第13話 ペンケース

 黒板にはしずく先生が「親、義、別、序、信=五倫」と書いている。

 儒家の孟子が唱えた守るべき道徳法則らしい。先生は五倫のひとつひとつを説明してくれた。

 「親」は「父子の親」といって、父と子は親愛の情で結ばれなくてはならいという。「義」は「君巨の義」といって、君主と巨下は互いに慈しみを持たなければならないという。「別」は「夫婦の別」といって、夫婦にはそれぞれに役割を持たなければいけないという。それから「序」は兄弟の序列で、「信」は友人の信頼だそうだ。

 どれも人間関係における心がけのようなものだと思った。どんな相手にもお互いのことを思いやる心が必要だということだろう。

 だけど僕は、しずく先生が黒板に書いた「夫婦の別」という字を見た時、一瞬、離婚のことだと思ってしまった。


「あの、春野先生」

 教室を出て、職員室に向かっている先生に声をかけた。

「ん? なに?」

「これ、忘れてますよ」

 教壇に置きっぱなしになっていたペンケースを先生に渡す。

「あら、ありがとう」

 しずく先生はニコリと笑いペンケースを受け取る。

「春野先生、さっきの授業なんですけど」

「ん? 分からないところあった?」

「いえ。そうじゃないんですけど。不安なことがあって、それが頭から離れられない時ってどうしたらいいんでしょうね」

「悩み事?」

「そんなんじゃないですけど、まあ、はい」

「んー。そうだなあー……」

 先生は天井を見上げながら歩く。三年五組の教室からちょうど出てきた生徒が先生とぶつかりそうになり、生徒が慌てて教室内に身体を引っ込めた。

 そんな状況をしずく先生は気付いてないようで、天井を見ながら思案している。そして僕の方を見た。

「例えばね、今私が、『きみはこの先の階段で転ぶだろう』と予言するわ」

「え、何ですか急に」

 僕と先生はちょうど階段に差し掛かっていた。僕は慎重に階段を降りる。

「佐々木くん、今、転ぶんじゃないかって不安になってるでしょ?」

「そりゃあ、先生が変なこと言うから」

「そうなのよね。『言葉を聞く前は信じないことはたやすいが、やがて難しくなる』こういう言葉があるの」

 階段の踊り場まで降りて、さらに降りる。

「アランっていう人が言った言葉なんだけどね。不吉な占いをされたときに、聞く前は占いなんて信じないって思っていても、もしその後、他の占い師からも同じことを言われたり、それか、ちょっと嫌な出来事が起きたりすると、何の根拠がなくてもやがて占いが当たるんじゃないかって不安になってくるものなのよね」

 僕たちは階段を降りて職員室に向かう廊下を歩き出した。

「ほら、転ばなかったでしょ」

 先生は僕を見てにこりと笑った。

「不安な気持ちも分かるけれど、根拠のない不安に惑わされずに、足もとを見て着実に歩くことで、不安を和らぐことができると思うわ」

 たしかに「夫婦の別」も、今日の朝の女子高生の会話も、偶然「離婚」を想像する話題であって、何の根拠もないことだ。僕が勝手に頭の中で結びつけて不安材料を増やしていたのだ。父さんが言った「もうない」というのも、「離婚」するからと結びつけるのは安易な考えかもしれない。

 だけどその一方で、離婚届を見てしまったことは、いや、あの離婚届だけは、事実であり存在するのだ。それだけはやっぱり僕の不安からは消えないことだと思う。

「もう少し話していく?」

 先生は職員室の手前の、進路相談室を指さした。

「私で良ければ、悩み事教えて」

「あ、いや。次の授業の準備しないといけないし、大丈夫です」

 本当はもう少し話をしたかったけれど、家のことを先生に話してよいのか迷って、結局僕はくるりと向きを変え、教室へと戻った。

 

 先生の言葉で少し気が楽になった気がする。だけどやっぱり「離婚届」の存在は、僕の不安を完全には取り去ってくれなかった。

 自分の席から教室の外を見る。朝から降っている雨は今も降り続いていた。

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