第31話 気の乗らない夏期講習

***

 こうして僕らは高校最後の夏休みに入った。夏休みといってもどこか旅行に行くわけでもなく、友だちと遊びに行くわけでもなく、結局毎日学校に行っているのだ。

 朝の八時四十五分から夕方十六時三十分まで、みっちりと大学入試対策の夏期講習が行われているのだ。任意参加の講習だけど、クラスメイトの殆どが毎日受講していた。当然、ノリも岩田さんもなべやんも奥寺さんとも毎日顔をあわせていた。

 ノリが岩田さんに好意を寄せていることを聞いてから、なんとなく二人が会話しているところを見てしまうようになっていた。

 いつもの授業と違って、多目的教室に集まって進学クラスの二クラスが合同で講習を受けるため、席は決まっていない。

 僕とノリ、岩田さんと奥寺さんはよく横並びに座った。ノリ一人では岩田さんの横に座りにくいようだったが、僕が隣にいると座りにいけるようだった。

 ノリの想いに協力できて嬉しい反面、岩田さんの隣に座ることで勉強に集中できないんじゃないかって不安にもなる。

 普段の教室ではノリの斜め後ろに岩田さんがいるので、彼女の隣に座れるのはさぞ嬉しいだろう。現にノリは、みっちり講習を受けたにも関わらず、帰り道いつも嬉しそうなのである。

 それに比べ僕はというと夏バテでもしたんじゃないかと思えるほどモチベーションが下がり気味だった。

 講習内容は、毎日、数学、国語、英語が重点的に組み込まれていて、時々ある社会でもやるのは日本史か世界史なのだ。数学、英語は基本的に苦手な上、この夏期講習プログラムには倫理は含まれていないのだ。つまり毎日学校に来ても、しずく先生には会えないのである。すでに夏期講習が始まって一週間、一度もしずく先生に会っていない。職員室にならいるだろうと、見に行ったこともあるが、しずく先生はいなかった。

 僕はなんのために毎日暑い中、学校に来ているのだろう。しずく先生に会うためではないだろうか、いやそうではない。勉強するために来ているのだ。なのに全く集中出来ずにいた。

 夏の暑さのせいかもしれない。四月に髪を切って以来、また伸ばし気味の髪が余計に暑苦しくしてしているのかもしれない。いや違う。分かっている。

 学校にいても家にいてもしずく先生のことばかり考えている。

 自室の勉強机に向かうものの、さっきからペンをくるくる、くるくると回しているだけで、一向に問題集に手がつかないまま夕方になっていた。気持ちここにあらず。自分でも分かるぐらいそんな状態だった。

 指先でくるくる回るペンを眺めていると、またしずく先生のことを思い出した。先生はよくペンケースを忘れるんだ。僕は何度かそれを届けたことがある。先生と会話できるから、また忘れないかな、と思う。

 なんでも相談に乗ってくれて、先人の言葉もたくさん知っていて、中途半端な僕らをバカにせずに接してくれる大人の女性。だけどちょっと抜けているところがあって、先生なのに先生ぽくないところがまた良くて。

 今日は先生がパトロールをしているさんさ踊りの日なのだ。見に行こうか。もしかしたら先生に会えるかもしれない。

 憧れもあるし、それ以上の感情もある。歳だってそこまで離れているわけじゃないし、いやむしろAとBの集合があったら、先生はその部分集合でも空集合でもなく、共通部分といってもいいほど僕ら寄りの年齢だと思う。生徒と教師って括りにすると、多分僕と先生は空集合なんだけれど、きっと共通するものだってある。

 数学の問題集に載っているド・モルガンの法則を見ながらそんな事を思う。いや、この場合、補集合で考えた方がいいのか。数ⅠAのことなのに混乱していることに少々焦った。勉強しないと。


