きずをおうもの

滓京

第一部 師弟の旅編

プロローグ:木漏れ日の中で

「師匠、もう昼ですよ」

 緩く巻かれた剣帯が骨盤に擦れて痛いのか、少年剣士は腰の横あたりをガチャガチャとやりながら、やや疲れのある声で師に呼びかけた。ゴワつく麻のシャツにじんわりと汗染みができており、枯草色の髪はボサボサと無造作にしていて埃っぽい。荷物らしい荷物といえば、腰に下げた剣だけという軽装っぷり。背格好は年相応だが、目つき、これが見るほどに覇気のない目をしているせいか、顔つきは妙に大人びている。くたびれ気味の少年剣士、彼の名はハイドラ。

「ん?ああ、そうだね」

 ハイドラの半歩先を行く彼の師は、煤のように真っ黒な法衣を纏い、大きな三角帽を被った魔女。雨雲の陰鬱と沈丁花の艶美が同居したような、そういう類の容貌の女だ。年の頃は見定め難く、また暗い気配に反して表情は晴天のように快活であった。魔女は帽子のつばを傾けてちらりと天を仰ぐと、その奇妙なオパール色の目を細めた。

 晩春の森は陽気に満ち、差し込んだ木漏れ日の隙間を春風は緩やかに通り抜けていく。少年剣士と魔女は二人、青葉の茂る獣道を歩いて街を目指していたのだった。

「今朝は二、三時間で着くって言ってたじゃないですか。いくら歩いても街どころか人っ子一人いませんし、やっぱり迷ってんじゃないですか?」

 まだ気になるのか剣帯をいじりながら、少し不貞腐れたように彼はぼやくが、師弟は昨日からこの森を歩いていた。そして今朝野営から発つ時、魔女は「大体二、三時間で着くよ」と言ったのだが、それからかれこれ六時間歩き詰めても未だ到着の気配はなかった。旅慣れしていないハイドラが音をあげるのも無理はないだろう。

不意に、魔女はハイドラの方に振り返って彼の額を指で弾いた。

「いっ!?」

 ハイドラが目を見開いて魔女を見やると、魔女は肩をすくめてため息をついた。

「やれやれまったく。いつ気づくかと思ったけどそんな気配ないね、ハイドラ。何かおかしいと思ったら、もっと周囲を観察することだ。あと、その剣帯合ってないみたいだから次の街で新調してあげるよ」

「はい…?帯はよろしくお願いしますけど…気づくって、何に?」

 ハイドラが額をさすって不思議そうに魔女の顔を見ていると、彼女は前に向き直って正面を指差した。その数メートル先には木々しか見えない。皺のある硬そうな樹皮、揚々と広げられた枝、風に揺らぐ青々とした葉。絵に描いたような木々。ハイドラは首を傾げた。師匠がなぜ木を指差したのか全く意味がわからなかったから、ではなく、気づいたのだ。「なぜついさっきまで何もなかったはずの場所に、道のど真ん中に突然木が生えたのか」。それは本当に唐突だった。例えるなら、「木が歩いてきた」とでもいうかのよう。

「さてさて、なんでだと思う?」

「…化かされてたってことですか」

 魔女はニヤリと不敵に笑い、その手を木々に向けて開くと、幾何学模様の黒いタトゥーが入った掌が露わになった。袖の内から伸びて複雑に絡み合った呪術的な線図は、それそのものが一種の怪異であるかのような異様さでもって彼女の白い肌に深く刻み込まれていた。

「よく見てなさい」言って魔女は掌から、拳大の火球を三つ、立て続けに素早く放ったのだった。突然放火しだした師にハイドラがあっけにとられていると、魔力で燃える火炎の三つ子は正確にそれぞれの木々に命中、炸裂し、樹皮に生々しい焦げ跡を焼き付けた。同時に、耳をつんざく大音量の悲鳴が。なんと焼かれた木々が苦痛の叫びをあげたではないか。なんとも情けなくて甲高い声を出す木々をよく見ると、その幹には皺に紛れて中年男性のような顔が刻まれていた。ハイドラはそれを見て「木の怪」の一節を想起した。森で一晩明かした旅人を迷わせ、隙を見てとって食うという怪物がいるという、子供を怖がらせる戯曲だ。

「はは、木の怪か!懐かしいね。そう、あれは樹怪。樹木に擬態して忍び寄り、捕らえた獲物の体液を吸って養分にする植物系モンスターだ。まあそこまで強い部類じゃあない」

 魔女はまだ熱の残っている手で愛弟子の肩をポンと叩くと、「じゃ、頑張りなさい」と言ってニコリと微笑んだ。

ハイドラは鬱陶しそうに手を払いのけて「心読むなよ…」と口の中で言いながら、腰に下げていた剣を抜き、剣帯を外して鞘ごと魔女に預けた。

 彼の剣は、一般的な片手剣と比べて刃渡りがやや短い。一メートルもないほどの長さだ。そして細身かつ刃も厚くはない。一見するとおもちゃに毛が生えたような代物だが、ハイドラがそれを持って半身に構えると、これが不思議と板につく。三体の樹怪たちも目の前の剣士を単なるエサではなく明確な脅威と認識したのか、各々戦闘態勢を取り始めた。ずるずると土の中から蛸足じみた根を引き上げてうねらせたり、パキパキと枝を折り曲げるようにしていかめしく節くれた腕を見せつけたりと、徐々にその本性を露わにした。おまけに悪意に満ち満ちたイイ笑顔を貼り付けて。

