第一話:勇者の後継

 アーランの葬儀は、今にも降り出しそうな曇り空の下で執り行われた。墓地には村中の人が別れを告げに、一輪ずつ花を持ってあいつの墓前に参じた。皆、泣いていた。俺もよく知る近所の大人たち。アーランの友人たち。幼い子供たち。俺の親父とお袋。それに伯母さん…アーランの母さんも。けれど大勢が涙を啜る中、伯父さんと俺の二人だけが泣いていなかった。俺の涙はとうに枯れていた。今はもう悲しみよりも、ただの空虚が俺の内を満たしていて、牧師の唱える祈りや墓地に渦巻く嗚咽は、俺のどこに引っかかるでもなくさらさらと過ぎ去るだけだった。ただ、己が息子との離別であっても、人前で涙を流すことさえ許されない伯父さんの身の上を気の毒に思った。

 やがて、牧師の祈りが終わった。葬儀が終わるのだ。アーランに別れを告げなくてはならない。皆列を成し、真新しい墓標の前に花を供えては涙ながらに別れの言葉を口にし、そして去っていく。彼らが一人一人去っていくのを見ていると、あんなにも皆から愛されていたアーランがいつかは誰の記憶からも忘れ去られてしまうような気がして、俺はアーランの墓標の前になかなか進めなかった。俺まで花を置いて去ってしまったら、アーランは独りになってしまう気がしたのだ。

 俺が立ち尽くしているうちに、参列者たちは墓地からも去っていった。父さんが墓地を出る前に俺に何か言っていたけれど、俺は生返事をしただけで全部聞き流していた。

 静かだった。涙は流れない。俺は色とりどりの花で飾られた墓標を見つめた。アーランは花が好きだったが、死んだら喜ぶことすらできない。墓標は賑やかだけれど、その中で蓮華は二輪しかない。伯父さんと伯母さんが手向けたものだ。俺の手にも、蓮華が握られていた。俺はゆっくりと墓標に近いた。そして墓標の後ろに背を預けて座り込んで、少し震える膝を抱いた。手の蓮花を眺めると、胸の中で思い出が蘇りかけては次々と死んでいって、俺はひたすらに苦しくなった。

 蓮華は、アーランが一番好きだった花だ。だが本人からそう聞いたことはあっても、俺はその理由を知らなかった。何故好きだったのかは、もう訊ねることができない。これが離別か。

 止むことのない溜め息をまた一つ吐き出しながら、薄暗い空を見上げた。重たい雲海がどこまでも続くはずの春の空に蓋をしていた。雲はアーランの魂があの世に逝ってしまわないよう頑なに通せんぼでもしているようにも見えて、けれどそうなるとアーランの魂は安まらないだろうから、それはそれで嫌だなとか、取り留めもないことを考えた。どうしようもなくなって、やっぱり涙は流れなくて、抱えた膝に顔をうずめた。

 しばらくそうしていると、不意に誰かの足音が近いてきた。足音は俺のすぐ隣で止まり、俺は足音の主に肩を叩かれた。振り向くと伯父さんがいた。アーランと瓜二つの顔つきや金色の髪を見て、その時抱いた一瞬の「もしも」という幻想を殺すために、俺は伯父さんから目を泳がせた。

「…どうしたの、伯父さん」

「いや、ね。これをハイドラに渡しに来たんだ」

 見ると、伯父さんの手には見覚えのある物がにぎられていた。古い革の鞘に納められた、少し短い片手剣。伯父さんが差し出したそれを、俺は受け取るべきか迷った。アーランの剣だ。俺なんかが受け取っていいものか?伯父さんからしたら、たった一人の愛息子が一番大事にしていた宝物ではないか。伯父さんの顔を見上げるといつもの英雄然とした勇ましい微笑みはなく、代わりに悲痛な、どこか申し訳なさそうな微笑みがあった。

