第33話 手を伸ばしてもっと
――しずくちゃん、コージローといい感じじゃんか。あれ付き合ってるって噂だし
ノリの声が頭に響く。
花車で二人の姿が見えなくなってしまった。
ドン。何かがぶつかった。
「おい。突っ立ってないでどけよ」
目の前には僕と同じくらいの世代の男が立っていた。僕はその場にぼうっと立ち止まっていた。
「立ち止まらないでください」という誘導員の声が聞こえる。
「あ……」すみません、と言おうとした。
「あ? なんだ? 文句あんのか」
男は僕に迫ってきた。男が睨んだ。
なんで睨まれなきゃいけないんだろう。そこまでのことだろうか。
「おい!」
でもなんだか。彼からは同じ匂いがした。
「うっせよー」
気がついたら僕は言葉を発し、目の前の男を思いっきり殴っていた。男は、後ろによろけてそのまま倒れ込む。
周囲が騒ぎ出す。
男は何が起こったのか分からないようで驚いたように頬を押さえる。だけどすぐに立ち上がり「てめー!」と僕に向かってきた。
周囲のざわめきが大きくなる。
殴りかかろうとする男を誰かが押さえる。殴りかかろうとした僕も誰かに押さえられる。それでもそれを振り払おうとがむしゃらに動く。
サッコラチョイワヤッセ!
ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。
サッコラチョイワヤッセ!
さんさ踊りの掛け声が聞こえる。
サッコラチョイワヤッセ!
ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。
サッコラチョイワヤッセ!
僕なんかに構わず、さんさ踊りは進行している。
男の拳が僕の頬をヒットした。痛い。周囲が響めく。
サッコラチョイワヤッセ!
ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。
サッコラチョイワヤッセ!
家族も、友だちも、勉強も、先生も、僕も、みんないなくなってしまえばいいのに。僕も押さえ込むのを振りしきり男を殴ろうと手を上げた。
「佐々木くん! やめてっ!」
目の前にはしずく先生が立っていた。久しぶりに見た先生は怒っているような悲しんでいるような今まで見たことのない表情をしていた。だけど視線だけははっきりと僕を見ていた。
***
「少しは落ち着いた?」
僕としずく先生はさんさ踊り会場から少し離れた中津川の河川敷のベンチに座っていた。人は少ないけれど、時折カップルが横を通り過ぎていく。遠くでさんさ踊りの掛け声が聞こえる。
「……はい」
「きみねぇ。こんな重要な時期に何したか分かってるの」
「……はい」
「話し合いだけで済んだから良かったものの。内申点に響くわよ」
あの時、しずく先生は僕が相手を殴ろうとしたのを必死に止めてくれた。
先生は騒動を起こしているのが僕だと知って、横断禁止の大通りを渡りすぐに駆けつけてくれたのだ。
僕と相手の男は周りの大人たちにしっかりと取り押さえられ、身動きができなくなった。それから近くにいた警察官がやってきて、僕らは事情を話した。
向こうも僕と同じ高校三年生で、何か嫌なことがあったらしく、八つ当たりをしてしまったようだった。
でも手を出してしまったのは僕が先だった。僕は今更ながら自分のやってしまった行為に後悔していた。
「ま、彼らも反省していますし、これで終わりましょうか」警察官は僕らの肩をポンポンと叩き去って行ったのだ。そして僕らはお互い謝罪してその場を離れた。
「何かあったの?」
横に座ったしずく先生が尋ねる。目の前の川から少しだけ涼しい風が流れてくる。
「なんでもないです」
「なんでもないって事ないでしょ。家族のこと?」
さんさ踊りのアナウンスがこだまするように聞こえる。僕は何も言えずに暗がりの中、川の流れを見ていた。
僕はいったい何があったのだろう。
父さんと母さんが喧嘩していたのが嫌で外に出てきたのは確かにそうだけれど、それが全てではなかった。
ノリの報告を聞いて嬉しさと、でもそれと当時に孤独さを感じたけれど、それが全てではなかった。
勉強も将来のことも不安でいっぱいで悩んでいるけど、それが全てではなかった。
いろんなことが積み重なってのことだって分かっていた。しかもその引き金を引いた出来事が何かも分かっていた。
しずく先生が心配そうに覗き込んできた。一瞬、目があったが、僕は慌てて目を逸らした。その時、コージローが頭に浮かんだ。
「先生が……、先生が悪いんだ」
「……私?」
先生がコージローと一緒にいなかったらこんなことになってなかった。
「……」
「私、佐々木くんになにかしちゃった?」
先生がそうやって語りかけなければこんなことにならなかったんだ。
「……」
「なにしたのか教えてくれないかしら」
先生のことを好きにならなければ、こんなことにならなかった。