 魔女が、ひらりと一歩下がった。一瞬の間隙。

「___行くぞ」

 ハイドラが地を蹴って距離を詰めてくるのを見て、樹怪たちも奇声をあげながら前進する___と見せかけて、正面の一体はハイドラの体を捕まえようと枝腕をずるりと伸ばす。だが、ハイドラはそれを軽々躱す。避けた勢いをそのまま剣に乗せ、狩る鷹が如き鋭さと正確さで節くれに刃を当て、一分の迷いもなく枝腕を斬り飛ばした。研ぎ澄まされた刃は樹皮をやすやすとかち割り、気味の良い音が木立に反響する。吹っ飛んだ枝腕はくるくると宙を舞い、魔女の足元に落ちると瞬時に黒く朽ち果て、やがて哀れな塵と化してしまった。これに怯んだ樹怪たちの隙をハイドラは見逃さない。腕を失った一体に飛びかかり、その顔のど真ん中に渾身の突きを叩き込む。すると剣尖は一際硬い樹皮に守られた繊維質の中を無慈悲に突き進み、やがてこりこりしたものを一息のうちに貫いた。ハイドラは手応えを感じて剣を引き抜き、軽やかに飛び退がりながら刃にこびりついた樹液をヒュッと振り払った。

『アアアアアアアッ!』

 これが致命傷となり、一体目は先の腕のようにその身を崩し、やがて朽ち果てた。たった一つの核を破壊されてしまえば、死ぬ他ないのがこの手の低級の運命である。

「よし、あと二体……っ!」

 ハイドラが構え直そうとしたその時、風を裂く鋭い音が走った。それは樹怪たちの打ち出した鞭のような蔓。ハイドラは咄嗟に防御しようとするも、あえなく肩と腿に二撃くらった。樹怪たちは彼の服にじわりと血が滲むのを見て下卑た笑いを浮かべると、仲間の仇だとばかりに何度も蔓を打ち込んだ。もっとも、ハイドラもそう同じ攻撃を何度も食らうほど間抜けではなく、すぐに体勢を立て直すと襲いかかる蔓を剣で捌いた。だが多勢に無勢、防戦一方という現状を覆すには、決定力に欠けていたのも事実だった。

「ほらほらどうしたー?押されてるぞー?思考を止めるなー、常に観察しろー、何が有効か考察しなさーい」魔女は少し離れたところで切り株に座りこみ、ハイドラの剣帯を弄りながらつまらなそうに野次を飛ばしていた。

「ああ、くそっ!わかってますよ!」

 ハイドラにとれる選択肢は限られていた。打開するには、斬り込むかそれとも…魔術か。ハイドラは魔術に乗り気ではなかった。だが現状剣は届かない。渋い気持ちになっても生憎と他に手立てがなかったために、蔓の勢いが弱まった一瞬、乱暴に剣を振り回して距離をとる。先ほどの魔女と同じように掌を突き出す。燃え盛る炎をイメージし、その理論を脳裏に刻み建てる。そして魔力を集中して…集中して……。

(無理だ)

 ハイドラは脳裏で呟いた。その呟きが内なる奔流を乱し、彼の掌からはマッチを擦ったような情けない火の粉だけが飛び出すのみ。到底、火炎などと大層な呼び方のできる代物ではなかった。火の粉は一応真っ直ぐ飛び、樹怪の顔に当たったが、けれど樹怪は少し熱そうにしただけでダメージを負った様子はなく、この不出来を二体の樹怪はあからさまに鼻で笑った。この瞬間、ハイドラは屈辱と殺意が正比例の関係であることを知った。

「へたっぴめ」師も、愛弟子に対して時たま辛辣であった。

「…くそっ」ハイドラは舌打ちし、構え直した。ありもしない肩をすくめて余裕をぶっこく樹怪たちに飛びかかり、行き場のない怒りを込めた鋼鉄を繊維質が朽ちるまで何度も何度も刺し込んだ。蔓の鞭で身体中にミミズ腫れができるのも顧みず、魔術なんて大嫌いだと言わんばかりに、ハイドラは強烈な突きを見舞いに見舞った。