「受け取ってくれないかい」

 そう言う伯父さんの声には力がなく、だからこそ俺はもはや拒めなかった。剣を受け取ると、伯父さんは「ありがとう」と言って、眠る愛息子の前にしゃがんだ。

「アーラン、お前の剣はちゃんとハイドラに渡したから…ハイドラが戦う時、お前も側で力を貸し、彼を守るんだ。お前たちはこれからも、二人で戦っていくんだ」

 その言葉に返事をするものはいなかった。もしかしたらその言葉は、アーランだけに向けられたものではなかったのかもしれない。だが、返事をできるものは誰一人としていなかったのだ。

 そして、伯父さんは何か決心するように深呼吸してから、再び口を開いた。

「…ハイドラ、実はもう一つ話がある」

 俺も、おおかた何の話かはわかっていた。あるいはそれこそが本題だったとすら思う。そしてその話はきっと、本来「正しいこと」ではないということも、しっかりわかっていた。けれど、それでも俺は「だめだ」なんて言えなかった。仕方なく「うん」と答えると、伯父さんはなおも言いにくそうに、言葉を探り探り話し出した。

「こんなことを今君に言うのは…酷いことだと思う。けど、これは僕や君だけの問題じゃない…わかってくれるかい?」

 俺は墓石に背を預けたまま聞いた。すごく大事な話だというのに、今の俺は伯父さんの目を見て話を聞けるような強さを持っていなかった。

「大事なことなんだ。皆のために、必要なことなんだ」

 正直、本当は聞きたくなかった。できることなら逃げ出したかった。

「…もう、何を言われるかわかってると思うけど」

 その役目は、俺には荷が重すぎるから。

「……ハイドラ。勇者の後継になってくれ」



 アルセイラ王国。広大な領土と数千年の歴史を持つ、俺たちの住む国だ。この国にはとある伝説と伝統がある。伝説に曰く、「魔物の王現れし時、勇者これを討つ」。そして伝統とは、その勇者の血脈を途切れさせぬこと。

 はるか昔、人類は古の魔物たちによって支配されていたが、ある時現れた戦士たちによって人々は解放されたのだそうだ。以来、数十年から数百年に一度、魔物の中で強大な力を持った個体が生まれるようになり、そいつは魔物たちを率いて人類に復讐するために攻めてくるという。

 実際、直近だと今から三十年ほど前にも人類と魔物の大きな戦さがあったらしい。そして当時魔王と戦ったのが英雄アルセノ、俺の伯父にあたる人物だ。まだ十代だった伯父さんは魔王討伐の旅をし、その途中で出会った六人の仲間とともに魔の領域たる深界に乗り込み、見事魔王を討ち倒したのだそうだ。その武勇は今なお、「勇者」「英雄」の名とともに語り継がれている。

 勇者の役目は、代々その直系の子に引き継がれるのがしきたりだった。しかし今、アーランの死がその伝統を破綻させつつあるのだ。

 下世話な話、伯父さんたちが新しく子を作るのはだめなのかと考えたが、しかし伯母さんもそう若くはないので難しいかもしれない。伯父さんが他の女性と子をもうけるというのも、少なくとも俺たちアルセイラ人の倫理観ではありえない。仮に夫妻が子をもうけられたとしても、その子が勇者として一人前になるまでに伯父さんは歳をとる一方だし、伯父さんが衰えて子も未熟な時に魔物の軍勢が攻めてくればどうしようもない。だが、幸か不幸か俺がいて、白羽の矢だ。

 代々の勇者が実子にその役目を受け継がせていたのは、無意味な因習によるものではない。曰く、俺たちの一族は「魔王に対抗する力」をその血に受け継いでいるらしい。それを後世へ色濃く残していくためのしきたり、なのだそうだ。その点でいえば俺はいわゆる「分家」の人間だった。先先代から見れば、伯父さんの弟である親父は直系と言えるが、俺は既に親父から一本別れた血筋ということになるから、本来俺がその役目を背負うことはないはずだったのだ。

