第9話

 腐りかけの床を歩き回る音がする。

 昨日、福貴野家の屋敷から飛び出してきた俺は、この事務所に戻ってから、知恵熱が出てそのまま寝込んでしまった。どうやら、スタミナ切れによる症状のようだった。数人に話を聞いて屋敷を歩き回ったら行動できなくなるようだ。まっとうな探偵活動なんかできやしない。

 木の床が軋む音が行ったり来たりする。

「うるせーな……」

「比嘉探偵!」

 ベッドに横になったまま俺が声を発すると、磁石を近づけた時の砂みたいにアルが飛び掛かってきた。

「なんだよ……」

「事件の捜査を諦めてしまうんですか!」

「だって、右を見りゃ課金、左を見りゃ課金、課金課金課金課金……俺は鍛冶屋じゃねーっつーの」

「アハハ、面白いこと言いますね」

「てめーのせいでもあるんですけどね!」

 目一杯の嫌味をぶちかますと、アルは大人しくなる。

「私もですね、悪気があったわけじゃないんです」

「探偵の真似事しやがって……。お前のせいで≪ポリグラフ≫消費したの未だに覚えてるからな。俺の孫にも伝えようと思ってる」

「その前に子どもができるかどうかというところですね、この調子じゃ」

 しれっと言ってのけるアルの表情には、およそ良心の呵責なんて感情は微塵たりとも刻まれていないのだった。

「てめーは一言多いんだよ」

「私も探偵に憧れていたことがあるんですよ。その時の迸る熱いパドスを思い出してしまったんですよ」

 意外な告白だった。というか、医者になれなくて看護師になるとか、ミュージシャンになれなくてライブ運営会社に就職するとか、そういうノリでなるものなのか、探偵助手って?

「その思い出を裏切るなら、この宇宙そらを抱いて輝きたいんです」

「ん?」

「だから、あの頃少年だった私自身に言いたいんです。神話になれ、と」

「残酷なアレのアレじゃねーか」

「逃げちゃダメだ、と思いましたね」

「うるせー黙れ」

 俺はようやく上体を起こしてベッドの縁に腰かけた。


 ベッドに横になっている間、ずっと考えていたことがある。

「まだ倉光頼人は見つかってないよな?」

「探偵が見つけなきゃ見つからないですよ」

 アルは馬鹿にしたような笑い声を上げた。こいつ、俺にずっと喧嘩売ってるだろ。

「ずっと気になってたんだが、倉光の部屋の様子は違和感があった」

「どういうところが?」

「倉光は屈強な男だ。それにしては、部屋が荒れていなかった」

「屈強な男は部屋を荒らすもんなんですか?」

「そういう意味じゃねーんだよ、星3野郎」

「そう言われるとなんだかめでたい気がしてきますね」

 ポジティブなもやし野郎だ。

「倉光だって、黙って拉致されたわけじゃないだろ。連れ去られようとしたら抵抗はするはず。それなのに、部屋はあまり荒れていなかった」

 アルは首を捻る。

「血が落ちてたじゃないですか。一発やられて気を失ってたんじゃないですか?」

「もし倉光がその時に寝ていれば、その可能性もあるな」

 アルの目が丸くなって、青い瞳が際立つ。

「それで倉光さんがいつ寝てるのかって七田さんに訊いたんですか?」

「まあな」

「まるで探偵じゃないですか」

「探偵なんだよ」

「倉光さんが拉致された時、寝ていなかったとしたらどうなんです?」

「犯人は恐ろしく腕が立つ。もしくは、複数人だったか。警報装置を解除しているところをみると、計画性もあるだろうな」

「いずれにしても、倉光さんが寝ていた可能性もありますよね」

「仮にそうだとしても、寝入ってすぐなら、何かあったらすぐに目を覚ますだろ」

「となると、犯人像は絞れてきますね」

「そうなるとおかしいんだよな」

「何がですか?」

 アルが間の抜けた声を返してきた。こいつはやっぱり何も分かっていない。

「つまりだな──」

 アルに俺の優位性を説こうとしたところで、壊れかけの呼び鈴が鳴った。アルが入り口のドアを開けると、そこに星尾が立っていた。もう見たくないと思っていた顔にこうもすぐに再会することになるとは……。

「おい、また課金させようとするんなら──」

 星尾の顔は真剣そのものだった。彼は低く沈んだ声をこちらに投げ込んできた。

「倉光頼人が死体で発見された」

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