第2章

第19話 四十五分の授業


 四月。今日から三年生を受け持つ。クラスは二組だ。受験生という毎日が不安とストレスの中、それでも綱渡りのように一歩一歩進んでいかなくてはならない、彼らのあの辛さを少しでも私たち教師がカバーすることが出来たら良いな、と思いながら、新調したメガネの位置を直した。

 校門の横には大きな桜の樹が春を待っていた。

 見上げると、桜の蕾がぷっくりと膨れているけれど、まだ花は咲いていない。岩手の春は遅い。


 朝の職員会議で新任の先生が二人紹介された。二人とも男性教師でひとりは教師歴十年のベテラン教師、世界史の荻原はぎわら先生。二学年を担当する。もうひとりは先月まで大学生だった新人教師の田鎖たくさり先生。担当は現代文で一学年の配属だ。

 三学年担当の私の席からは彼らが立っているところまで距離があることも加えて、普段以上に顔はよく分からなかった。

 田鎖先生の挨拶は声のトーンから学生感が抜け切れていない感じが伝わり、なんだか初々しく感じた。といっても私もまだまだ田鎖先生と同じく新米教師の部類であるけれど。

「今日から新学期です。それではみなさん気を引き締めていきましょう」

 校長先生の挨拶で会議が終わると、教師たちはそれぞれ担任と副担任二人ペアになって、受け持つ教室へと向かった。私も三年二組へ向かい、ショートホームルームで軽く自己紹介をした。


「それじゃあ。あらためて。よろしくね」

 初めての授業。この四十五分で生徒たちのことをたくさん知ろうと思う。朝のホームルームよりも授業時間の方が長く生徒に触れることができるので、生徒の個性を把握しやすい。

 特に私の科目の倫理は、その特性柄「きみはどう思う?」と生徒に質問することで、生徒たちの純粋な考えや感覚を知ることができるのだ。

「はーい。それじゃあね。倫理って何? って思っている人もいると思うから、まずはそこから説明しないとね。みんな教科書パラパラめくってみて」

 初日の授業は、倫理という小難しい言葉を極力身近なものになってもらえるようレクリエーション的な内容にしている。

 歴史上の人物で印象に残っている言葉を言ってもらったり、SNSの使い方でイラッときたことなどを言ってもらった。

 私が言うのもどうかと思うけれど、高校で学ぶ倫理というのは実はあまり楽しくない。というのも、受験のためだけの倫理ならば実存主義とか功利主義とか重要なキーワードを暗記すればいいだけの暗記科目だからだ。

 例えば「人間が自分の生き方に関わっていくことを『実存』と呼び、人間が自己を失って生きることを『絶望』と名付け、『あれか、これか』や『死にいたる病』を著した人物は誰か記述せよ」なんて問いが出ても、「実存」、「絶望」=「キルケゴール」と覚えておけば良いのだから。

 私も高校の時は、そうやって覚えた。倫理は世界史や日本史と比べても覚えるキーワード自体少ないし、入試の際にはラッキー科目の部類だと思う。

 でも倫理の本質は、そうやって重要な言葉を覚えるのが目的ではなく、彼らが生きた時代の、彼らの考え方、それはなんなのか、それを考えることが本質で、暗記科目では収まらない奥が深い教科なんだと思う。

 ただそこまで深い部分に踏み込むと、生死感や宗教感、政治的思想、性の問題などセンシティブな内容もあり、高校の授業では表面上を教える程度で終わってしまうのが実状である。

 私自身、それに気がついたのが社会人になってからで、悩み多き高校生の時に知っていれば少しは自分の考え方が変わったかもしれないなあ、と思ったほどだ。

 だから、ある程度は教育指導要領のカリキュラムに沿って授業を進めつつも、青年期の彼らが「知」を知り自ら考えることで自分らしさを見つける手助けができれば、と考えている。アイディンティティの確立というやつだ。

 でもまあ、そうやって偉そうに言っているけれど、私自身、自分らしい教え方についてこれといったものを見つけられていない。


 初めての倫理、と言うこともあってか四十五分の授業、ほとんど生徒が私の話を聞いてくれていたと感じたけれど、二人ほど授業に集中できていないと思える生徒がいた。

 まずは佐々木くん。授業中ほとんど窓の外を見ていた。授業内容に興味がない、というよりは何か考え事をしていたように思えた。他の授業でも同様に窓の外を見ているのではないかと思った。ぼんやりと窓の外を見る彼の姿はなんだか昔と重なり懐かしく感じた。

 それから十文字さん。彼女は疲れているのか、終始眠そうにしていた。私はその眠気を覚まそうと、「どう? なんとなく倫理がどういう教科か分かったかしら?」と質問をしたのだけれど、彼女は「はい。過去を学び、今を生きる糧にするものです」と大人のような回答を返してきたので驚いてしまった。


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