第32話 サッコラチョイワヤッセ

 モワッと夏の熱気が肌を包む。階段を駆け抜けマンションの外に出る。

 風に乗って「ドドン、ドドン」と太鼓の音が聞こえる。

 ノリの情報によると、しずく先生はさんさ踊り会場を見回りに来ているらしい。本当は今日は朝からずっとそのことを考えていた。ひょっとしたらさんさ踊りを見に行ったら、ばったりしずく先生に会えるんじゃないかって。だけど、さんさ踊りには盛岡にこんなに人がいるのかってぐらい集まる。そんな人の中、しずく先生を見つけることなんてできやしない、とも思っていた。かすかな希望を封じ込め無理やり机に向かったものの、家の環境のせいなのか、先生のことを考えすぎているせいなのか、そもそも集中できていないのか、理由なんてどうでもいいし、なんでもいい。とにかく勉強なんて手がつかないし、心の奥でずっと燻っていた想いには勝てなかった。

 もし人混みの中、しずく先生に会えたら、それはきっともう、会うべくして会えたものなのだろう。僕は早歩きで会場へと向かった。

 さんさ踊りは、盛岡市役所前の中央通りの車道を使って繰り広げられる。地元企業、町内会や学校などでチームを組み、団体で参加する。踊り手、太鼓、笛、それから花車を引き連れ、ドドン、ドドン、ドドドドンドドンと太鼓を鳴らし、「サッコラーチョイワヤッセー」と掛け声を上げる。

 参加者数は年々増えていて、最近では「日本一の太鼓パレード」と銘打っている。太鼓の数だけで一万個以上あると、この前テレビで言っていた。

 浴衣姿の見物客がちらほらと見え始めた。警察官が車道規制をしていた。この通りの先がさんさ踊り会場である。


 ドドン、ドドン、ドドドドンドドン

 サッコラーチョイワヤッセー!


 さっきまで風に乗って聞こえていた太鼓の音が、掛け声とともに胸に響いていた。

 会場は熱気に溢れている。歩道には見物客、立ち止まってさんさ踊りを見る人、「止まらないでください」と誘導する人、屋台で買った食べ物を座って食べている人。実況するアナウンサーの声。そして何より耳ではなく身体全体で感じる太鼓の鼓動、掛け声。

 夏。これぞさんさ踊りだ。

 家族連れの見物客が目の前を通り過ぎた。

 思えばさんさ踊りを見に来たのは中学生以来だ。母さんと父さんと三人で来たのを覚えている。

 僕はあの頃も悩んでいたんだ。

 高校受験。行きたい高校なんてなかった。あるとすれば家から近いところでいいや、というぐらいだった。でも家から近い一高や北高は僕の頭では到底無理だった。私立も学費が高いから選択肢から外して、市内で通える公立となると農業高校か商業高校、あとは西高ぐらいだった。

 農業も商業も全く興味がなく、そうするとおのずと選択肢は西高校のみになったのだ。

 西高は通っていた中学の学区からすると結構遠く、同級生で西高を受ける人は五、六人程度だったのだ。

 西高はスポーツ高校としてはそこそこ有名で普通科の他に、体育科があるのだ。ボクシングやラグビーで数々の著名人を輩出している。

 だけど僕はスポーツとは無縁の世界に生きていた。だから中学の友だちに「どこ受けるの?」と聞かれ、「西高」と答えると、「へぇー、スポーツやるの?」と言われ、「いや、普通科」と答えると、「ふーん」と返事が返ってくる。普通科なのになんでわざわざ遠いところに行くんだろう、とそんな目で見られながら。

 自分でもそう思ってた。そこまで別に高校なんて行きたくもないし。

 だけど母さんも父さんも僕に過剰な期待をしていたんだ。僕にはやりたいことがあって、それを実現するために頑張っていると。

 母さんは夜食を作ってくれたり、父さんは将来の夢を語ったり。

 反抗期だったんだ。勝手に部屋に入ってきて、夜食は持ってくるは、聞きたくもない夢を語るはで、うんざりしていた。

 勉強もしたくないし、一日中ゲームしていたかった。「いちいちうっせーよ!」そう怒鳴って部屋に鍵をかけた。もう勉強しているフリも疲れた。

 話しかけてほしくなかった。鍵をかければ自分のペースで勉強も遊びもコントロールできると思っていた。だけど違った。鍵をかけたらかけたで今までよりも勉強していないことに不安になってしまった。

 自分でやった手前、鍵を開けることもできず部屋に閉じこもった。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ある日父さんが部屋の扉をノックして扉越しに、「明日、さんさ踊り観に行かないか?」と言ってきた。