 アーランの葬式の後、俺に後継になるよう言った伯父さんは諸々をわかっていながら、そう言わざるを得なかったのだろう。そして俺も、これを断ることなどできなかった。俺が断ればことが今よりも悪い方へ傾くのは目に見えていた。___ああ、いや、本当は断る勇気すら、俺にはなかっただけなのだけれど。



 アーランの葬儀から一週間が経った。村はゆっくりとだが、以前の雰囲気に戻りつつあった。都会にはない田舎ののどかさ、春の陽気、畑仕事をする風景、ひらひらと飛ぶ蝶を追いかける子供たち。何もかも元通りの村に、アーランだけがいない。俺はそれが苦痛でしかたなかった。

 ここのところ、朝が来るたび俺は息と心臓とを圧し潰されるような気持ちになった。慕っていた従兄の死、それによるあいつの代替となる義務の発生、周囲から視線とともに向けられる濁った思念。それらは絵具塗れの筆を濯いだ水のように混沌としていて、しかし俺はこの淀みを黙って飲み下すしかない、そんな日々が巻きついて剥がれないのだ。

 自室で身支度をしながら、俺は自分の生まれた意味なんかについて考えた。俺はかつて、将来勇者になったアーランを守るために、あいつの旅についていこうと考えていた。親父の畑仕事を手伝う傍ら、昔この村にいた剣士に教えを請ったこともあった。その剣士…ゼト先生が去った後も、俺は剣を振り続けた。それは俺自身が勇者になるためじゃない。だが今の俺は…今じゃまるで、アーランの代わりになるために生まれてきたみたいじゃないか。俺はずっと、自分はアーランを守るために生まれてきたのだと思っていた。けれど現実では、当のアーランは旅立つ前にその短い一生を終えていて。それともやっぱり、俺はアーランを守るために生まれてきていて、しかし生まれた意味を失った、ということなのだろうか…。答えの出ない問いに内臓を揺さぶられるようで吐き気がした。

 着替え終わり、俺はベッドの横に立てかけていた件の剣を掴んで部屋を出た。階段を降りると、リビングで縫い物をしていたお袋に呼び止められた。

「あんた…最近顔色が悪いんじゃないかい?修行、やっぱり辛いのかい?」

 お袋は、俺が勇者の後継になったことを伝えたとき、ほのかに機嫌を良くした。本人としては無意識なのかも知れないが、そのことが頭をよぎって、俺は少し、この人と話すのが好きではなくなっていた。

「別に」

 俺は吐き捨てるように冷たく言い、お袋の「いってらっしゃい」という言葉も無視して家を出た。

 表を歩くのが憂鬱だった。誰かとすれ違うたび、そいつらはみんなして「頑張れよ」とか、「今日も訓練か」とか訳知り顔で言ってくる。その言葉や声色に反して、その時のやつらの目には憐憫や侮り、または嘲笑が垣間見えるのだ。全て透けているようだった、周りがどう思っているのかなど。俺はアーランに劣る男で、勇者の後継には血筋以外で相応しいところのない奴だと。そんなことは俺が一番わかっている。だから、俺を見るな、俺に話しかけるな。そう念じながら、俺は地面だけ見て伯父さんの家へと向かうのだった。

 いつもと同じように時間は昼前、俺は伯父さんの家にたどり着いた。小さな村なので、距離としてはそう離れてもいない。ただ、長く感じる道のりではあったが。伯父さんの家は村で一番大きな家で、その立派な戸を叩くと、中からやつれ気味の伯母さんが出てきて俺を出迎えた。アーランが死んでからというもの、伯母さんは抜け殻のようになってしまった。以前は表情豊かな美しい女性だったが、最近は常に暗く微笑んでいるだけで、必要以上の言葉を発さなくなっていた。修練場となっている中庭に通され、待っていた伯父さんと準備体操をする。

「それじゃあ今日も剣術からにしよう」

 次代の勇者になるために、俺は伯父さんから直々に手ほどきを受けることになった。剣術と格闘術、それと座学。分野は多岐にわたった。あらゆる戦に勝利し、どんな魔物でも倒し、いかなる苦境からも生還すること。それが勇者に求められる条件だ。そしてその上で、人類を救う英雄としての体裁…つまりは振る舞い方もまた、これが「人に見られる」役割であるから存外重要で、礼儀作法なども教えられることになった。