穏やかな晩春の森、木漏れ日の中で樹液と鮮血は飛び散り、小鳥の囀りをかき消すように樹怪の断末魔がこだました。



 魔女にミミズ腫れを治癒されたハイドラは剣を地面に突き刺し、空いた手の中でパチパチと火花を散らしてみた。もっとも、これも大きな炎をイメージしたはずだったが。

 魔術はそれぞれの系統によって修得に必要な条件が違う。して、熱の系統におけるそれは「その現象とは何かを理解すること」だ。その度合いと方向性によって、術者ごとの最大出力と操作性が決まる。例えばこの「火炎魔術」。この世界の多くの人は火を「何だかよくわからないが物を燃やす光」程度の認識で見ている。その程度だとせいぜいが蝋燭に火を灯す程度の火までしか出せないが、日常生活には十分とされる。だが本職の魔術師となれば「発火現象」の物理法則に知見を持っており、そうなると魔力を燃やすことで炎を自在に操ることができる。また、とある教えの信仰者たちは火の中に「神」を見出す。この者たちは……。ところでハイドラはというと___実は、彼もまた「発火」という現象を理解こそしているのだった。

「ハイドラ、これ食べなよ」

 魔女は足元に転がっていた真っ赤な果実を拾い、法衣の裾で軽く拭うと、それをハイドラに投げ渡した。

「何です、これ?見たことない果物ですけど」ハイドラがキャッチした果実の香りを嗅ぐと、りんごのような形のそれは熟れた果実特有の少し鼻をつく甘い香りがした。

「トレントフルーツ」

「え」

 ハイドラは汚物を見るような目でその手に握る果実をまじまじと見た。

「はは、大丈夫、体に害はないよ。むしろトレントフルーツは高栄養高魔力食だ。それに結構美味しい。へなちょこ火花とはいえ、魔力を消費したからね」

 疑いの色が残る目つきで、ハイドラは恐る恐る果実を齧った。すもものような食べやすい食感に、やや甘みの強い木苺のような風味。厳密には果物ではないためか、種らしきものは入っていないようだった。「あんなもの」由来とさえ考えなければ、とハイドラは頭を空にしようと努めた。

「…意外と美味いですね。もっとグロテスクな何かかと思いましたよ」

 果実を平らげた弟子に剣帯と鞘を返却し、魔女は右の人差し指に火を灯した。

「火がどういうものかについては、前に説明したね」

 ハイドラはうなづいた。発火の原理と、それを魔術として構築する理論をハイドラは習得していた。

「それを自分の言葉で説明できるくらい理解している」

 もう一度、うなづいた。

「けれど君は___いまだに自己不信の中にいる」

「…このままじゃダメだって、わかってはいるんです。ちゃんとしないと、って」

 魔術には、系統ごとの修得条件とは別に、前提となる魔術そのもの発動条件が存在する。それはコストたる魔力の有無と、術者の「自信」だ。魔術は魔力粒子、通称・魔力と呼ばれる物質と、特殊な神経の働きが作用することで発現する。その特性上、思考の阻害や心理的障害は魔術の不発に直結する。心的外傷などによる自己不信が原因で魔術が使用できない状態を「魔術不全」という。ハイドラはこれを抱えていた。

「…でもふとした瞬間に、灯火を吹き消したように暗くなるというか、抗いようのない否定に覆われるんです、理由もなく。…ああ、いや、理由はあるはず…でも、何も…」

 ハイドラは口元を手で覆ってぶつぶつ言った。覇気のない目に一層影がさす。魔女は指の火を消すと、そのほのかに温かい指先で彼の額をつんと弾いた。

「ハイドラ、聞きなさい。私は君をその苦悩から救ってやることはできない。それは君の問題だからね」

 ハイドラは目を伏せ、師の言葉に耳を傾けた。

「そしてだからこそ、私たちは旅をしているんだ。私は君を救うのではなく、君に物事を教えるために。君はただ楽になるためではなく、壁を乗り越え成長するために。私が君に戦いと魔術の深奥を授けようと思うのは、君がいつかそれを扱えるようになると信じているからなんだ。だから君も、君を信られるようになりなさい___勇者の後継、ハイドラ」

 ハイドラは額をさすり、伏せ目のままにうなづいた。魔女も「よし」とうなづき、そして彼女の顔にパッと太陽がさしたような笑顔が戻った。

「さーて、それじゃ行くぞ我が弟子よ!道は開けた、街は近いぞ、その剣帯を買い替えに行かないと!」

 魔女は法衣を翻し、意気揚々と樹怪たちがいた方を指さした。確かにそこには獣道の続きがあり、よく見ると靴跡や馬の蹄の跡が確認できた。樹怪たちが立ち塞いでいたのは、まさしく街へと続く道だったのだ。

 ハイドラは何もない掌に小さな何かを握り込むように、固く拳を作った。これは修行の旅。勇者の甥・ハイドラが光の魔女に師事し、自分に足りない多くのものを学び得るための旅。旅はまだ始まったばかり。彼の傷はまだ癒えていない。それでも彼はもがく。自分にこれ以外の道はない、それだけは分かっているから。例え今以上に傷を負うことになろうとも、進むことを誓ったのだから。

 ハイドラは骨盤に擦れる剣帯をきつめに巻き直し、地面に突き刺していた剣を鞘に納めた。そしてどんどん歩いて行ってしまう師を追いかけて走り出すのだった。

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