第17話 誕生日

***

 誕生日のその日。母さんはカワトクでちょっと贅沢なお惣菜を買ってきてくれた。ローストビーフの乗ったサラダに、チキングリル、それから春雨スープ。どれも美味しそうだ。

 相変わらず散らかっているダイニングテーブルの空いた隙間にそれらの料理を並べる。

「誕生日、おめでとう。さ、食べましょう」

 父さんは帰りが遅くなるらしく、僕は母さんと向かい合って夕食を食べた。食後にケーキも食べた。僕の好きなチーズケーキだった。

 夕食を食べ終わっても父さんは帰ってこなかった。別に待っているわけではないが、こんな時ぐらい早く帰ってきたらいいのに、と思う。

 それとも、こんな時だからこそ遅いのだろうか。

 いつだったか朝の電車で女子高生が話していたテレビドラマの内容を思い出す。子持ちの妻が不倫をする話だ。


「ねぇ、母さん」

「ん? なに?」

「母さんは。母さんは父さんと離婚しようとしてるの?」

「どういうこと?」

「この前さ、ここに離婚届があったの見たんだ」

「あぁ、それなら父さんが破ってしまったわ」

「えっ」

 母さんがあまりにも普通の出来事のようにあっけらかんと言うので、驚いてしまった。

「父さんから聞いたわ。『大地が離婚届見つけた』って。それでそのまま破られたのよ」

 母さんが離婚したくて、父さんは離婚したくないということなのだろうか。

「母さんね、父さんと離婚しようと思ってた」

 突然の告白だった。

 母さんはまっすぐに僕を見る。僕はどうしたらいいのか分からない。母さんはそのまま続けて話した。

「こんな話、大地の誕生日にするもんじゃないけどね。でも大地も十八歳になったし、ちゃんとこれからのこと話しておかなくちゃね。家族のことだから」

 僕は胸の辺りが急に重くなってきた。何かに押さえつけられているようだ。

「大地も知ってると思うけど、父さん、趣味にお金使いすぎなのよ。今までも散々注意してるんだけど、すぐにバイクにつぎ込むでしょ。もう我慢の限界。今月だって家計は赤字なのよ。そんなわけないのに」

「俺の小遣い減らそうか」

「ううん。お金のことは大地は心配しないで。これからお金もかかるのに何考えてんのかしらね」

 僕は、母の言葉から大学の入学費が頭によぎった。まだ何も調べていないけれど、私立なら二百万円前後、国立でも八十万円前後の入学費が必要だと聞く。

 当然僕はそんな大金持ってないし、両親に出してもらうしか方法はないのだけど、もしその大金のせいで母さんたちが揉めているのであれば僕のせいかもしれない。

「母さんね計算したのよ。父さんと離れた方が生活が楽になるよね。あの人、バイクの他にも飲み代も多いのよね。今日だってどうせ飲みに行ってんでしょ。誕生日なのにね」

 母さんの言っていることはよく分かる。でも母さんと父さんはもう二十年近く一緒にいるのに、そんな損得感情だけで離婚したいものなのか僕には分からなかった。

 前に父さんに訊いた時、父さんは母さんの散らかし癖に不満を感じていたようだし、母さんは父さんの浪費癖に不満を感じているようだった。

 暴力を振るうだとか、精神的に追い込まれるだとか、相続問題とか親戚問題とか、そういった離婚しそうな問題はいっさいないのだ。

 散らかすとか趣味に費やしすぎるとか、そんなちっぽけなことで離婚するのだろうか。

 ちっぽけかどうかは僕が決めることではないし、ふたりにとっては大きな問題なのかもしれないけれど、僕にはその大きさが分からなかった。

「でも、とりあえず離婚は辞めたから安心しなさい」

「え?」

「離婚した方が生活楽になる部分はあるんだけど、それでもやっぱり父さんの給料に頼らないといけないところもあるし。それに大地にも不安にさせちゃったし」

 母さんはダイニングテーブルに散らかった書類に目を移した。山のように一箇所に集めて片付けた。

「……ごめんね、不安にさせちゃって」

「え。いや、俺は……」

 続く言葉が見つからなかった。

「大地は何も心配しないで、受験勉強しなさいね」


 夜。僕は眠れずにベッドの中で考え事をしていた。

 さきほどの母さんの言葉をひとつづつ思い出す。母さんはあんなこと言っていたけれど、やっぱり僕のせいかもしれない。こんな時どうしたらいいのか、僕はわからなかった。

 誰かに相談したい、そう思った時、やっぱりあの優しいしずく先生の笑顔が頭に浮かんだ。


 すると玄関の方で音がした。父さんだろう。

 結局、父さんは僕が誕生日の日のうちに帰ってこなかったのだ。日が変わるまで飲んでいたのだろう。

 静かに扉がノックされる。

「大地?」扉の向こうで父さんが声をかける。

 今は父さんと話したくなかった。僕は布団を被り寝たフリをした。

 カチャリと扉を開ける音が静かに聞こえた。

 重みのある足音が近づいてくる。ベッドの横で止まる。父さんの気配がする。だけどお酒の臭いはしない。飲んで帰ってきた時は、いつもすぐに分かるほどお酒の臭いがするのだ。

 頭上でコトンと音がしたかと思うと、重みのある足音は部屋を出ていった。

 布団から頭を出し、音のした方を見るとそこには百貨店のカワトクの包装紙で丁寧にラッピングされた小さな箱が置いてあった。

 白地に紺の文字で「KAWATOKU」と印字された包装紙を開けると、黒い箱が出てきた。中央にはブランドロゴが銀色に輝いている。よく知った時計ブランドだ。

 蓋を開けるとそこにはアナログ時計が入っていた。文字盤には控え目程度に数字が表記されていて、金の針が時を刻んでいる。

 茶色い革製のベルトは化学繊維のような堅さがなくて柔らかい感触だ。いかにも高級そうな時計だった。こんな高いもの今までもらったことがない。

 僕は部屋を出て、父さんたちの寝室に向かった。寝室の向かいのトイレからちょうど父さんが出てきた。

 トイレの水が流れる音が静かな夜に響く。

「おう。起きたのか?」

 父さんがトイレの扉を閉めると、水の音がいくらか静かになった。

「父さん、これ……」

 僕は手に持っていた腕時計を父さんの前に差し出す。

「あぁ。誕生日だからな」

「こんな……」

「ごめんな。前もって買ってたんだが、仕事が終わらなくて、遅くなってしまった」

「どうして、こんな高い時計……」

「……大事にしろよ。もう遅いから。おやすみ。誕生日おめでとう」

 それだけ言うと父さんは廊下の照明を消し、寝室に入っていった。

 僕は何も聞けず、トイレの水が流れ終わった暗く静かな廊下にひとり残された。



***

「俺、大学行くのやめようと思います」

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