先生は静かに僕が話すのを待っている。
先生、しずく先生、しずく、さん。
「好き……になってしまいました」
「えっ……と」
「春野先生のことが、好きです。付き合ってほしい、です」
ああ。何を言っているんだろう僕は。
いつの間にかさんさ踊りの音色は消えていた。川の音だけが静かに聞こえる。先生の反応はないし、表情も暗くて分からない。
少しして先生はベンチから立ち上がって、川の方に歩いて行った。
「そっかぁ。嬉しいなあ、佐々木くんが私のことそんなふうに想ってくれたなんて……ありがと」
僕は先生の方を見る。だけどやっぱり暗くてよく見えない。
「……だけど。ごめんね。佐々木くんのその気持ちには答えられないの」
「付き合ってる人がいるから?」
「付き合ってる人? いないわ」
「コ、コージローは?」
「あぁ。先生はそんなんじゃないわ」
「でも、さっき一緒に……」
「学校のパトロールよ」
「どこかで待ってるんですか?」
「ううん。先に帰ってもらったわ」
「じゃあ、誰か好きな人がいるの?」
「ううん」
じゃあなんで、とは言えなかった。たとえ付き合ってる人がいなくても、好きな人がいなくても、僕にならないことぐらい僕も分かっている。
「佐々木くんは、とてもまっすぐで、純粋で優しい子だと思う。でもだから人一倍悩んじゃうし、抱え込んじゃうところもあるのよね」
先生は再び横に座った。
「私はそれでいいと思う。自分の力でたくさん悩んでたくさん考えたら、素敵な大人になれるわ。私なんかまだまだ未熟だけど、人生の先輩として、フォローするから」
先生はそう言うと、頬を上げるように笑った。
「だいぶ遅くなっちゃったね。そろそろ帰りましょうか」
なんだかうまくはぐらかされてしまった気もする。一方的に話を進めた先生は僕の返事も待たずにまた一方的に立ち上がり歩き始めた。
「あの、先生。連絡先教えてくれませんか?」
先生は立ち止まって振り向く。少し考えた後に口を開いた。
「ごめんね。してはいけない規則だから」
「……そうですよね」
生徒と連絡先を交換してはいけない、ということをノリから聞いたことがあるのでなんとなく分かっていた。
「でも……佐々木くんにとって、今まで通りっていうのは難しいかもしれないけれど……悩み事があるならいつでも相談にのるからね」
それは社交辞令的というか事務的というか、やっぱり先生と生徒の関係以外なにものでもないというか、この場を終わらせるための決まり文句というか、そういう風に聞こえた。
手を伸ばしてもっと
届かないずっと
それでもやっと
踏み出したのなら届くかな
届きたい
きみの星に
銀河の夜に
スパイラルスター
時を超えて
スパイラルスター
時を超えて
それから一週間なにも手がつかなかった。
うだる暑さの中、夏期講習に行くと、ノリと岩田さんは仲良く隣同士に座るようになっていて、見せびらかすようなふたりの横で頭に入らない数学の問題を解き、時たま職員室を覗いては、しずく先生を見つけられずに落胆した。仮に見つけても僕はどんな顔をすればいいかも分からなかった。
学校から帰ると、母さんと父さんは相変わらず喧嘩をしていたけれど、もはや僕にとってどうでもよくなっていた。
夏バテでもしたかのようにベッドに寝転び、紫波さんの歌を聞いて泣いた。二週間立っても状況は変わらず、時間だけ無駄に過ぎていった。
夏期講習のないお盆期間は、本当に夏バテしたのか部屋から一歩も出なかった。
お盆が明けて、学校が始まるまでもう少しとなった時、僕はどういう顔をしてしずく先生に会ったらいいんだろう、と長くなったボサボサの頭を掻きむしりながら僕は思った。
暗い顔で学校に行ったら先生を困らせてしまうかもしれない。そんなことはあってはならない。いい加減立ち直らないといけない。
せめて勉強ぐらいはしっかりしたい。
いつまで腑抜けてるんだ、と急に焦りが芽生えた。勉強をする理由が不純かもしれないけれど、先生を困らせたくない。
勉強しなくては。急に僕の心の奥の方で何かが点火した。動かないと。
雨ニモマケズ、風ニモマケズ
サウイウモノニ、ワタシハナリタイ
夏休みの終わり。今日は宮沢賢治の誕生日だそうだ。詩人や童話作家として有名な宮沢賢治だけど、彼は学校教師もしていて、教えるのが大変上手かったようだ。
しずく先生も賢治に負けないくらい教えるのが上手いし、それだけじゃなく僕ら生徒の気持ちを汲んでくれて、いつも進むべき方向を導いてくれる。
だからせめて先生を困らせるようなことだけはしたくない。先生のその思いを裏切るようなことはしたくない。そして先生のような人に僕はなりたい。だから今動かないと。きっとまだ間に合う。頑張ろう。
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