 気分転換にコーヒーでも飲もうと、自室を出てリビングに向かった。すると、母さんと父さんが何やら言い合いをしていた。

「全部使ったわけじゃないんだからいいだろ」

「よくないわよ。家計だって苦しいのに、なんで散財するかな」

「久しぶりに買ったんだから散財じゃないだろ」

「よく言うわよ。毎月変なの買ってるじゃない」

「変なのって。ものの価値がわからん奴に言われても話にならんわ」

「話にならないのはどっちよ」

 母さんは相変わらずものが積み重なっているダイニングテーブルに肘を置き、大きくため息をついた。

 父さんはテレビの前に行き、バイク雑誌を読み始めた。

「どうしたの?」

 僕は母さんに尋ねる。母さんと父さんの喧嘩は一向によくならなかった。

「あの人、またくだらない物買ったのよ。しかも数十万も」

 僕への返答としては些か大きすぎるほど声とため息が返ってきた。

「自分のためにボーナスを使ってなにが悪い」

「家のために使ってよね」

「使ってるじゃないか!」

 父さんは突然、激しくテーブルを叩いた。テーブルの上に積まれていた本やレシートの山が崩れ落ちる。物に当たらないでほしい。

「家の整理もできない奴が、金のやりくりできるわけないだろ。俺は毎月ちゃんと家に収めている。それ以外なら何に使ったっていいだろう。話にならん!」

 父は席を立ち、タバコを持ってベランダに向かった。

「ほんっと嫌な感じ。家のこと一切しないくせに」

 一切しないというのは少し言い過ぎな気もする。父さんは休日に掃除や洗濯、皿洗いをしているのだから。でもまあ、母さんから見たらしていないに等しいのだろう。

 父さんが窓を開けた瞬間、ドドンと太鼓の音が風に乗って聞こえた。さんさ踊りの太鼓だ。

「お金厳しいの?」

「大丈夫よ。部屋戻って勉強してなさい」

「そうするよ」

「大地はなにも心配いらないからね。いざとなればお金借りることだってできるし」

 母さんはにこりと笑った。

「そう……だね」

 僕は笑えなかった。やっぱり困ってるんじゃないか。自室のドアノブに手をかけたまま中に入れないでいた。

「お父さんの浪費癖にはほんと嫌になっちゃう」

 母さんはまたため息をついた。

「そうだね……俺も嫌だよ」

「ねー」母さんは呑気に返事をした。

 それがまた僕の気に障った。

「そうやってさ……、そうやって二人がいつまでも言い争ってるの、いい加減にしろって思う」

 一体何だ。二人して。もう八月だっていうのに年始からずっとこんな感じだ。何が「大地は心配しなくていい」だ。何が「勉強に集中しなさい」だ。

 表面上の言葉だけで二人とも僕のことをなんか考えちゃいない。こんな空気の悪い環境で勉強なんてできるわけがない。父さんも母さんも自分勝手じゃないか。

 お互いがお互いの悪いところだけを言い争って。母さんなんてモノは散らかすし、部屋の片付けはしないけれど、いつもご飯を作ってくれるし家計のやりくりもしてくれる。

 父さんだってバイクでお金を使うかもしれないけれど、毎日遅くまで働いてきてくれているし、家事だって少ししている。

 どっちが悪いとかどっちが良いとか、どっちがお金を使っているとかどっちが家のことしているとか、そんなんじゃない。お互いがお互いの役割があって良いこともしてるんだから認め合えば良いのに。感謝することも出来ないのか。

 いい大人が二人してくだらないことでいつまでも喧嘩して。バカじゃないか。いい迷惑だ。

 ふ、と先生の顔が頭に浮かんだ。こんな時、先生ならなんて言ってくれるんだろう。

 しずく先生。先生。先生に相談したい。先生に頼りたい。しずくさん。助けて。

「出かける」

 もういてもたってもいられなかった。「ご飯はどうするの?」なんてことを母さんは言っていたが、気にせず僕はもう玄関の扉を閉めていた。

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