 伯父さんはもう、伯母さんとは違って一見すると息子の死から立ち直ったようには見えたが、それも所詮は見せかけに過ぎなかった。表情のかたちやらは元に戻ったように見えても、やはりどこか生気のなさを感じる。息子の代わりとして甥に自分の後継の訓練をつける心境など、考えたくもなかった。

 準備体操を終えて、軽く素振りをしたら、あとはひたすらに模擬試合だった。伯父さんの教え方はいわゆる、「見て学ぶ、体で覚える」ことを前提としたような感じだった。もっとも、俺はそれで特に文句はなかった。一応手加減はしてくれるし、その上でダメなところは口で言ってくれる。剣は今までも振っていたから、いまさら基礎理論など説かれてもしょうがない。

 剣術の後の、格闘訓練も同じだ。構えや打ち方、受け方の基本だけさっと教えられると、そのあとはひたすら模擬戦を通して動作の練習が延々と続く。打ち込んで、受けて、避けての繰り返し。だが、なんというか、徐々に体が慣れていく一方、しかし成長している気はしない。本当にただその打ち合いに慣れていくだけのような気がした。アーランは、たったこれだけのことから何かを学ぶことができていたのだろうか。だがあいつはいわゆる天才だったから、これで問題なかったのかも。俺の吸収力のなさが問題なのかもしれない。とにかく、午前中はこの二つの訓練が主だった。

 昼休憩を挟んだ後の座学は、ずっと座っていること以外は苦ではなかった。この辺りには学舎がないので、俺は小さい頃に読み書きと計算を教わって以来、ただ純粋に知識を学ぶという機会はあまりなかった。挿絵の中で初めて見る動植物や、世界の歴史が書かれた書物を読むのは新鮮で楽しく思えるし、何より旅をしていた頃の話をする伯父さんはたまに生気が戻ったような笑顔を見せてくれることがあった。それが少し、俺は嬉しかった。

 しかし良くないことは確実に存在し、そしてそれは極めて大きな弊害として俺の前に立ち塞がった。

「…魔術不全、かも知れない」

 伯父さんは脈をとるように俺の手首を軽く握り、深刻そうに言った。一日の最後には魔術を教わることになっていたのだが、これに関しては何日経ってもまったく進まなかった。俺は魔術の訓練など今まで受けたこともなかったのだが、伯父さん曰く通常誰でもできるらしい《光の粒》なる、厳密には魔術ですらない基礎の基礎たるそれに俺は苦戦していた。これは魔力を体外に放出する感覚を覚えるためのいわば準備体操のようなものだ。特別な習得条件があるわけでもなければ難しい理論を構築する必要もない、言ってしまえば魔力を垂れ流すだけのそれを、どう足掻いてもできはしなかった。伯父さんの手から溢れ出た光に触れ、その仄かに温かい湯気のような感触を反芻して指先に集中するが、俺の手から光の粒が生まれることはなかった。

 一向に発光体の出てこない様子を訝しんだ伯父さんは、俺の手首に触れてそう言ったのだ。どうやら、体内を血液がごとく流れるはずの魔力の動きが滞っているという。原因ははっきりとはわからないが、こういった症状の多くは「心因性」であることが多いと語る伯父さんの顔には、この間の葬儀の時のような痛ましさが舞い戻っていた。



