるならずっと食欲が湧かない体で、けれど空腹にはなるから物を口にする、そんな生。ハイドラはサイライカの、感情のない彼が感じているかはわからない苦しみに思いを馳せた。

「…辛いですよね」

 サイライカは応えた。

「…。感情はない」

 夜の草原に吹く風が、旅人たちの囲む焚火を揺らす。薪はパチパチと火の粉を散らす。空に煌く星々は黙って彼らを見下ろす。ハイドラはいい加減に寝ないと明日に響くと思って「お言葉に甘えさせてもらいます」と横になった。サイライカはうなずき、少し弱くなった焚火に薪を足した。草原の夜が更けていく。



「師匠」

「ん?」

 サイライカと別れたあと、丘上の街へと続く坂道を歩きながら、ハイドラは魔女に話しかけた。

「心って何ですか」

「おや、難しいことを聞いてくれるねえ」

 ハイドラはサイライカと昨晩語ったことを魔女に説明した。

「ふむ…心を失って、なお残る行動原理が本能、ねえ…」

「…俺にはどうも、サイライカの心が全くないとは思えなかったんです」

 彼は無機的で確かに感情が希薄だっけれど、それでも「自分の心を取り戻す」ことに執着していた。それは本当に「本能」なんでしょうか、と。ハイドラは魔女に訊ねるが、しかし魔女は「さぁね」と軽く返した。

「そもそも、彼が完全に感情を失っていたかどうかなんてのは、本人にすらわかりはしないと思うよ」

「…どういう意味ですか?」

「さっきハイドラも問いかけたね。『心とは何か』。まず、これに明確な定義は存在しない。精神の働きだとか、物事の真意だとか、何かに対して向ける感情だとか、いろんな意味がある」

「はあ…」

 全知の大賢者ならもっと明確な答えを出すものと期待していたハイドラだったが、しかし魔女はかく語る。

「サイライカの言っていた『心を失った』ってのは多分、あらゆる物事に対して『何も感じなくなった、思わなくなった』ってところじゃないかな。でも、それが真実だとは限らない。それが『感情を取り戻すことに対する執着の感情』以外がそうだっただけで、サイライカがその感情の存在に気付いていなかっただけかもしれない。それとも、サイライカの語った『本能』すら、心なのかもしれない。或いは本当にシステムだけに生かされていた人形のような人間だったのかもしれない。いろんな可能性がある。だけど、結局全部間違いかもしれないし、なんなら心がないフリをしていただけかもしれない」

「…」

 ハイドラは無表情な道化師の面影を思い出した。真一文字に閉じた口と、読み取れるものが皆無な目。振る舞い一つ一つが人間らしからぬ規則的なもので、さすがにフリではなかったろうな、と魔女が挙げた可能性の一つを内心否定した。

「まあ、本人すらその真相を知ることはないだろう。彼のいう心が戻るその時まで、或いはそのあとも。きっとね」

 ところで、と今度は魔女がハイドラに問いかけた。

「きみは、心とはなんだと思う?」

 ハイドラは一瞬考えて、にやりと笑って答えた。

「腹が減った時に、食べたいものを思いつくこと。干し肉ですかね」

 魔女は「はは」と笑った。

「街に着いたら、まずはどこか店に入ろうか」

 師弟は昼食を何にするか相談しながら、丘上の街へと続く坂道を歩いた。

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