 僕は黙っていた。行く意味がなかった。

「母さんも一緒だぞ」

 父は言葉を付け足した。だけど僕は黙っていた。どうして家族でわざわざ行かなくてはならないのだ、と。

 それからしばらく何も発しなかった。それでも扉の向こうからは父さんの気配がした。

 あの時僕はどうしてその扉を開けたのか分からない。だけどそのあと家族三人でさんさ踊りを観に行ったんだ。

 胸に響く太鼓の音を聞いて、屋台で買ったお好み焼きを食べて、「サッコラーチョイワヤッセ」と幸せを願う掛け声を聞いて。

 家族三人で何かをしたのはその年のさんさ踊りが最後だった。

 高校に入ってからは、父さんはバイクの趣味が顕著になり、僕も家族に干渉しなくなって、いつしか父さんと母さんはよく喧嘩するようになっていた。

 母さんは父さんのバイクが嫌いなようだったが、僕はそうは思わない。だって父さんは自分の好きなことにお金を使っているだけなのだから。実際、どのくらい使っているのかまでは分からないけれど、自分が働いたお金で自分の好きなことに注ぎ込むのは全然悪くないと思う。それよりも僕なんかやりたいことが見つかってないのにとりあえず大学へ行こうとしている。そのために学費を貯めなければならなくて、そのせいで家計を見ている母さんのストレスが溜まってしまってるんだ。

 僕のために学費を貯めていることを知っている。この前調べたら国公立の大学にいくと学費は約250万円もかかるようだ。

 このお金が家族で使えれば喧嘩することもないんじゃないか、そう思った。

 行き交う人の中から、さんさ踊りを見た。

 中央通りの車道いっぱいに踊り手たちが広がり、列を成しパレード形式で踊りながら進んでいる。

 華やかな踊りに、軽やかな笛のメロディ、胸に響くほどの太鼓の音、豪華な装飾の花車。

 生で見るさんさ踊りはやはり迫力が違う。


 サッコラチョイワヤッセ!

 ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。

 サッコラチョイワヤッセ!


 ポケットの中でスマホが震えた。

 ノリからチャットで立て続けにメッセージが入っていた。


 ノリ:とりま報告

 ノリ:岩田さんからOKもらった

 ノリ:俺ら付き合うことになったぜ


 友人の恋の成就が素直に嬉しかった。


 大地:よかったじゃん。おめでとう

 ノリ:おう。受験生らしくお互い支え合いながら愛を育んでいくぜ


 そのメッセージを見て、歩く足が止まった。急にひとりになった気分がした。

 通りの人々は、家族や友だち、恋人とさんさ踊りを見ている。僕は今、そのどれもが疎遠な気がしてならない。

 ノリと岩田さんはお互いを必要としている。互いが好き同士で、横に並んで同じ方向を見ている。だけど僕は一方的に先生を見ている。先生に優しくされたから好きになっただけの単純な性格なのだ。ノリと岩田さんのように普段のコミュニケーションを通して次第に好きになったのではない。

 ただただ一方的に好意を持っているだけだ。果たして恋なのだろうか。ただの情けない勘違い男なんじゃないか。

 僕は先生に何もできないし、先生は僕を必要としていない。僕は何を浮かれているんだろう。先生は先生であって、完全に交わらない。所詮は空集合なんだ。横に並ぶより向き合う関係なんだ。どんなに想ったって叶うわけがない。

 目の前を僕と同年代の男女が手を繋いで通り過ぎていく。お互い浴衣姿で、手を握って笑いながら。


 サッコラチョイワヤッセ!

 ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。

 サッコラチョイワヤッセ!


 幸せよ来い。幸せを来い。


 サッコラチョイワヤッセ!


 ドォーーンっと太鼓の音が大きく響く。幸せよ来い。

 その時、人混みの中をすり抜けるように視線が、ふっと、向かいの沿道に向いた。

 そして、こんなに人が多いのに僕は見つけてしまったんだ。

 しずく先生だった。数多の浴衣の中に混じって、しずく先生の横顔がしっかりと僕の瞳に映った。

 だけど先生は沿道の向かい。さんさ踊りのスタート地点まで行かないと、向こう側には行けない。


 サッコラチョイワヤッセ!

 ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。

 サッコラチョイワヤッセ!


 トラックの荷台に作られた大きな花車がゆっくりと目の前を通り過ぎようとしている。先生の姿が見えなくなってしまう。


 サッコラチョイワヤッセ!

 ド、ドン、ド、ドン、ドド、ドドド、ドン。

 サッコラチョイワヤッセ!


 花車で見えなくなる直前、しずく先生が横を向いて幸せそうに笑った。

「あ……」

 先生の横にはコージローが立っていた。

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