 剣を振り、体術に身を慣らし、本を読み、出ることのない光を絞り出そうとする日々に、徐々に心が磨耗していくのを感じた。俺は訓練に明け暮れた。それは単に立派な勇者になろうと思ってのことではない。色んなことから目を背けるための、ただの逃避だ。毎日会う伯母さんの俺を見る無機質な瞳の奥に、知ってはいけないものがある気がした。息子の代わりにお前が死ねば良かったのに、なんて、そんなこと一言も言われてはいないのに。また、自分の家と伯父さんの家と往復する間に会う顔見知りたちの目。何故お前が次の勇者なんだ、とは彼らは一言も言っていないのに。だが一番目を背けたかったは、それらの目に垣間見てしまった邪推を振り払うために訓練に打ち込んでも、成長などしない自分自身。力むだけで結果がひり出されるわけもなく、そしてそれが普通ならたやすくできるはずのことだという事実に心乱れる。歯痒い。どうしようもないのか。そうなればもう周りの目など直視できず、しかし自己を見れば不出来が目につきすぎる。目のやり場に困るあまり、目を瞑ろうとするのだけれど、そんな時決まって不意に、アーランなら、なんて考えてしまうのだ。俺じゃなくてアーランなら、うまくやっていたんじゃないか、と。そんなことは考えるだけ無駄だというのに。

 ある日、その日も光の粒は出ずじまいの訓練の終わりに、伯父さんに訊ねたことがある。

「アーランは、すぐにできたのかな」

 その不躾な問いに優しく答える伯父さんはやはり、英雄だとか勇者だとかいう前に一人の「大人」で、そして嘘が下手だった。

 ちょうどその日の帰り道だったろうか、俺が本格的に壊れてしまったのは。掌にできた血豆とたこを親指で雑にこねながら、家路についていた。俺の家と伯父さんの家との通り道の途中、川を跨ぐ石橋がある。そう立派な川でもないが、村の田畑の水はこの川から来ている。そうして村から重宝されているせいか、この川にはしっかりとした石橋がかけられていた。子供たちのたまり場になることも多い。よく、俺もアーランとこの橋で釣りをした。

 そんな橋を渡ろうとして、その時橋の下から話し声が聞こえた。

「なあ、ハイドラのことどう思う?」

「ハイドラ、ハイドラねぇ」

 村に住む、俺より三、四つ年上の奴らの声だった。アーランとほぼ同い年で、アーランはこいつらともそれなりに打ち解けていたが、俺個人はこいつらがあまり好きではなかった。

「あいつ、なんつーかいっつもアーランにべったりで金魚のフンみてーだったけどよ、どうだよ今」

 無視してさっさと行ってしまえばよかったものを、俺は何故か金縛りにあったように動けなくなった。そしてその場に立ち尽くしてしまったばかりに、その会話を直に浴びてしまったのだ。

「や、もうマジで幽霊かよ!っての。元々陰気臭かったのに、最近拍車かかってんぜ。キモすぎ」

「そうそう。でさ、この前あいつ見かけたワケなんだけど、なんかあいつアーランの剣持ってたっぽいんだよね…で、アルセノさん家の方に歩いてったワケよ」

「は?なんであいつがアーランの剣持ってんだよ、キモ」

「んじゃ例の噂マジだったんじゃね?あいつが次の勇者になるって」

 西日が容赦なく俺の背を刺し、橋には真っ黒な影が長く伸びていた。その橋の下の会話はなおも続くが、しかし俺は足を動かせなかった。ふと気がつくと、暑くもないのに脇の下や背中がぐっしょりと汗で湿っていた。一筋の滴が、たらりと額を伝う。

「はー、ない。それはないわ。アーランの代わりってことだろ?勤まるワケねーだろンなもん」

「キモ、あんな陰気野郎が勇者とか。つーかアーランが死んであいつが勇者になるってのが納得いかねー」

「マジでそれ。なんでアーランが死ななくちゃいけんくてあいつが生きてんだっつーの」

 橋に伸びた影の下から、声は続く。俺は、まるでこの真っ黒な影がぺらぺら喋っているかのような幻覚に襲われた。自分の心拍が上がっていくのを、耳の中で響く大きな脈の音で理解した。早くこの場から去らねば、そう思っても足は動かない。逃げなければならない、のに。どうしても、体が言うことを聞いてくれない。ここにいては、俺は___

