第10話 先生と進路相談室
***
今、願い事をするなら何を願うだろう。やはり母さんと父さんが仲直りしてくれることだろうか。
僕がそんなことを新幹線に向かって願っているなんて、きっとあの新幹線に乗っている乗客の誰ひとり思いもしないだろう。
小雨の降る梅雨空の中、新幹線は東京方面に向かって雨を切りながら走っていく。東京は晴れているのかな。それとも盛岡よりも雨が降っているのかな。
雨の日は気分が落ちる。昨日見た離婚届が脳裏に浮かんだ。
昨日、あれから夕食を食べようとした時、ちょうど父さんが帰ってきた。いつもより早い帰りで、久しぶりに三人で夕食を食べたのだ。昨日は麻婆春雨と鶏肉の煮物。父さんはビールを飲みながら麻婆春雨を食べていた。母さんも普通に父さんと話していたし、父さんも普通に母さんと話していた。
テレビに出ている芸能人の名前が思い出せないとか、このモノマネは上手いだとか、そんな話だった。
二人ともギクシャクした感じはなかったし、母さんの言う通りもう喧嘩はしていないのかもしれない。
ぱんっと手の叩く音で、僕は教室に目を戻した。
「はい。それじゃあ、今日の授業はここまでにしましょう」
しずく先生がそういうと、ちょうどチャイムが鳴った。
「きりーつ。礼」日直のなべやんが号令をする。教室が一気に騒がしくなる。
「次の現代文、自習らしいよ」
「え、まじ? なんで?」
「知らないけど、舞が言ってた」
そんな会話が聞こえてきた。現代文が自習とは珍しい。何かあったのだろうか。
「佐々木くん、ちょっといい?」
喧騒に混じってしずく先生が僕を呼んだ。
「え、あ、はい」
教室を出ると、しずく先生は「こっちに」と廊下を歩いていく。
何だろう。怒られるようなこと何かしたか。もしかしたら授業中、ぼうっとしていたことを注意されるかもしれない。
先生のにこにこと笑うその表情が逆に怖い。先生は階段を降りると、職員室の手前の進路相談室に入っていった。
オープンスペースには二、三人の生徒がテーブルで本を読んでいたり、勉強していたりする。その先には赤本が並んでいる棚があって、さらに奥にあるガラス張りの個別相談室の扉をしずく先生は開けた。
「さ。入って」
やっぱり怒られそうだ。この部屋を使うのは進路相談か生徒指導のどちらかだ。進路相談は先日、担任の須藤先生がしたところだし、そうなると怒られる以外なにもない。
「すみませんでした! 次からは授業に集中します」
僕は部屋に入るなり、頭を下げてしずく先生に謝った。
しばらくして頭の上から声が聞こえてきた。
「あー。やっぱり私の授業、ちゃんと聞いてなかったのね」
頭を上げると、しずく先生はクスクスと無邪気に笑っている。
「……すみません」
「ううん。いいのよ。私もまだ教師二年目だし。みんなが楽しく授業を受けられるように工夫しなくっちゃ」
あきらかに僕が悪いのに先生は自分への向上心を高めようとしていた。
「ちょっと座ろうか」
僕と先生は向かい合うように席につく。
ガラスの向こうで赤本を読んでいる生徒が見えた。でもよく見ると赤本を読んでいるフリで、ちらちらとこちらの様子を伺っている生徒だった。ノリだ。
目で「あっちいけよ」と合図する。ノリは赤本の隙間からこちらを見ている。
「ん? どうしたの?」
しずく先生が後ろを振り向くとノリは赤本で顔を隠した。赤本には「明治大学」と書いてあった。アイツ絶対受けないだろ。
先生はノリには気が付かず、僕の方に再び向き直った。
「それでね、佐々木くん」
「はい、なんでしょう」
「ホームルームでも言っていることだけどね、もし進路のことで須藤先生に相談しにくいことがあれば、私も相談に乗るから遠慮なく言ってね」
「はい」
どうして急にそんなこと言うんだろう、と思った。
「私の授業もだけれど、渡辺先生の授業でもぼうっとしているそうじゃないの。聞いたわ」
「う」
「確かに数学の授業は好きじゃないと眠くなるわよね。私もニガテだったし」
しずく先生は自分の高校生活を思い出したのか深くため息をついた。
「須藤先生はベテランの先生だから知識も豊富だし進路について適切にアドバイスしてくれると思うの。だから須藤先生には敵わないけれど、私は須藤先生と違って、きみたちと歳が近いでしょ。五、六歳しか変わらないからね」
須藤先生は四十代後半だった筈だ。それに比べてしずく先生は二十三歳。ノリの情報によるとしずく先生は確か三月生まれだ。そして僕は今は十七歳だけれど、再来週には誕生日を迎えるので、実質五歳差である。
僕には兄も姉もいないが、しずく先生はお姉さんぐらいの感覚だ。
「私の強みはそこかな。他の先生よりもきみたちの感性に近いところかな。でもまあ、すぐにオバちゃんになっちゃうんだろうけどね」
しずく先生はクスクスとまた笑う。
「だから何か相談事があったらいつでも言ってね」
「進路のことじゃなくても?」
僕の頭の中に、一瞬、家族のことがよぎった。
「ええ。なんでもいいわ。何かあるの?」
「いえ。なにもないです」
「そう。まあ、そこで赤本読んでる中村くんにも言っておいて。『明大受けたいなら相談のるよ』って」
「ぶはっ!」
思わず吹き出してしまった。先生、ノリがいたこと知ってたのか。
「さて。次の授業始まるわよ。戻りましょうか」
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