第27話 不器用で優しくて。
「春野先生、でしょ」
隣でテストの採点をしていた森先生が手を止め諭す。
「春野、先生。ちょっと」
「ちょっとじゃなくて、ちょっとお時間よろしいでしょうか? でしょ」
「あー、いいのよ。私、ちょうどトイレに行こうと思っていたところだから」
私は準備していたクリアファイルを持って、十文字さんを連れて職員室から出た。
「森ってうざい」
廊下に出るなり、十文字さんは小言を吐いた。
「良い先生よ」
「良い先生なんていないし」
「そう?」
「……」
職員室の隣にある進路相談室へ入った。だけどちょうど竹下先生が面談に使っていた。
「あっちに行こうか」
進路相談室の横にある談話スペースのベンチに横並びに座った。スポットライト風の照明がついていて辺りがいくらか暗い。十文字さんは窓の外を見ている。
「どうしたの?」
私が声をかけると少しだけ顔をこちらに動かした。だけど向き合うことはなく、また窓の外を見る。
梅雨入りの発表はまだないけれど、外は雨が降っていた。静かな雨だった。
「杉本のことなんだけど」
「杉本先生のこと?」
十文字さんは反応しない。静かな雨は時折、風が吹いて窓を叩く。彼女から話をするのを待つことにした。
「…………辞めたの?」
声の感じから、いつもの彼女の強さがなくなっていた。
「十文字さんが心配することじゃないわ」
「辞めさせられたんでしょ」
「杉本先生は自分からご退職されたのよ」
十文字さんは顔をこちらに振り向いた。いつもの大人びいた表情はなく、どこか不安そうな表情を浮かべている。
私は考えていた。何も知らないフリをして話を続けるべきか、それとも杉本先生から全て聞いたことと言うべきか。
「うち……」
待とう。彼女から話が出るまで。彼女の顔は小刻みに震えている。唇を噛み締めているのが分かる。
「……うちのせい、なんだ」
「どうしてそう思うの?」
「嘘ついた」
「嘘?」
「これ」
そう言って十文字さんは自分のスマホを差し出してきた。そこには十文字さんと杉本先生の改変されたチャットのやりとりが表示されていた。
「そこに書いてるの、嘘なんだ」
「ここに書いていること?」
「そう」
「どういう風に嘘なの?」
「杉本は悪くない。悪いのは……うち」
風が吹き雨が窓に当たる。唇を強く噛みしめているのだろう。十文字さんは小刻みに動いていて、泣きそうな気持ちを必死に耐えているようだった。
「先生……」
そこにはもういつもの落ち着いている十文字さんの姿はなかった。
「どうしよう……うち、大変なこと、しちゃったんだ」
彼女の目には今にも落ちそうなぐらいの涙が溜まっていた。強がっていた彼女とは別人のように弱々しい。
「……こんなことになると思ってなかったんだ。悪いのはぜんぶ、うちなの」
彼女のスカートに一粒の滴が落ちた。紺のスカートに涙が染みる。滴は二つ、三つとスカートに落ちる。
それはまるで雨の降り始めのように、静かに染みを作っていき、やがて抑えきれないように彼女は涙を落とした。
ずっと我慢していたんだろう。彼女は目元をしわくちゃにして泣く。もともと彼女は母親の借金を少しでも返そうと自らアルバイトをしていたのだ。普段の生活も裕福ではなかったはずだ。
それが居酒屋のアルバイトが出来なくなったことで、収入が減り日々の生活にも響いたであろうことは想像がつく。
だからこそ働けなくなること、収入がなくなることがどれほど大変なことなのか、彼女自身、身をもって経験しているのだろう。
経験しているからこそ分かる痛みであり、その痛みを彼女はしっかりと共有できる。
普段は冷淡な態度をしていることが多いけれど、本当は人一倍思いやりのある優しい子なんだと思う。
「私ね、杉本先生からぜんぶ聞いてるわ」
しばらく泣いて、落ち着いてきた十文字さんにそう言った。
「この前ね、杉本先生に会ったの。それで十文字さんのアルバイトのことも、お金借りていることも、チャットのやりとりも全部知ってるわ」
十文字さんは驚いたように真っ赤に腫らした目を見開いた。
「杉本先生、言ってたわよ。『僕がやったことだから十文字さんを責めないでくれ』って」
彼女はまた泣きそうな顔をする。
「うち……どうしたら……」
「杉本先生には連絡したの?」
彼女は首を振る。
「チャットの連絡先が拒否られちゃって……」
「じゃあ私から連絡するから。今度、一緒に先生のところに行く?」
彼女はコクリと頷く。
不安なんだ。正解のない道を歩くのは誰だって不安なんだ。少しだけ先がわかる大人たちが、彼女たちが躓かないように少しだけサポートできればと思う。
「うち……学校辞めて働こうと思う」
「それはどうして?」
「借りたお金、返さないと」
「そっか。でもそれは十文字さんの望んだ選択肢なの?」
「……家の借金もあるし」
「私ね、竹下先生に聞いたの。過去にも居酒屋のアルバイトを許可したことあるそうよ。これ」
クリアファイルから一枚の紙を取り出す。アルバイト許可申請書だ。
「ここに名前と、理由を書いてちょうだい。私の印鑑は押してあるから」
杉本先生が十文字さんに勧めていた申請書の提出だ。これが承認されたら彼女は堂々とアルバイトが出来る。
「それにね。奨学給付金制度って知ってる?」
十文字さんは首を振る。
「ご家庭のことを私が口出しするのものじゃないかもしれないけれど。受給資格を満たしていれば、教育費の給付を受けることができる制度なの」
事前にプリントアウトしていた資料を彼女に手渡した。
彼女の家庭では「高等学校等就学支援金制度」いわゆる高校無償化制度を利用している。これにより授業料の負担はないのだが、教材費や学用品費などの教育費が家庭によっては負担になることがある。
生徒が安心して教育を受けられるようにそれらの費用を支援する制度である。
「六月には案内が出て七月から申請できるから、一度お母様と確認してみて」
母親の借金がどういったものか、私は知らない。ただ、こういった支援制度を使うことで十文字さんへの悩みが少しでも解消されるのであれば、ぜひ活用してもらいたい。
彼女は渡した資料を胸に引き寄せた。
「春野……」
「なに?」
「何ていうか……ありがと」
それだけ言うと彼女はいつもの彼女に戻っていた。不器用で優しくて。
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