 そして、影は言った。

「アーア、アイツガ死ネバヨカッタノニ」

 顎先から垂れ落ちた汗の滴が橋の石畳に弾け、その奇妙なスローモーションを知覚した後、俺はようやく我に返った。荒くなった呼吸を整えることもできず、けれど言うことは聞くようになった足を必死に動かし、俺は遠回りして帰るために、ずっと遠くにある別の橋へと踵を返した。

 次の日、なんと言ったか覚えていないが、とにかく俺は少し休ませて欲しいという旨を伯父さんに伝えた。すると意外なことに(本当に毎日訓練していたため断られると思った)伯父さんは快くその申し出を許し、俺は一週間ほど訓練を休ませてもらうことになった。別に、体がどこか痛むわけではない。掌にできた赤黒い血豆も、柔な皮が剥がれて剥き出しになった指の肉も、剣を振る時なんとも思わないし、全身の青痣や無数の擦り傷などは押しつけようが叩こうが何も感じない。ただ疲れた。それだけだ。



 今日、甥が休みを請うてきた。無理もない。彼に私の後継を任せたいという旨を伝えた次の日から、つまり倅の葬儀の次の日から今日まで、毎日訓練をつけていたのだから。あまり感情を表に出さない子だから今日まで気づかなかったが、しかしよく顔を見れば、もうとっくに限界だったのだとわかったはずなのに。倅を失った悲しみと、一族の責務を守らんとする余り、私も盲目になっていたようだ。甥には一週間ほど自由にするよう言った。しかし気がかりなのは、今日の彼はいつにも増して元気がなかったこと。倅が死んでしまってからというもの、彼の顔に影がさしていない時は一時たりともなかったが、それにつけても今日は一段とやつれていたというか。もっとも、だからこそ私も彼の異変に気づけたのだが。

 背後の窓から差し込む午後の日光が書斎を舞う埃をキラキラと輝かせているのを見て、私は彼の魔術不全について思い出した。座っている椅子の背もたれに体重を預け、リラックスして手を軽く広げる。そして指先に熱を集めるイメージで、魔力を溢れさせてみた。小さな青白い光の粒は、人魂のようにふわりと浮いて、やがて虚空に溶けて消えた。かなり集中力を使った。私もまた、一種の魔術不全を患っているのである。だが症状は軽い。甥のように全く魔力を扱えないほどではなく、あくまで「扱いにくい」という範疇での話だ。

 かつて旅をしていた頃の私は自在に魔力を操れるほどの技能を身につけ、様々な魔術を駆使して冒険に生かした。だが魔王との決戦は熾烈を極め、最終的には勝利を収めたものの、私は魔王の攻撃によって脳を損傷した。奇跡的に命は取り留めたものの、その後遺症として以前ほど魔力をうまく扱えない身となってしまったうえ、その延長として「あの力」までも…。

 閑話休題。とにかく、甥が必死に光の粒を出そうとしているのに見ていることしかできないという現状をどうにかしようと、私も空いた時間はこうして書斎にある魔術関連の書物を読み漁っている。しかし、事は極めて専門的かつ繊細な問題だ。門外漢たる私はその解決策を未だ発見できずにいる。ただ、おそらく原因は心因性だろうということは明らかだった。彼の場合、神経系に傷を負ったわけではなく、また原因になりうる心的外傷、それらしい出来事にも心当たりがあるからだ。つまり、倅…彼からしたら従兄…の死である。

 旧知の魔術師、共に旅をしたエンディグマにこの事を相談するか考えた。しかし彼女は住処から離れることができない身で、私もいつ王から召集されるかわからない身。お互いおいそれと長期の外出ができるかというと、難しい。それに、文通だけで解決できるような問題でなければ?そもそも、実際に甥を診せてみないとエンディグマとてなんとも言えないのではないだろうか。特に心の問題なら、絶対に直接話せるようにすべきだろう。あくまでも第三者たる私の、外野から見てのことだけで解決をのぞめるべくもない。或いは、仮に倅の死に端を発するとすれば、それは甥自身が自力で克服するほかないのでは…。私らしからぬ自問の数々。答えは出ず、悩む。悩みの種が何とも多く。様々な事柄が頭の中をぐるぐると回っては、結局ひとつどころに集約する。

 倅の死。どうにも、それは様々な形で私たちの行手を阻む。あの日から妻は塞ぎ込んでしまい、甥は私から無茶な要求をされて苦しみ、そして私もまた、たった一人の愛息子を失った悲しみに、ずっと打ちひしがれているわけにもいかず、次代のことを考えての選択を迫られる。

 徐に目を閉じて、亡き倅に想いを馳せる。アーラン、可哀想な我が子よ。若くして死んでしまったお前に、もはや父はその冥福をただ願うことしかできない。生きているうちにもっとよくしてやればよかった。もっと、お前との時間を大切にすればよかった。私はあまりにも、お前に父として接してやれる時間が少なかった。お前を後継として鍛えるばかりで、ただの父親としての私がお前に何かしてやれただろうか。もっとお前の笑う顔と、お前が大人になっていくのを見たかった。一人の人間として育ってゆく姿を、そばで見ていたかったのだ。ただただ、心残りばかりだ。アーラン、どうか安らかに…。

 人前に晒すわけにはいかぬものは、こうして一人の時に処理するほかない。私は一筋の滴を袖で拭った。ふと、机の上に山積みにした本の中で、一冊の古い本が目に留まった。題を『戦の魔術の深奥』。黒褐色の、未知の魔物の革で装丁された五センチほどの厚さをした手作りの本で、内容としては極めて強力な魔術の数々が記されている。いわゆる秘伝書と呼ばれる貴重なものだ。今はその術のほとんどを扱えぬ身だが、これは旅をしていた頃に著者から直接頂いたもので…

「あっ」

 思わず、声が出た。何故今まで彼女の存在を忘れていたのだろう。いたではないか、適材適所どころか、万能の人物が。彼女ならばきっと、甥の魔術不全の原因を取り除く術を知っている。或いは、甥にその壁を乗り越える道筋を示してくれる。かつて私たちの旅路に道しるべを与えてくれたように、甥の一助にもなってくれるはずだ。

 私は机の引き出しから便箋とペンを出し、そこに事の経緯と、もしよければ一度こちらを訪ねて甥に会って欲しいという旨の請願を綴った。出来上がった便箋を丁寧に折って封筒に入れ、久しぶりに出した封蝋を使って慎重に封をした。手紙を持って庭へ行き、裏手にある鳥小屋から伝書鳩を一羽出す。大人しいそいつに装着させたパックの中に手紙を入れ、蓋についているボタンをぱちんと止める。そして魔術的な意味合いの濃いフレーズを使って、私は鳩に語りかけた。

『光の魔女殿宛てだ。何処にいらっしゃるか分からないんだが、名を追って行けるか?』

『可能です』

 鳩がポロロと鳴いて私の腕から飛び立つのを見届け、無事に手紙が届くようにと祈った。



 ___手紙を出してから丁度六日が経って、鳩が帰ってきた。あまりにも早い帰りに私は驚いたが、もしやと思い恐る恐る鳩のパックを開いてみると、そこには私の書いた手紙がまだ入っているということはなく、代わりに不思議なオパール色の蝋で封された一通の手紙が入っていた。安堵しながら書斎に入って中身を確認すると、文面にはこれだけ書かれていた。

『はいよ。じゃ、この手紙が届くくらいにそっち行くからね。深刻そうだしとりあえず会って話そうぜ』

 そのあまりにもあっけらかんとした内容に私が唖然としていると、書斎の扉がノックされ、妻の声が聞こえた。

「あなた、いらっしゃいますか。お客さまですよ…なんだか、魔法使いの方のようですけど…」

 私は手紙を二度見した。

『この手紙が届くくらいにそっち行くからね』

 そういえばこの人はそういう人だったなと苦笑しながら、私はかつて会った際の彼女を思い出しながら席を立った。そして扉を開き、約三十年ぶりだというのに一切外見に変化の見られない彼女と再会したのだった。

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